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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

ケヴィン:ケリー

2019年07月24日 23時26分51秒 | 意識論関連
トロッコ問題は倫理的ジレンマを生み出す

*:生み出さないよ トロッコ問題の中に倫理の本質はないからね

法律は倫理ではない 法律は原因究明も再発防止策にもならない

法律をAIに従わせても倫理にはならない

意識に定義はない

XAI 説明可能なAI

論理的理解に基づいた説明が出来ること これが意識

*:こいつさっき「意識に定義はない」って言わなかったか?



Ende;

はぐらかし

2019年07月24日 18時49分15秒 | 意識論関連
クレプトマニア(窃盗症)の話なんですけど

お医者さんが「犯罪者の気持ちも少しはわかるんじゃないでしょうか」なんて言っていた

日大アメフト部で反則行為をしてしまった選手の気持ちなら多くの共感が得られたようですけど

はて 寺内樺風とか植松聖の気持ちに共感できますかね?

犯罪者の「気持ち」に共感して「わかった」ような気分になることに意味なんてないんですよ

ただ 寺内樺風とか植松聖の頭の悪さがどのようにして発揮されちゃっているのかを客観的に理解しておく必要性はある

どういうふうに壊れているのか どういう点がイカれているのか それを科学的に分析理解することによって犯罪の予備軍的な人達が実際に犯罪を犯す前の予防措置にも応用が出来る可能性が高い

でもね 実際に被害者もいないのに罰というのはおかしな話で あくまで治療のために利用すべき知見なんですね

だから私戦予備罪ってのは合理性がない

「頭が悪い(学力偏差値の話ではない)」っていうのは 「教育における失敗」です

ですから失敗の原因を徹底的に究明することで 再発防止に役立つ知見を得ることも可能となるわけです

クレプトマニアという診断を受けるか否かに関わらず 身勝手な犯罪者っていうのは基本的に「病気」なんですよ

だから罪の重い軽いに関わらず 安全性がある程度担保出来るまでは治療対象であって釈放しちゃいけない

逆に 被害が大きかったとしても そもそも不可抗力性の高い過失だったら釈放しても社会安全性においては問題がない

「まだ人を殺してはいない」からといって包丁振り回して暴れる傷害常習犯を保釈するのはずいぶん不条理な話ですよ

法手続きばっかりが優先されて 安全性が後回しにされている

国民が司法にもとめていることって 別に「犯罪者同士の罪の公平性」なんかじゃなくて安全性ですよね

そこんとこが激しくズレているのに 裁判員制度なんかではぐらかされている



Ende;

考えていないヒト

2019年07月24日 18時09分02秒 | 意識論関連
他人の迷惑に配慮ができず 自分の目先の感情や欲望だけで行動が決定してしまう奴っていうのは 脳が人間として機能していないってことなんだけど

その原因とは何かと言えば

自発的な自己客観的論理検証性が働いていないからなのよね

それは何故かと言うと

そもそも自分で考えて行動選択をしたことがほとんどないため 行動選択の全てが主観的に「怖い」かどうかとか「安心かどうか」だけでしか決定されることがない

自分自身で「これをやったら どうなるのか」ということを考えたことがなく 主観的観念に過ぎない超自我(ジグムンド:フロイト)的抑圧だけが行動抑制になってしまっていると 気分感情と行動が直結してしまうようになる

何かをした時に 頭ごなしに「怒られ」たりしていると 怒られることが怖いのでやらなくなるだけであって やった事の何が悪いのかを論理的には理解していないわけですよ

論理的に理解していないってことは 人間としての理性が働いていない状態ですから これは人間としての意識も働いていないことをも意味するわけです

酔っ払って乱暴な運転をしたら どのような結果になりうるのか そういうことを考えたことがないから 結果的に他人の迷惑にも配慮が働いていない

超自我っていうのは無意識ですから 論理客観的に悪いかどうかよりも主観的に怖いかどうかでしか抑制が働かないので 行為に対する恐怖心が目先の快楽とか怒りなどの他の感情の強度程度が上回ってしまうと簡単にタガが外れて悪いことでも平気でやらかしてしまう

と 同時に 本当は別に悪いことでも何でもないことであったとしても 観念的恐怖心が優先してしまい 人畜無害なことにまで罪悪感を抱いてしまい 結果的に勝手に欲求不満に陥ってしまう原因ともなる

超自我のような無意識な行動抑圧というのは 実は人間性においては害にしかならないんですね

人間性の源ってのは無意識な行動バイアスではなくて 意識的目的行動選択を行うための客観的論理検証によって働くようになるわけです

超自我的な行動抑圧に任せて行動していると ナチス政権下においてはユダヤ人迫害も平気で行えるようになります

それは 主観的に「怖くない」からです

 ◇

自転車に乗っているときの話なんですけど ある細い路地の特定の場所に同じ猫がいることがあって この猫がどういうわけか毎回目の前1メートルくらいまで近付いた瞬間に前をダッシュで横切るんですね

これ 多分 私に限らず自転車が来ると同じように前を横切りダッシュするんじゃないかと思うんですが 何か癖になっているみたいで毎回やらかすんですね

なのでこの猫がいた時には徐行していつでも止まれるようにするんですけど そうすると今度は目の前20センチくらいで横切りダッシュするんですよ

これ やられるとビックリするし 危ない

相手は猫ですから 感情と行動が直結していても仕方ないっちゃ仕方ないんですけど 毎回あまりにも唐突な行動を採るもんですから ちょっとお仕置きじゃないですけど横切りダッシュされた時に自転車降りて「こらー!」って追っかけたんですね

「猫相手に何やってんだw」って言われそうですけど それ以降この猫は横切りダッシュしなくなったんですよ

道で目が合ってもパニクってダッシュしなくなった

覚えたんですね 「横切りダッシュすると変なヲヤヂに追いかけられて気分悪くなる」のでやめたんだと思います

「学習」したんですね でも 別に「自転車乗ってるヒトが怖がるから」という主体的配慮からやめたわけではなくて あくまで「変なヲヤヂに追いかけられるのが嫌」なのでやらなくなっただけでしょう

これがいわゆる懲罰による「抑止力」です

自律的に他人の迷惑に対する配慮が出来ない猫程度の知能しか働かないバカを観念的に抑圧するのが刑法です

懲罰という嫌なことをされたくないから 法律を守る

行動選択の基準が「怖いかどうか」だけの奴には多少の抑止効果はあるとは言えるんですけど そもそも猫程度の判断力しかない奴が存在していることが問題なんですよ

だって 相手は猫じゃなくて 同じ脳容積を持った「ヒト」なんですから

寺内樺風って奴がいましてね こいつはお気に入りの女子中学生を誘拐して自宅に監禁してたんですけど これが発覚しまして逮捕され裁判になったんですが 「高価な美術品を盗むよりは悪いことだと思わなかった」なんて言い出したんですね

「数億円の絵画を盗難するよりも悪いことではないなら やっても構わないんじゃないか」

 そ ん な 理 屈 あ る か !

って思うんですけど コイツ ガチで言ってるんですよ

言語喋ってんのに判断力が猫レベル

「そこいら辺をほっつき歩いている女子中学生くらいは誘拐監禁してもさしたる問題ではない」と思っている

この判断力レベルの低さは 一体どういう構造から出てくる発想なんだろうと これ ちゃんと調べておかないと似たようなバカがいくら出てきてもおかしくはないんじゃないか そう思うんですよ

ところがですよ 寺内樺風には懲役9年だかの判決が出て それで司法手続き的には終わりなんですね

刑務所で治ろうが治るまいが 9年経ったら出てきちゃう しかも再犯しても司法役人の誰も責任取ってくれない

「もし見つかっても懲役9年くらいだったら 目先の欲望を満たせた方がお得なんじゃないか」とか思っている奴もいるかも知れない

刑罰がどのような基準で決められるのかと言うと 「他の犯罪者との罰の公平性」なんてもんが基準になっている だから どんなにオツムがイカれていても誘拐監禁だと9年で出てきちゃう

何度も言いますけど 治っていようがいまいが関係ない

それが刑法なんです



多分ね 他人の気持ちがわからない奴って 自分の気持ちも考えたことないんじゃないかと思うんですね

感覚として「他人からこんなことされたら嫌だろうな」って思う主体性そのものが欠落してんじゃないかと



そう言えば NHK「プロフェッショナルの流儀」って番組で 何でも修理しちゃう電気屋さんの話をやってたんだけど

本当は直せる家電でも「直らない」って嘘言って新品を買わせるように仕入先から言われたんだけど それには従わなかったんだそうです

嘘は言いたくなかったんですね

嘘っていうのはばれなくても 嘘を言う方の気分も悪いんですよ 本当はね

でも 大半の電気屋は仕入先の企業からの指導に従って嘘を言って業績を伸ばしていた

正直者がバカを見るのは 圧倒的多数の嘘つきがいるのが原因です



圧倒的多数の嘘つきの中で 正直者であろうとするのは楽じゃない

コンセンサス的な動機にならない

それなら嘘つきでいた方が 正直者でいたいという主体性よりも勝ってしまえば 多数派に迎合しておいた方が生活(生存)にとっても有利になる

そういう世の中で良いのかどうか そんなこと考えようともしなくなる

「どうせ無駄だ」って絶望する

そういう絶望によって 様々な事柄に対して主体的に「こうあるべき」という理想が何なのかも考えなくなる

津波によって非常用電源が壊れて原発が暴走するかも知れない危険性も放置するようになる

絶望すると ヒトは無責任になるわけです

だからセーレン:キェルケゴールは「絶望は罪である」と言ったわけです



犯罪者が無責任なのは 様々な主体的判断を絶望して諦めたからだろうと思うんですね

だから主体的判断能力そのものが異常なまでに欠落している

「本当はこうあるべき」なんてこと とうの昔に考えることを忘れてしまっている



でもね こうした無責任さというものもスペクトラムなんですね

程度問題なので 寺内樺風的なトンデモナイ無責任野郎に限った話ではなくて その陰に社会全体に無数の無責任さが隠れている

その小さな些細な無責任にも丹念に言及していかないと 寺内樺風的な大バカ野郎の発生は抑えられない



「こんな奴は死刑にしちまえ」的に 「これさえやっときゃ全ては解決」みたいな短絡的で安易な解決策を 大衆は好みます

ヘイトスピーチのように特定の悪者を規定して 集団で仲良く差別排除しておくと 自分が特別に「正しい人」になったかのような正義の感覚になれる快楽欲しさに刑法懲罰をも正当化したがる

しかも「刑罰によって自動的に犯罪者が淘汰されて穏やかな個体種への進化までが促される」などという非科学的妄想まで飛び出す始末

実際には食料資源の少ない環境だと穏やかな種に淘汰されることはあっても イジメや差別で穏やかな個体種への淘汰が促される論理科学的根拠なんぞ一切ないんですけどね

何かこう 先天的本能習性のままに行動しときゃ 自動的に人間性や倫理までもが進化的に組み込まれるかのような錯覚に溺れていた方が安心なんでしょうな

ヒトは ヒトの脳というのは 気分的に安心すると疑問を持たなくなる習性があります

観念主観的な安心と 論理客観的安全性の区別が先天的に働かないからです

そういう先天的欠陥は存在しないと思っていれば安心

「自分の主観的感覚は常に正しいはずだ」と思っておけば満足

だから余計 論理客観性が働かなくなる



Ende;