「人間力」という言葉を文系のヒトが良く用い あたかも人間力を獲得することが普遍的に人間としての価値であるかのような言い方をするのだが
「人間力」とは言っても 別に倫理に基づいた「人間性」が伴うわけではないので注意が必要である
人間「力」とは 能「力」を指していて 人間力というのは「社会で成功する能力」のことである
社会的成功というものは あくまで「その時代における社会環境」を前提としたものであって しかも社会的に成功したからといって社会にとって普遍的に有益であることにはならない
中世における暴力者支配も「その時代における社会的成功」に分類されるが 年中戦争をしまくって支配地域を拡大した支配者を 歴史家は「英雄」だの「偉人」だのと形容するが そこに倫理に基づいた人間性が伴うわけではない
中世以前では暴力支配による支配地域の拡大は「英雄」や「偉人」として扱うが 近代におけるナチズムになると急に評価が異なるのは 評価基準があやふやで マルチスタンダードだと言える
西宮冷蔵は内部告発を行うことによって 世間的には「裏切り者」として差別され 経営破綻に陥っているが それなら西宮冷蔵には「人間力」がないということである
ガリレオ:ガリレイは科学的真理の追求によって火炙りにされそうになったが それならガリレオには「人間力」はないのである
人間として正しいことをすることが 必ずしも世間的な成功を伴うわけではない以上 「人間力」には人間性が伴うわけではないのである
ナチス政権下において アドルフ:ヒトラーは人気があった
これはすなはち 当時の社会環境においてはヒトラーには人間力があったという意味である
ポルポトもオウム真理教の教祖も同様であろう
人間力という基準は あくまで「人心を掌握して多数のバカを誘導出来る能力」を指しているに過ぎず そこに倫理や人間性が伴うわけではない
どんなに正しい行いをしていても 多数の大衆がバカしかいない社会環境であれば それはむしろ差別排除の対象にしかならない
親の立場からすれば 子供が将来科学的真理を追求したがために火炙りにされることは望まないかも知れない
社会安全性に基づいて 内部告発をしたがために社会から差別排除されることも望まないかも知れない
だが こうした不条理な結果を招く原因とは 多数の大衆に主体的自律判断が欠如していることが原因であって 倫理に基づいた人間性が社会的に評価されないという社会全体の異常性の問題である
社会を構成するのは あくまで個人である
従って 社会的成功というものも 多数個人の評価の集積という多数決である
世間の大多数がバカしかいなければ どんなに正しいことも評価されることなく むしろ差別排除の対象にしかされることはない
社会全体にとって 本当に重要なのは 正しいことをしている人が正当な評価を得ることであり そのためには多数の大衆がバカでは話にならないのである
「自分の子供さえ世間的に成功しさえすれば満足」というのは 親の主観的で身勝手な価値観に過ぎず 人間としての社会的責任を果たしているとは言えない
本来 正しいことをしている人が 正当な評価をされる社会環境があれば 正しいことが結果的に人間力として扱われることにもなるのだが
評価基準が先に世間的成功になってしまえば 多数派の間違いには迎合してしまうことになりかねない
親の立場から子供が将来世間的に成功しさえすれば安心満足なのかも知れないが 社会そのものの問題点を後回しにして「自分の子供さえ良ければいい」という価値観には 人間としての社会的責任が伴わない
「正直者がバカを見ない社会」にするために必要なのは 目先の社会環境に迎合して成功する「人間力」を追求することではなく むしろ個人が自律的に社会的責任判断を行う「人間性」を優先しなければならない
「人間」が社会を構成していない状態では 人間性は評価されることはないからだ
つまり 「人間力」という基準は あくまで「問題をも含んだ現状社会環境への迎合能力」であって 決して倫理に基づいた「人間性」に資するわけではないことを 認識しておく必要がある
どんなに大規模な社会であろうとも 社会を構成しているのは一人一人の個人であり 個人が自律的に社会的責任判断を行わない社会であれば「正直者はバカを見る」ことになるのである
その先にあるのは社会の暴走と破綻だけである
Ende;
「人間力」とは言っても 別に倫理に基づいた「人間性」が伴うわけではないので注意が必要である
人間「力」とは 能「力」を指していて 人間力というのは「社会で成功する能力」のことである
社会的成功というものは あくまで「その時代における社会環境」を前提としたものであって しかも社会的に成功したからといって社会にとって普遍的に有益であることにはならない
中世における暴力者支配も「その時代における社会的成功」に分類されるが 年中戦争をしまくって支配地域を拡大した支配者を 歴史家は「英雄」だの「偉人」だのと形容するが そこに倫理に基づいた人間性が伴うわけではない
中世以前では暴力支配による支配地域の拡大は「英雄」や「偉人」として扱うが 近代におけるナチズムになると急に評価が異なるのは 評価基準があやふやで マルチスタンダードだと言える
西宮冷蔵は内部告発を行うことによって 世間的には「裏切り者」として差別され 経営破綻に陥っているが それなら西宮冷蔵には「人間力」がないということである
ガリレオ:ガリレイは科学的真理の追求によって火炙りにされそうになったが それならガリレオには「人間力」はないのである
人間として正しいことをすることが 必ずしも世間的な成功を伴うわけではない以上 「人間力」には人間性が伴うわけではないのである
ナチス政権下において アドルフ:ヒトラーは人気があった
これはすなはち 当時の社会環境においてはヒトラーには人間力があったという意味である
ポルポトもオウム真理教の教祖も同様であろう
人間力という基準は あくまで「人心を掌握して多数のバカを誘導出来る能力」を指しているに過ぎず そこに倫理や人間性が伴うわけではない
どんなに正しい行いをしていても 多数の大衆がバカしかいない社会環境であれば それはむしろ差別排除の対象にしかならない
親の立場からすれば 子供が将来科学的真理を追求したがために火炙りにされることは望まないかも知れない
社会安全性に基づいて 内部告発をしたがために社会から差別排除されることも望まないかも知れない
だが こうした不条理な結果を招く原因とは 多数の大衆に主体的自律判断が欠如していることが原因であって 倫理に基づいた人間性が社会的に評価されないという社会全体の異常性の問題である
社会を構成するのは あくまで個人である
従って 社会的成功というものも 多数個人の評価の集積という多数決である
世間の大多数がバカしかいなければ どんなに正しいことも評価されることなく むしろ差別排除の対象にしかされることはない
社会全体にとって 本当に重要なのは 正しいことをしている人が正当な評価を得ることであり そのためには多数の大衆がバカでは話にならないのである
「自分の子供さえ世間的に成功しさえすれば満足」というのは 親の主観的で身勝手な価値観に過ぎず 人間としての社会的責任を果たしているとは言えない
本来 正しいことをしている人が 正当な評価をされる社会環境があれば 正しいことが結果的に人間力として扱われることにもなるのだが
評価基準が先に世間的成功になってしまえば 多数派の間違いには迎合してしまうことになりかねない
親の立場から子供が将来世間的に成功しさえすれば安心満足なのかも知れないが 社会そのものの問題点を後回しにして「自分の子供さえ良ければいい」という価値観には 人間としての社会的責任が伴わない
「正直者がバカを見ない社会」にするために必要なのは 目先の社会環境に迎合して成功する「人間力」を追求することではなく むしろ個人が自律的に社会的責任判断を行う「人間性」を優先しなければならない
「人間」が社会を構成していない状態では 人間性は評価されることはないからだ
つまり 「人間力」という基準は あくまで「問題をも含んだ現状社会環境への迎合能力」であって 決して倫理に基づいた「人間性」に資するわけではないことを 認識しておく必要がある
どんなに大規模な社会であろうとも 社会を構成しているのは一人一人の個人であり 個人が自律的に社会的責任判断を行わない社会であれば「正直者はバカを見る」ことになるのである
その先にあるのは社会の暴走と破綻だけである
Ende;