書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

「見えている」という錯覚

2022年01月31日 17時21分26秒 | 意識論関連

ダイヤモンドオンラインもたまにはマトモな記事載せるらしい

 「頭の悪い人」がよくやってしまう残念な思考法

「上流思考」なんていうのは 要するに失敗学とか危険工学のメソッドを一般に応用している話なのよね

ヒトってのはどうしても目先の事柄ばかりに意識を奪われてしまって 簡単に「本当の目的」を見失ってしまう先天的習性とか認知的欠陥によって 根本的な「解決」策までたどり着くことができなくなる

重大犯罪が起きる度にやれ「厳罰化だ」「死刑だ」と喚き立てて主観的に満足しちゃって 論理客観的な原因究明とか再発防止にまで一切言及しないまま意識から外れ 忘れてしまう

こういう短絡性というのは通り魔とかテロリストの暴力と根っこが一緒で合理性というものが全くない

自分の主観的感覚や印象といったものが優先しちゃうことによって 論理的客観性というものがすぐに働かなくなってしまう

自分の主観的「印象」が絶対的なものだという錯覚があるからこそ 詐欺師の電話であっても「話し方が丁寧だった」などという主観的「印象」だけで詐欺師の話を鵜呑みにしてしまう

マルクス:ガブリエルの言っている話なんてのは 具体的に論理客観的根拠が伴わず 単なる「印象」の羅列に過ぎないのに 読んだ衆愚(哲学者共も含む)の大半は何か意味のあることを言っているような錯覚に陥って主観的に満足し 結局何の応用性もないのに衆愚「人気」だけは集めてしまう

 

「上流思考」を阻む3つの障害
CHAPTER 2:問題盲
──「そういうものだ」と思ってしまう
CHAPTER 3:当事者意識の欠如
──自分で解決できるのに気づかない
CHAPTER 4:トンネリング
──「目の前の問題」しか見えなくなる

 

< 問題盲 >

「哲学とは そういうものだ」と思ってしまう

だからこそイマヌエル:カントの「純粋理性批判」を鵜呑みにしてしまう

「刑法判決こそが唯一絶対の最適解決策だ」と思ってしまう

だからこそ非合理な凶悪殺人や重大事故に対する再発防止が進まなくなる

「学力偏差値や学歴 世間的成功こそが人間としての価値」と思ってしまう

学歴が高ければ就職には有利であろうが その高学歴なバカ共によって原発は暴走し 大企業による数多の不祥事が引き起こされ 通り魔やテロリストの多くが学生時代に偏差値が高いという客観的事実は無視される

そもそも学問というものは就職や世間的成功を目的としたものではなく 社会を安全で持続可能な公平な社会に導くためにあることを 衆愚は簡単に見失う

「見えて」いないから「盲」なのよ

問題自体が見えてなければ それを改善しようとも「思わ」なくなる

大多数の衆愚がそれじゃどうにもならないんだけど

何も言わなくても良いわけではないのでひつこく説明しているのよ

 

 

 


Ende;

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無意識の共謀

2022年01月30日 14時24分52秒 | 意識論関連

何や知らんが 「自分が生きていても楽しくない」からって他人を巻き添えにして自殺しようとかするバカが時折出てくる

なんなん

自分の楽しみって自分で見つけるものであって 他人は関係ないだろ

自分が何を楽しいと思うのかは あくまで個人的なものであって 他人に提供されるようなものではないし

ヒトである以上はいつか必ず死ぬんであって 別に死にたいなら勝手に死ねば良いのに 何で他人を巻き添えにするのか意味がわからない

永遠に生き続けられるとでも思っているのであろうか

「他人との関係性」の中に人間性なんぞを求めるから 孤独になった途端に「社会が悪い」などという勝手な報復感情を爆発させたがるんであって 大多数のヒトが他人との関係性に主観的安心満足感を得ているからといって それが「正常」であることの論拠にはならん

ヒトは他人と「同じ」であることに観念的な安心感を求める習性があるが 人間性の本質とは「個人た自律的に社会的責任判断選択を行えること」であって 「他人(世間)」は関係がない

「他人(世間)」とは 要するに自分の置かれた「環境」のことであり 「環境」に左右されていたのでは「自律」がなくなる

 

文明から隔絶された原住民達の間では 部族間紛争によって年間1%もの死者が出る

寿命が50年だとしたら 生涯の間に2人に1人は紛争で殺されているのである

ヒトとは 先天的には「そういう生き物」なのである

それでも繁殖が継続さえできれば生物としては存続可能であり 遺伝的進化としては「成功」だと言えるのだが 遺伝的進化などというのは所詮は環境適応の結果に過ぎず 紛争で殺し合いを続けようとも 月経や出産や強姦やDVで苦しもうとも そんな後天的「苦しみ」は遺伝的要素には影響を及ぼすことはない

ブチハイエナのように6割が死産しようとも 繁殖が継続さえできていれば「現存種」としては存在できるのである

それが遺伝的進化における「成功」というものの実態である

ヒトという種の生物というのは 別に人間として行動選択が促されるような先天的本能など存在しないのである

ヒトの多くは「他人との関係性」の中で人間性が育まれるものだと勝手に勘違いしているからこそ 原発事故や日大の組織腐敗に対して「組織の体質が悪い」などと環境の所為にして自律というものを「なかったこと」にしようとする

「悪いのは自分が置かれた環境の方であって 自分が悪いことをするのは環境としての世間や社会が悪いからだ」という屁理屈を鵜呑みにしているから 通り魔だのテロリストなどの無差別殺人犯が出てくるのである

「迷惑者はザラにいる」だの「教科書に墨を塗らされた」だのといった「世間が悪い」という屁理屈は 自律的に社会的責任判断をしたがらない奴特有のものである

東大刺傷事件の17歳に対し 17歳が通っていた愛知県の高校は「孤独が良くなかった」などという解釈をしているが 孤独な境遇の人だけがトンチンカンな無差別攻撃をするという統計的証拠は何もなく 孤独でなくてもトンチンカンな無差別殺人をする奴はいるものである

そもそも懲罰報復などの暴力で何かが解決すると「思って」いること自体が ヒトという種の生物の先天的な認知上の重大な欠陥であり

自分の欲求が満たされないことを「世間が悪い」と称して何の合理性もない無差別攻撃を仕掛けたがるのは 自分の脳内麻薬を自給自足できていないバカ特有の思考形式(パターン)である

世の中平気で嘘をつく奴や 平気で事実を捻じ曲げようとする奴は結構たくさんいるものである

世の中というのは嘘つきや無責任な奴は多いものだが だからといって「自分も無責任に嘘をついても良い」ことが正当化できるわけではない

ヒトの多くが自律的な社会的責任を負わないのは その方が利己的には「得」だからである

8割の学生がイジメを傍観放置するのも その方が利己的に「身の為」だからであり だからこそ社会的責任判断選択を簡単に放棄するのである

日大も東電も一緒である 組織内部の多数派に迎合同調し 上司に媚びへつらい 阿(おもね)り 忖度し 多数派に属していることによって自律的な判断責任が薄まるという「感覚」によって あらゆる組織腐敗は放置温存されることになるのである

「傍観は共謀と同罪」なのである

 

イマヌエル:カントは「天空の星々と人々との関係性」などというファンタジー妄想によって バカ哲学者共に人気を得ているが カントの時代には天体の全ては永遠の秩序が保たれた完全無欠な定常安定であると勘違いされていた時代であり ヒトもまた相互の関係性さえ構築されていれば自動的自然に人間性が発揮されるかのような感覚(錯覚)が促されることによって あたかもヒトが先天的に人間性を発揮できる優秀な存在であるかのように妄想して安心満足を提供しているに過ぎない

その主観的な安心感という「印象」を 短絡的に論理客観的根拠に基づいた安全性と勘違いしているからバカが治らない

東京電力や日本大学の組織内部における「関係性」こそが「組織の体質」を作り出し組織腐敗の温床となったのであって 組織内部の「人々との関係性」こそが個人の自律的な社会的責任判断を喪失させる最も大きな要因なのである

 

自律的な社会的責任判断というものは 必ずしも世間的成功にはつながらず 運が悪ければ「正直者はバカを見る」ことも少なくはない

ところが 世間的な「常識」においては世間的成功や金儲け能力を短絡的に「人間としての優秀さ」や「頭の良さ」であるかのように評価しているため 個人の自律については誰も興味を持たないし それを主張しても誰も耳を貸そうとはしないものである

中野信子のように「金儲け能力=頭が良い」という衆愚観念の「常識」に基づいた話の方が衆愚には人気を得られ易いものである

衆愚は利己的利益にしか関心がなく 社会安全性や持続可能性や公平性には何の興味もないからである

社会安全性や公平性に基づいた判断選択をしなければ それは社会的責任を放棄しているのと同義である

社会的責任なんぞ負わない方が「身の為」であり 主観的にも「安心」であろう

ヒトとは 先天的にはそういう卑劣な生物に過ぎない

だから後天的に自分の頭で物事を考え 「本当の目的」に則った行動判断選択をしなければ「人間」としては機能しないのである

「目的意識」とは 目先の情動に左右されずに統一的で合理性のある「本当の目的」を見極めるためのものであって 目先の「人々との関係性」に流されて無責任な判断選択に陥らないようにするためのものである

本質的な「目的意識」としての客観性がないからこそ ヒトは主観こそが意識の全てだと勘違いしているのであり

だからこそ詐欺にも簡単に騙されるのである

元々哲学者や生物学者共に騙されていることにすら 誰も気付いていないのであるから そりゃ詐欺にも簡単に騙されるのは必然というものである

「信じたい」とか「信じたくない」などという主観的「印象」を 自分の意識だと勘違いしているからバカが治らない

衆愚の主観的「印象」には 1円も社会的価値はないのである 世間的には金儲けにはなってもそれは本質的な社会的価値のないものに熱狂して投げ銭をしているに過ぎない

 

 

 

Ende;

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眼球破裂

2022年01月28日 23時12分22秒 | 日記

沖縄で警察が暴走族の取締中に事故を起こして17歳が眼球破裂したという報道があったが

17歳本人が「警棒で殴られた」のが眼球破裂の原因だという話をしていたらしいことから少年達が警察を襲撃 暴動に発展しているという

 

真偽の程はわからないのだが 暴動でどうにかなるようなものではないので 弁護士などの第三者による検証が必要だと思うのだが 警察と検察側と裁判所は公の資金が使えるが 弁護側は基本的に雇った方が全額負担しなければならず 警察や検察が嘘をついたり事実隠蔽をしてしまえばどうにもならない

警察や検察を監視するための第三者による検証機関が必要なのではないか

冤罪を立証するにも今村核のように資産に余裕がある弁護士にしかできず ビジネスモデルとして成立しない以上 警察や検察側の一方的優勢によって公平性が全く担保されていないのである

警察が引き起こした事故などにおいても 警察側に都合の良い発表が行われる可能性がある場合は第三者による検証が必要であり 公的資金を投入して警察や検察側の不正を検証し 不正があった場合には特に重罰を課しておく必要がある

私は基本的に刑法廃止論者であるが 現状刑法が施行されている以上は権力側が一方的に有利優勢である以上は権力側はより強い抑制が必要である

17歳側は「暴走行為はしていない」と冤罪を主張しており 警察側の勝手な勘違いによる一方的暴力であると 暴動を起こした少年達は主張している

暴動自体は赦されるものではなく 冤罪主張も「SNS上のデマ」である可能性もあり得る話である

真偽の程をちゃんと明確にしないと本当の「解決」には至らない

 

そもそも暴走行為自体がなければ事故(或いは暴行)も起きなかったわけで 暴走族にも責任の一端はあると言えるのであり 暴動を引き起こして「解決」することはない

 

 


Ende;

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ネコの脳

2022年01月28日 21時46分35秒 | 意識論関連

人間に飼い慣らされたことによって脳が小さくなっている可能性が指摘されました。

 ◇出典:「ネコの脳は小さくなってきている」と研究で明らかに -GIGAZIN

という見解があるのだが

後天的に「ヒトに飼い慣らされていて脳を使わなかったから脳が小さくなった」かのような解釈をしているが これは間違いである

先天的に脳が小さい方が飼い慣らす上において扱い易いなどの理由で 脳が小さい個体を交配させていた結果として脳が小さくなったと考えるべきである

後天的に脳を使うか使わないかは遺伝的要素には影響を及ぼすことはなく 脳容積は先天的に決定しているものであって ヒトが意図していない「品種改良」として脳の小さい個体への収斂を促している可能性がある

脳が大きい個体だと飼い慣らすのが難しいとか 頭が良くてどこかへ逃げてしまうとか そういった理由で結果的に脳の小さい個体ばかりを配偶交配させてしまっている結果として 世代を重ねたことで脳が小さくなったと考えるべきである

「飼い慣らしたら 脳が小さくなった」というのは論理的に間違いである

「脳が大きいと飼い慣らしづらいため 結果的に脳の小さい個体同士ばかりを配偶交配させていた」という意図していない「品種改良」になっていると考えるべきである

「品種改良」というものは ある特定の形質や習性への収斂を促すことが可能ではあるものの 意図しない形質や疾患などをもたらすこともあり 乳牛はヒトが搾乳をしないと死んでしまうなど ヒトが飼育しなければ死んでしまう性質も持っているのである

 

 

Ende;

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マルクス:ガブリエル

2022年01月26日 14時39分06秒 | 意識論関連

複雑性が私たちを不安へと駆り立て、リアルを歪める

 私たちはいま、自由の「限界」について、とても深刻な懸念を抱いていると言えるでしょう。この番組をご覧になる視聴者、あるいは読者のみなさんの中にも、自らの自由がとても危険な状態にさらされていると感じ、不安を持っている方々もいらっしゃるかもしれませんね。

 現代に生きる私たちは、大きな力―――資本主義、人工知能、あるいはデジタル分野における驚異的な技術の進歩など―――実にさまざまな角度から、脅威 にさらされていると感じているのです。このデジタル社会の中で、人間という存在が消え去って、ごく小さな断片に、つまり簡単に操作し再構成できてしまうスマートフォンのモジュールにでも分解されてしまうかのような恐怖を抱いています。そして、このプロセスの最後には、自由や個性が完全に失われてしまい、自らが単なる消費の対象になってしまうのではないかという無力感に覆われているのです。これは、実は信じられないほど広がっている感覚であり、意識、無意識どちらのレベルかを問わず、多くの人々がこのように感じていることを、私はよく理解しているつもりです。

 いま私は、ニューヨークの中心、マンハッタンのビルの高層階で話しています。窓から周りを見渡せば、目に飛び込んでくるビル街は、まるで無限の連なりのようにすら感じられます。現実にはもちろん無限ではないものの、ここには、非常に高いレベルの社会的な複雑性があると言えるでしょう。

 社会的な複雑性というこの重要な概念をまず考えてみましょう。この概念こそが、自由について、人々をさまざまな不安へと駆り立て、民主主義の価値の危機、人間そのものの危機、リアリティそのものの危機を煽り立てているものだからです。多くの人々がどこかしら、自分自身が確かに生きているというリアリティから切り離されていると感じていることとも無関係ではないでしょう。そのような考えによれば、いまの私たちは、たとえてみれば、目の網膜を通して世界を眺めている脳のようなもので、そこにはあるフィルターを通したバイアスがつねに存在しているというわけです。

 つまり、リアルな姿が、歪んでしか見えないことになっているのです。


どんな社会システムも複雑性を抱えている

 さあ、いまの世の中のさまざまな現象を眺めてみましょう。現代の社会の複雑性と向き合ってみるのです。社会的な複雑性とは、その言葉が示す通り、複合的かつ複雑なリアリティを伴いながらも、実は、きわめてシンプルな現象のはずなのです。

 たとえば、銀行という場を考えてみましょう。

 ここマンハッタンには、とてもたくさんの銀行やソフトウェア会社があります。グーグルは通りのすぐ先にありますし、アップルのマンハッタン本社などもありますね。銀行という一つの金融組織をあらためて観察すると、そこにはさまざまに異なる社会の遠近法、構図が見えてきます。フロアの清掃をしている人もいれば、CEO、ビルの建築家もいます。デジタルインフラを支える人たちや、数多くの従業員、顧客もいるわけです。

 このように非常に複雑なシステムがそこにあり、この銀行で役割を果たすすべての人々が、銀行という存在、会社という存在に貢献しているのです。それぞれの人に見えている視点、それぞれの人の目に映る光景と無関係に存在する会社などありえません。そして会社は、私たち自身に対しても、多様な見方を生み出すことでしょう。会社という場で、人々はみな、給料をもらったり、搾取されたりしているわけですからね。

 とはいえ、社会的な複雑性は、それを見ている人々の目の中にだけ存在するのではありません。私たちは、起きていることをすべてコントロールすることはできないのです。システムは、そのシステムの中で人々ができることをある程度左右します。つまりシステムが、ドイツ語でSpielraum(余地/余裕)という概念で示されるものを、私たちに与えるのです。もう少しそのニュアンスをかみ砕いて説明するなら、「裁量の余地」と言ってもいいかもしれません。
 これが組織の役割です。どんな社会システムも複雑性を抱えているのです。


自由とは?――哲学はある概念が本来何であるかに答える

 グローバル資本主義というシステムの中にあっては、その複雑性は、どんな個人的選択をも超えたところにあると思われるかもしれません。だからこそ、人々は、こうした複雑性の高まりに脅威を感じているわけです。いま世界中で起きていることを人々は脅威と感じ、さまざまな危機を感じているわけですが、それは、人々がその複雑性に対応しようとしている証拠です。

 そしてそのとき多くの人々は、その複雑性を大幅に減らすことによって、社会の本質についての幻想を作り出して対処しようとしているように、私には思えます。これは、この時代の根本的な問題です。以下でこのことについて詳しく説明していきましょう。ここにまず、私たちがまさに理解しなければならないポイントがありますからね。

 その際の最善の方法は、哲学的なツールを使って、この問題を理解することです。私たちが、理解不能な力学の犠牲者とならないために、哲学こそ、この複雑性の力学を理解するのに役に立つ最良の学問であるはずだからです。特殊な一つの角度から、さまざまな社会的な複雑性を見つめてみましょう。そして、最後に自由の概念そのものを再考する術をご紹介しましょう。

 あらためて、自由とは何なのでしょうか? 自由は民主主義とどのように関係しているのでしょうか? そして、なぜ民主主義は世界中で脅威にさらされているのでしょう? 

 それこそが哲学者の仕事です。哲学者は、ある概念が本来何であるのかという問いに答えようとします。正義とは何か、美とは何か、都市とは何か、銀行とは何か、人の心とは何か、人間とは何か、人工知能とは何か、社会的ネットワークとは何か、といった問いです。

 これらは、すべてこの時代の問いであり、哲学はそれに答えることができる学問なのです。

カントによる「自由意志」はどこまでが「自由」か、問題提起する

 「自由」とは? その定義の背景を考えるには、歴史を知らねばなりません。日系アメリカ人の政治思想家であるフランシス・フクヤマが、著書 『アイデンティティ』で指摘しているように、「自由」は現代人の精神構造にとって非常に重要な役割を果たしている、歴史に関わる事柄です。

 フクヤマは、ドイツ哲学を想起させる主張を展開しています。彼は、アメリカ社会を構成する思想の三本の柱として、哲学者のイマヌエル・カント、ゲオルク・フリードリヒ・ヘーゲル、そして神学者のマルティン・ルターをあげていますが、これはきわめて興味深いパラドックスです。なぜなら、アメリカのアイデンティティについて語っているはずのフクヤマが自ら、「アメリカのアイデンティティとはドイツ哲学にほかならない」と言っているように思えるからです。これ自体が、注目すべき現象と言えるでしょう。

 このねじれた問題について私自身の解決策をご紹介する前に、自由と自由意志を理解する上でドイツの偉大な哲学者たちが果たした貢献について見てみましょう。最初に理解する必要がある哲学者は、イマヌエル・カントです。彼こそ、価値体系としての自由と民主主義を考える上で、とても重要な人物だからです。
 カントは、ある概念を導入しました。「自由意志」という概念です。ある意味で、その概念を理解するのは、とても簡単です。カントは複雑に説明していますが、彼の考えは実はとてもシンプルなのです。まず、彼は意志の概念を定義します。私たちが自由について語るとき、私たちはしばしば、同時に自由意志について語り、それらは私たちに任されていると考えます。

 あることが私に起こります。たとえば、手の爪が伸びたり、歳を取ったりします。この世に生まれてから、さまざまなことが私には起こり、そして最後には死ぬことでしょう。こうして私に起こることに対して、私にはできることもありますが、できないこともあります。私の肉体は細胞で構成されていて、宇宙には定数があります。重力は、宇宙にある一定の方法で存在し、私の肉体を制約します。


他者への認識と想像力まで含んだ意志が、「自由意志」である

 自然には、一定の法則があります。これについては、私は好き勝手にはできません。私は、これらの法則を見出します。私は、それを変える決定はできません。私が何をしようが、自然の法則を変えることはありません。それは、私の勝手にはならないのです。その一方で、なかには、私の勝手になるものもあります。誰と結婚するかとか、誰と昼食を食べるかとか、何に賛成するかとか、どのように考えるかとか、私は何が好きか、などです。その意味では、私の人生、あなたの人生の中で、多くのことは、私たちの勝手に任されています。それらは、自由と自由意志に関連したものです。

 さあ、ここでカントの登場です。カントは、自由と意志について、非常に興味深い定義を与えています。彼の言葉を引用しましょう。「意志とは、私たちがなすべきことを表して行動する能力のこと」です。これは、おおよそ次のようなことを意味します。まさにいま、あなたは私を見ていて、私が踊りはじめるとは思っていませんね。少しだけならまだしも、もし私がこれから一時間踊りはじめたら、このインタビューの私の「語り」は、成立しなくなってしまうことでしょう。また、もし私の言葉を映像を通して聴いて、あなたが突然隣人を殺しはじめたら、あなたも重大な間違いを犯していることになります。当然のこととして、私たちがすべきことはいくつかありますし、人間が置かれているあらゆる状況において、私たちがすべきことと、すべきではないことがあることを、私たちは知っています。いずれにせよ、こうしたことには、誰もが同意することでしょう。

 その意味において、カントの考えによれば、拷問者やきわめて邪悪な人でさえも、拷問を上手に行うためにはしなければならないことがあるし、またしてはならないこともあると知っているのです。拷問者であろうとマザー・テレサであろうと、何をすべきか、何を避けるべきかについて、ある種のイメージを持っているのです。

 自分自身の見方に照らして行動するこの能力こそ、カントが 「意志」 と呼ぶものです。意志とは、時に自分自身を考えることによって、物事を行う、という意味です。私は、カメラの前での自分の体の位置を認識していますし、あなたが私の言葉をどのように理解しているかについても、認識と想像力を持っています。


意志の調整の最適化としての「自由意志」が働けば、自由=道徳となる

 いまこうして私が話し、それが映像で記録された番組をご覧になっている方には、画面の下に、おそらく日本語字幕がついていますね。私にはいま、日本語の字幕は見えませんが、画面のこのあたりに字幕があるだろうと想像はできます。それは、いま私がしていることが実行されているということです。つまり私の行動は、あなたの心の中の私のイメージに照らして行われているのです。それは、社会的な複雑性のほんの一例です。いま私たちは、同じ社会システムの一部となっているのです。それは、私に意志があり、あなたにも意志があり、私たちの意志が、この特定のケースにおいては、メディアを通して調整されているということを意味します。この番組にはディレクターがいて、NHKというテレビ局があって、日本には多くの街があり、さまざまな見方をする人々がいる、非常に複雑な社会システムがあります。ここに関わるすべて、あらゆるインフラが、多くの意志によって、調整されているプロセスなのです。

 カントによれば、自由意志とは、意志の調整の最適化のことです。ですから、もしあなたが意志をうまく均衡化できるなら、そしてよい均衡を達成したいと思うのならば、それは自由意志であり、だからこそカントは、道徳と自由は同じだと考えています。さらにカントによれば、悪人も完全に自由ではありません。なぜなら、悪人は、自由な人々を破壊したがるからです。良い人、良いインフラ、良い組織は、実際には、自由意志の量を増やす機能を果たします。

「自由意志を欲する自由意志」 こそが民主主義

 こうしたカントの議論に、ヘーゲルを登場させてみましょう。実は、これは冒頭に触れたフランシス・フクヤマの主張に関わる話でもあります。
 ヘーゲルは、『法の哲学』 という非常に重要な本を著しました。そこで彼は、法の支配とは何か、すなわち、今日私たちが民主主義と考えているものを定義しています。彼が民主主義という言葉を使っていないのは、当時は、民主主義という言葉が、現代のような意味を持っていなかったからです。おおむね、私たちが民主主義と言うとき、ヘーゲルが 「法の支配」ないし「権利の支配」、あるいは 「権利の体系」 と呼んでいたものを意味します。これらは、ほぼ同じ考え方で、ヘーゲルは法の支配という基本概念を、いくつかの美しい表現で定義しています。

 だから、「民主主義」はヘーゲルの言葉ではありませんが、私はいま、それを彼の言葉として使うことにします。民主主義とは、「自由意志を欲する意志」のことです。すなわち、それは、「自由意志を欲する自由意志」なのです。これは、裁判などの場を思い浮べてもらえば理解できることでしょう。あなたは、隣人に気に入らないことをされたとき、裁判を起こします。隣人ともめごとになったり、交通事故にあったりもします。そして裁判になって、判決を受けるとき―――裁判官が判決を下すときには、いったい、何が起きるのでしょうか。

 公的な判断が行われます。すなわち、私たちの意志の調整がなされるということです。ですから、判断という概念や正義という概念が意味するのは、私が欲しいものを手に入れるということでも、ほかの人が自分の欲しいものを手に入れるということでもありません。正義の概念とは、さまざまな意志の調整を行い、そのバランスを再び確立させることなのです。判決が出れば、私たちはまた隣人として暮らすこともできます。だからこそ、ドイツ哲学の伝統全体が、思考すること―――思想家として私たちがすること、つまり人間であること―――とは、判断することである、と述べているのです。

 実は、そうカントも述べています。思考することとは、判断することである、と。ここに到ってカントからヘーゲルへと思想のリレーがつながるのです。


マンハッタンには自由の「イメージ」が乱反射する

 なぜ「思考すること」は「判断すること」なのか? 

 それは、あなたが思考するとき、あなたはつねに暗黙的にも、また明示的にも、自分の判断や行動の影響について、いつも考えているからです。私たちは社会的な存在であり、自由意志を持っています。自由意志とは、自分の行動が他人にもたらす影響に照らして自分自身を考えられる能力であり、その行動が取れる能力のことです。なぜなら、あなたは自分自身をイメージでき、他者をイメージでき、さらにあなたのイメージに対する他者のイメージをまたイメージできるからです。

 では、社会的な複雑性がどのように機能するかを見てみましょう。私は、あなたの私のイメージに対するイメージをイメージします。あなたは私のイメージをイメージし、それを私はイメージしますが、そのあなたのイメージは、あの人のイメージを、あの人がイメージしたもののイメージです。あなたは、イメージ、イメージ、イメージ、イメージ、イメージ、イメージを受け取ります。鏡、鏡、鏡……そこにあるのはまるで鏡を向き合わせたときに起きる無限のループのようです。アーティスト草間彌生が表現した「インフィニティミラールーム」です。ここニューヨークのチェルシーのギャラリーにも、彼女が作った新しい部屋ができました。インフィニティミラールームは、社会的な複雑性を持っています。

 窓の外にはマンハッタンが見えますが、多くの摩天楼がほかの摩天楼やビルを鏡のように映しています。これらすべての建物は、全体として社会的な複雑性を映し出しています。ここに見えているのは、人間の自由のイメージのイメージです。これこそ、人々がマンハッタンを好きな理由です。そして、だからこそ、マンハッタンはかくもパワフルなのです。

 マンハッタンの新しい地区、ハドソン・ヤードは、空の色の摩天楼から成っています。これらの摩天楼は、天そのものに溶け込んでいるので、目には見えません。文字通りの摩天楼です。それらは空に向かっていますが、また空のようにも見えます。まさにそれなのです。人間の社会性は、その文脈に溶け込んでいます。それは社会的な複雑性と人間の自由です。
 そしてその光景は、まるでグローバル資本主義が、私たちを自由にするかのように見えるのです。
 ――マルクス・ガブリエル・談

マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学するII: 自由と闘争のパラドックスを越えて (NHK出版新書 620

 

丸山俊一(まるやま・しゅんいち)


NHK出版新書

 

 

⇨不安かどうかは主観の問題に過ぎない

不安というのは動物的本能であって 不安そのものはあって当然のものである

自らの自由がとても危険な状態にさらされていると感じ、不安を持っている方々もいらっしゃるかもしれません

などと言っているが 具体的に何が「自由」なのかを論じても定義してもいない状態で 主観的不安を短絡的に不自由と直結させることが根本的に間違いである

洗脳状態の人は自分を自由だと「思って」いる 自分こそが自由で 他の人は不自由だと主観的に「思って」いるからこそ 洗脳状態の人は「安心」して毒ガステロでも自爆テロでも特攻でもできるのである

こうした問題行動の根源は 主観的安心を促す「思い込み」に論理客観的根拠に基づいた具体性のある内容が伴っていないことを 自発的に考え検証していないという「頭の悪さ」にある

こうした「頭の悪さ」というものは ヒトの先天的な認知上の欠陥に起因するものであって 主観的に「安心」してしまえば それこそが「安全」で「正し」くて「正常」だという主観的「感覚(印象)」を持ってしまうことによって 論理客観的根拠に基づいた具体的検証をすっ飛ばしてしまうからである

要するに「考えない」からバカなのである

 

自由意志というと 自分ができることの全て自由だと勘違いしているバカが大半だが 「欲望を満たすこと」は自由とは言えない

そもそも欲望そのものが選択不可能だからである

自分の遺伝子を自分で選ぶことができず その遺伝子によって作られた大脳辺縁系の構造も その構造によって作り出される行動バイアス(偏り)も 自分が生まれ育った社会環境から刷り込み学習されたあらゆる価値観も それ自体は自己選択不可能な「既存在」に過ぎない

だが 私達は現時点においてのみ 自分の主観的価値観というものが本当に自分が望んでいるものなのかどうかを自己客観的に検証(考え)し 行動や言動を選択することは可能(現選択可能性)である

たとえば 「お茶くみは女性社員の仕事だ」という社会的な「常識」が 本当に正しいものなのかどうかを「考え」れば そんな合理性のない理不尽な決め付け的「常識」が間違いであることを自覚し 行動を変えることができるのである

イマヌエル:カントはヒト同士の関係性の中から道徳が形作られると述べているが ナチス政権下のドイツ人同士の関係性の中からホロコースト(大量虐殺)が引き起こされたのであって 他人との関係性だけでは人間性としての社会的責任判断選択にはならないのである

人間性の本質とは 個人が自律的な社会的責任判断選択を行うことであって 他人との関係性によって形づくられた「常識」に無意識に流されていては人間性を発揮することはできない

 

カントの考えによれば、拷問者やきわめて邪悪な人でさえも、拷問を上手に行うためにはしなければならないことがあるし、またしてはならないこともあると知っているのです。拷問者であろうとマザー・テレサであろうと、何をすべきか、何を避けるべきかについて、ある種のイメージを持っているのです。

 自分自身の見方に照らして行動するこの能力こそ、カントが 「意志」 と呼ぶものです。意志とは、時に自分自身を考えることによって、物事を行う、という意味です。私は、カメラの前での自分の体の位置を認識していますし、あなたが私の言葉をどのように理解しているかについても、認識と想像力を持っています。

犯罪者が犯罪を行うのは 目先の欲望を満たそうとしているだけであって 拷問者が拷問を行う動機というのは本質的には主体的目的行動選択としての「意思」ではない

ナチス政権下のユダヤ人絶滅収容所の官吏アドルフ:アイヒマンがユダヤ人大量虐殺計画書の作成に邁進したのは ナチス政権に対する忠誠忠実さこそが動機であり ナチス政権下という環境下における「常識(正解データ)」を学習した結果的な無意識行動に他ならない

そして こうしたアドルフ:アイヒマンの行動というものは 普通一般の人たちにも普遍的に見られることをスタンレー:ミルグラム(服従心理実験:「通称アイヒマン実験」)が立証しているのである

 

正義の概念とは、さまざまな意志の調整を行い、そのバランスを再び確立させることなのです。判決が出れば、私たちはまた隣人として暮らすこともできます。

という件があるが 果たして本当に「判決が出れば、私たちはまた隣人として暮らすこと」ができると言えるだろうか?

物質的な損失であれば 物質によって現状回復を図ることも可能かも知れないが 殺人や原発事故であれば現状回復は不可能である

加害者を死刑にしても被害者は生き返ることはなく どんなに保証金を積まれても放射能汚染された郷里が取り戻せるわけでもないのに どうしてこれを「正義」だと断言できるのかと言えば 単に現状の法制度上そう「決め付けられて」いるからに過ぎない

こうした実証不能の「正義」をいくら振り回しても犯罪の根源的原因究明や再発防止には全くつながらないことを ヒトは「常識」として鵜呑みにしているのである

 

思考することとは、判断することである、」と述べているが 「判断」というものに論理客観的な根拠や証拠が伴った「真実」かどうかが問題なのであって 間違った判断を下してしまうからユダヤ人大量虐殺などという非合理で不条理な行動にも ヒトは簡単に陥ってしまうのである

ヒトがなぜ間違った判断を下してしまうのかと言えば それは自分の頭で物事を「考え」て判断することと 既存の自己の「常識(正解データ)」に基づいた価値観の偏り(思い込み)との区別ができていないからである

ナチス政権下の「常識」としてアドルフ:アイヒマンは拷問者になったのであって 後にアイヒマン自身が「私は忠誠忠実な一吏官に過ぎない」と称して自分自身の行動判断を「世間が悪い」と丸投げすることで自己を正当化できていると勝手に妄想していたのである

 

なぜ「思考すること」は「判断すること」なのか? 

 それは、あなたが思考するとき、あなたはつねに暗黙的にも、また明示的にも、自分の判断や行動の影響について、いつも考えているからです。私たちは社会的な存在であり、自由意志を持っています。自由意志とは、自分の行動が他人にもたらす影響に照らして自分自身を考えられる能力であり、その行動が取れる能力のことです。なぜなら、あなたは自分自身をイメージでき、他者をイメージでき、さらにあなたのイメージに対する他者のイメージをまたイメージできるからです。

やたらと「イメージ」だとか言っているが これは主観的「印象」のことを述べているに過ぎず ヒトという種の生物が常に必ず「いつも考えて」いるわけではない

自分の行動が他人にもたらす影響に照らして自分自身を考えられ(行動でき)る能力」というものが働いていないからこそ 既存の世間的「常識(正解データ)」に基づいた実質的には主体的選択を介さない認知上の無意識な偏り(バイアス)を「意思」や「意識」だと勘違い錯覚しているからこそ ヒトは人間としての行動選択ができなくなるのである

どんなに強い「感情」を伴っていても それは「意思」や「意識」や合理的目的行動選択の論証にはならず むしろ強い「感情」を伴っているからこそ合理的根拠に基づいた本当の目的行動判断選択という「人間としての意識」が阻害されるのであって ヒトという種の生物は先天的・本能的には「バカになるように」しか出来上がっていないのである

ヒトという種の生物は カンブリア大爆発からヒトにまで進化するまでの過程の方が圧倒的に長いのであって ヒトという種の生物はごく最近発生した「新種」や「珍種」に過ぎず だからこそ環境破壊などの様々な失態を犯してもいるのである

こうした客観的事実結果というものを ヒトは主観的恐怖などの主観的感覚によって「信じたくない」というバイアス(偏り)によって たとえ理解していても「信じよう」とはしなくなるものでもある

「信じたい」かどうかは主観である

論理客観的根拠に基づいた理論的反証ができない以上は否定することはできないはずだが ヒトの大半 衆愚マスコミの大半 「哲学者」共は一切理解しようとも認識しようともしないものなのである

 


資本主義であろうと社会主義であろうと それは「手法」とか「やり方」であって 目的としての「経済(経世済民:世の中を救済)」をすっ飛ばして金持ちや権力者への利益の集中を生み出してしまうことが問題の根源にある

資本主義の方が適している開発もあるが それは社会主義的なベーシックインカムのような底辺を保証された上で行われるべきであって 一方的にどちらかだけが正解なわけではない

底辺が保証されていればこその資本主義的な挑戦や革新も可能となるのであって 一方的な順位序列に対する服従忖度迎合同調性こそが不公平や不平等の原因なのであり

資金の潤沢な者だけに金が集まってしまうのは 資本家という「成功者」に対する盲目的な崇拝を短絡的に「人間としての優秀さ」や「頭の良さ」として捉えてしまう衆愚観念が根底にある

資産がどんなにたくさんあっても ヒトは先天的にいくらでも不安を「感じる」ものであり それはヒトの祖先が過酷な自然環境下における生存競争を勝ち抜くために必然的に組み込まれた無意識な先天的・本能的習性によるものであって 金がなくなった途端に寝る場所もガスも電気も食べ物も失うという恐怖から逃れるために必要以上に資産を貯めこもうとするからである

失業者が増えると政府の政策としては 企業に雇用を要請することばかりをしてくるのだが 零細個人企業にまで「雇用を創出してくれ」と 紋切り型の要請をしてくる始末である

企業が雇用できないのであれば むしろ個人だけで商売が成立するように社会構造を改革すれば良いのであって 企業だけに雇用リスクを丸投げされても企業ごと倒産するのがオチである

近年ではメルカリやストックフォトや個人販売サイトも充実してきたことで 低いリスクで個人が商品を販売する挑戦もしやすくなってきている

デファクトスタンダードに過ぎない現状の経済システムを呪われた因習のように踏襲するのではなく 新しいビジネスに積極的に挑戦することが これからの経済活性において重要な要素を持ちはじめているのである

かつては「資本家が独占している」と称して労働者が資本家を焼き殺し略奪することが「正義」になってしまったこともあったが そういう短絡的な暴力的最終解決こそが社会を不安定に陥れてしまったのである

資本家だけが利益を独占してしまうのは 資本を持っている相手を「上」とみなして服従忖度してしまう労働者側の奴隷根性や甘えが原因である

ヒトは先天的に「怖い」相手には逆らわなくなる習性があり 「怖い」相手が理不尽で非合理な命令をしてきても誰も批判しなくなることで むしろ批判した相手を「裏切り者」として排除し 「怖い」相手の側に阿(おもね)ることによって 「怖い」相手にとって都合の良い服従迎合者として評価されることを優先するからこそ ヒトは社会制度に関わらず順位序列による独裁的な富の集中を促したり 大量虐殺などの非人道的な集団組織的腐敗に陥ることになるのである

これは資本主義だろうと共産主義だろうと宗教だろうと何だろうと一緒である

ヒト(バカ)が発想する形式(パターン)には さしたる違いはないのである

養老孟司は「同じ」であるということだけで「正しい」と述べたが バカの多数決が「正しい」ことの論拠には全くならない

学校ではイジメが起きればイジメ集団を大多数が傍観放置するか 若しくは加害者側につくことで標的(被害者)にされずに済むのである

日本大学の職員であれば 何せ大学という教育機関であるから学歴が高くなければ職員にはなれないはずだが そうした高学歴な大多数のバカ共によって組織腐敗は長期に渡って温存され続けたのである

京都大学霊長類研究所による総額11億もの研究費不正流用も 松沢哲郎個人だけでできたはずはなく 何らかの共謀者 同調者 若しくは傍観放置者が大量にいたはずであり 彼らもまた高学歴であったであろうことは想像に難くない

ヒトという種の生物は 生育環境によって刷り込み学習された既存の自己の「常識(正解データ)」に則った無意識な行動がほとんどであり 主体的に自分の頭で物事を「考え」て選択することなどしないものである

自分の行動が他人にもたらす影響に照らして自分自身を考えられ(行動でき)る能力」が発揮されなくなるのは 「自分の行動が他人にもたらす影響に照らして自分自身を考えられ(行動でき)る能力」を発揮したら自分の損失になるという本能的「恐怖(主観)」の方が優先してしまうからである

イジメや男尊女卑などの差別が「常識」として通用している環境においては そうした「常識」に則った行動をしておいた方が利己的に「自分の身のため」になるからこそ ヒトは「常識」に逆らわずに服従忖度同調迎合して主観的安心満足することが「正しい」とか「賢い」という判断(決め付け)をするのであって そうした動物本能的行動習性による行動選択こそが人間としての社会的責任判断選択を放棄させる根本的原因なのである

 ◇

全体を通して言えることは マルクス:ガブリエルの言っている内容というのは主観的な感覚 「恐怖」「不安」「感じ」「イメージ(印象)」ばかりと述べていて 論理客観的根拠に基づいた具体性のある内容が全くなく 必然的に何の応用性もない

マルクス:ガブリエルの主張を聞いても 具体的に「どうすれば良いのか」は全くわからないのである

マンハッタンの新しい地区、ハドソン・ヤードは、空の色の摩天楼から成っています。これらの摩天楼は、天そのものに溶け込んでいるので、目には見えません。文字通りの摩天楼です。それらは空に向かっていますが、また空のようにも見えます。まさにそれなのです。人間の社会性は、その文脈に溶け込んでいます。それは社会的な複雑性と人間の自由です。

などと締めくくっているが 一体どこが「人間の自由」なのかが全く意味不明であり 論理客観的根拠も具体的内容も何もなく ただの「決め付け」でしかない

こんな話を「哲学」だと勘違いしているバカの方が世の中大半を占めているのであって バカが自らのバカさを自覚しないことには何も変わりはしないのである

主観的な感覚的「印象」こそが意識の本質だという衆愚の観念こそが 論理客観的真理(本当のこと)を見えなくさせる根源的原因であり ヒトという種の生物の先天的本能に由来する認知上の欠陥が存在していることを客観的に「理解」しない限りはバカが治ることはない

 

 

 

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虚無とは怠惰への逃避である

2022年01月25日 16時09分30秒 | 意識論関連

ヒトは元々物事を一面的に単純化して判断する習性がある

ヒトは複雑なものを複雑なままに理解しようとはしたがらないものである

「これさえ喰っときゃ 寿命が何年延びる」だとか「〇〇ダイエット法」みたいに単純でバカみたいな方法論の方を信じたがる先天的習性がある

肥満を解消したいなら筋トレで基礎代謝を上げるとか バランスのとれた食事を摂るなどの生活習慣を改善するというマトモな医者が言うような真っ当な話は誰も信じたがらないし 信じていても面倒がってやらないものである

 

「欲望を満たすことはできるが 欲望そのものは欲することができない」

この話を挙げると 「自由意志なんて無いんだな」という短絡的帰結で思考停止に陥りたがるバカも出てくる

自分の遺伝子は自分で選択不可能であり その遺伝子によって作られた大脳辺縁系の構造も その構造によって発揮される欲望や情動も選択不可能である

それでは一体何が選択可能なのかと言えば 様々な欲望の中から最も合理性のある「目的」に則って欲望を選択することは可能である

欲望というのは祖先の生息環境における淘汰圧力の結果であって メスと出会ったらとにかくポコチンを挿入して中で何かを出したいという情動行動が促されるが これは別に「繁殖のため」に選択したものではない

メスと出会ったらポコチンを挿入してみたいという先天的情動行動をより強く持った個体の方が繁殖しやすく 遺伝子を遺し易いために 結果的に収斂した結果的情動行動に過ぎない

一人の配偶相手しか興味を持たない誠実なオスよりも 誰彼構わずヤリたがるオスの遺伝子の方が遺りやすいものであり 野生動物のオスの多くはひたすらヤリまくるものであり そういう収斂進化の結果的本能が原因である

集団強姦事件などでは 加害者は別に「自分の遺伝子を遺そう」などといった目的があるわけではなく 単に「かわいい」と主観的に思った女性を犯して先天的欲求を満たしているだけである

塩分や糖質や脂質の乏しい自然環境下においては より積極的に塩分や糖質や脂質を摂ろうとする先天的習性や情動を持った個体の方が生存に適したため ヒトもまた塩分や糖質や脂質を過剰摂取したがる習性が遺伝的に遺っているのであり これが生活習慣病の根源的原因である

誰も肥満になって生活習慣病になりたいわけではないのに 先天的な本能習性によって生活習慣病に陥ってしまうのである

後天的に「どうしたい」のかは遺伝的要素には影響を及ぼさないのであって ヒトという種の生物は 別に「人間性を高めたい」と思って進化したわけではないのである

 

ヒトは他人には人間性を求めるものである

だが 自分からは人間性を発揮しようとは「思わ」ないものでもある

他人に人間性を求める上においては 自らも人間性を担保しなければならないのは 社会人として当たり前の話なのだが ヒトの多くは「迷惑者はザラにいる」だとか「教科書に墨を塗らされた」だとか「自分の頭で考えるのは10年早い 教えたことを丸暗記しろと言われた」ことを事後正当化する形で主体的行動選択というものを放棄するようになる性質がある

マルクス:ガブリエルの主張も 要約すれば「現代社会が悪い」という「世間の所為」であって 自律というものを無視した寝言レベルの話に過ぎず そもそも「世界は存在しない」だとか「時間は無限に分割すればなくなる」などという荒唐無稽なオカルト話に帰結してしまうのも 主体的に物事を考えていないからであり それを鵜呑みにしているバカも同罪である

 

インドの一部の農村では 幼女強姦が横行しているために少女は健康を犠牲にしてでも水を飲まないようにしているという

扉も何もない肥溜めで用を足さなければならない貧しい農村では 一人で用を足そうものなら集団強姦されかねないため できるだけ尿が出ないように水や食べ物を控えているのだという

ヒトの男は幼い女性を犯したがるが 繁殖できる年齢に達していない幼女であっても むしろ「子供ができないから責任を負わなくて済む」とばかりに幼女を襲いたがる傾向があるのだが これは「本能的」には異常だとは言い切れない

ヒトは 他の猿人と比べて明らかに体毛が薄く 幼形成熟性が圧倒的に高いのは 実年齢が繁殖に適した年齢になっても見た目が幼い女性との交配をしたがる先天的習性を持った個体への収斂進化(配偶者選択)の結果であると言える

従って 実年齢が低い幼女を襲いたがるのは 「本能的」には必然的結果に過ぎない

つまり 先天的「本能的」には特に合理性も目的も存在していないのであって ヒトの幼形成熟化も結果に過ぎない

 

ミャンマー政府軍による民衆虐殺や弾圧も 兵隊の盲目的服従性によって促されているものであって 兵隊個人に合理的目的行動選択性がないからこそ 理不尽で非合理な暴力の暴走が引き起こされるのである

兵隊にとっては軍隊の中では上官という「怖い」相手に逆らわずに ほとんど非武装の「怖くない」民衆への暴力を 統率協調的に仲間同士で安心して行うことができる

日本大学や京都大学霊長類研究所による組織腐敗も それを傍観放置した職員達の無意識性が引き起こしたものであり 決してミャンマー人固有の現象ではないのである

こうした行動にも 合理性のある主体的な目的行動選択は存在しておらず 「怖い」かどうかという主観的(本能的)な感覚による結果的行動しかしていないのであり 幼女強姦と同じでヒトの先天的本能習性によって促される無意識な行動である

たとえどんなに強い情動(欲望)が伴っていても むしろ強い情動(欲望)こそが合理的目的意識を阻害する最大の原因なのである

「置かれた環境が悪い」というのは言い訳言い逃れ取り繕いはぐらかしにしかならない 環境依存的であるからこそ自律的な社会的責任判断選択を放棄しているのであって むしろこうした言い逃れを鵜呑みにすることこそがバカになる最も近道なのである

 

欲望そのものを欲することはできないので 幼女の姿を模したポリスチレン製の人形に萌へてしまうこともある

ポリスチレン製の人形なら何をしようが人畜無害であるが 欲望自体は何の合理性もなく ただの「悪趣味」でしかないし 実際の幼女に良からぬことをしたいと「思う」ことにも意味はない

しかし 実際に強姦被害に遭った女性が長年に渡って精神的苦痛や社会生活に支障をきたしている事実に基づいて行動選択すれば 幼女強姦なんぞしてはいけないことは明らかである

そんな社会に持続可能性も公平性もあったものではなく 到底「人間社会」として機能しなくなることくらいは余程のバカでなければ「知っている」はずである

私は酒が飲めないし 脳を麻痺させたいとも思わないので 酔っぱらい運転をするバカの気持ちはわからないのだが 酔っぱらい運転事故で亡くなった被害者遺族への配慮ができれば酔っぱらい運転なんぞできないはずである

にも関わらず運転中に飲酒をするのは 欲望を選択できていないからである

 

東大刺傷事件の17歳も 世間的評価への欲求が満たされないことへの不満が暴発したのであって 本来主体的に何かをしたかったわけではないからこそ 世間的評価以外の何も価値を「感じ」られなかったことが原因である

インド人が二桁の掛け算ができて IT技能が高い傾向があるとしても 女性差別が酷いのは バラモンだかヒンズーだかのカースト序列が「文化」と称した因習化しているからであろう

東大刺傷事件の17歳が通っていた高校の見解では 「孤立が良くなかった」などと解釈しているが 無差別傷害事件というのはコロナ禍固有の現象ではなく むしろ昔からあったものであって 解釈として何の合理的根拠もない勝手な決め付けであって 一種の慣習的な「因習」的解釈に他ならない

「ヒトは多数他人との関係性の中で人間性を育む」という観念は それが単に主観的に安心満足だから「信じたい」だけであって 合理的根拠に基づいた真実の論証ではない

東京電力福島第一原子力発電所において 「組織の利益を優先し 個人が自律的な社会的責任を負わなかった」最大の原因こそが むしろ「社内の多数他人との関係性の中」で作り出された「組織の体質」が原因である

インドで幼女強姦が日常化しているのも 既存の社会環境を「常識(正解データ)」として「学習」する形で「多数他人との関係性の中」において醸成されているからである

深層学習型ニューラルネットワークAIが 多数のヘイトスピーチを「学習」する形で「常識(正解データ)」としてヘイトに同調したことは AIはTwitter上の世間的「常識」に迎合しただけであって目的意識がないからである

 

「人はいままで実証不能の観念を振り回し 他人に多大な迷惑をかけてきた」ことに対し 養老孟司は「人とはそういうものであると私は考える」と述べたが 「人はいままで実証不能の観念を振り回し 他人に多大な迷惑をかけてきた」のはただの結果的事実に過ぎず これは「考え」ではないのだが 養老の著作を読んだ大半の衆愚はそれすら気付かずに鵜呑みにし 何の疑問も持たない

「人はいままで実証不能の観念を振り回し 他人に多大な迷惑をかけてきた」という結果的事実を踏まえて その原因を究明して再発防止の対策にまで言及してこその「考え」である

養老は「実証と観念を結合する」などと称して 「実証という名の神が許さない」などという訳のわからぬ屁理屈をでっち上げ 外見的形式(パターン)だけを「同じ」だと称して何かを論証したかのように言っているが 実証は「神」ではなく 単なる客観的事実(真理・真実)を挙げているに過ぎず 別に「許す 許さない」の問題ではない

現在の自然環境が破壊されてしまえば人類の存続も危ぶまれるというのは 別にヒトが絶滅しても実証が「許さない」わけではなく 「自然環境が破壊されればヒトも絶滅する」という客観的事実を提示しているに過ぎない

そうした客観的事実に基づいた予測に対し ヒトがどのような行動選択をするのかは実証科学は神のようには指し示さない

直近目先の欲望を満たすことに囚われて環境破壊によって絶滅しても それは「結果」であって 「許す 許さない」の問題ではないのである

ただ 自然環境が破壊されて困るのはヒトである

困りたいのか 困りたくないのか それは選択可能であり 実証的事実を踏まえてどう用いるのかはヒトの人間性の問題である

「神がいないのであれば 何をしても許される」というのであれば 自然環境を破壊し尽くして自分達が困るとしても「許される」ことになるのであり 「許す 許さない」は結局どうでも良い話である

 


犯罪者を「許した」からといって何かが解決するわけではない

情状酌量の余地があるかどうかは 判事の主観的印象による判定であって 強盗殺人犯に対して死刑を赦して懲役25年の刑に服役させても 出所後すぐに殺人を犯すこともある

強盗殺人犯が謝罪して被害者が赦しても それは強盗殺人の原因究明や再発防止には何の影響も及ぼさない

「許す 許さない」といった主観的感情論を あたかも合理的「解決」であるかのように扱うから 具体的実効性のある対策につながらないのである

 

幼女強姦をするような奴というのは いくら刑事罰で服役させても治らない

それは麻薬中毒やギャンブル中毒や万引中毒と一緒で 本能的な欲望による中毒症状であるため 幼女強姦魔は幼女強姦以外の何も人生に価値をみいだすことができない「病気」である

「取り憑かれている」奴には それ以外が何も見えていないのである

東大刺傷事件の17歳も 典型的な世間的評価承認欲求の中毒症状であって 「一体何のために東大入って医者になるのか」という主体性がゴッソリ欠落している

特定の価値観に囚われることなく 自分の人生全体において 本当に自分が望んでいる人生(目的)がどのようなものなのかを見極める客観性が人間としては必要なのである

 

学習塾の講義のような授業をユーチューブで無料配信している人に対して 「学問を汚すな」などと訳のわからぬ誹謗中傷をしてきたバカがいたが

何のことはない受験産業の利権関係者が利益に反することから根拠のない誹謗中傷をしているに過ぎない

なぜ学問が無料ではいけないのか その根拠が全くないのである

授業料を支払って大学の授業を受けていれば 授業内容に疑義があっても修士単位を与える教師に学生が批判しにくいのは当たり前の話であり 授業内容は本来ユーチューブでも公開して一般からの批判も受け付けるべきである

生物学における遺伝的進化に対する「典型的な間違い」や 哲学界における具体的客観的合理性がない議論が傍観放置され続けているのも 学部の閉鎖性や権威主義による盲目性が原因であって いわば合法的 脱法的な組織腐敗状態でもある

マスコミもバカが大半であるため 「チンパンジーの行動習性から人間としての社会性を立証できるかも知れない(松沢哲郎)」などという論理的根拠の全くないデマ予測を鵜呑みにし 「できたら素晴らしいですね」などと形容するだけで何の批判精神もないバカばっかりである

1960年代に既にスタンレー:ミルグラムによって ヒトという種の生物の危険性が「立証」されているにも関わらず リチャード:ドーキンスのお伽話を鵜呑みにする形で「先天的人間性」などというファンタジーを鵜呑みにしているというのは 「信じたい話」だけを信じようとする衆愚による実証不能の観念を振り回しに他ならない

ヒトという種の生物に先天的な人間性が組み込まれているというのであれば 国民を虐殺したミャンマー政府軍兵士や香港武装警察官を鋼鉄とポリカーボネートの檻に詰め込んで 彼らが一体どのような行動習性を発揮したら 既に行われた残虐行為の反証になると言うのであろうか

そんな立証は絶対に不可能である

「この世に絶対はない」と称して不可能性の反証にはならない なぜなら既に行われた残虐行為は永久に取り返しがつかない「客観的事実」だからである

 

養老孟司は9.11のテロを「さざ波」だと形容した 人類の歴史全体から見れば 数千人の人が亡くなる紛争くらいは珍しいものではないが 多数だから「正常」だとか「当たり前」だとか「常識」として取り扱って傍観放置していたのでは あらゆる「人災」の再発防止は意味がなくなるのである

犯罪も事故も完全に撲滅することは「難しい」ことは確かであるが 「できそうにないことは やらない方が良い(フリードリヒ:ニーチェ)」と称して傍観放置しておいた方が気分的には楽であろう

虚無主義などというのは 要するに精神的怠惰への逃避であって 主観的にやりたくないこと考えたくないことを拒絶するための「言い逃れ」でしかないのである

「言い逃れ」を主観的に「カッコイイ」だとか「センター性がある」などと称して多数人気を集めても それは衆愚迎合という他はない

「信念は真理の最大の敵だ」などと称して 論理客観的根拠のない妄想に基づいた洗脳状態であろうとも 人道的見地から選択された行動であろうと混同し 何の信念も持たないことを自慢できると「思って」いるバカは多いものである

多数の力には勝てないが 勝てないからといって「抗わない」という選択は私にはない

玉川徹がエスカレータで「どかない」のと同じである

野垂れ死にしようが何だろうが どのみち誰もが必ず死ぬのであって 「抗わなければ永遠に生きられる」わけではないのである

 

 


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自律

2022年01月23日 15時58分47秒 | 意識論関連

迷惑者が迷惑行為を平気でやらかす屁理屈は 要するに「迷惑者はザラにいる」という「世間の所為」が根幹にある

「迷惑者はザラにいる」としても それが「迷惑をかけても構わない理由」には全くならない

「教科書に墨を塗らされた」からといっても それが支離滅裂なデマカセを言っていても構わない理由にもならない

「世間が悪い」からといって自分の行動責任を負わない屁理屈にこじつけるのが迷惑者の屁理屈の根幹にあるのだ

通り魔の類いは 自分が世間の中で思ったように評価してもらえないことを嘆いて他人を巻き添えにしようとする

ただ死にたいだけなら他人を巻き添えにする必要はなく 本当は「他人からの評価を得たいという評価承認欲求が満たされない不満」を 他人に八つ当たりする形で無差別攻撃に暴走するのである

評価承認欲求というのは 基本的に子供の「甘え」であり 「誉めて貰えないから暴れている」だけの話に過ぎない

欲求というものは本能的なものであり 先天的なものであり 且つ 自己選択不可能なものである

いくら論理的に正しいことを主張しても 誰も認めてくれないからといって私は暴れたりはしない 言葉遣いが荒いのは私の勝手である

重要なのは世間の評価ではなく 社会のどこが どのように間違っているのかを論理客観的に検証し 丁寧に丹念に修正してゆくことで 理不尽な「人災」を減らしてゆくことである

「努力したら報われたから 努力するようになった」という「成功体験」には 必ず運とか個人的な向き不向きが伴うものである

どんなに努力しても生前は評価されないこともあるし 最悪「火炙り」にされそうになることも スイス山中で自決を余儀なくさせられることもあるかも知れない

逆もあって ナチス政権下でユダヤ人殺害計画書の作成能力で「中佐」にまでのぼりつめた吏官もいる

根拠のないデマを用いて衆愚人気を得て金儲けに成功している奴も非常に多い

衆愚は知識の「量」さえひけらかしておけば「頭が良い」と勝手に勘違いし 根拠のない話であっても簡単に鵜呑みにするようになる頭の悪さを利用すれば 世間的成功をおさめることも簡単である

読書猿のように「学校の勉強は認知的ワクチン」だと称して「学力さえ高ければデマや嘘に騙されなくなる」かのように主張すれば 衆愚観念的には安心して鵜呑みにし 客観的根拠があるかどうかなど誰も考えたりはしなくなるのである

認知科学的にも学力学歴は知能の論証にはならないし 東大医学部に入れても地下鉄に毒ガス撒いて「人類の救済だ」などという訳のわからぬデマを鵜呑みにするバカもいるものである

嘘やデマか それとも真実なのかを区別するために必要なのは 論理客観的根拠に基づいた「考え」と 主観的情動バイアスによる「思い込み」との区別をつけることである

ただの主観的印象としての「思い込み(錯覚)」と 論理客観的「考え」を区別するために必要なのは 論理客観的「考え」の方である

感覚的にそう「思う」 主観的にそう「感じる」 といった印象の方が優先してしまうのは ヒトが生物であるからであり 祖先の生息環境における収斂進化の結果的な行動バイアス(偏り)に過ぎない

ヒトという種の生物は 別に先天的に論理客観的真実を認識できるようにはできていないのである

だから「真理は大切」なのである

ヒトは主観にすぎない「印象」を操作されると簡単にデマや嘘を信じ込んでしまう習性がある

先程述べた読書猿の「学校の勉強は認知的ワクチン」などというデマも 論理客観的根拠などないのに多くのヒトは短絡的に鵜呑みにして誰も疑わないものである

予め大衆観念的に「学力=頭が良い」という短絡的方程式を鵜呑みにしているから「学校の勉強は認知的ワクチン」などというデマも鵜呑みにするようになるのである

別に認知科学的知見なんぞなくても 実際の社会の中で学力が人間性や知能との相関がないことくらいはいくらでも証拠が出てくるものである

ところが 大衆というのは金儲け能力だの世間的な多数評価こそが人間としての価値だと錯覚して ただの大衆人気だけで何でも鵜呑みにするようになる習性がある

自分が利己的利益を得たいという欲望に基づき 欲望を叶える能力ことが人間としての優秀さであるかのように錯覚しているからである

人間としての本当の価値とは 自律的に社会的責任判断選択を行えることであって それは別に世間的評価が得られるとは限らないものであり そもそも世間的評価をアテにするものでも 利益につながるものでもない

それでは 何で自律的な社会的責任判断選択をするのかと言えば それこそが「本当に自分が生き続けるに価する社会(理想)」への道筋だからである

「誰も取り残さない」持続可能で公平な社会こそが人間として求めるべきものであって 自分が世間的に評価されることを目的にしていたのでは 現状世間の諸問題の解決には結びつかないばかりか むしろ世間の諸問題を助長に加担することにもなるのである




人間の思考はあまり変わらない気がします。


出口治明 -立命館アジア太平洋大学(APU)学長

出口治明は「深い理由」などと称して何か意味のあることを論じている風味を醸し出しているが 実際には「何も言っていない」

こういった 「何かを論じたかのようで 実際には何も言っていない」奴というのは哲学界で大半を占めているものである

養老孟司もまた

「人が考える形式(パターン)にさしたる違いはない」と言ったが

ヒトという種の生物の先天的欠陥に起因する同じパターンの間違いをいくら陳列枚挙しても それが「正常」で合理的であることの論拠には全くならない

「刑法懲罰で解決だ」という大衆観念をいくら陳列枚挙しても それが論理客観的に再発防止の最善策であることの論拠には全くならないのと同じである

何度も言うが 科学は多数決ではない

それは哲学も同じで 真理は多数決ではなく 論理客観的根拠証拠に基づいて精査され 見極められなければならないのであって 衆愚の人気や多数決こそが真理を見えなくさせる根本原因なのである

衆愚は「ヒトには先天的に人間性が組み込まれている」だとか言っておけば 安心満足して「信じたい」という主観的印象だけで信じ込もうとするバカである

「ああ 自分には先天的な人間性が組み込まれているから 本能欲望のままに行動しておけば人間性なんだわ」とでも勝手に解釈し 何も考えずに「刑法罰で解決だ」と信じ込んで満足し デマだろうが嘘だろうが多数人気がある内容なら誰も疑わないから信じていて良いと錯覚するのが衆愚というものである

衆愚は利己的な世間的成功ばかりを基準にしているために 多数人気や世間的成功者の言っていることなら何でも鵜呑みにして疑うということをしない

「ハーメルンの笛吹き男」に追随して喜んでいるだけで それが本当に人間として正しい行動選択なのかどうかは誰も考えもしないものなのである

「衆愚が考える形式(パターン)」をいくら大量に抽出陳列枚挙してきても それが論理客観的真理の論拠には全くならない

人間性として 個人が自律的な社会的責任判断選択をするのは 世間的評価や金儲けのためではなく 自分が生き続けるに価する社会の在り方に基づいた「考え」によるものであって 世間的評価とは無関係でなければならない

自律とは 自発性の中にあり 他にはない

これは定理である

世間的評価や利己的金儲けを優先していれば自律は後回しになる

世間に流されていて自律など発揮されることはないのである

世間的評価や利益を棄ててでも自律的に社会的責任判断選択をしてこその「人間性」というものである







Ende;

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公開隔離策

2022年01月23日 14時05分40秒 | 日記

集団としてはいろいろな免疫をもっているほうが、このコロナウイルスに対しては得策ではないかと思うのです。一つのコロナウイルスに特化したワクチンでバランスを崩すようなことはしないほうがよいのではないかと。根拠が薄弱で申し訳ないのですが、私はそういうことも考えています。

宮沢孝幸 京都大学

 

⇨宮沢の発言というのは一面的で根拠の乏しい話をヒステリックに主張するので全面的には到底受け入れ難い

「考えている」と言っているものの 論理的根拠が薄弱ならそれは「思い込み」の強度程度に過ぎず 主観と客観的論理を混同している

生物学者の多くが こうした個人的な主観を科学的論証にこじつける傾向が強いために 遺伝的進化における「典型的な間違い」が一向に修正周知されない原因ともなっている

 

だが しかし 若年層においてオミクロン株がインフルエンザ程度の症状しか発症しないのは確かであって(後遺症を無視するとして)

短期間に限って「感染しても構わない人」と「感染してはシャレにならない人」が隔離できれば良いわけで

例えば電車を「感染してはいけない人車両」と分けて 高齢者介護施設の職員さんとか妊婦さんや医療従事者は若くても感染しちゃいけないから それに乗るようにするとか

2〜3週間隔離している間に「感染しても構わない人」の間で集団免疫を獲得しちまえば収束に向かったりしないのかしら

職業柄とか家族に高齢者とか基礎疾患を持っている人がいる若年層と 
「別に健康だから感染しても大丈夫そうだ」と思っている人が社会生活の中で隔離できていれば 一月もしないうちにナントカなりそうな気もするんだが

何か見落としているかしら

居酒屋とかでも高齢者専門のお店と そうでないお店とに分けるとか

そうすれば経済と感染症を両立させることができるんじゃなかろうかという提案です

おいら一人の知見じゃ到底完全ではないだろうとも思っているので それぞれの立場から意見を出し合って効果的な感染対策にしていけばいいんじゃないだろうかと

そういうドラフト試案を東京都とかで公表して意見を募ったら良いのではないだろうか

 

 ◇追記:集団免疫を獲得する前に医療が崩壊することになるらしい これは沖縄の先行例から予測されてはいたものではある

とは言え 電車に妊婦などの「ハイリスク者専用車両」を設けるのは 重症者を減らすには一定の効果があるんじゃないかと思ってはいる

感染対策を充分にとっていない奴が乗ってきてしまう可能性は避けられないものの 基本的には性善説に則って車両区分をすれば 一定の効果はあるはずである

何の区分もせずに一緒くたにハイリスク者と重症化しずらい若年層が混在している状態を放置する方が問題であろう

スーパーなどの食料品店においても 時間区分によってハイリスク者専用時間みたいな区分をしても良いのではないか あくまで期間限定的な暫定措置として そういう工夫をしてもバチは当たらないはずである

 

Ende;

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真理を大切に

2022年01月21日 17時19分31秒 | 意識論関連

誤差逆伝播の記事がランクインしてたんだが

ヒトなどの生物の場合 AIのように予め単純な「正解データ」基準によって学習させているのではなく

生物の場合は最初から感覚器からの入力や大脳辺縁系による情動バイアスによって「嫌なことを避けて 気持ちよくなることを学習」するようになっていて

扁桃核による好き嫌いを満たすための「手段」として物事を識別するようになるのであって AIの場合は識別そのものしか学習させていないという違いがある

自動運転AIは 予め「危険とはこういうものだ」という「正解データ」を学習させているだけであって 「なぜ危険だといけないのか」を理解してはいない

しかし ヒトの場合は危険だと取り返しがつかなくなるから危険を回避するためという目的のために手段として危険を認識しようとするのであって 

動物的には「怖い」とか「痛い」とか「苦しい」ことから逃げようとするための手段として様々な識別能力を獲得しているのである

しかし スズメやペンギンが集団につられて行動するのと同様に ヒトもまた集団につられて8割がイジメを傍観放置するのであって 動物的には「怖い」かどうかで行動が決定しているのであって 「危険かどうか」を論理客観的に理解して行動しているわけでもない

だからこそイジメは暴走的に過激化してしまうのである

それは自動運転AIが学習していない危険を危険として認識していないのと同じようなものである

イジメをやっている加害者達は 本当は「自分がなぜイジメをしているのか」を理解していない

東大刺傷事件の17歳も 「自分の行動を理解把握していない」のである

ちゃんと医学的意識はあって 名前も年齢も住所も言える状態であるにも関わらず 自分の行動を理解していないから暴走するのである

 

荒川河川敷の道路を自転車で走っていると 草むらにスズメの群れが隠れていることがあって 最初に一羽が飛び立つと他の大多数もつられて同じ方向に飛び立つもんだから 自転車の直前を大量に横切ることがある

スズメは危険かどうかを「考え」て認識しているのではなく 「皆が飛び立ったから怖くなってつられて飛んでいる」だけだから 自転車の直前を大量に横切るような行動に陥るのである

スズメの場合は「何度か天敵に喰われてみる」という経験はできないので 主観(情動)的に「怖い」と思ったら反射的に逃げ出さなければ生き残ることができない

その行動が合理的かどうかなど 「考え」て認識している暇など自然界では通用しないのである

振り込め詐欺に騙されるのも同じメカニズムで 主観(情動)的恐怖を解消することが優先することによって 詐欺師の話を鵜呑みにしてしまうのである


ことほど左様に 情動というものは時々合理性のないバカみたいな危険行為を促してしまうことがある

ヒトも含めて動物の脳というのは 安心と安全の区別が明確につかない性質が先天的にあって だからこそ主観によって促される「錯覚」によってヒトは間違った行動に陥ることがあるのだ

動物の場合はそれでも良い

別にイワシがカツオに喰われようが それで生態系が維持されているのならば ヒトが関与するようなことではない

しかし ヒトの場合はそうはいかない

「他人を助けないと 自分も助けてもらえない」といった合理性に基づいた判断に限らず そもそも「近所の小学生が酔っぱらいに轢かれて亡くなってしまったら生きている意味がわからなくなる」から安全を優先するのである

社会持続可能性がないのに 自分が生き続けても意味がないから 社会安全性の為なら死んでも良いと思うのである

だって どうせ必ず最後は死ぬんだもの

衆愚からバカにされようとも 少数異端だと排除されて野垂れ死にしようとも どうせ死ぬなら真理のために死ぬべきである

嘘やデマや大衆観念に迎合して生き延びるくらいなら 真理のために死んだ方が「人間としての尊厳」というものである

「真理を大切にする」というお題目を唱えても 呪文じゃねぇんだから唱えただけじゃクソの役にも立ちゃしない

フリードリヒ:ニーチェは「信念は真理の最大の敵」だとか言っていたが 信念に客観的合理性があるかどうかが問題なのであって 「実証不能の観念を振り回して」しまうのは信念に客観的合理性や根拠がないのが原因である

バカみたいに何の信念も持たずに名言っぽい話を鵜呑みにしてりゃマウントとったような錯覚に陥って満足するんだろうけども それは「ブタの皿」ってもんだよ

それこそが社会的生活習慣病というものである

 

 


Ende;

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大多数の傍観者

2022年01月21日 16時21分54秒 | 意識論関連

学歴が高ければ就職には有利に働きますよ だって企業の採用担当者だって学歴が高いから就職できたんでしょうから 自分の学歴が高いことを正当化する形で何が何でも学歴偏重にならざるを得ませんからね

その実態はどうかと言えば 学歴マウントを強要してくるような幼稚なバカが大半ですし 慶応の「塾員」達による東大生イジメもありますし 名だたる大企業の不祥事も 原発事故も 「学歴の高いバカ」によって引き起こされているんですよ

日大なんて大学ですよ 教育機関ですから学歴が高くなきゃ職員になんてなれないでしょうが その学歴が高いバカ共によって田中理事長達による独裁体制を温存維持してたんですから 如何に学歴がクソの役にも立たないのかは明らかでしょうが

そもそも「学歴の高さ」なんてのは 学校の偏差値を基準にした大衆観念的な基準でしかなくて 京都大学なんてのは戦時中に中国人捕虜を使った生体凍傷実験なんていう非人道的人体実験をやってた奴らですから 何にも人間性の論拠になんぞならんのですよ

東大だって医学部からテロリスト輩出してますし 養老孟司なんていうオカルトジジイが「名誉教授」扱いなんですよ

どうかしてるぜ

教えたことを教えた通りに答えられれば学力偏差値評価は高くなるでしょうよ フリードリヒ:ニーチェだろうがイマヌエル:カントだろうが教えて何でも答えられりゃ「修士」はとれるんですよ

その「修士」過程を終えた奴らの誰もカントの「純粋理性批判」における「叡智界」には論理客観的根拠に基づいた立証が示されていないことには指摘したこたないんですよ

生物学者の大半も 遺伝的進化における「典型的な間違い」を正確に指摘できている奴なんて少数派でしかありませんよ

つい最近までNHKじゃ「子宮内膜を厚くすることを考えた」などと称して あたかも遺伝的進化に「考え」が介在しているかのような「説明」をしていましたからね

そういう間違いを説明したって NHKは訂正もしなけりゃ周知もしませんよ そういう不誠実なデマを垂れ流しておいて受信料だけは払えと言ってくる

マヂで死んだら良いだろうと「思い」ますよ 主観的にはね

NHKって無いと困るんですよ 民放じゃどうしたって視聴率が稼げなきゃ経営が続きませんから スポンサーに都合の悪い話はしなくなります 公共放送は水道局と一緒でインフラの一つですから存続はさせないといけない

だからといって アグラをかいて何の検証もせずに学術権威という肩書の言っていることを漫然と垂れ流していたのでは 「水道水にクソ混ぜて流している」ようなもんですよ

そんなんダメに決まってるでしょうが

自律的に「何が真実なのか」を判断できないバカばっかりを従来の教育は大量生産してきたもんだから 無名の個人がどんなに論理客観的に正しいことを主張しても耳貸さないんですね

遺伝的進化に「意図」「目的」「戦略」「考え」「選択可能性」といったものが介在しないのは科学的事実であり チャールズ:ダーウィンによる進化の説明に則ったものですから「〇〇の為に進化を選んだ」なんていう「説明」には科学的根拠が伴っていないんですよ

なのに 今までずーっと間違った根拠のない「説明」を垂れ流してきたことを 一切訂正もしなけりゃ周知もしやしない

それで「金だけよこせ」

おかしいでしょ

狂ってるんですよ

しかも狂っている自覚もない

「自分達だけは絶対に大丈夫」だと勝手に思っている

東大刺傷事件の17歳みたいのがでてくるのも 世の中が薄く広く狂っているから重大事象として表出してくるんであって 小さな間違いを丁寧に丹念に潰してゆく根気というものが社会安全性にとって最も重要な対策となる

世の中には自動車運転の雑で無神経な奴なんていっぱいいますよ 「へずまりゅう」じゃないですけど「迷惑な奴なんてザラにいる」のは事実です

でもね それって「現状の結果」であって 「絶対」ではない

「現状の結果」を踏まえて どうやったら再発防止などの「解決」になるのかをちゃんと対策しなければならないし 「皆が雑なら 少しくらい雑でもいいじゃねぇか」などと責任を多数で薄めるような屁理屈は要らないんですよ

そういうクソの垂れ流しによって 世の中がどんどんクソまみれ嘘まみれになってゆくんですよ

収集がつかなくなるのは当たり前ですよ

誰も自律的には社会的責任を負わないんですからね

 

 

 


Ende;

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社会的な「甘え」

2022年01月21日 13時35分01秒 | 意識論関連

東大刺傷事件のようにセンセーショナルな事件が起きると 短絡的に腹を立てて犯罪者の家にラクガキしたり電話で怒鳴り散らしたりするバカが出てくるようだが

それも犯罪であることに違いはないからな

「親」というのは最初は必ず全員初心者であって 誰もが子育てに失敗する可能性がある

失敗というものに対し 気分(主観)的に悔やんだり 懲罰だの禊(みそぎ)だので何かが解決したかのように錯覚するから 実効性のある具体的再発防止にならない

気分(主観)なんぞ 正直どうでもいい話であって 最も社会的に重要で優先されなければならないのは 被害者をこれ以上出さないための再発防止である

被害者を出さないために必要なのは 加害者も出さないことであり 加害者がどのような原因によって加害者になったのか なぜ「自律的な社会的責任判断選択能力が養われなかったのか」についての徹底した分析が必要であって こうした論理客観的対策に必要なのは危険学や失敗学のメソッドに則って刑法を一時停止させる必要がある

ヒトは誰でも間違える可能性がある存在であり 誰も完璧に一切の過ちを冒すことなく生涯を終えるヒトなど存在しないのである

その上 先天的な認知上の欠陥によって 「懲罰や禊で罪がキレイになったから解決だ」などと勝手に妄想する習性や 「自分だけは絶対に間違えない 大丈夫だ」という根拠のない自己過信に溺れる性質(正常性バイアス)があるため 問題の本質というものを簡単に見失うことに陥るのである

無差別殺人犯の類いを何人死刑にしても厳罰化しても 無差別殺人をやらかすバカがどうして発生するのかという原因究明にはならない

その結果 何度も似たような被害が繰り返している責任は 司法に限らず それを傍観放置している代議員や国民全員にも存在しているのである

子供の8割がイジメを傍観放置することや 日大のような組織腐敗を大半の職員達が傍観放置することからも ヒトという種の生物は周囲の多数に同調迎合する形で個人が自律的な社会的責任判断選択をしなくなるものなのである

大衆観念的には 周囲の多数に同調して主観的に安心していれば人間性が発揮されるものだと勝手に妄想しているが 実際には大多数が責任を多数他人任せに丸投げすることによって個人の自律が損なわれ あたかも多数によって個人の責任が薄まっているかのような錯覚によって 様々な問題が放置温存される原因なのである

東大刺傷事件の17歳が通っていた高校の見解では 「孤立が良くなかった」といった解釈をしているが 「多数に流されることが人間性だ」という根拠のない大衆観念に基づいた「決め付け」であって 多数がバカならバカに同調迎合しても人間性など発揮されなくなるのであり

人間性の本質である「個人が自律的な社会的責任判断選択を行う」ために必要なのは 8割の無責任な多数他人との同調迎合性ではなく 個人が自律的に「何が真理(本当のこと)なのか」を自ら識別判断できる能力を持つことである

 

イジメが起きている学級内で 傍観放置しておいた方が「身のため(利己的保身のため)」である

イジメという問題に対して自己保身よりも問題解決を優先することの方が重要だという自律的判断などしない方が イジメが起きている学級には馴染む上においては有利である

しかし こうした間違った環境への適応としての同調迎合性というものは 動物的な「社会性」ではあっても 断じて「人間としての社会性」ではないのである

ゴリラだのチンパンジーだのといった野獣の群れの中では 順位序列による不公平な封建的統率協調性が生息環境においての「繁殖の継続」にとって有利に働いた結果的収斂進化を促したとは言えるものの そうした「野獣の順位序列」を受け入れてしまう傍観放置性もまた本能的な行動バイアスでもある

主観的に「怖い」ことは誰もやらない

先天(本能)的に「やりたくない」からである

それが生物学上における「社会性(社会形成習性)」の実態であり 松沢哲郎はこの説明に対して 「チンパンジーの(先天的)行動習性から 人間としての社会性が立証できるかも知れない」などというトンチンカンなはぐらかしによって衆愚人気を集め これが文化功労賞として「評価」されたのであって 実際には理論的にも実証的にも何も立証することができずに11億もの研究費を不正流用するという不誠実極まりない結果しか残していないのである

本人が平気で嘘をつくのに どうして「チンパンジーの人間性」が立証可能だと言えるのであろうか 完全に頭がおかしい

霊長類研究所の実験観察のように 香港警察の武装警官やミャンマー政府軍兵士を鋼鉄とポリカーボネートの檻に監禁して 彼らがどのような行動を採れば既に行われた残虐行為の反証になると言えるのであろうか

遺伝的進化というものは あくまで「繁殖を継続」して存続しているという現存種の結果以上の何も促すことはない

特定環境下での断片的協調性だけを抽出してきて「人間性だ」「社会性だ」とこじつけることは 到底科学的論証にはならない

振り込め詐欺師の組織内部で食事を奢ってやっても それが「振り込め詐欺師の人間性の論証」になどなるわけがなかろう

ヒトには統率的協調性というものはあるものの それはあくまで「他の部族集団との環境資源の奪い合い競争に勝ち抜く」ことが「繁殖の継続」にとって有利に働いた収斂進化の結果であって それはヒト以前の野獣レベルの祖先の生息環境によって促された「本能的行動習性」に過ぎない

ヒトの先天的な統率協調性を利用すれば 軍隊や警察のような組織を用いて理不尽な暴力者集団への対抗することも可能ではあるものの そもそも理不尽な暴力者集団が形成されるメカニズムやプロセス自体が先天的な統率協調性に起因するものなのであって 軍隊というものが文民統制を必要とするのは 軍隊というのは集団統率的暴力装置でしかないために 文民が統制しなければ戦時中の日本軍やミャンマー政府軍のような暴力の暴走しか招かないものだからである

 

ヒトは孤立を怖れる習性がある 「怖い」ことは本能的に誰もやりたがらない

だからこそ 個人は自律的な社会的責任判断選択をしなくなるのである

「皆で仲良く組織腐敗していれば安心」だからこそ日大の組織腐敗は長年に渡って傍観放置温存され続けてきたのであり 「組織の利益を優先」することで原発の津波に対する脆弱性は放置され続けてきたのである

主観に過ぎない安心満足ばかりを優先するからこそ 様々な組織腐敗や無責任性は温存され続けることになるのであり 主観的安心というのはそもそもが先天的な情動によって促されるものであり 情動というものは自己選択不可能な先天的本能習性に因るものであり 先天的本能習性というものは野獣に過ぎない祖先の生息環境下における収斂進化の結果でしかないのである

「目的」も含めて真実かどうかを見極め識別するために必要なのは 論理客観的検証性(理性)である

ミャンマー政府軍や香港警察が横暴だからといって感情任せに暴力やデマで対抗しても何の解決にもならないばかりか むしろ事態を悪化させるだけである

ミャンマー政府軍兵士が軍の命令に従わなかったり脱走したりすると 政府軍によって兵士の家族に危害が加えられるという暴力団みたいな手口で服従を強要されていることから 反政府勢力側では兵士が安心して脱走できるように兵士の家族をかくまうという合理的手法を用いているという

感情任せに暴力の応酬を繰り返しても問題の解決にはならない

そもそも「暴力で解決」したがる習性とは 野生動物が過酷な自然環境下において死なずに済む「行動習性」としてヒトの大脳辺縁系にも組み込まれた情動行動バイアスに過ぎない

物事を論理客観的に「考え」られないバカになると たとえどんなに学力学歴が高くても自律的な社会的責任判断選択能力は発揮されることはないのである

「世界は教科書でできている」だとか「学校の勉強は認知的ワクチンだ」などといった根拠のないデマを鵜呑みにしているから 大人達は子供に対して頭ごなしに「勉強しろ」「先生の言うことをきけ」などと盲目的服従性を強要するようになり これが子供達から主体性を奪い自律的判断能力までをも剥奪してしまう結果に陥るのである

宮台真司が「自分の頭で考えるのは10年早い 丸暗記しろ」などと言い出したのは 自分が「教師からそう言われた」などと強要されたことを事後正当化するための条件反射的な「連鎖」行動に他ならない

自分が教師から理不尽な判断を強要され しかも盲目的に服従した既成事実を事後正当化し 認知的不協和を解消する形で非合理で理不尽な「連鎖」は生じるのである

しかも こうした「連鎖」は非常にヒステリックで感情的で頑なであり 論理的反論の全ては頭ごなしに否定したがるものでもある

なぜ感情的なのかと言えば それこそが主観的安心満足であって 主観的安心満足を侵されることに対する本能的拒絶反応だからである

松沢哲郎などの生物学者共が 遺伝的進化における「典型的な間違い」を一切訂正したがらずに 支離滅裂なはぐらかしに徹しているのも 既存の権威性を失うことを怖れる本能的拒絶反応に他ならない

ヒトという種の生物の先天的欠陥に基づかなければ ヒトはいつまでも「何が本当の人間性なのか」を見極めることはできないのであり 「先天的に人間性が組み込まれている」などという耳当たりの良いファンタジーで満足しているから 真実が見えなくなっているのである

 

環境プラスチックが世界的に大問題になっているにも関わらず 相変わらずプラスチックゴミが路上にポイ捨てされているのをよく見かける

温室効果ガス削減もそうだが 地球環境保全において最も重要なのは 一人一人の「意識」なくしてあらゆる問題は解決しないのである

ヒトはすぐに「天才」だの「英雄」だの「権威」だのといった特定のカリスマ的な個人が社会問題を解決してくれるものだと頼りがちであるが そういったパターナリズムこそが個人の自律的な社会的責任判断選択能力を損なわせる先天的習性による行動バイアスなのである

「多数や皆がやっているから安心だ」では 人間性の論証にはならないし ただの同調圧力で「怖いから誰もやりたがらない」でも人間性は損なわれることになる

何度も繰り返すが 人間性というのは「自律」的な社会的責任判断選択能力であって 孤立や少数派に分類されてでも真実を追求する個人の判断こそが最も重要なのであり そうした個人の自律は世間的評価や報酬には結びつかないことも充分にある

より多くの人が 「自分が本当に望むべき社会の在り方」としての「本当の目的」に基づいた行動選択をしなければ 組織腐敗や無責任性は温存されることになり あらゆる諸問題の大半は解決せずにバカげた「連鎖」によって何度も繰り返され続けることにもなり 被害に遭わなくても良かったことでも被害は繰り返され続けることになるのであり その責任は「多数で薄まる」わけではない

個人の判断というものが社会的責任にもつながっていることを自覚しなければならないのである

「誰かに判断責任を丸投げしておいても構わない」という発想は 幼稚な「甘え」でしかないのである

 

 

 

Ende;

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「落とし穴」の正体

2022年01月20日 15時10分40秒 | 意識論関連

少年が通う高校のコメント(16日):「『密』を作るなという社会風潮のなかで、個々の生徒が分断され、そのなかで孤立感を深めている生徒が存在しているのかもしれません。今回の事件も、事件に関わった本校生徒の身勝手な言動は、孤立感にさいなまれて自分しか見えていない状況のなかで引き起こされたものと思われます」

 

 

⇨東大刺傷事件を引き起こした17歳のような無差別暴力事件というものは 別にコロナ禍特有のものではなく 旧来からから幾度も繰り返されているものである

孤立(孤独)というものは 逆に「自分を見つめ直す」良い機会にもなり得るものであって 孤立自体が悪いわけではない

武道家が修行で山籠りをするのも 「自分を見つめ直す」ためのものであって むしろ周囲の親や大人が無神経な根拠のない「常識」をなりつけることによって人格が破壊されてしまうのである

そもそも「自律」とは「他人に頼らない判断能力」を指すのである

生徒同士が分断されているかどうかも 結局はクソDQNがクソDQN同士で共感共鳴するからこそ集団心理によって暴走族などというクソしょうもない行動を採る大きな要因になるのであって マトモな生徒との関係性が構築できるかどうかも本人の「意思」や「運」次第でもある

少年が通う高校の職員は「孤立感にさいなまれて自分しか見えていない状況」などという解釈をしているが こうした「解釈」には根拠がなく 単に客観性が働いていないから欲望のままに支離滅裂な行動を引き起こしているのである

大衆観念的には 自分の先天的本能欲望こそが意識の本質で 多数の他人によって構成されている「世間」に迎合することで人間性が形成されているという「解釈」をしたがるが これが根本的に大間違いなのである

人間性の本質は「個人が自律的な社会的責任を負うこと」であって 周囲の多数に流されることは人間性ではない

東電や日大の組織腐敗も 組織の利益を優先することによって個人が自律的な社会的責任を負わなくなった原因であって 多数他人で人間性が左右されているからこそ「自律」が働かなくなるのである

評価承認欲求中毒者の場合 自分の頭で物事を検証判断することをせず 世間一般的な「常識」でさえあれば主観的に安心満足して鵜呑みにして疑うことをしないものである

生物学上の遺伝的進化における「典型的な間違い」が放置され 優生学に対する論理反証が一向に周知訂正されないのも

哲学界においてイマヌエル:カントの「純粋理性批判」における実証不能の謎の「叡智界」に客観的根拠がないのに誰も指摘訂正しないのも それらが世間多数による「常識(正解データ)」として学習されてしまっているからである

ちょっと自分の頭で考えればわかるようなことでさえ 学力が高いだけの「インテリ」は誰も考えずに鵜呑みにし 多数の誰も間違いに気付かないことで主観的に安心満足してしまう

ヒトという種の生物には こうした認知的欠陥が先天的に存在しているからであり 「自分の常識」を疑う客観性がないから間違った解釈にも何の疑いも持たなくなるのである

 

「自分が本当は何をしたいのか」を見極めるために必要なのは 主体的な意思である

そもそも「自律的な社会的責任判断」というものは 主体性や自主性の中で育まれるものであって 多数他人に迎合し 権威に服従忖度することで発揮されるような環境依存的なものではない

世間が「特攻隊は英霊だ」という「常識」に囚われていれば ヒトは簡単に合理性のない自爆攻撃もできるようになるものであり その一方で終戦によってその「常識」が覆れば「世間が悪い」と称して「荒れる」のである

主観的に「誉められたい」「評価されたい」といった多数他人からの「根拠のない常識」的動機によってそそのかされた行動だからこそ主体性が欠けており 奴隷根性に基づく報復感情によって暴力的に「荒れる」という行動にしかならないのである

これはそもそも主体性がないから「世間が悪い」という理屈になるのであって 戦争そのものに反対した「政治犯」達は英霊扱いされず むしろ「裏切り者」扱いしかされないものである

 


なぜ「自分が見えなくなるのか」

それは 世間の「常識」的価値観に漫然と無意識に流されているからであり 主体的な「目的意識」が働かなくなることによって ひたすら先天的情動バイアスのままに行動を促されるだけに陥るからである

これは 自分の情動を意識の本質だと勘違いしていることが根本にある

私であっても主観的に殴りたい奴などいくらでもいる しかし 私は殴っても問題が解決しないことを客観的に理解しているからこそ こうして面倒臭い説明に毎日のように時間を割いているのである

現代社会においても不条理や非合理はたくさんある だからこそ社会問題が山積しているのであって それらの問題の根源を論理客観的に解明し 再発防止や改善策に応用することによって 世の中の不条理や非合理は一つづつ解決してゆくのである

いくら説明しても理解できないバカなら 殴って恐怖で威圧しておけば簡単に服従忖度するようになるものである

犯罪者は刑務所の中では刑務官に服従するようにはなるものの 実際には半数は再犯する事実からも そうした服従性は「その場限り」の暫定的なものに過ぎない

北欧の「リゾート刑務所」における再犯率低下という「立証」的事実は 犯罪者というのは自分を見失っているからこそ人間性をも見失っていることを示しているのであり 「罰で解決」というのは主観的な「印象」による錯覚に過ぎないのである

「一人も取り残さない」というのであれば 犯罪者も然りである

だが それは「加害者だけを擁護する」ことなどではなく むしろ加害者がどのような過ちを犯したのかについての詳細な分析検証や徹底した原因究明によって得られた知見を 再発防止のために周知徹底することが必要である

ヒトが犯した過ちであれば 誰が犯してもおかしくはない 「間違えないヒトなどいない」という観点に立脚すれば 「懲罰で解決」などという主観的満足安心で片付けられるものではないことは明らかである

 


「学校の勉強は認知的ワクチンだ」などというデマを鵜呑みにし 学力成績さえ高ければ人間としての価値になるという大衆観念に基づいた根拠のない「常識」によって バカな親大人は頭ごなしに「勉強しろ」としか言わなくなるのである

学力偏差値という特定の評価基準を あたかも絶対的な人間の価値であるかのように錯覚することで 「学歴=就職に有利=年収が高い=偉い=賢い」という結果的方程式(デファクトスタンダード)に基づいて あたかも「学力=頭が良い」という根拠のない「常識」を「正解データ」として刷り込み学習され 何の疑いも持たなくなっている頭の悪さを認識しないからこそ バカの一つ覚えみたいに「勉強しろ」としか言わなくなるのである

学力評価というものを抽象化された脳への報酬として刷り込まれることによって 学力成績が上がることだけが人間しての評価の価値基準だといった「常識(正解データ)」だけに意識を奪われてしまうことによって 個人の主体的意思や目的意識を見失い ただひたすらに先天的情動バイアスのままに行動するようになるから無差別暴力へと駆り立てられてしまうのである

ヒトの先天的情動には合理性などない

繁殖能力すら持たない幼女強姦が起きるのも ヒトが進化する過程において幼形成熟性への収斂の結果に過ぎず 合理性は何もないのである

ヒトが権威と見なした相手に服従し ミャンマー軍兵士のように民衆虐殺に暴走するのも ヒトがヒトにまで進化する過程における生存競争バイアスの名残りに他ならない

環境資源の限られた自然界においては殺し合いによって勝ち抜いた方が生き残る そうした「結果」が現存生物種における先天的習性として組み込まれており ヒトも基本的に同じ行動バイアスを持っているからこそ 非合理で不条理な暴力破壊が繰り返されるのである

自然環境下においては ただ環境資源を独占するだけでは「繁殖を継続」することはできず 環境との調和性も必要とはなるものの 決して個体種自体が「環境と調和しよう」として調和しているわけではなく あくまで結果的に環境調和性を持っていた個体種への収斂進化の結果でしかない

遺伝的進化というものは そのプロセス過程において方向性のない「変異」が引き起こすものであって 結果的に「繁殖を継続」に成功した個体種への収斂進化の結果以上の意味など存在しないのである

生物学者達はやたらと「自然は美しい」だの「偉大」だのと主観的「印象」操作ばかりをしたがるが 自然環境を保全しなければならないのは論理客観的事実に基づいた行動選択であって 個人的主観は関係がない

生物学者共は あたかも「自分は自然を美しく偉大なものだと思っているから 人間として優秀だ」とでも勝手に妄想しているのであろうか それは傲慢というものである

主観的に「虫が嫌い」な人もいるだろうし 家の周囲や畑に蔓延(はびこ)る雑草に悩まされている人もいるであろう

農家の最大の「敵」は害虫である だからといって殺虫剤を撒き散らして生態系を破壊してしまえば むしろ農作物を生産する上で逆効果になる客観的事実に基づいて共存する方法論を導き出し続けているのである

害虫を殲滅駆逐してしまえば 害虫の天敵まで失うことになり 強い殺虫剤を使えば使うほど耐性を持った害虫を作り出し 結果的に雑草以外何も生産できない土地になってしまうのである

それは個人の主観的な好き嫌いや「印象」とは関係がない 客観的事実である

 

現在地球上ではヒトはホモ・サピエンス以外はほとんど現存していないが かつては数百万年に渡って存続していた別のヒト科生物もいたと言われている

明らかに持続不可能な文明社会を作り出し 未だに殺し合いを「解決」だと勘違いしている現代人に 「先天的な人間性」が組み込まれている根拠など何もないのである

地球上に80億も異常繁殖することで環境資源を食い尽くし暴走破綻破壊への一途を辿っている「ヒト」は 生物としても人間としても欠陥品であることに間違いはない

先天的本能習性の暴走に歯止めをかける理性なくして人類に未来などないのである

ヒトという種の生物が 他の野生動物と比べた際の優位性とは あくまで客観的に何が真実なのかを論理的に検証して見極められること「も」可能だという点である

大脳辺縁系によって促される先天的本能習性に意味や意識が存在するのではなく 様々な本能や価値観の中から統合的に最も重要な優先事項を見極めるために必要なのが 論理客観性(理性)であり それこそが「人間としての意識の本質」なのである

何が真実なのかを見極められないことには 人間性など発揮できるわけがない

カルト宗教だのデマや嘘や科学的誤謬を信じていて人間性を発揮することなどできないのである

「信じたい」という主観的欲求そのものに依存している中毒性によって 自分の頭で物事を考え判断することを拒絶するのであり

主観的に「信じたくない」かどうかを物事の判断基準に混入させるから 真実が見えなくなるのである

 

 

やれ「巨人の肩の上」だとか称して謙遜じみたことでも言っていれば満足なのだろうが

「巨人」だと主観的に「思って」いる相手が本当に「巨人」なのかどうかも見極められていないのに どうして「巨人の肩の上」から物事を見極められていると思っているのであろうか

イマヌエル:カントだのフリードリヒ:ニーチェだのフランシス:ゴルトンなどを「巨人」だと勘違いしているバカだからこそ バカげた非合理な過ちが何度も繰り返すのであって それはむしろ「凡人の穴の中」から世界を見ているに過ぎない

大多数を占める「凡人の穴の中」の方が居心地は良かろう 「進化によってヒトには先天的人間性が組み込まれているから 安心して主観的「印象」に基づいて判断しておけば自動的自然に人間として行動できる」とでも思っておけば満足であろう

それこそが「落とし穴」の正体である

 

 


Ende;

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自己とは何か

2022年01月20日 12時17分22秒 | 意識論関連

東大で刺傷事件を起こした17歳は 自分が本当に何をしたいのかという「目的意識」が働いていないから非合理で意味のわからぬ行動や言動に陥っているのである

衆愚の大半は自分の意識的行動とは別に 実証不能の謎の行動バイアスによって人間性が担保されているかのような妄想を抱いて安心満足しようとする性質があり 故に「叡智界」といった根拠のないカントの妄想であっても鵜呑みにできるのである

「学力=知能」という方程式にも根拠はないが 何となく皆がそう「思って」いる環境下では 単なる「多数」が「正常」で「正解データ」として刷り込み学習されることで 根拠のない「常識」として多くの衆愚は鵜呑みにしているだけなのである

元々根拠のない「常識」に基づいて「学校の勉強は認知的ワクチン」などと言い出せば 多くの衆愚は何の疑いも持たずに鵜呑みにし 「勉強さえしておけばデマや嘘にも騙されなくなるはずだ」という読書猿のデマを鵜呑みにして満足する

東大刺傷事件の17歳の親も こうした衆愚観念的デマに過ぎない世間の「常識」を鵜呑みにする形で 頭ごなしに「勉強をしろ」と強要したのであって 「世間的(多数)に人気があるなら 正しいことを言っている」という主観的「印象」によって真実を見失っているのである

刺傷事件の17歳が「目的意識」を失ってしまっている原因とは そもそも大多数の衆愚に「目的意識」が働いていないのが原因である

衆愚観念的には 自分が生き続ける上において 多数に迎合しておかないと主観的に「怖い」から迎合しているだけであって 生き続けることに絶望してしまえば簡単に多数への暴力的報復攻撃という最終解決に暴走することになる

人間性の本質とは 多数に迎合同調して権威に服従忖度することではなく 自律的に社会的責任判断選択を行うことであって この選択において生存価だの気分的安心満足は優先されてはならない

単に多数や権威に服従忖度迎合同調しているだけであれば これは多数や権威に選択が依存してしまい 自律判断にはならない これが根本的な衆愚観念的な大間違いなのである

 

衆愚の観念的には 多数や権威に同調迎合服従忖度さえしておけば 主観的に安心満足感が得られることを あたかも論理客観的安全性と錯覚することで これを「道徳」と称して論理客観的根拠のない身勝手な「お花畑」的理想を鵜呑みにし 子供に押し付けているからこそ自律的に社会的責任を負わないバカが大量生産され続けてしまうのである

東大刺傷事件の17歳のような人は少数だと「思って」いるであろうが これは事実誤認である

一つの重大事象の陰には 無数の小さな事象が隠れている(ハインリッヒの法則)のであって 大衆の大半が「ヒトという種の生物には先天的に人間性が組み込まれているはずだ」などという科学的根拠のない生物学者や社会心理学者共のデマを鵜呑みにして 結局は主観的に満足安心できることへの多数人気を あたかも論理客観的根拠のある真実と誤認しているバカが大半を占めているからこそ 通り魔などの「重大事象」への発展を許してしまっているのである

 

ヒトという種の生物は 気に入らない相手を殴りたいと思うものである それと同時に怖い相手には逆らいたくなく 結局通り魔の類いが標的にするのは心療内科の医療関係者だの 単なる受験生といった弱者であって ヤクザや暴走族といった典型的な迷惑者には向かわないのである

自分が生きている世間が「生きづらい」からといっても 心療内科医や通りすがりの受験生に暴力を振るっても何の解決にもならないのだが そういった合理性というものがスッポリ抜け落ち 目的も何もない非合理で不条理な「八つ当たり」によって主観的満足を得ようとするようになるのは 自分が本当は何がしたいのか 何を目的として生きているのかという「目的意識」が働いていないのが原因である

「東大に入って医者になりたかったが 成績が振るわなかったので自暴自棄な気分になって無差別刺傷事件を引き起こして自殺したかった」などという「動機」には 元々「何のために医者になるのか」という目的意識がなかったからである

「東大卒で国境なき医師団で活動」していれば それはそれは世間的にも「立派な人間」ではあろうが それは主体性がなければできるものではない

本当に「病気から人々を助けたい」という意思がないからこそ 無差別刺傷事件なんぞを引き起こすのである

単なる世間的価値観「常識」に基づいた「憧れ」による世間的評価が目的だからこそ 「医者になれないから無差別刺傷事件を引き起こす」という支離滅裂な行動に陥るのである

 

世間的評価に依らず 自律的な社会的責任判断選択をすることこそが人間としての社会性であって 世間の多数評価に流されるからこそ特攻隊を「英霊」だと信じ込んで政府権力の手先となって無意味な暴力に加担した挙げ句 終戦で特攻の価値が失われた途端に「特攻崩れは荒れた」のである

自分の存在価値を 多数衆愚に丸投げし 本当に何をすべきかを自律的には一切選択していなかったからこそ 世間に対する無差別報復的に「荒れた」のであって 世の中の「常識」に本当に論理客観的根拠があるのかどうかを自分の頭で「考え」ずに ただ目先の気分的安心満足感を追求した結果が思い通りの評価にならなければ報復的に「荒れる」だけである

多数が「英霊」と称して評価していることに対し その評価に流される形で特攻隊に志願していただけであって 「特攻が世の中にとって本当に意味のある行動なのか」といった「考え」がなく ただ目先の主観的安心満足だけを追求していたからこそ 評価が得られなくなった途端に「荒れた」のであって これもまた先天的本能による行動バイアスに無意識に流されているに過ぎない

何度も繰り返すが 人間性の本質とは「個人が自律的な社会的責任を負う」ことであって 衆愚観念に則って人気や報酬や評価を得ることではない

 

学歴が高ければ就職に有利で年収も高いという現状世間の「結果」に基づいて「金儲け能力=頭が良い」という観念を鵜呑みにすることも簡単であり 中野信子はこうした短絡的価値観に基づいた知能論をでっち上げて衆愚人気を集めているのである

衆愚人気を集めていれば 本も売れて金も儲かるだろうが 「金儲け能力=知能」という方程式には認知科学的はおろか 何の根拠もない衆愚観念でしかなく 衆愚観念に寄り添って衆愚から人気を得ているだけのペテンに過ぎない

衆愚は 自分が世間的に評価されたり金儲けに成功するという価値観だけが優先し 「人間としての社会性とは一体何なのか」など本当は興味などないのである

 


社会安全性にとって最も重要な知見とは 何が本当に危険なのかを知ることである

社会安全性を担保できなければ それ以外のあらゆる「能力」には人間としての価値は存在しない

自分という「ヒトという種の生物」における先天的な認知上の欠陥を知り どのような間違いに陥り易いのかを理解していれば 同じ様な間違いには陥りづらくなるのだが

衆愚はそうした自分の先天的な欠陥を直視することを忌避し 「道徳」教育のような論理客観的には何の根拠もない身勝手な「理想的人間像」を漫然と子供に押し付けて主観的に満足するだけである

ヒトは気に入らない相手を殴りたいと主観的に「思う」ものであるが 暴力というものは自分がこれからも生き続ける社会全体の損失になる非合理なものであることを「理解」していれば 暴力で解決しようとは「考え」なくなることも可能である

しかし 暴力というのは簡単に目先の欲望を満たす上においては便利なものであり 衆愚の大半は「怖い」相手には逆らわずに媚び諂(へつら)い阿(おもね)り忖度服従してしまうため バカだと暴力の便利さを「学習」する形で暴力依存に陥ることになるのである

それが「暴力者の常識」なのである

自分よりも弱い相手なら 殴っておけば便利に使役することが可能である これは物理的に「強い」必要性はなく 抽象的な「権威」肩書だけで充分であり だからこそミャンマー政府軍は民衆虐殺という暴挙も簡単にできるのである

現代文明以前の社会においては 環境資源の独占競争においては集団暴力は「繁殖の継続」において有効に作用することで ヒトは集団暴力的差別や民族浄化のバイアスを持った個体種への収斂進化を果たしているのである

ヒトはヒトにまで進化する過程のほとんどが過酷な野生環境下における生存競争を勝ち抜いた野獣の末裔であって ヒトにまで進化する以前の方が圧倒的に長いのであり 情動を司る大脳辺縁系の構造自体は解剖学的にも野獣のそれとほとんど同じである

遺伝的進化の過程においては 殺し合おうが奪い合おうが騙し合おうが 「死ななければ成功」「繁殖を継続できれば成功」であって そこに人間性が伴う必要性など何もないのである

メスを集団強姦してでも繁殖さえできれば進化的には「成功」であって 無責任に誰彼構わずヤリまくるオスの方が遺伝子を遺しやすいのも「結果」である

集団強姦の被害者達の大半は何も言わないだろう

それは「圧倒的多数ではない」からだ

ヒトの男がどれだけ卑劣であるのかなど 被害者はもとより加害者が主張することなどないのである

 

「欲望そのものを欲することはできない」

これは定理であり真理である

自分の遺伝子は自分では選択不可能であり その遺伝子によって形成された大脳辺縁系によって促される情動バイアスも 様々な世間的「常識」バイアスも 自分では選択不可能である

だが 様々な価値観の中から統合的観点に立脚して「本当の目的」を選択することは不可能ではない

ただ 「難しい」だけのことである

「難しい」とは言っても 要は主観的に「嫌だ」というだけであって そんな個人的な好き嫌いは「やらなくても良い理由」「選択不可能性の根拠」には全くならない

大学入試で高成績を採っても 金儲けに成功したり世間的人気を得ても 自律的な社会的責任判断選択が可能になるわけではない

衆愚は「世間的評価さえあれば 世間的評価を失いたくないから悪いことをすることは合理的ではないからやらないだろう」という勝手な期待をしがちだが 欲望に踊らされているバカに合理性など通用しないのである

他人からの評価や承認ばかりが優先している中毒者であれば 際限なく欲望を満たそうとして嘘でも何でも平気でつくようになるものである

世間的評価を得られていない相手の話など 主観的には「信じたくない」というバイアス(偏見)もあるだろうが 主観的に「信じたい」かどうかで物事を判断している時点で自分の主観的「印象」を自己過信している傲慢さを発揮しており 論理客観的に正しいのかどうかを自分の頭で「考え」ていないのである

「考え」ていないバカの判断の多数決など クソの役にも立たないことは いちいち説明するまでもなかろう それはただの洗脳である

ヒトが洗脳されるのは 洗脳状態が安心満足で気持ち良いからであり 一旦洗脳状態に陥ると脱洗脳に対する恐怖心から拒絶反応を示すから脱洗脳ができなくなるのである

もっと平たく言えば バカは自分がバカだとは思っていないのであり

それは酔っ払いが「俺は酔っ払ってなどいない」と主張することや 振り込め詐欺師に引っかかっている人が「俺は騙されてなどいない」と頑なに主張するのと一緒である

 

 

 


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本当に「見えていない」のは誰か

2022年01月19日 15時21分22秒 | 意識論関連

捜査関係者への取材から:「医者になるために東大を目指していたが、成績が上がらず自信を失くしていた。自殺する前に人を殺して、罪悪感を背負って切腹しようと考えるようになった」

 捜査関係者によると、少年は来年、東大を受験する予定で、そのため東大で事件を起こそうと考えた、とも話しているといいます。

 少年が通う名古屋市の私立高校は16日、謝罪と再発防止策などのコメントを発表。

 少年が通う高校のコメント(16日):「『密』を作るなという社会風潮のなかで、個々の生徒が分断され、そのなかで孤立感を深めている生徒が存在しているのかもしれません。今回の事件も、事件に関わった本校生徒の身勝手な言動は、孤立感にさいなまれて自分しか見えていない状況のなかで引き起こされたものと思われます」

 

https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000241837.html  -テレビ朝日

 

少年が通う高校のコメントの中に「自分しか見えていない」といった分析をしているが むしろ自分が何をしたいのかを見失って「見えていない」から引き起こされた事件であって 学力偏重を押し付けられ続けたことによって「本当は自分が何をしたいのか」が全く見えなくなってしまって支離滅裂な行動や供述をしているのである

原因自体を間違って認識していたのでは再発防止になどならない

文科省による「お花畑」的な道徳教育こそが 生徒を意味のわからぬ行動へと駆り立てているのである

それを傍観放置しているのも同罪だぞ

 

 


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あくらぽびっち

2022年01月19日 14時58分48秒 | 日記

ホンダCBR1000RR-Rの排気サイレンサーに不思議なマークが描かれているなと思ってたら

AKRAPOVIČ(アクラポビッチ)という会社と共同開発したチタン製のサイレンサーなんだそうな

ホンダでは自社開発できない謎の特許的なものがあるのかしら

 

そういえば 女の子の写真撮る時に大型バイクを借りてくるって手もあるのか

あ でもオイラ中免しか持ってねぇや

YZF-R3とかハイネスあたりでも面白いかもな

何十年も昔に買ったステンレス仕上げ(プラスチック製)のモデルガンとホルスターは今でもある

安価なエアガンでもガンダムマーカーでメッキ仕上げにしたらリアルにならんかな

そういう写真って需要あると思うんだけどな

藤田にこるんがS&W M500ぶっ放してた映像にちょっと萌へたんだが

オイラだけかな

 

 


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