書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

寝言。

2013年07月20日 16時29分57秒 | 意識論関連
○寝言。

「事故でも起きない限り目立つこともなく,事故が起きたら起きたで叩かれるインフラエンジニアによって,僕らの社会は支 えられている.」
https://mobile.twitter.com/efuwara/status/354523460220895232

 まず、「目立つかどうか」と、「事故が起きたら叩かれる」ことは無関係である。

 「普段目立っていれば事故が起きたときに叩かれても良い。」とでも言うのであろうか。

 それなら、「普段目立たないんだから、事故が起きても叩かれるいわれはない。」とでも言うのであろうか。

 efuwaraの言っていることは、最初から合理的根拠に欠けている。「目立つ」かどうかを基準にしている時点で、多数他人からの評価を基準にしており、こんなことを言っている時点で主体性やそれに伴う自律が欠如している証拠である。

 インフラストラクチャ公共事業は金額規模が大きいだけであって、インフラだけが社会を支えているわけではない。「インフラエンジニアだけが主導的に社会を支えている。」などという主張は身勝手傲慢に他ならない。

 「事故が起きたら起きたで。」などと他人事の様に言うのも当事者意識に欠けており、自律的な社会的責任意識の欠如によるものであり、もはや酔っ払いの寝言に過ぎない。

 こういった「寝言」を多数で共有して満足している「ヒト」の傲慢さこそが、様々な「人災」の原因でもあり。無意識性に他ならない。

 寝言を共有して気分的に安心満足するという「社会性」こそが、本能的な社会形成習性によるものであり。本能優先で論理検証性を放棄して多数迎合するからこそ「人災」に対する再発防止策を喪失するのである。

 こうした「酔っ払いの寝言」程大衆多数人気が得られるようで、やたらとリツイートされているようだが、こういうのを「大衆迎合」と言い、プラトンだの養老孟司の大衆人気と同根である。

 それを無意識洗脳だとすら認識していないからこそ、ヒトは「人災」に対する合理的対策を喪失し、暴走破綻を繰り返すのである。


○共感性。

 共感性というと、文科系大衆観念的には全面的に良いことであるかのように思われているようだが。ナチズムにせよオウム真理教にせよポルポト、ルワンダ虐殺、シエラレオネのゲリラなど、多くのヒトの集団組織的暴走の根源が共感によって作り出されているのである。

 共感というのは気分的安心満足に過ぎず、論理的安全性の保証は何もない。

 イジメなどの差別排除迫害というのも、結局は集団多数派の作り出す無意識な「空気」の共感共鳴によるものであり、多数共感しておけば個人の自律的選択判断責任が薄まるものであると勝手に錯覚しているからこそ、ヒトの大多数は共感共鳴に強迫観念的に執着し、誰も自律的に抑制することが出来ないからこそ「暴走」するのである。

 共感というのは気分的安心満足を得ることが出来るが、社会安全性とは全く無関係な身勝手な満足に他ならない。



○目立つ。

 目立つかどうかというのは、要するに人気があるかどうかということであろう。

 多数大衆から人気があって、ちやほやされて、金儲けが出来るだの、学力学歴が高いことこそが人間としての価値であると、文科系大衆観念的には評価されがちであるが。こうした観念には論理的根拠が全く伴わない。

 目立つこと自体を目的とするからこそ、通り魔やテロリストは事件の規模を自慢するのであり。目立つことを短絡的に価値だとする短絡的な文科系大衆観念こそが、無差別暴力の大きな一因ともなっているのである。

 マスコミは、やたらと芸能人へのバッシングに執着するが、「有名であること=目立つこと。」という観念が先にあるからこそ、必要以上に個人の私生活を暴露したがるのである。

 「有名であれば叩かれても仕方ない。」ことの論理的根拠は全くない。極めて俗な大衆観念に基づいているからこそ、特定個人を攻撃バッシングして安心満足するだけで、個人のプライバシー侵害を正当化するばかりで、本質的な社会安全性についての考えが全く伴わないのである。

 多数大衆に目立つかどうかに関わらず、個人が自律的に社会的責任を負うことで、社会というのは支えられているのであって、特定のインフラエンジニアだけで社会を支えているわけでも、芸能人のバッシングで社会安全性が確立されるわけでもない。

 自分の観念感覚の全てが常に正しいと思っているとすれば、もはやキチガイとしか形容し難い。自分の言っていることに論理的根拠があるのかどうか、単なる気分感情的安心満足のための観念に過ぎないのか、それを自律的に検証することをしないから「意識が低い。」というのである。

 多数評価だの報酬に関わらず、個人が自分の行動判断責任を自律的に採ることで、社会安全性というのは確立されるのであって。「目立つ」だの「起きたら起きたで。」などと無責任な論拠で「自分だけが社会を支えている。」などという傲慢な観念をぶちまけているからこそ、あらゆる「人災」に対する論理的対策を喪失するのである。

 それらは多数派に属し、「普通」で安心なのであろう。しかしそれは「正常」で安全であることの論証には全くならない。

 ヒトの多くは自分の気分が良くなる観念にすがり、問題の本質を見失って満足する習性がある。こうした無意識な盲目性こそが洗脳暴走を引き起こすことを。ヒトの多くは問題だとすら「思って」いない。



 多数派であることは普通であるとは言えるであろうが、普通であることが正常であることの証明には全くならない。

 アイヒマン実験に多くのヒトが引っ掛かるからといって、無為に多数派や権威の命令に服従することが人間の行動選択として「正しい。」「正常」ということにはならないからだ。

 言い換えれば、「ヒトの多くはバカだから、バカであることが正常だ。」などという支離滅裂な数理など語るに足らない。



○論理検証性について。

 論理的な話を理解してくれない人というのがいるけど、こういう人っていうのは自発的に論理検証をしたことがなくて、論理的な話に「慣れて」いないのが原因なのではないかと思われる。

 試験における論理検証性の成績というものは、成績という「エサ」(・抽象化された報酬)に対する機械的条件反射によって思考しているだけなので。どんなに試験成績が高くても、自律的な論理検証を行うわけではないばかりか、むしろエサ報酬の確約されていない事柄については自発的には何も考えないのである。

 重要なのは自律的であることであって、単なる試験成績が高いだけでは本質的な知能としての論理検証性にはならない。

 与えられた問題の中身だけを論理検証していても、それは「その問題を解けば評価や優越感が得られる。」という快楽欲しさのための環境依存的な条件反射思考に過ぎず。どんなに難解な問題で成績が良くても、自分の行動責任に関わる事柄において常に自律的論理検証判断をすることの証明には全くならない。

 難解なミステリー犯罪小説を解くことが出来たとしても、現実の犯罪の原因について論理的に分析して再発防止策を発見出来るわけではないのと同じことである。

 東電やオウム真理教内部にも高い学力成績の者は多数存在したにも関わらず、誰も自発的には自分達の行動を検証しなかったのも、そのためである。

 すなはち、「特定基準の成績=本質的知能」であるという論理的根拠のない文科系大衆観念こそが、あらゆる組織的洗脳暴走状態の根源に存在していると言える。



 厄介なのは、既に「学力成績=本質的知能」という文科系大衆観念に基づいて学力成績に強迫観念的に執着してきた者というのは、それまで自発的自律的に何も本質的な知能について何も検証してこなかった愚かさを認識することを拒絶する性質があり。何が何でも特定成績さえ高ければ「頭が良い。」ことにしておこうとする点である。

 芸人の宇治原なんとか君が「俺は頭が良いんじゃぁ。」とヒステリックに怒鳴り散らしたことがあるが、これこそが「頭の悪さ」に由来する拒絶反応に他ならない。

 クイズや学力試験の成績がどんなに高くても、誰の言っていることが間違いなのかを自律的に論理検証し、何が正しいのかを判断出来ないことには本質的な知能としての価値は存在しない。

 これは一級建築士免許においても、弁護士免許においても、あらゆる試験免許において言えることでもあり。免許検定というものは自律的な責任判断の証明にも本質的知能の論証にも全くならない。



 「目立つ」かどうかを基準に、「俺が社会を支えているんじゃぁ。」などと言っている時点で、既に自律の欠落を証明しているようなものであり、こういった傲慢極まりない自律のないバカが社会を破綻に陥れていると言えるのである。


○生かされている。

 文科系大衆観念的には、「自分は社会から生かされている。」などと言っておけばウケが良いのであろうが。

 「生存」自体を意義とするのであれば、振り込め詐欺師が仲間から「生かされている。」と述べているのと同義であろう。

 自律的な社会的責任判断を下すためには、場合によっては生存に適さない行動を採らざるを得ない場面というのも存在するのであって。「生存」自体を絶対的価値として扱っている限り、人間としての自律的な社会的責任判断にはつながらない。

 文科系観念者であれば、論理的合理性などパスして大衆の脳を撹乱するような観念を枚挙しておけば安心満足なのであろうが。「生かされている。」ことが絶対的価値だと言っている時点で自律が根本的に欠落していることを証明しているのである。

 ヒトは必ず死ぬ。ヒトの死亡率は100%である。

 単に生きながらえることだけを絶対価値であると言い張るのであれば、権威多数派に迎合して社会の破綻暴走に加担しておくことも正当化可能であろう。それでも「自分は社会に生かされている。」だの「生きるためには。」などと言い張るのであれば、これこそがヒトという種の生物における自律的な社会的責任判断の欠落の最大要因に他ならない。

 多数派に迎合せず、多数派が認定する権威を批判すれば、社会的には不利な立場に陥ることは必定である。

 多数派がバカであれば、バカに迎合しておいた方が社会的には有利なのも必然である。

 自分から自発的に「生きて」いない者でなければ、自律的に不利な立場を選択することも出来ない。従って「社会から生かされている。」などと言っている時点で、主体的自律が欠落していることの証明でもあるのだ。

 それが社会的には無責任でもあることを、多くの文科系大衆は認識していない。




 efuwaraにせよ、養老孟司にせよ、重要なのは彼ら特定個人を非難しバッシングすることではない。彼らのような文科系大衆観念に意識を奪われ自律的な論理検証性を喪失するという性質習性は、あらゆる「ヒト」に存在する危険性であることを認識し、一人一人が自分自身の行動判断責任を持つ意識が必要なのである。

 ヒトは間違える。間違えることを前提として、どうしたら間違いを繰り返さないように出来るのか、その対策を具体的/論理的に立てることであって。特定個人を非難中傷して満足することもまた文科系大衆観念に他ならず、問題の本質を見失う原因ともなるのである。

Ende;
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自閉症スペクトル。

2013年07月15日 20時17分37秒 | 意識論関連
○自閉症スペクトラム。

 自閉症スペクトラムを理由にイジメを受けるからといって、イジメられる方に問題があるかの如く論ずるのは、明らかに問題の焦点がズレている。

 個人差を受け入れられずにイジメをしてしまう多数派の異常性の方を問題にすべきである。

 安心して差別迫害をしてしまう多数派を、多数派であると言うだけで「正常」として扱うのは間違いだからである。

 空気を読んで、統率協調的に差別迫害をする「普通のヒト。」の危険性については、心理学者も脳神経科学者も問題として扱わないが。原発の危険性が放置されたのも「普通のヒト。」が持つ危険性こそが原因であり、少数派を「治療」と称して矯正することばかりに囚われているのはとんでもない間違いである。




 EMDR治療法の副作用ってないのかね。自分の痛みを分からなくさせてしまうと、他人の痛みも分からなくなる危険性があるのではないかと、おいらは思う。

 ナチス総統のアドルフ:ヒトラーも、戦場での後遺症治療と称して催眠療法を行った結果、ナチズムに傾倒したとも言われており。その場限りに多数派に合わせて「治療」することは、問題の本質を撹乱するだけである。そもそもヒトラーに従属した多数のヒトの無意識性こそが、ナチズムという洗脳状態を作り出したのであって、ヒトラー個人がキチガイなだけならナチズムなんぞ作られることはないのである。

 個人差を許容出来ずに、多数派で統率協調的に差別迫害を行う多数派の「普通のヒト」の異常性の方を問題とし、これを「治療」対策しないことには、あらゆる「人災」は構造原理的に治らない。

 少数派の「変わったヒト。」に対して観念的不安を抱き、差別排除することで安心したがる多数派の「普通のヒト。」の異常性こそが、あらゆる「人災」の根源にあるからである。


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 自分が虐待を連鎖していることに気付き、自己嫌悪に陥るのは間違いである。

 親から受けた虐待を認識し、自分の行為を客観視出来ているからこそ、虐待の連鎖を止めることが可能なのであって。気分的に凹んだり、憂鬱になる必要性は全くない。

 後天的に刷り込み学習されてしまった無意識な行動バイアスは本質的な個人の「人格」ではない。無意識に虐待を連鎖していた方が自己嫌悪などに陥ることもなく、当然それを止める意志も働かないことの方が、むしろ「人格」異常なのであって、無意識な行動バイアス/既存の自己の無意識な傾向性を客観的に認識することこそが、人間としての本質的「人格」の基礎となるのである。

 最も悪いのは、「どうせ自分は悪い人間だ。」などと称して自分の行動バイアスに無意識に流されることに抗うことを放棄することである。こうした身勝手な「決め付け」をしておけば大脳辺縁系は気分的に安心満足して、無意識な行動バイアスに流されることに何の疑問も持たずに済むであろう。それこそが人間性としての「人格」を放棄することなのである。


Ende;
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本音や建前。

2013年07月15日 20時15分22秒 | 意識論関連
○本音と建前。

 本音とは何か。

 本音の対義語は建前であるが、建前とは多数派迎合上の外見的偽善性をも含むものであるから、本音には偽善性が排除されていると言えるであろうか。

 残念ながら、本音というのは飲み屋の酔っ払い同士が多数派迎合するためのものであって、偽善ではないかも知れないが、善でもなく。むしろ悪辣性をも含むものである。

 それなら善というものは存在しないのであろうか。

 善が存在しないのであれば、悪も存在しないことになるのだが、そういうことには実際にはなっていないので、善は存在し得るのである。

 本音と建前というもの自体は、ヒトの本質の全てを網羅しているわけではなく、本音と建前のどちらにも善が含まれていなくても構わないのである。



 本音や建前といったものは、ヒトの一面的な感情論に過ぎず、大脳辺縁系が促す無意識な思考バイアスであるが故に、本音や建前には善性が抽出出来ないのである。

 善性とは、本音や建前といった文科系大衆観念からは抽出出来ないものであり、善性とは観念を排除した論理検証によってのみ抽出可能なものなのである。

 本音や建前をどんなにたくさん並べても、それらは文科系大衆観念である以上。善性が抽出出来ないのは必然的結果なのである。

 文科系大衆固定観念に基づいた議論をどんなに重ねても、ヒトという種の生物が持つ異常性や危険性といった悪の性質を議論することは構造原理的に出来ないのである。

 酒で脳を麻痺させて、文科系観念を共有していれば合理性が失われるのは当然の結果である。

 プラトンなんぞを哲学だと思っている奴は、哲学者としてポンコツである。そんなに論理検証するのが嫌なら、哲学研究者なんぞ辞めれば良いのである。

Ende;
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宮崎駿。

2013年07月15日 20時13分42秒 | 意識論関連
○耳をすませば。

 「他人と違う生き方は、それなりに厳しい。誰のせいにも出来ないから。」

 これは嘘である。「他人と同じ生き方をしていれば、誰かのせいに出来る。」ということにはならないからだ。たとえ誰かのせいに出来たとして、それで安易に誰かが責任をとってくれる訳でも何でもない。

 どのような生き方をするにせよ、自分の行動は全て自分で責任を負わなければならないし、他人と同じ生き方を選んだからといって厳しくないわけでもない。

 そもそも「他人と同じ生き方。」などという選択肢がどこかに厳然と存在していると言えるであろうか。

 「他人と同じ生き方。」さえしておけば、どこかの誰かが自分の行動責任を全てとってくれるものであるという錯覚こそがこうした文科系大衆観念の本質であり。これは同時に社会的「甘え」でもある。

 宮崎駿が有名だからといって、特別に意味のあるセリフを考えているとは限らないことを、多くのヒトは認識しないことの証明でもある。



 東電の原発安全担当者は「他人と同じ生き方」だと言えるだろうか。

 高速バスの運転手は「他人と同じ生き方」であろうか。

 一体この世のどこに「他人と同じ生き方」などというものが存在すると言うのであろう。

 この世界のどこに「他人のせいにしてよい生き方」などというものが存在するのであろうか。

 そんな無責任な嘘を鵜呑みにしているからこそ、無責任な「人災」は繰り返すのである。

 宮崎駿がどんなに世間的に成功していようとも、所詮は文科系芸術家に過ぎず、言っている内容に責任など存在しないのである。



 皆と同じように酒で脳を麻痺させて、下らない観念を共有することで安心満足することに社会的存在価値など存在しない。

 プラトンも所詮は飲み屋の酔っ払い同士の観念共有に過ぎないことを、哲学者達は誰も指摘することはない。

 だからこそヒトのほとんどは問題の本質を認識出来ないのである。


Ende;
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本質的な「和」とは。

2013年07月15日 20時11分46秒 | 意識論関連
○和を乱す。

 タレント人気っていうのも、結局はテレビでの露出量の方が影響大きいようで、どんなにかわいくても面白くてもテレビでの露出が減ると忘れられちゃうようで、篠原ともえも最近再発掘されて人気が出てきているようだ。

 そもそもメディア人気がどんなにあっても、社会持続可能性とか安全性とは無関係なその場限りの流行に過ぎず。メディア人気で世間的に成功して金持ちになっても人間として「偉い」わけではない。

 多数大衆から人気があると、あたかも幸福であるかのように外見上「見える」のかも知れないが、大衆人気があるが故にプライベートを根掘り葉掘りいじられたりすることもあるので、決して幸福とは限らない。

 元モー娘。の知真理が何かやらかして干されたみたいだけど、テレビの露出が多くて人気があっても個人の精神的充実とは無関係だからこそ、変なことをやらかしたりするんじゃないかと、おいらは思う。

 そういや槇原敬之も違法薬物で捕まったりしてたし。

 どんなに多数大衆からの人気を獲得しても、個人の幸福とは無関係なだけでなく、人間としての価値の証明にはならない。

 多数派に迎合せずに自律的な社会的責任として内部告発をしても、日本においては「和を乱す不届き者。」として排除差別の対象になることも少なくない。

 「法律手続きさえ守らせておけば法治国家だ。」などという権力迎合観念を平気で言うバカも少なくないが。自律的な論理検証性に基づかない観念は「個人の意見」としての体も為していないのである。

 「何も考えずに権力にお任せしておけば気分的に安心だ。」などという話のどこに個人の主体性が存在するであろうか。法律統治だけを論ずるのであれば、戦前の日本も現在の北朝鮮であっても法律統治にはなっているのであり。むしろ統治の法律手続き自体にに何の疑問も批判も持たない国民の無為無策こそが社会を崩壊へと導くのである。

 制度手続き上民主主義や法律統治を導入していても、国民個人に自律的判断力がなければ社会は崩壊へと暴走するのである。

 ヒトという種の生物は、「上(親/権威)」に服従し、多数派に迎合することで本能的に安心満足する性質がある。その気分的安心というものを論理的安全性と錯覚しているからこそ、あらゆる「人災」は一向に減らないのである。

 原発の暴走には違法性など介在しておらず、法律統治自体は社会安全性の保証には全くならない。法律自体が間違っているのであれば、これは現状の法律自体への疑問や批判を持つ必要性があり、そのためには国民個人が論理検証するという「自律」性が必要不可欠なのである。



Ende;
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いつ気付くか。

2013年07月15日 20時06分54秒 | 意識論関連
○何でも飲み込める。

 進学塾講師の林修が言うには、「何でも食べられる子供は良い子供。」なんだそうだ。

 食べ物の好き嫌いがなければ自律的な社会的責任判断を下す論証になるのかね。東電幹部や原発安全担当者は好き嫌いが激しかったとか、不正を内部告発をする人が好き嫌いがなかったとか、そういう数理統計的根拠でもあるんでしょうかね。

 カリスマ講師だとか言っても、所詮は進学ビジネスの金儲けが上手いだけであって。入学試験に合格させる学力をつけさせる能力が高いだけであり、人間としての自律的な社会的責任判断力を身につけさせるわけではない。

 そりゃ親大人にとって従順で取り扱い易い子供なら、学力成績も高くて入学試験に合格する確率は高いんでしょうよ。でもどんなに有名な大学や企業に合格してからといっても、人間としての社会的責任を負う論証には全くならない。

 所詮は一発ギャグが受けてテレビの露出が増えたことで視聴率を稼げるからマスコミが「カリスマ」扱いしているだけであって。マスコミも含めて林修も「人間としての本質的価値」についての考えに基づいているわけではない。

 ヒトを騙そうとするペテン師にとって、何でも鵜呑みにしてくれる大衆マスコミは、まさに「何でも飲み込んでくれる。」ので便利なのであろう。マスコミというのは視聴率評価されることだけが目的になっており、出演者がどんなに無責任でも、発言責任は全て出演者に丸投げしているのが現在のマスコミというものである。

 そもそも林修は、自分がなぜ20代にギャンブルにハマったのかについての検証を全くしておらず、何ら再発防止策を全く持っていない。

 「何でも食べられるように育てました。」という母親の言葉に「感動」して、気分が良くなったことを短絡的に「良い子供」と判定する短絡性/文科系大衆観念こそが論理的再発防止策を喪失させるのであり。こうした短絡性こそがギャンブルにハマった要因であることを、林は認識していない。

 進学ビジネスというのは、生徒を入学試験に合格させるために洗脳することが目的であって、人間として自律的に社会的責任判断を下せるように育てることが目的ではない。

 進学だの就職だの出世、世間的成功といった短絡的文科系大衆観念に基づいた価値観こそが、「目先の効用」の追求であり、こうした意識狭窄性こそが社会を崩壊へと導いたことを、ヒトの多くは認識しておらず、故に「人災」が減らないのは必然的結果というものである。

 林修も薄っぺらだが、こうした薄っぺらさというのは世間一般に蔓延しているからこそ、中身のある話が蔑ろにされるのである。

 そもそも「生存戦略」などという論理的根拠のない観念を、科学的論証として扱っている生物学を放置しておいて、一体なにが「責任ある判断」であろう。そんなものはバカの寝言としか形容し難い。

Ende;
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社会を支えている。

2013年07月14日 15時51分40秒 | 意識論関連
○社会を支えている。

 安全性を保証出来ないインフラなんぞ、「社会を支えている。」ことにはならん。

 自分の金儲けのためにインフラに関わっておいて、安全性が担保出来ないというのは「甘え」以外の何物でもない。

 安全性が保証出来ない技術であれば、金儲けのための地位や権益を放棄してでも社会安全性を優先するのが「人間」というものである。

 金儲けや権益を優先して無責任に危険なインフラ整備に関わっていても、それは「社会を支えて。」などおらず、むしろ「社会を崩壊へと導いている。」だけである。

 「社会がインフラを求めている。」などというのも嘘である。社会が求めているのは安全性が確保されたインフラであって、技術関係者の金儲けのためのインフラではなく、明らかに責任のたらい回しのための言い逃れ/取り繕いに他ならない。

 本当に社会を根底から支えているのは農林水産業であって、インフラストラクチャなどの工業技術ではない。自分で「俺は社会を支えている。」などと言い出している時点で、既にオカルト観念に冒されたキチガイである。それは「人類の救済。」と称して破壊活動を正当化したキチガイ集団と、精神構造的には全く同じものだからだ。

 この種のキチガイは、どうせ「そう思わなきゃ、やってられない。」などと養老孟司みたいなことを言い出すに決まっている。こうした「居酒屋の酔っ払い。」的観念というのはプラトンが源であり、プラトンを哲学と分類し続けている現在の哲学界の無責任性についても批判すべきである。

 プラトンにせよ、養老孟司にせよ、これらは論理整合性のない「飲み屋の酔っ払いの戯言。」に対して、バカな文科系大衆が気分的同調によって安心満足を与えることで、論理検証性をヒトから奪う無意識行動バイアス/洗脳に他ならない。

 酒を呑むということは、要するに脳を麻痺させているということであり。酒を呑んで多数派同調するようなバカげた話を学術的「哲学」と分類しているなどというのは、もはや社会的犯罪である。

 気分的な「本音」をどんなに主張しても、それは社会的には糞の役にも立たない身勝手な文科系大衆観念的思い込みに過ぎず。思考停止の快楽を促す洗脳にしかならない。洗脳は気分的安心によって暴走しか生み出さず、社会を破壊へと導くものであることを、哲学界は全く認識していないのである。

 これはバカという以外に形容することが出来ない。



 教育というものは企業経営にとって便利なバカを育てることではなく、そもそも企業というものは利益を追求を目的とするものでもない。

 企業というものが社会的存在であることと同様、企業に勤める人もまた社会にとって有益でなければ存在価値など存在しないのであり。東京電力で企業利益を優先して原発の危険性を放置するようなバカを育てることは教育としての社会的役割を果たしていない。

 日本人に自律がないことと、起業精神の欠落には、同じ「個人の主体性の欠落」という風土文化固定観念が関わっており、これが社会の問題意識を阻害していると言える。

 社会問題が社会問題足りうる所以とは、その問題を解決することが出来ず、暴走を許してしまっているからであり。こうした暴走性というものは、無意識な固定観念/風土文化に対する強迫観念的恐怖心によって、個人の自律的判断というものを喪失させているのである。

 日本人の多くは「権威に服従しない社会は崩壊する。」などという観念を、勝手に論理的根拠もなく鵜呑みにしてしまうようだが。原発の暴走を許したのは東京電力という巨大企業の権威性に他ならず、論理的に社会を崩壊させる最も根源的原因というのは、「個人が自律的に社会的責任判断を行わないこと。」なのである。

 権威に服従しておけば、大衆の多くは自分では何も検証せず、それは同時に責任も負わずに済むので、気分的に安心して満足していられるであろう。こうした先天的思考バイアスこそが、ヒトから自律を喪失させるのである。

 無意識に先天的思考バイアスに従っておいた方が、気分的には安心満足であろうが。これこそが本質的な意識である自律的論理的検証性を喪失させるメカニズムなのである。

 科学哲学者のカール:ライムンド:ポパーが、「プラトンの呪文。」を批判したのも、それが論理的根拠のない実証不能の観念であり、ヒトから自律判断力を喪失させる危険思想であるからに他ならない。

 一説には、学術論文への引用回数のトップ3にプラトンが入っているとの話であるが。引用回数などというのは「多数人気」の証明でこそあれ、プラトンの言っていることが論理的に正しいことの論証には全くならず。むしろ論文を書いている研究者の多くが自律的に論理検証も出来ない単なるオカルトキチガイに過ぎないことを証明してしまっているのである。

 全ての人類、或は多くの人類に自律的論理検証性を身につけさせることは難しいかも知れないが、難しいからやらないで済む話ではない。「難しい」というのは「実現不可能性の論証」ではなく、単なる主観的感想に過ぎない。そもそも難しいことに挑戦してこその学術研究者であり、何かにつけて「難しい」などと言い出すのは研究者としての「甘え」に他ならない。

 個人が経済取引を行う場合に、社会的責任判断を行わない傾向性は実在するが。これこそが意識の低さに由来する無責任性であって、自由市場経済であっても、取引を行う個人に社会的利益への意識が働いていれば、単なる金額的利益だけを追求することにはならないのである。

 ヒト自身が自らの先天的本能習性から自由でない以上、本質的な自由経済自体も成立しないのは必然的結果である。





Ende;
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設計製造ソリューション展。

2013年07月05日 15時58分38秒 | 日記
○設計製造ソリューション展。

 「3Dプリンター」の通称で何かとマスコミで取り上げ始めた造形機だけど、試作業界では「RP:RapidPrototypeing」の一種として扱われている。

 RPっていうのは必ずしもプラスチック材料だけではなくて、金属の粉末を熱線レーザーで溶かし固める方式や、宝飾関係で用いられているロストワックス用材料で出力したり、金属鋳造の砂型を3Dプリンターで出力するものなど多種多様。

 最近急激に機械の価格が下がったのはFDM(熱溶解積層)方式のもので、これはプラスチックの細いケーブルを熱で溶かしながら水平方向に塗り付けて立体物を作り出す方式で。最近では10万円台の機械もあちこちから発売されているらしい。

 3Dプリンターの話をするためには、先ず「サポート材」についての知識を知っておいた方が良いと思うので、簡単に説明しておこうと思う。


 §:サポートについて。

 3Dプリンターでは、「ステージ」と呼ばれる土台から造形物を生やしながら造形出力を行うのですが。ところが造形データによっては出力過程で空中に出力しなければならない場合や、ステージから生やす形状であっても横方向に大きく張り出した形状の場合には、重力から支え切れずに形が崩れてしまうケースが生じることがある。

 そこで「ステージ」から予め細い柱を立てて支えたり、後で造形物から剥がせる別の素材(専用サポート材)を枕にする方式の2種類があって。これらを一括して「サポート」と呼びます。

 造形物と同じ素材で細い柱を立てる場合、どんなに柱を細くしても造形物本体にサポートの跡が残ることになり。形状によっては取り除くことが出来なくなる場合もあるので、この方式の場合はどんな形でも作り出せるとは限りません。

 しかし、専用サポート材を用いて枕状の土台を同時に造形する方式の場合、造形物本体を空中に作り出すのと同じように出力出来るため。造形物の形状にはほとんど制限がありません。


 造形物と同じ素材でサポートを形成する方式については、デジモデが参考になると思います。
http://digimode.jp/contents/info/oyakusoku/
http://digimode.jp/contents/recipe/modeling_with_support/

 専用サポート材料は大別すると、剥離応力だけで剥がすタイプのものと、水や溶剤を用いて溶かすタイプの2種類があって。剥離応力だけで引き剥がすタイプの場合は中空構造を作り出すことが原理的に出来ませんが、溶剤を用いるタイプでは中空入れ子構造などの複雑な構造も作り出すことが可能となります。

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○デジモデ デジモデは今回の展示会には出展していなかったんだけど、3Dプリンターサービスの話では外せないと思う。
http://digimode.jp/contents/

ヤフー検索の方がいいかな。デジモデの「コウサクスキー」氏はつぶやきサイトやアメブロのアカウントもある。
http://search.yahoo.co.jp/search?fr=top_table&tid=top_table&ei=UTF-8&p=%E3%83%87%E3%82%B8%E3%83%A2%E3%83%87&search.x=0&search.y=0

envisionTEC Perfactory 4 × 織部
http://digimode.jp/contents/menu/oribe/about_oribe/

○鈴峯 デジモデの主力機種envisionTEC Perfactory 4は鈴峯で取り扱っていて、ブースにあった出力サンプルはデジモデで作ったものが並んでいた。
http://www.suzuho.com/

 EnvisionTEC Perfactry 4という造形機はレーザーではなくプロジェクタで投影して樹脂を固める方式なので、精細度を上げると造型サイズも小さくなってしまう性質があり。あまり大きなものは出力出来ない。


○キーエンス アジリスタ造形機は積層ピッチ15μmって書いてあるけど、意外と凸凹した仕上がりで模型用としては向いていないと思う。
http://www.agilista.jp/
 キーエンスのアジリスタはインクジェット方式で専用サポート材を用いるタイプ。

http://www.agilista.jp/study/system.html
 3Dプリンターの方式種類について詳しく載ってる。


○D-MEC ACCULAS BA-30

 有限会社桜企画さんがACCULASの古いモデルを導入しているそうで、むしろ最新のBA-30よか精度が高過ぎて、あまりに造形単価が高すぎるので少し精度を落としたモデルを出したんだそうだ。

 積層ピッチ自体はもっと細かい造形機を出しているメーカーもあるんだけど、水平解像度ならD-MecのACUULASが最も細かいようだ。積層の横縞模様も全く見えず意匠性も高いんだけど、何せ時間がかかるので出力単価も高くなるとのこと。ある程度生産数があると単価は割安になるとは言っていた。

 液槽の中に沈めながら造型する方式なので、サポートを必要とする形状の出力は難しいかも。

 D-MEC 造形サービス
http://www.d-mec.co.jp/modeling/index.html



○OPT
http://www.opt-techno.com/3dprinter/
 今回OPTのブースは3Dプリンター/ラピッドプロトタイピングゾーンになかったので行きそこねたけど、サイト上ではチョコレート3Dプリンターとかあったらしい。
http://www.opt-techno.com/opt_choc/
 若干仕上げが粗すぎて立体物としては微妙。当然サポート材はない。


○田邊研電 Solidscape
http://www.tanabekenden.co.jp/jpn_jewelry_top.html
 田邊研電は主にアクセサリー宝飾関係でのロストワックス造形ソリューションを提供しているの会社なので、取り扱っているSolidscapeの造形機はロストワックス造形しか出来ないモデルになる。

 ただ、ロストワックス専用ではあるんだけど、専用サポート材を用いる形式になるため、CADデータの作成に制限が少ないのが特徴。

 物凄いちっちゃな仏像とか展示してたけど、最高解像度で造型するとかなりキレイに仕上がるようだ。残念ながら写真は撮影許可がおりなかった。


○SEAFORCE DWS

 SEAFOCEさんもアクセサリー宝飾がメインらしいんだけど、DWSの造形機は強度の高いアクリル系材料でも出力出来るので、電子コネクターなどの工業系でも使われているらしい。

 ただ、DWSの造形機は田邊研電のSolidscapeと異なり、専用サポート材を用いない形式になるので、後加工が必要になったり形状の制限もありそう。でも仕上がりはSolidscapeとくらべても遜色ない。
http://www.seaforce.co.jp/

 DWS
http://www.digitalwax.asia/dwstop.html

 SEAFORCEでは造型サービスもやっている
http://www.kakounet.com/


○ASPECT ナイロンや金属の粉末をレーザーで溶かし固める方式の造型機を製造している。
http://www.aspect-rp.co.jp/
 自社で造形サービスもやっているけど、多分都立産業技術研究センターの方が安いと思う。
http://www.aspect-rp.co.jp/service1.htm

 都立産業技術研究センターはまだ金属粉体造型はやっていないようだ。
http://www.iri-tokyo.jp/seihin/kiki/ichiran/17-sekkei.html
 都立産業技術研究センターには3種類の3Dプリンターがあって、あちこちバラバラに配備されている。具体的にどういった機械なのかという情報がほとんど全く載っていないので厄介。

 粉体造型はサポートがなくても空中(粉中?)に造型出来るので、形状制限が比較的少ない。


○NTTデータエンジニアリングではEOSINT FORMIGA(独)の造型機を用いたサービスを展開している。
http://www.nttd-es.co.jp/

EOSINT(独)製の造型機紹介ページ
http://www.nttd-es.co.jp/services/am/eosintformiga/usage.html


 ◇:金属粉体焼結造型には、レーザー以外にもEBM(電子ビーム)方式っていうのもある。
http://search.yahoo.co.jp/search?p=EBM%E9%80%A0%E5%BD%A2&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=top_table&x=wrt
EBM造形Yahoo!検索


○丸紅情報システムズ株式会社 Stratasys(米)はFDM(熱溶解積層)方式のモデルと、Plyjet(インクジェット)方式の二種類の機械を取り扱っている。
http://www.marubeni-sys.com/modeling/
 サイト上ではStratasysは世界最大の3Dプリンターメーカーだって書いてあった。


○3DSystems(米)の造型方式は多彩。最近ではフランスの金属焼結造型機メーカーPhenix Systemsを買収。確かイスラエルのObjetもこの会社の傘下だったような。
http://www.3dsystems.co.jp/products/index.html

 さすがにオバマ米政府がテコ入れしているだけあって、アメリカ製3Dプリンターは種類も豊富です。

 ◇追記:ObjetはStratasysだった。



 ◇:Web上をさまよっていたらメーカー名一覧を入手したので掲載しておきます。

○光硬化樹脂造型方式 *注:大まかな分類なので、必ずしもこの方式の機械しか作っていないわけではないです。
SLA :米
CMET(帝人精機) Nabtescoグループ 三菱商事
SONY SCS D-MECで扱っているマシンがSONY製という噂が。昔のモデルには「SONY」のロゴがある。
F&S :独
上海交通大学 :中
デンケン 大分県アウストラーダ社扱い
メイコー
ウシオ/ユニラピット http://unirapid.com/
アウストラーダ
中部日本工業
Envision TEC :独
Objet :イスラエル http://jp.objet.com/はStratasysのサイトに飛ぶ
Stratasys :米
Solidscape :米 http://www.rhinojewelry.jp/zokei/html/solidscape.htm松村金銀店
Sanders DI :米
Beijing Yinhua :中
Optomec :米 金属焼結造型機の話が多かった
POM Group :米 http://www.pomgroup.com/何だか要領を得ないサイト
Albrecht-Roeders :独

○粉体焼結
3D Systems :米
EOS EOSINT :独
Trumpf :独
F&S :米
Phenix Systems :仏 http://www.cadjapan.com/news/2013/d20130618_02.html 3DSystemsに買収
Concept Laser :独 http://www.concept-laser.de/en/industry/jewellery.html サンプル画像をクリックすると拡大される
ARCAM EBM :スェーデン
Wuhan Binhu :中
松浦機械 http://www.matsuura.co.jp/japan/
アスペクト

○粉末固着
Z Corp :米
Extrudehone :米

 3Dプリンターに限らず、こういった製品のサイトを見るとメーカー名なのか製品名なのかがわからなくて困惑することが多いので。できればメーカー名には「○○社(国名)製」とか書いておいてもらうと判りやすいと思う。


 Web上をオランダ人のようにさ迷っていたら、こんな記事も発見。コメントも含めて参考にはなると思う。
http://www.gizmodo.jp/a/2013/05/3d_74.html?r=search.yahoo.co.jp


//------その他いろいろと見てきた。


○守田光学

 守田光学って会社がライトパイプっていう光学ガラスの棒を展示していたんだけど、最大20cmで価格は\25,000-程度で買えるとの話でした。出展していたのは円柱や四角柱、六角柱だったけど、正三角柱も作れるそうなので、万華鏡のミラーボックスの代替として使えると思う。

 一般的に万華鏡に用いられる表面鏡のミラーボックスっていうのは、光量損失が数%あるので、視界の周囲が暗くなる性質があるけど。ガラスの塊のライトパイプでは臨界全反射するので、ガラス自体の透明度損失しか影響しない。

 まぁ、これは万華鏡作家さんに実際に現物を見てもらうしか伝わらないかな。

Fig:

守田光学
http://www.moritaop.co.jp/

//------

○ MIKURO SPRING CO.,LTD

 ミクロスプリングは社名の通り物凄い小さなバネを製造している。バネになった状態で既に極細のものは、素となる線材はもはやおいらの肉眼では見えない。(*_*)

 ブースにバネ製造機械(コイリング・フォーミングマシーン)を持ち込んで実際に針金からバネを製造している所も展示していたんだけど、その機械の動作があまりに細かくて、極細針金がまたたく間に複雑なバネに加工されてゆく様が、何とも律儀で。まるでピタゴラスイッチのポキポキアニメみたいで思わずワロてしまた。

 ちなみに社名の「ミクロ」は「MICRO」ではなくて「MIKURO」。

 MIKURO SPRINGCO.,LTD
http://www.mikuro-spring.com/

 ◇:ちなみに大田区の方にはMicroSpringっていう会社もあって、「ミクロスプリング」で検索するとこっちが先に出て来る。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~microspring/

//------

○株式会社サイトウ製作所

 小さいと言えば、ドリルの物凄い小さいのもあった。太さΦ0.03㎜っつうから髪の毛よか細いドリルで、もはやボール盤では使うことが出来ず、精密なマシニングセンタでしか使えないとのことでした。

 太さΦ0.03㎜ともなると、直接いきなり深い穴をあけるわけにもいかず、段階的に長さの異なるドリルを使い分けて穴をあけたりするらしい。

http://www.atom21.co.jp/

 精密電子制御スライドステージとスピンドルを組み合わせて専用ボール盤をこさえたら需要があるのかな。まあ、ないだろうな。

//------

○ファンテック(三和金型)のサイトに模型用モータで使えるシロッコファン(遠心式)が載っていない件。

 今回は紙の設計図面集やパンフレットの入った資料集をもらったので調べてみたら、製品番号の

30-15R-E0
40-20R-E0
50-15R-E0
50-30R-E0

 の4種類には軸径Φ3.0㎜,Φ2.0㎜,Φ1.5㎜ が選べるとのこと。今後新たにプロペラファン(軸流式)でも外径Φ30㎜,Φ40㎜,Φ50㎜が模型用モーターの軸に対応するとの話。

PF30-7P-R
PF40-7P-R
PF50-7P-R
PF60-5P-R

 はシャフト径Φ3.18㎜,Φ3.0㎜,Φ2.0㎜,Φ1.5㎜から選べて、

PF80-5P-R

 はΦ3.18㎜,Φ3.0㎜,Φ2.0㎜が選べるようになるそうです。って、外径Φ60㎜とΦ80㎜も対応しているじゃんか。

 軸径Φ1.5㎜っていうのはタミヤで発売しているミニモーターに対応している。

 プロペラファンでは軸径Φ3.18㎜っていうのがあるんだけど、どうもラジコン用のRS540モーターの軸(Φ3.17㎜)に対応しているのではないかと思う。

 違うかな。違うのかな。どうなんだろう。

 まぁ、いいや。

 とにかく出展者さんに「サイト上に載ってないよ。」って言ってきたんで、そのうちサイトにも反映されるとは思う。

http://www.sanwafan.co.jp/


 出展者さんは「一個だけからでも買える。」って話をしていたんだけど、価格表をよく読んだら

「サンプル価格 一個 1,000円 (lot100未満)」

 って書いてあったので、シロッコファンを個人で購入するとなると1セット7,000円にもなってしまうことになる。やっぱり事実上個人が直接購入出来るようにはならないらしい。


 以前にも書いたけど、シロッコファンっていうのは風に脈動がほとんどなく、静圧や指向性も高い(やたらと遠くまで風が届く)ので、乾電池式の空気清浄器や扇風機に応用出来るのではないかと思っている。ブースで回っていた最も小さなシロッコファンでも乾電池2本でそこそこの風圧が得られるので、一回使ってはみたいんだけどな。

 電池を使わなくても手動送風機っていうのも面白いと思う。



 ブースの去り際に直径15㎜のプロペラファンのサンプルを一握り(7個)貰ったので、試しにRF300にくっつけてニッケル水素充電池2本直列(2.4[V])で回してみたんだけど、風なんて全く起きなかった。

Fig:
 設計図面では「PF15-7Pプロペラファン」というのがあるけど、動作特性表はなかったので、要するに「ファンの模型。」に過ぎないらしい。(-_-)



 相変わらずメールは送れない。
Fig:
 って思ったら、何のことはない、おいらの東芝Android標準ブラウザがメールソフトを自動起動するように出来ていなくて、短絡的にURLと勘違いしているだけだった。
Fig:
 どうもメールが送れない会社が多いなって思ってた。凹むわー。

//-----

○ULVAC

 アルバックテクノ株式会社っていう金属の表面に滑り性を高めるコーティングをしている会社があって、旋盤とか切削工具の跡が残っている部品にも関わらず、触った感じがツルツルしていて何とも不思議だった。

 ゴムベルトのプーリーにコーティングを施すと、回転損失が下がるだけでなく、音がほとんどしなくなるとか、回転ムラがなくなるなど、様々な付加的効果もあるんだそうです。

 でも負荷が大きいとゴムベルトが滑ったりするかも。

ULVAC アルバックテクノ
http://chemical.ulvac-techno.net/

カタログページ
http://www.ulvac-techno.co.jp/topics/catalog.html



//------

○ホッティーポリマーが新開発品を幾つか出展していたので、貰った資料から幾つか取り上げてみる。
http://www.hotty.co.jp/smt/top/

 「HPフロック」っていう静電植毛同等品は、植毛精度が良いらしくて、むしろ静電植毛よか光の反射率が低いくらいだったので、カメラレンズのフード先端にくっつける用のトリムをこさえたら良いかなって思った。反射がとても小さいので、カメラレンズの内部に使っても良さそうな感じ。
http://www.hotty.co.jp/smt/products/products_HP_flock.html

 「超極細スーパー・エンプラチューブシリーズ」っていう、軟質プラスチックのパイプは、外径0.3㎜~3.0㎜までいろいろ取り揃えているそうだ。TPI(熱可塑性ポリイミド)のチューブは色や光沢が独特なので、一番細いのを編みこんだら面白いテクスチャーが出来るような気もする。耐熱240℃なんだそうなので、鍋敷とかミトンをこさえたらおもろいかな。構造がパイプなので多少の断熱効果も期待出来るかも知れないし。なんなら剛性も高そうなので内部を真空にしちゃえば断熱効果も多少上がるのかも知れない。
http://www.hotty.co.jp/smt/products/products_polyimide_tube.html


 他にもポリ乳酸を用いた「Ecoフレキシール」、ポリ乳酸に自社開発のエラストマーを配合した「ハイブリッドガスケット」、プニプニしたプリンゲルみたいなゲルと一体押出成型した「ゲルガスケット」などが出展されていた。
http://www.hotty.co.jp/smt/products/product_byblid_gasket.html
http://www.hotty.co.jp/smt/products/products_gel_gasket.html


 「新開発品」とは書いてなかったんだけど、「新たに取り扱いを開始致しました。」って「電磁波シールド材」っていうのも載っていた。ヒシチューブみたいに熱で収縮するものもあるらしいんだけど、WebSiteからは見つけられなかった。

***

 自動車に使われている防水トリムを、プニプニのゲルガスケットと交換したら色も多彩なので面白いかも知れない。蓄光トリムをトランクにつけたら暗闇でも荷物をぶつけたりしなくて良いかも知れないし。意外と自動車のトリムって黒ばっかりで面白味がないので工夫の余地がありそうな気もする。

 ダイセルで開発した柔軟導光材料でトリムをこしらえたら、LEDで光るトリムってのも出来るんじゃないかな。

 そういえば自動車のドアって頭ぶつけることがたまにあるから、ドアトリムを設計段階からもっと太くて柔らかいのにすれば良いのにな。太くするなら小花柄やタータンチェック模様にするのもアリかも。ドア自体のフチにも柔らかいトリムを別途取付ても良さそうだし。

 あと、プラスチックやゴムのトリムって、服飾のパイピングの代わりに使えたりしないのかな。ファスナーが噛み込まないような構造とか開発したら便利なんじゃないかって思う。

//------

○スマート成型 KDA
http://www.kda1969.com/
 抜きテーパーを無くすことも出来るって書いてある。数百個単位での生産に良さそうなサービス。

//------

○城北伸鉄株式会社 軟磁性材料 ELCH2
http://jouhoku.0ch.biz/elch/elch.html
 なぜか萌えキャラ推しになっていたけど、サイト上では萌えキャラは載ってなかった。

Fig:

//------

○旭エレクトロニクス株式会社 旭興産グループ
http://www.aec.co.jp/
 アミューズメント施設などで使うようなバーチャルリアリティシステムをこしらえているそうだ。電車の運行研修用システムもこさえていて、人身事故を再現しててドキッとした。バーチャルでも鉄道人身事故っていうのはゾッとします。身内に事故被害者遺族がいたりしたら見てられないんじゃないかな。

 タブレット端末とインタラクティブに大型コンピュータから3D動画をリアルタイム配信するシステムを開発していたらしいんだけど、展示していたタブレット端末ではタブレット単体に載って動いちゃったらしいです。

 HMD(HeadMountDisplay)にはキヤノン製のものを使っているそうだ。

キヤノン HMD エムリアル
http://www.canon-its.co.jp/mr/index.html



//------


○オマケ

 軟式ネコ手パンチのイヤホンジャックチャームを貰ったんだけど、どこのブースで貰ったのかわからなくなってしまった。

Fig:
 うっ、ストロボが強すぎた。

Fig:
 ストロボの前にティッシュペーパーを被せて光量調節。

 配布物にはメーカー名を書いた紙も一緒に封入しておくべきだと思う。

//------

 新木場にあるハシケが干潮で露出していた。どうやら既に座礁していて、これ以上は沈まないらしい。

Fig:
 2013年6月20日 午前10時57分

 ハシケの向こうに船も一隻沈んでいたようだ。傾いているので共に座礁しているんだと思う。



Ende;
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吠える犬。

2013年07月02日 16時27分26秒 | 意識論関連


 §:抽象化による分類

 隣で飼っている小型犬が、通りすがりの運送屋に吠えまくっている。

 イヌが吠える理由は何か。

 イヌは相手が自分に対してどういった存在であるのかを知りたいのである。

 自分に対して敵意殺意があるのかどうかを確認し、敵か仲間か、或は服従対象なのかを抽象的な分類することで気分的に安心満足を得ようとしているのである。

 分類というのは、必ずしも論理検証的な根拠に基づいたものである必要性はなく。大衆マスコミ一般的には抽象化されたシンボル的分類をすることで、あたかも「これは、こういうものだ。」という決め付けをすることで気分的に安心満足するだけの分類であることがほとんどである。

 振り込め詐欺師に騙される被害者において、詐欺師が主張する警察官や銀行員、弁護士、息子の同僚であるかどうかを「分類」判断する場合においても、そこに論理検証的分別が介在する必要性は全くなく。あくまで気分的に「納得」することが可能かどうかという情動的思考バイアスが優先される。

 イヌはエサでも見せれば一瞬にしておとなしくなり、エサが貰えそうであれば「おすわり」でも「お手」でも何でも言うことをきくようになる。

 イヌにとって、エサを提供してくれる相手というのは「味方」であり、自分にとって都合の良い安心満足を与えてくれる対象として短絡的に抽象分類される。

 そのエサに毒物が混入しているかどうかといった危険性についての検証はイヌは全く行わないし、行うだけの検証性というものがそもそもイヌの頭(意識)にはない。

 ヒトという種の生物でありさえすれば、必ずしも常に論理的に危険性の全てを検証可能であるという保証は全くなく。大脳辺縁系が促す思考バイアス自体は、むしろ論理検証性よりも目先の気分的安心満足を優先するようになっており、こうした思考バイアス自体はヒトであれサルであれ下等な爬虫類であってもさしたる違いなどなく。あくまで「生存に適したかどうか。」という結果論に過ぎない。

 必ずしも賢い個体が生存に適していたとは限らず、キチガイ同士で共謀してテロを行った結果、キチガイだけが生き残る可能性も充分存在するのである。

 自分の大脳辺縁系の構造自体というのは、自分自身で選択したものでもなく。当然、無意識な思考バイアスというのは自分自身では制御不能なものなのである。思考バイアス自体が自己制御不能であることからは逃れられない事実であるが、思考バイアスが促す錯覚を、錯覚であると認識して行動結果を変えることは、ヒトの場合絶対に不可能であるとは言えず。これを発揮して初めて人間としての知能と定義することが可能となるのである。

 振り込め詐欺師集団や、シエラレオネの少年ゲリラ集団における統率協調性においても。これらは全て結果にすぎず、当人達の意識的論理検証における目的行動選択の介在する必要性は全くない。

 仲間内で何かを成し遂げることによる安心感や、目先の利益報酬に意識を奪われ。自分達の行動によって社会全体の安全性や持続可能性といったものへの配慮を喪失するのも、大脳辺縁系が促す本能的な社会形成習性の「結果」に他ならない。

 現在の生物学上においては、個体の生存だの遺伝的種の保存に適しさえすれば生物として優秀であると短絡的に定義するが。これは「結果」に対する事後正当化に過ぎず、何ら意識的論理検証的「目的」行動選択について全く考慮されていない。

 本能が促す行動バイアスが、常に、絶対に、必ず何らかの「正しい結果」をもたらす保証などどこにもなく。偶発的に生存だの種の保存に適した結果だけを抽出しておいて、これを「目的」だと言い張るのは非科学的オカルト観念に他ならない。

 生物学的な「社会性」すなはち、本能的な社会形成習性というものも。これが常に組織集団や遺伝的種の保存につながる行動を促す論理的根拠も全くなく、東京電力福島第一原発の安全技術者同様、組織の破滅をもたらすことも少なくはない。

 シエラレオネの少年ゲリラ集団においても、振り込め詐欺師集団においても、ナチズムにおいても、これらの統率的協調性の結果というのは暴走破綻の原因となる。これを無視して、断片的に暴徒鎮圧に利用可能であることなど、都合の良い結果だけを抽出して正当化するというのは、もはや科学的説明でも何でもなく、単なる科学風味を装ったオカルト観念に他ならない。

 生死に関わる話でありさえすれば、ヒトの多くは個人的一大事であるとして、あたかも絶対的に優先事項であると錯覚させることは簡単である。しかしヒトという種の生物である以上、ヒトの死亡率は100%であり、絶対的優先事項であるとは言えないのである。

 「人間」としての優先事項とは、自分を含めた社会全体への配慮、持続可能性や安全性といったものを優先することであり、自分が生きるに値する社会を求めることによって、自己存在価値を自律的に見出だすものであって。決して個体の生存価や遺伝的種の保存だの、「多数他人に生かされていること。」にあるわけではない。

 自分自身が自律的に社会持続可能性を求めない社会において、「多数他人に生かされている。」ことに個人的価値など存在せず。単に「死にたくない」という本能を満たすための社会であるならば、余命いくばくもない年寄り病人であれば社会持続可能性も安全性も自律的に求める必要性など、どこにも存在し得ないのである。

 個人の生存価に依存せずに、自律的に社会的責任判断を行うためには。多数他人という環境への依存性に拠らない主体的意志目的選択が不可欠である。

 「世間に生かされている。」などと言っておけば、文科系大衆観念に迎合して世間ウケ狙いをするのは簡単であろうが。こんなものは本質的な社会安全性や持続可能性には全く寄与しない大衆迎合に過ぎないのである。




 血液型性格診断というものがあって。これは血液型によってヒトを4種類に分類することで、あたかも相手の性格の全てを掌握したかのような錯覚によって安心満足を得ることが目的の、科学的根拠を伴わないオカルト大衆観念である。

 ヒトを4種類の性格に分類することによって、果たして事故防止や犯罪防止に何の役に立つであろうか。無論、血液型性格分類をしたがる者の脳には、初めから社会全体への配慮など全く考慮に入っていないことは言うまでもない。

 「このヒトは、こういうヒトだ。」と論理的根拠もなく決め付けることによって、あたかもイヌがエサをくれる相手に服従するかの如く気分的に安心満足することだけが「目的」であって、実際にはこの場合における「目的」というのは本能という自己選択不可能な思考バイアスに無意識に流された「結果」に過ぎない。

 「金儲け」や「世間的認知評価」といった分類においても、これらは全てその場限りの「結果」に過ぎず、個人の人間としての知能に基づく社会的存在価値とは無関係な大衆観念に過ぎない。

 世間的成功者というものが、短絡的に社会安全性や持続可能性を保証してくれる論理的根拠など全くなく。単に世間的成功者への羨望が、根拠のない過剰な期待の錯覚を作り出しているだけであって。有名人ゴシップ記事に群がる大衆というのは、有名人の悪口を共有しておけば、あたかも自分自身を正当化し、優位に立ったような錯覚が可能であるため、異常なまでに不毛なゴシップ記事に執着するのである。

 自分の優位性の正当化と社会安全性とは無関係であるが、そんなことは彼らにとってはどうでも良いことであり。そもそも何を優先すべきなのかという分別自体が彼らの意識上にはない。

 他人を引きずり落として自分を正当化するというのは、やっていることは振り込め詐欺師と心理的には全く同じ卑しい薄っぺらな行為であり。自己内部に自発的純粋性が存在しないことの表れでもある。

 エリカ様による「別に」発言自体に何ら社会的被害など存在しないが、和田アキ子によるパワハラ自慢というのは体罰差別封建性を正当化する反社会的言動であることについては、文科系大衆マスコミの誰も指摘しないというのは、完全にマスコミとしての社会的役割を放棄していると言える。

 大衆のご機嫌取りと、社会安全性や持続可能性とは無関係であるにも関わらず。その場限りの「空気」に流され何の検証もせずに権威の言うことを鵜呑みにし、無為に垂れ流しをしているからこそ、差別封建的な悪しき「文化」がはびこるのである。




 §:本能的社会形成習性による結果的統率と、個人の意思的目的選択。

 ヤクザにおける構成員が幹部に服従するメカニズムは、構成員が幹部に対して無条件に服従する習性が働いているからであり。法外な上納金を要求されるなどの不条理な要求に服従し続けるのも、そこに論理検証性が全く働いていないからである。

 暴力的組織に所属しておけば、あたかも守られているような錯覚に陥り、それが気分的に安心満足を与えるからこそ、ヒトの多くは暴力装置への依存を放棄することが出来なくなるが。こうした気分的安心満足自体は本能由来の条件反射に過ぎず、個人の本質的な主体的判断にはならない。

 世界全体の効率を考えれば、核兵器も含めた軍縮の合理性に論理的反論など存在しないにも関わらず。「国家」という分類だけで軍備暴力装置に対する気分的安心満足という錯覚がそれを阻んでいるからであり、「国家」という分類自体には論理科学的根拠が存在しないことを、ヒトの多くは認識したがらない。

 自国の軍備拡大に関しては安心満足を感じるとしても、他国の軍備拡大に対しては恐怖を感じるものである。だが、これは論理的根拠を伴わない「国家」という分類に基づいた無意識な錯覚に過ぎない。

 こうした暴力装置への根拠なき依存性こそが、ヒトを暴力的組織へと誘導するのであって。こうした暴力性が発揮される先天的本能習性自体からの決別を選択する「意志」が重要なのである。

 生物である限り、自然界における過酷な生存競争を勝ち抜くために強い暴力性を持ってしまっていることは避けようのない「結果」であるが。本能という無意識に対する意識的「目的」行動選択が働いていれば、暴力性という結果に対して抑制することが可能となる。

 何度も言うが、「難しい。」かどうかは知ったことではない。子供の学校入試や就職面接に関しては異常なまでの難易度を要求する癖に、社会安全性や持続可能性については急に安易性を要求するというのは。他者には難解なことを要求しておいて自分だけは安易な手口を要求するという、社会的「甘え」に他ならない。

 本能習性が促す思考や行動のバイアスについては、誰のせいにも出来るものではなく。自分自身で自律的に何とかするしかないものであって、それこそ大衆迎合的に「これさえやっときゃ、全てはうまくゆく。」的な安易な解決策は存在しないのである。

 個人が自律的な社会的責任判断を行うためには、大前提として本質的自発性がなければならない。環境依存的にそそのかされたその場限りの「意欲」の類ではなく、誰の評価報酬(エサ)を与えられなくても行う本質的自発性、純粋性がなければ、自己犠牲を伴うような自律判断は誰もしないのは必然である。

 自分自身の自己犠牲性の根拠を持たない奴が、他人に対して自己犠牲を求めるというのも、あまりに都合の良い社会的「甘え」に他ならない。

 「お国のため。」だの「人類の救済。」と称して、特攻隊鉄砲玉的暴走行為を美談とするのが文科系大衆観念である。単なる自暴自棄な権威多数派への服従性を、短絡的に人間性とすり替えるのは、ヒトの本能習性を利用した文科系大衆迎合的錯覚を利用した洗脳に他ならない。

 「権威に服従しない社会は、崩壊する。」などという論理的根拠のない観念こそが、個人の自律判断を蔑ろにし、封建的統率協調性という本能由来の暴走性を助長するのである。

 組織的な統率協調性というものも、その使い方次第である。何でもかんでも統率協調性の全てを頭ごなしに悪であると決め付けるのではなく、統率協調性の持つ力というものを、何に使うのかという個人の判断が伴わないという無意識性、暴走性が問題なのである。

 ある特定の統率協調行動に社会的価値が存在するのかどうか、それを個人が分別した上で利用することが重要なのであって、統率協調性の持つ力の大きさというものは、あくまで「手段」に過ぎないことを個人が認識していなければならない。

 論理的根拠を伴わない観念に基づいて、多数派や権威が作り出す「空気」に流されているからこそ、ヒトが持つ危険性に由来する「人災」が減らないのである。

 原発もそうだが、単なる機械工学的安全性だけを論じていても。それを扱うヒトの危険性について言及しなければ何の意味もないのである。

 既に冒した失敗に基づいて再発防止策を立てているだけでは、これは未だ起きていない失敗を未然に防ぐための対策には全くならない。

 散々原発の危険性を放置しておいたという無責任性や組織的腐敗性を棚上げにし、既存の失敗例だけに対策をしておいたのでは。失敗学/危険学の本質を蔑ろにした言い逃れ/取り繕いにしかならない。

 本当の危険性というものは、原発や高速バスそのものにあるのではなく。それらを扱うヒトの危険性にこそ存在するのである。なぜなら、全く論理的に予測不能な危険性であれば、これは「人災」とは言わず、危険学や失敗学で取り扱う問題では最初からないからである。

 ヒトという種の生物についての認知がされていない現状においては、原発に限らずあらゆる危険工学的知見も根本的有効性を持たない。



Ende;
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ガリレイ。

2013年07月02日 16時26分01秒 | 意識論関連
○ガリレイ。

 「ガリレオ」っつうテレビドラマがあるけど、この作品の中の主人公は「将来有望な天才物理学者。」として扱われている。

 だが、本当に業績を遺すような学者というのは、実際には業績が認められるまでは変人扱いされることの方が圧倒的に多くて、iPS細胞の研究でノーベル賞をとった山中教授も、「ジャマ中」などと差別されていた。

 そもそも本物のガリレオ:ガリレイは火炙りにされそうになっているわけで、予め文科系大衆観念的に有望視されている奴が実際に業績を得ることはほとんどない。

 14歳で大学院に飛び級したりすると、あたかも文科系大衆観念的には「天才だ。」「将来を期待されている。」などと勝手に勘違いする傾向が激しいが。この種の偏差値が高いだけの子供というのは、実際には大人になる頃には「普通の人」になってしまうケースがほとんどである。

 「学力偏差値が高い=頭が良い。」という観念は、極めて短絡的な文科系観念に過ぎず。何ら認知科学的根拠や証明が存在するわけではない。

 実際に業績を得た研究者の多くは、目先の多数派による短絡的で安易な評価に流されることなく、地道に一つのテーマを研究した結果であり。また、そうした地道な信念といったものを大切にする。

 「スルメ見て、イカが解るか。」そう言われて「悔しい」と述べたのは養老孟司である。スルメ(死体)解剖をしていて生きているヒトについて何が解るのか。という意味のことを言われ、悔しいと「思う」のは、その研究自体に主体性がなく、世間多数派に流される形で解剖学に就いていた故の感情である。

 本当に主体的に解剖の研究をしていれば、たとえ「生きているヒトについて何がわかるのか。」などと言われても、「別に生きているヒトについて言及するつもりはありません。」の一言で済む話であり、「悔しい」などという勝ち負け観念にさいなまされる必要性自体が生じない。

 成果が得られるかどうかも判らない研究に没頭していて、「邪魔」扱いされてでも研究を続ける信念というのは、そこに主体的意思、意欲があるからであって。目先の文科系大衆観念的多数評価に惑わされずに研究を続けるからこそ、誰にも到達出来ないような成果業績を得ることが出来るのである。

 茂木健一郎だの、澤口俊之、川島隆太といったエセ脳科学者の大衆人気というのも、何の科学的根拠もないデタラメに他ならない。高度な暗算機能や暗記術を身につけたら振り込め詐欺に騙されなくなる証拠でもあればまだしも、そういった証明など現実には存在しないのである。

 「これさえやっときゃ、頭が良くなる。」そんな短絡的で安易なバカげた話を鵜呑みにしている事自体が、むしろ「頭が悪い」証明に他ならない。

 特定のゲーム類、脳トレーニング類を習熟しても。「その能力」自体は鍛えられることはあっても、それが本当に意味のあるものであるのかといった検証性にまで言及することのない無為性、無意識性こそが、頭の悪さを証明するのである。

 振り込め詐欺の手口というのも、結局は「金さえ振り込めば、全てはうまくゆく。」という短絡的解決策の提示を鵜呑みにする気分感情的行動バイアスを利用したものであり。エセ脳科学者達のペテンを鵜呑みにする短絡性と構造的には全く同じものなのである。

 「それじゃ、一体誰を信用すれば良いのよ!。」などとヒステリックに訴える者も少なくないが、誰の言っていることが信用に値するのかを論理的に検証しようとする意思がないこと自体が、そもそもの頭の悪さの根源にある。


 暗記術の類で用いられる手法というのは、「順番に思い出すためだけ。」にしか使えないものであり。関連性に「気付く」ための発想力には全く意味を成さない。

 ノーベル賞受賞者が、現在のエセ脳科学者の言っているような脳トレーニングをしているかと言えば、そんな話は全く存在しないのである。

 むしろ、ノーベル賞受賞者達が口を揃えて論ずるのは、失敗だの評価に惑わされない強い意思、意欲といったものが大切であると述べているのであって。脳トレーニングとは全く無関係なのである。

 学力偏差値さえ高ければ、将来金儲けが出来て、世間的な評価も得られて、全てはうまくゆくものであると勝手に勘違いしていたような奴らが原子力開発に携わっているからこそ、自分達のやってきたことを事後正当化するための言い逃れや取り繕いに異常なまでに執着することに陥るのである。

 東海村の実験事故においても、業績を焦り過ぎたあまりの稚拙な事故であり。研究内容自体への純粋さが欠如していることの現れである。

 特定の価値観に基づいて競走させる手法というのは、クソゲー(ソーシャルゲーム)の手口であり。多数他者との比較を用いた意識狭窄に導く洗脳手法である。

 その競走の意味、価値といったものを自律的に検証することなく。強迫観念的に目先の安心満足を獲得するよう仕向けられた結果、与えられた価値観自体への検証を全く行わなくなり、無意味な競争へと意識狭窄を促すことで、ヒトは無意識な暴走状態へと陥れられるのである。

 学力偏差値への意識狭窄を導く入試ビジネスであっても、彼らは自分達の金儲けのために生徒を洗脳しているのであって、生徒が原発の危険性を放置させたり、無差別殺人を行うように導いているつもりはない。

 これと同じでオウム真理教の教祖においても、彼はテロを目的としていたのではなく。あくまで信者からの人気取りによって金儲けがしたかっただけであって、麻原なんちゃらには意思も目的も存在していなかったのである。

 意思とか目的行動選択というものが存在せず、無意識に多数派迎合して気分的安心満足ばかりを追求しているからこそ、あらゆる暴走「人災」は生ずるのである。

 「企業が利益を追求しなくなったら、公益法人だ。」などと述べている奴は、企業というものが社会的存在であることを忘れ、金儲け競争という価値観だけに意識を奪われ暴走している証拠である。もちろん赤字借金だらけでは社会的には迷惑であるが、金儲けというのは企業の社会的存在価値を維持存続させるための手段であって、金儲け自体を目的だと勘違いしているから社会の崩壊を導くのである。

 何を「目的」とするのか、それを何も考えずに暴走しておいた方が気分感情的には安心で満足であろう。だが、それはカルト宗教の幹部達の心理と全く同じものである。

 たとえ「命懸けで毒ガスを製造。」していても、現実には無駄な努力による迷惑にしかならないことを、彼らは知らない。

 意識の俎上になく、「知らない。」から洗脳なのである。





Ende;
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数理の嘘。

2013年07月02日 16時14分18秒 | 意識論関連
○数理の嘘。

 電力というのはエネルギー全体から見ると1/4でしかなく。温室効果ガス抑制というのは電力以外でも解決可能なものでもあるそうだ。

 自分では何がしたいのかわからなくてクソうるさいポンコツ車輌で近所をグルグル回っている迷惑騒音男がいなくなれば、二酸化炭素排出量を大幅に減らすことも可能かも知れない。

 この種のバカって日本中に蔓延しているからな。




 ヒトという生物の本能習性が、論理検証的思考を「嫌う」ことと。論理検証的に考えなければ解決策が得られない事実は相反するものではない。

 大抵の場合、マスコミの議論というのは気分的な「希望」や「ワクワクする」などという観念的快楽に帰結してしまって。問題の本質を簡単に見失う傾向が強い。

 原発の危険性を放置した原因の一つとして、「夢のエネルギー」などと称して気分的に満足してしまったが故に検証性を喪失したのであって。気分の問題を論理的問題とすり替えるのは最も危険な文科系大衆観念であり、思考バイアスである。

 おいらは「数理」という言い回しが嫌いで、「数字統計」というのは偏った特定の利権者にとって都合の良い数字だけを取り上げることで、本質的論理検証性が撹乱されることが少なくないからだ。

 特定の数値統計というものが、本当に本質的な論理的根拠を伴うものであるのかどうかを検証判断するのは、数字だけではなく。その数字の根拠となる論理の方を検証する必要性がある。

 そもそも数学が得意な奴が、養老孟司の言っている内容の論理検証が出来るかと言えば、現実全く出来ない場合がほとんどであり。オカルト生物学/脳神経科学や哲学が放置されているのも、数理学者達がポンコツだからに他ならない。

 脳の動作を数理モデルに基づいて予測することが可能であるとしても、それは環境依存的「結果」しか導き出すことはなく。個人の意識的論理検証性に基づく「目的」行動選択自体は数理モデルに依存するようなものでは構造原理的にない。

 通り魔の脳の数理モデルを再現したところで、通り魔がどうして自分の行動を論理検証出来ないのかについては全く答が出ない。それは蛾が人工の炎に飛び込むシーケンスを数理化したモデルと同じものであって、無意識的条件反射行動の数理モデル化以上の意味が存在しない。

 意識的論理検証という自律的な目的行動選択というものは、数理数量予測化出来るようなものではなく。あくまで個人の自発的「意志」によって変えることの出来る選択可能性を論じているのであって。株価変動などの「結果」だけを取り扱う金儲け主義経済学とは全く次元の異なる話である。

 金儲けだの、世間的成功といった個人の世間的比較評価成績といったものを基準にしてしまえば。個人の自律が蔑ろにされるのは必然である。原発の危険性を放置してでも東電の体制維持を目的にしていれば、そりゃ自律的な社会的責任判断がされなくなるのは当たり前でしょ。

 自律判断というものは原理的に数理数量化出来ないものであり、だからこそ「自律」なんですよ。

 初期値と条件値を入力すれば、必ず結果が確定するような無意識的条件反射行動バイアスという「結果」だけを述べているのであれば、これは「寝言」以上の何の価値も存在しないわけです。

 自分の周りにバカしかいない環境条件の場合、自分もバカに陥ることを正当化出来るわけではありません。ヒトの多くが環境に基づいた無意識に行動を左右されがちな傾向性をどんなにたくさん統計数理的に実証しても、人間としての自律的行動選択をしなくて良いことの論証には全くならないのです。

 これは数値数量化出来ない論理構造であって、数理の問題ではありません。

 自閉症スペクトラムが原因でイジメが発生するのが問題なのではなく、むしろ多数派の「正常」とされる「普通のヒト」達が観念的に少数派を差別排除迫害するという先天的習性こそがイジメの根源にあるのであって。多数派という数字を論拠に「正常」と見なす非論理性自体を指摘するのも数理ではありません。

 数理というのは多数派を短絡的に正常と見なす観念の源に利用されることが少なくない。多数派が間違っていることを指摘する場合、数値統計的根拠は全く意味を成さず、構造的不条理性を論ずる以外にない。

 数理は万能ではなく、数字は断片的現象結果しか現さない。

 「結果」だけを論じているならば、そこに「目的」行動選択が永久に出てこないのは必然的結果である。

 数理は手段道具としての役割は存在するが、数理だけで全てを論証しているから、「合理性=心がない。」などという文科系大衆観念に陥るのである。

 数理というのは、論理検証の道具ではあっても、目的として扱うべきものではない。




Ende;
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なにこれかわうい。

2013年07月02日 15時57分51秒 | 日記
○なにこれかわいい。

 たまたま立ち寄ったDIYショップで、変な蛇口を見つけてしまた。

Fig:

 単にぷくれているだけではなく、ハンドルの角度も変形していてかわうい。

 普通の吐口タイプだけでなく、ホースが抜けにくいようなタケノコになっているものもある。

Fig:

 KAKUDAIっていう会社の「誰や」っていうシリーズらしいんだけど、まだ公式サイトには掲載されていなかった。

http://kakudai.jp/

 他にも吐口をひねるとハンドル先端から水が出てくるものとか、蛇口全体がひねられてしまうもの、メーター元栓みたいなものなど、変な蛇口がいろいろある。

Fig:


 でもぷくれているのが一番かわうい。

 Web上だと一万円以上するけど、オリンピック坂下店では\7,980-で売っていた。普通の蛇口なら\1,000-前後で買えるので結構高価な上、メンテナンス性などに問題がありそうだけど、なんだかかわいいのでゆるせるような気もする。ウチには取り付けられるような蛇口がないんだけど、消費税対策で最近売上の伸びている新築マンションのオプションにしとくのも良さそう。

 あ、蛇口で思い出したんだけど、よく蛇口に輪ゴムかける人っているでしょ。実は一般的な輪ゴムの主成分であるブチルはカルボン酸の性質を持っているだとかで、水素ラジカルを発生させて金属を腐らせてしまうんだそうな。なので蛇口に輪ゴムかけてはいけないのでした。

 折角高価な蛇口つけても腐らせちゃったらもったいないので、ウンチクひけらかしてみましたとさ。

 でわまた。

Ende;
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