養老孟司は「自分にとって都合の悪い話に耳を貸さない大人が多すぎる」などと言っておきながら 自身の著作に対する論理整合性の欠落などを指摘されても一切耳を貸さず その言い逃れに「私は教科書に墨を塗らされた」などという自分の過去の境遇を持ち出し 「どうせ間違っていない本なんぞないんだから 間違ってたら墨を塗りゃ良いんだ」 などという屁理屈で正当化しようとするのである
「どうせ誰もが間違うんだから 間違ったって良いじゃねぇか」というのは あいだみつ的に大衆人気は得られるようだが 「ヒトは間違えるもの」ではあるが 「間違えても構わない」という話にはならない
ましてや「間違えたとしても正当化して良い」などという傲慢な態度が通用して良いわけがない
養老孟司というのは論理的に物事を客観視することを嫌い 何でもかんでも主観的な感情論を持ち出して自分の主張を正当化したつもりになって 訳のわからぬ言い逃れではぐらかすことしかしない男である
物事の真偽を論証するために必要なのは 客観的で論理整合性のある論理的根拠であって 「自分の過去の境遇」というのは論理的でもなければ客観的根拠にもならない
自分の過去の境遇を言い逃れに使うというのは 虐待を連鎖する親の言い逃れと構造的には同じで 自分の過去の境遇を事後正当化し それに抗うことができなかった無為無力を正当化することによって 認知的不協和を解消する形で主観的観念的に「納得」するための言い逃れである
養老孟司はこうも言っている「安月給で30年間も働かされた そこには意味があったんだ そう思わなきゃやってられないじゃありませんか」
「そう思わなきゃ やってられない」というのは論理客観的根拠にはならない
主観を持ち出してしまえばヘイトスピーチに邁進するネトウヨの「だって悔しいじゃないですか」と形式は一緒である
宮台真司もこう言い出したことがある「自分で考えるなど10年早い 教えられたことは丸暗記しろ」と
その根拠は「俺はそう教師から教えられた」という これもまた「自分の過去の境遇」を「論拠」にすり替えているのである
自分がどういう境遇で どういった育て方をされたのかは これから子供達をどう育てるべきかの論理客観的根拠には一切ならない
ところが ヒトという種の生物というのは 自分が唯々諾々と受け入れざるを得なかった過去の選択を事後正当化し 認知的不協和を解消する形で気分的に受け入れたくない話を反射的無意識に拒絶する習性があるため 論理客観的根拠に基づかない個人的主観感想の類いを まるで論理客観的根拠や証拠であるかのように言い張り 真実を捻じ曲げようとするのである
幼少期であれば子供は親大人の言いなりにならざるを得ないが だからといって自分の過去の境遇を根拠に自分と同じ轍を自分や他人の子供に踏ませて良い「理由」には全くならない
論理客観的根拠のない形式的な「因習」の類いを漫然と受け継ごうとするヒトの習性というのは 「ヒトの脳のクセ」であって それが本当に合理的で効率的で効果的なのかどうかに関係なく 個人が主観的に「そう思ってなきゃ気分が悪いじゃぁありませんか」という身勝手な動機によるものである
主観的気分感情というのは大脳辺縁系が促すものであり 漫然と無意識に「因習」を他人に押し付け そこに論理客観的根拠がないことを指摘しても条件反射的に拒絶し 個人の主観的気分感情論ばかりを強弁しだすのである
多くの日本人は養老孟司の著作に意味があると 読めば頭が良くなるものだと錯覚していたため その頭の悪さを認めると気分が悪くなるので 認知的不協和を解消する形で誰も養老孟司の批判をしたがらないため 養老孟司はいつまでも「東京大学名誉教授」の肩書を維持し続けられるのである
こうしたペテンはイマヌエル:カントの「純粋理性批判」でも同じように正当化され 多くの「哲学者」共が誰も論理客観的に検証してこなかった事実を隠蔽黙殺するための言い逃れが酷いのである
生物学おいても 遺伝的進化には目的や生存戦略といった概念が実在しないにも関わらず 100年以上も曲解し続けてきた事実をはぐらかすために「生きているだけで 立派なものなのだ。」などという主観的感想を持ち出すのである
チャールズ:ダーウィンの「種の起源」を 勝手に曲解して「〇〇のために進化した」といった言い方を 「俺はそう教わった」からといって何の批判精神も持たずに唯々諾々を鵜呑みにしてきた頭の悪さを隠蔽するために 「リラックスして聞いて頂ければ有り難い」などとはぐらかしているのである
言っている内容に論理的な不整合や論理的飛躍がないかどうかを検証されないためには 「リラックス」して呆然と受け入れさせておこうというペテン師の策略である
自分が呆然と「自然は素晴らしい」という話を受け入れ 共感して鵜呑みにしたことを正当化し 他人に頭の悪さを悟られないようにして権威性を維持保守することしか生物学権威共の頭にはない
「生物には目的はない」と言いながら「生きること自体が目的」だとか「生きること以上に大切なものはない」だとか もはや支離滅裂で意味がわからぬ話のマトメが「生きているだけで 立派なものなのだ。」などという「個人の感想」で締めくくるというのは もはや論理客観的根拠の膨大な積み重ねをしてきた科学に対する冒涜である
大衆やマスコミの大半は そこには気づかないだろう
畑村洋太郎などの工学者や物理学者であれば 生物学界や哲学界の主張は「わけがわからない」と言うであろう
「わからないものは わからない」と判断を保留するのが科学の基本だからである
「わからないなりに わかったとする そういうわかり方」をするのが論理客観的に物事を検証することが出来ない文科系大衆やマスコミ関係者特有の頭の悪さなのである
理性や科学を否定したら真実は闇の中である
嘘で塗りつぶされてしまうからだ
科学で全ては説明することはできないが 嘘は全てを説明したかのように装うことができるので 気分感情的には「納得」感が得られ 満足安心することができるため デマだの嘘の方が大衆人気は得られやすいのである
科学的にはワクチン接種後に2名の死者が出ているが 因果関係はまだ不明ということになっている
ワクチンそのものが原因なのか コンタミが原因なのか それとも他の要因による偶然の突然死なのか まだ「わからない」とされている
だが 養老孟司や生物学者共や哲学者共による「嘘」は 論理的に検証すれば嘘であることが明白である
論理的に物事を考えられる工学者や天文学者の大半は 「専門外」であることを理由に一切言及したがらないが 同じ大学の職員として 嘘を教えている事実を放置しておいて良い理由にはならない
奨学金と称して借金をさせてまで嘘を教えておいて良い理由など どこにもないからだ
教育機関が権威性を傘に「不祥事」を隠蔽していたのでは 「教育に良くない」ことは当たり前の話である
Ende;