「信念は嘘よりも危険な真理の敵である。(フリードリヒ:ニーチェ)」
信念とは何かと言えば 主観的に「信じたい事柄」のことであろう
テロリストや独裁国家において 度々間違った信念に基づいた暴走があったのは確かであるが
だがしかし ガリレオが火炙りにされかけながらも「それでも地球は回っている」と述べたことも信念に基づくものである
ニーチェは信念を観念的に忌避するあまり 個人の信念に論理的根拠があるのかどうかに関わらず 信念の全てを「真理の敵」だと決めつけたのである
これもまた ニーチェによる「論理的根拠のない信念」に過ぎない
ヴァルター:ベンヤミンが自らの命と引き換えにしてまでナチスに反対したことも信念である
それすらも「真理の敵」だと言えるであろうか
重要なのは 信念というものに客観性のある合理的根拠が伴うのかどうかであり 信念の全てを「真理の敵」だと決めつけることによって 誰も主体的に客観性のある合理的根拠についての検証を行わなくなることの方が 余程「真理の敵」である
主体的に客観性のある論理検証を行うには 信念とも言える探究心が必要である
何の信念も持たずに 何が正しいのか一切論理検証しない傍観者に真理など見えるわけがないのである
ゾロアスター教自体の「根拠のない信念」に気付かない頭の悪さの原因は 観念的猜疑心と 論理客観的批判精神の区別がつかないからである
信念とは何かと言えば 主観的に「信じたい事柄」のことであろう
テロリストや独裁国家において 度々間違った信念に基づいた暴走があったのは確かであるが
だがしかし ガリレオが火炙りにされかけながらも「それでも地球は回っている」と述べたことも信念に基づくものである
ニーチェは信念を観念的に忌避するあまり 個人の信念に論理的根拠があるのかどうかに関わらず 信念の全てを「真理の敵」だと決めつけたのである
これもまた ニーチェによる「論理的根拠のない信念」に過ぎない
ヴァルター:ベンヤミンが自らの命と引き換えにしてまでナチスに反対したことも信念である
それすらも「真理の敵」だと言えるであろうか
重要なのは 信念というものに客観性のある合理的根拠が伴うのかどうかであり 信念の全てを「真理の敵」だと決めつけることによって 誰も主体的に客観性のある合理的根拠についての検証を行わなくなることの方が 余程「真理の敵」である
主体的に客観性のある論理検証を行うには 信念とも言える探究心が必要である
何の信念も持たずに 何が正しいのか一切論理検証しない傍観者に真理など見えるわけがないのである
ゾロアスター教自体の「根拠のない信念」に気付かない頭の悪さの原因は 観念的猜疑心と 論理客観的批判精神の区別がつかないからである
「ニーチェを盲目的に信じている」という「信念」こそが ニーチェに対する批判精神を喪失し あたかも「自分は頭が良くなった」かのような錯覚に酔いしれているから 真理も何も見えなくなるのである
何が真理なのかを探求する信念のようなものも持たず その場限りに主観的気分が良くなるような話を盲目的に信じ込んでいれば ヒトの多くは満足である
それもまた ニヒリズム(思考停止)の一形態である
言われてみれば誰もが理解可能な話でありながら 言われるまで自発的に気付かない頭の悪さを認識すべきである
それはさぞかし主観的気分の悪い話であろうが その主観自体が自己選択不可能な先天的シーケンスに過ぎないのである
哲学というものは それによって主観的気分が良くなることが目的ではない
「主観的気分が良くなること」は 決して「論理的根拠に基づいた真理」ではないからだ
真理と主観的気分の区別がつかないというのは 自分の主観を絶対的なものだと錯覚していることを意味し もはや脳が壊れているとしか言いようがない
自分の主観を絶対的なものだと勘違いしていれば 600万のユダヤ人を毒ガスで殺害することも 原発の津波に対する脆弱性を放置することも簡単である
こうしたことのいちいちも 説明しないと気付かない頭の悪さは ヒトの先天的な思考バイアスに起因するものである
「主観的気分が良くなること」は 決して「論理的根拠に基づいた真理」ではないからだ
真理と主観的気分の区別がつかないというのは 自分の主観を絶対的なものだと錯覚していることを意味し もはや脳が壊れているとしか言いようがない
自分の主観を絶対的なものだと勘違いしていれば 600万のユダヤ人を毒ガスで殺害することも 原発の津波に対する脆弱性を放置することも簡単である
こうしたことのいちいちも 説明しないと気付かない頭の悪さは ヒトの先天的な思考バイアスに起因するものである
Ende;