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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

真理の敵

2019年07月04日 23時12分52秒 | 意識論関連
「信念は嘘よりも危険な真理の敵である。(フリードリヒ:ニーチェ)」

信念とは何かと言えば 主観的に「信じたい事柄」のことであろう

テロリストや独裁国家において 度々間違った信念に基づいた暴走があったのは確かであるが

だがしかし ガリレオが火炙りにされかけながらも「それでも地球は回っている」と述べたことも信念に基づくものである

ニーチェは信念を観念的に忌避するあまり 個人の信念に論理的根拠があるのかどうかに関わらず 信念の全てを「真理の敵」だと決めつけたのである

これもまた ニーチェによる「論理的根拠のない信念」に過ぎない

ヴァルター:ベンヤミンが自らの命と引き換えにしてまでナチスに反対したことも信念である

それすらも「真理の敵」だと言えるであろうか

重要なのは 信念というものに客観性のある合理的根拠が伴うのかどうかであり 信念の全てを「真理の敵」だと決めつけることによって 誰も主体的に客観性のある合理的根拠についての検証を行わなくなることの方が 余程「真理の敵」である

主体的に客観性のある論理検証を行うには 信念とも言える探究心が必要である

何の信念も持たずに 何が正しいのか一切論理検証しない傍観者に真理など見えるわけがないのである



ゾロアスター教自体の「根拠のない信念」に気付かない頭の悪さの原因は 観念的猜疑心と 論理客観的批判精神の区別がつかないからである

「ニーチェを盲目的に信じている」という「信念」こそが ニーチェに対する批判精神を喪失し あたかも「自分は頭が良くなった」かのような錯覚に酔いしれているから 真理も何も見えなくなるのである



何が真理なのかを探求する信念のようなものも持たず その場限りに主観的気分が良くなるような話を盲目的に信じ込んでいれば ヒトの多くは満足である

それもまた ニヒリズム(思考停止)の一形態である

言われてみれば誰もが理解可能な話でありながら 言われるまで自発的に気付かない頭の悪さを認識すべきである

それはさぞかし主観的気分の悪い話であろうが その主観自体が自己選択不可能な先天的シーケンスに過ぎないのである



哲学というものは それによって主観的気分が良くなることが目的ではない

「主観的気分が良くなること」は 決して「論理的根拠に基づいた真理」ではないからだ

真理と主観的気分の区別がつかないというのは 自分の主観を絶対的なものだと錯覚していることを意味し もはや脳が壊れているとしか言いようがない

自分の主観を絶対的なものだと勘違いしていれば 600万のユダヤ人を毒ガスで殺害することも 原発の津波に対する脆弱性を放置することも簡単である

こうしたことのいちいちも 説明しないと気付かない頭の悪さは ヒトの先天的な思考バイアスに起因するものである



Ende;

ひよこちゃん

2019年07月04日 21時33分15秒 | 日記

Android2.2だと動いてたんだが

Android8.1にしたら動かなくなった

動かない理由はないはずなんだけど

動かないことにしたんだなぁ

 

っつか Android8.1ってFlash Player載ってないのか?

そういやFlash Player終了って話もあったな

 

Ende;


集合痴

2019年07月04日 13時15分32秒 | 意識論関連
倫理や人間性の本質とは「個人が自律的に社会的責任を負うこと」である

それを 何をどう勘違いしているのか知らないが 論理的根拠のない道徳だの集合知だのと称して あたかも「個人の判断には意味がない」かのように誘導するのは 論理思考の苦手な大衆を思考停止に陥れる洗脳でしかない

重要なのは 個人の判断能力の高さであって バカの多数決から倫理が抽出できるわけではない

東電社内にバカしかいなくなったからこそ 原発の津波に対する脆弱性は放置されたのである

どの集団が「バカの多数決」に陥っているのかを その集団内部の誰も自律的に認識しないからこそ 「バカの多数決」が暴走を始めるのである

やれ「文化」だの「集合知」だのと称して あたかも個人の主体的で自律的な判断だけでは真理に辿り着けないかのように言い張る哲学者は多いが

それはその哲学者当人が自律的に物事を論理検証することが出来ないバカであることを事後正当化するための言い逃れに用いているに過ぎない

アインシュタインの相対性理論は 決して多数決で導き出されたものではなく アインシュタイン個人の脳から発想されたものであり それは本来内容を理解可能な誰が発想してもおかしくはないはずのものであるが 大多数の「理解可能なヒト」の誰も発想することができなかった頭の悪さを 単に多数であるというだけで頭の悪さだとは認識せず アインシュタイン個人を天才だと祀り上げて喜んで満足していることにより 大多数の頭の悪さの原因究明も 再発防止策にも至らないという痴呆状態が続いているのである

本来 倫理を追求している研究者であれば マイケル:サンデルの「トロッコ問題」の中には倫理の本質が存在していないことを指摘しなければならないが ウェンデル:ウォラックも含め あらゆる倫理哲学研究者の誰も サンデルの嘘を指摘も出来なければ しようともしない

ましてやマルクス:ガブリエルに異論を唱えないなどというは論外 噴飯ものである

現状の哲学界が如何に「バカの集合知」なのかを認識せずに 真理もスッタクレもあったものではない

自分達の頭の悪さを認識せずに 「何が本当なのか わからないわ」などと言っているバカが多すぎる



知能の話をする時に 「あらゆる天才は過去の巨人の肩の上に乗ることで遠くを見渡せる」という話を持ち出すことが多いのだが そもそも誰が巨人なのかも区別認識出来ないバカしかいなければ 「ガリレオを火炙り」にしたり ナチスに反対した「ヴァルター:ベンヤミンをスイス山中で自決に追い込む」ことも珍しいことではない

ベンヤミンは 自らが破滅に陥ることを予測できたとしても ナチズムに反対することをやめることはなかっただろう

ナチス政権に迎合しないことは「人間力がなかった」からであろうか

マスコミや大衆は 多数人気を得る「人間力」が伴わなければ 言っている内容が論理的に正しいかどうかも判断出来ないし たとえ出来ても実際の行動や言動に移すことはない

逆に言えば ナチスに迎合して600万のユダヤ人を殺害することは さぞかし「人間力」に富んだ人物なのであろう



それはもはや 「バカの集合知」としか言いようがない



Ende;

ウェンデル:ウォラック

2019年07月04日 00時11分34秒 | 意識論関連
感情か理性か どちらが正しいのかという話ではない

一人のヒトの中には様々な感情があり 攻撃的で殺伐とした感情もあれば 寛容で優しい感情もあり これらは個人が置かれた状況によって環境依存的にコロコロ変化するものである

コロコロ環境依存的に変化する感情のままに行動が決定してしまっていれば それはもはやサルと違いはない

ヒトが人間性を発揮するために必要なのは その場限りの感情変化に流されることなく 統合的に自己の様々な感情を客観視することによって 人生全体における目的意識に基づき行動選択をする理性こそが人間性や倫理の源となるのである

自己の様々な感情を統合的に客観視するのは理性である

しかし ヒトはデフォルトで動物であるため サルと同様にその場限りの環境依存的な感情によって行動が決定しがちな習性があり その場の感情に流され何の合理性もない行動に陥りがちである

あらゆる倫理の欠如の原因とは 思考が短絡的であるが故に生ずるものである

原発の津波に対する脆弱性が放置されたのも 組織に対して服従迎合しないことへの恐怖心に因るものであり

東芝やオリンパスによる粉飾決算も同様である

組織に対する服従迎合というのは 先天的な統率協調習性(社会形成習性)が促す目先の感情であり 主観的感情という動物的条件反射的行動バイアスこそが 個人の自律的な社会的責任判断を放棄させる最も大きな要因である



ウェンデル:ウォラックは倫理を道徳に求めるが そもそも道徳は科学でも哲学でもなく 論理的根拠がそもそもない

論理的思考の苦手な文科系大衆観念者にとっては 「理性や人知を超越した叡智」などという実証不能のオカルト観念にこそ倫理が存在しているのではないかと勝手に勘違いすることも簡単であろうが それはお花畑ファンタジーに過ぎない



規範とは いうなれば正解である

しかし現状のニューラルネットワークAIによるディープラーニングというのは 予め大量の正解を与えておく必要があり そもそも何が正解なのかを学習段階でAIは自律的に判別することは出来ない

だからこそMicrosoftのTwitterAIはヘイトスピーチに同調したのである

SNS上の多数である差別発言を 「大量である」というだけで正解とみなすことで AIはヘイトスピーチこそが正解だと見なしたのである

倫理とは 集合知のような多数決で導き出されるものではなく あくまで「個人が自律的に社会的責任を負う」ことである

ウォラックはこの部分が考慮に入っていない

東京電力社内の「文化」や体質に迎合同調しておいて倫理もスッタクレもありはしない

これは東京電力社内に限ったことではなく あらゆる集団や体制においても言えることであって 「集合知」に倫理や知能が存在するといういう発想はウォラックも含め こうした話を鵜呑みにしている大多数のバカの根拠のない妄想錯覚に過ぎない

ヒトという種の生物に先天的人間性や倫理が組み込まれていて 論理的根拠もなく自動的自然に倫理が発揮されるかのような妄想を鵜呑みにしておいた方が気分的に安心で満足だからこそ 多くの大衆は「理性を超越した倫理」のような話を簡単に鵜呑みにしてしまい 論理的根拠に基づいた真理を見失うことに陥るのである



安心満足も「感情」である

目先の感情が促す思考停止によって 何が真理なのかを見失っているという事実を自覚認識していないから 「理性を超越」などというオカルト妄想とのどちらが正しいのかも判断出来なくなるのである



将棋棋士の羽生善治は 盤面から直感的に指し手の良し悪しを感じ取ることが出来るという

直感(主観)主義者はこうした特殊な例だけを根拠に直感的感覚こそが常に正解を導き出せるものだと言い張るが これはとんでもないこじつけである



野依良治のように物事を深く考えている人物の直感であれば 羽生善治の直感同様にある程度の信頼性もあるかも知れないが 女子受験生を一律減点したり 研修医を無給で働かせたりする大学職員の直感なんぞ何の信頼性もないのは言うまでもなかろう

相模原障害者施設やまゆり園虐殺事件の植松聖の野蛮行為も 植松の主観的感覚に依るものである

130年以上もの間に 誰も優生学に対する論理反証をしてこなかったのも これは一種の「集合知」によるバイアスである

70億のバカの集合知に 一体何の価値があると言えるであろうか

ヒトの多くは多数派に同調しておいた方が安心で満足であろう その安心満足という主観的感覚こそがヒトの頭の悪さの原因なのである



Ende;