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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

別物

2021年09月15日 16時41分01秒 | 意識論関連

トロッコ問題類の命題の答えには倫理が含まれていない

バカが多すぎて理解していないので説明してやるからありがたく思え

トロッコ問題類の命題というのは 死んだ人数が選択によって変わるという話である

しかし 何人死ぬ選択をしても倫理的に「正しい選択をした」ことには一切ならない

一人殺すか 1万人殺すかの選択であれば 否応なく一人を犠牲にせざるを得ないだろうが それで倫理的に正しい選択をしたことには一切ならない

「敵兵が襲ってくる」といった命題においても そもそも敵兵自身の倫理は一切言及されることはなく トロッコ問題類の中だけの選択には倫理は一切存在していないのである

 

「一人死ぬか 誰も死なないか」の選択なら そもそもジレンマもへったくれもないので選択は倫理的に明快である

この命題において「人命を優先しない倫理」などあるわけがない

これをトロッコ問題類と同等に扱おうとする事自体がふざけている

物事の選択において責任が問われるのかどうかにおいて倫理が存在するのであって 自分の行動選択によって人命が失われないように選択することには倫理が介在するが

どっちみち誰かが死ななければならない状況の中で死んだ人数を数えても責任問題にも倫理的にも意味はない

トロッコ問題類というのは もはやどうにもならない状況の提示であって 何をどう選択しようとも人間性や倫理的責任が問われることはないのである

 

ヒトは 目の前で多数の死者が出ると サバイバーズギルドという根拠のない観念的罪悪感を抱いてしまう習性があり トロッコ問題類というのはこうした一種の錯覚を利用したペテンの手口に過ぎない

ヒトの多くはバカなので 主観的罪悪感に誘導されて 死んだ人数だけで倫理の問題 人間性としての責任問題であるかのように錯覚して疑わなくなるのである

 

未だにマイケル:サンデルがハーバードの教授でいられるのは 学生達が「学力が高いだけのバカ」しかいないからである

そして 彼らはサンデルの講義で「自分の頭は良くなった」と勝手に妄想錯覚し 主観的に安心満足してサンデルのペテンの手口には一切意識が働くことはない

そして 認知的不協和を解消する形で本論を無視しようとするのである

バカというのは難治性が酷いので 理屈も道理も一切通じず 都合の悪い話は全てなかったことにしようとするのである

サンデル教徒の大半は サンデルがペテン師に過ぎないことには誰も気付くことはない

ヒトとはそういう残念な生き物なのである

 

 


Ende;

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ヒトは先天的に無責任である

2021年09月15日 12時05分38秒 | 意識論関連

アフリカのサバンナの真ん中で 肉食獣から仲間の弱者を守る余裕はない

過酷な自然環境下では人間性を発揮している暇はない

発揮しても構わないのだが

生きるか死ぬかの瀬戸際では 人間性を発揮していたら全員死ぬ

かつてはそういうヒト達もいたかもしれないが 死んだら証拠は残らない

従って 現存しているヒトというのは 人間性を発揮せずに仲間を見放し見殺しにした個体の末裔である

野生動物というのは基本的にそういうものであり ヒトに限ったことではない

肉食獣から逃げながらも 仲間内では順位序列に固執し 欲望を満たすために身勝手な行動を採ることが 自然界の過酷な環境においては生存に適する行動なのである

野獣の行動は身勝手である

その場限りに欲望を満たすことしか頭になく 社会安全性だの持続可能性や公平性や平等に対する「考え」は全くない

「我も我も」と取材対象に群がるマスコミのように

ナチス政権やミャンマー軍事政権の命令に唯々諾々と従う吏官達のように

まるで「ゾンビ」のように無意識に行動することを 生物学では「社会性」と分類する

社会を形成する習性を発揮すると 生存にとっては有利に働き 個体だけではできない「大きな力」を発揮することがある

だが 力の「大きさ」だけでは人間性の論証にはならない

ただ「生存や種の保存」にとって有利に働くだけである

その場限りには有利でも 社会持続可能性や安全性にとって適している保証は何もなく 絶滅しても誰にも責任は問えない

統率協調性の持つ力の大きさによって文明社会の肥大は招いたが その結果急激な肥大によって地球環境を破壊し ヒトは自らの首を締めているのであって 決して文明規模は人間性の論証にはならない

文明社会の肥大には功罪両面があり 決して一面的に「正しい」とは言えないのである

バカな衆愚は力の大きさだけで人間としての優秀さであるかのように錯覚したがるが これは非常に幼稚な短絡的発想である

力の大きさは世間的に優位な立場を得ることも可能になるが そもそも「優位な立場」という順位序列を認めている時点で人間性としての平等や公平性には配慮が足りていないということでもある

ゾウアザラシが群れの中で優位に立っても それは野獣の価値観に過ぎない

野生動物の大半は 集団の中で順位序列を形成し 封建的カーストを受け入れ あたかもカーストの頂点こそが優秀さの論証であるかのように「感じ」る習性がある

そういうふうに「感じ」られるからこそ 順位序列を甘んじて受け入れられるのであって 公平や平等という概念は野獣にはない

ヒトは野獣の末裔であって 野獣の性質を色濃く反映し 他人よりも優位に立つことこそが人間としての優秀さであるかのように錯覚しがちである

ヒトが権威に逆らわなくなり 盲目的に服従するのは 本当の人間としての価値を忘れているからである

主観的に「怖い」と思った相手には逆らわず イジメや差別が目の前で起きていても傍観放置しておけば 自分が標的にならずに済むので安心である

権威などの「怖い相手」には逆らわず むしろ権威の言っている内容は何の疑いも持たずに盲目的に鵜呑みにしていた方が安心で満足なのがヒトという種の生物の先天的習性なのである

「権威が間違っていたのなら 権威が責任を取れば良い」と 責任を丸投げしておいても自分には何の責任もないと「思って」いるのである

そうやって安心して権威に唯々諾々と服従し 何の批判精神も発揮することなく 何の責任も取ろうとはしない

権威に服従している大多数は 大多数であることを根拠に判断責任が薄まるとでも「思って」いるのである

だから「自律的な社会的責任判断選択」を誰もしなくなる

 

人間性や倫理の根源は「個人が自律的な社会的責任を負うこと」であって 集団組織や権威に服従迎合したがるからこそ 人間性を簡単に喪失するのである

「死んだら全部終わり」であることを根拠に 「生き延びさえすれば勝ち」だという遺伝子レベルの貧乏性を発揮することによって 本当は分け合えば余るものを 奪い合いによって不公平な不足を招いているのである

それは「サルの正義」でしかない

ヒトは誰しも必ず死ぬのであって 特定の場面で生存にとって有利な行動を採っても 人間性を放棄してまで生き延びる合理的根拠は何もないのである

600万人のユダヤ人を殺害し 原発の津波に対する脆弱性を放置して暴走させ イジメを傍観放置するのがヒトという種の生物である

それらの行動は その場限りには「生存にとって有利な行動」ではあるが そこに人間としての存在価値など存在しないのである

 

 


Ende;

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忘れてはならないもの

2021年09月15日 10時54分09秒 | 意識論関連

ギュスターヴ:ル:ボンは「群衆は理性では動かない」と説いたが

「理性では動かない」のは群衆に限ったことではなく そもそもヒトという種の生物は「理性では動かない」のである

ヒトは基本 動物である

動物の行動というのは先天的本能習性による無意識な行動バイアスであり 「生存」だの「種の保存」といった結果に対する必然性は存在していても それが社会安全性や持続可能性や公平や平等に合理的に適する理屈はない

先天的本能習性というものは 祖先の生息環境の影響を色濃く反映し 数十万年以上の年月と大きな淘汰圧力(大半の死滅)の結果であって

「結果に対する必然性」はあるものの これは「目的のための合理性」ではない

更科功はダーウィンの「種の起源」を多くの生物学者が曲解していると論じたが その説明は論理整合性のない「はぐらかし」に終始しており 科学者として無能で社会的にも無責任である

「生物には目的はない」のである

風呂場に生えるカビには目的はない

ウイルスにも目的はない

ただ 結果的に絶滅せず 結果的に環境との調和に適した結果 種として残っただけである

現状残った種だけを根拠にしても「結果的必然性」が「合理的目的選択」の論証には一切ならない

遺伝的進化というものは 自然界における自然現象(必然的結果)であって 目的などない

 

ウイルスによる猛威は かつての進化の過程で幾度も生じ 膨大な死滅をもたらすことによって 現存する動物の免疫機能の進化をもたらした

遺伝的に免疫機能を持っていなかったあらゆる生物種が大量に死滅したことによる「結果」であって 偶発的に免疫機能を獲得した個体だけが生き残っただけであって 遺伝子というものは自ら書き換えることができない以上「ウイルスや菌から身を守るため」といった目的に合わせる形で「進化する」ことは構造原理的に不可能である

現状のヒトの免疫機能を更に進化させるためには 免疫機能の低い個体の大量死滅を放置し 免疫機能の高い数%の個体種だけによる配偶交配によって より高い免疫機能を持った個体の出現を必要とするのであり それでも進化に成功する保証はどこにもなく 決して「誰もが進化できる」ような都合の良い話では断じてない

草食動物の逃げ足が速く進化するためには 天敵に襲われた時に我先に逃げ出す反射的行動が必要であり 仲間を統率協調的に守るとか 予め予防対策をしておくといった合理的行動を採らなかったからこそ 逃げ足が速い個体への収束進化が起こったのである

 

ヒトは脳が肥大する進化が起きたが 大半は論理客観的思考判断のできないバカである

だから何度説明しても誰も論理的理解が全く進まない

 

プラトンだのニーチェだの養老孟司だのリチャード:ドーキンスは大衆からの人気だけはあるが 実際には中身がないので応用性が何もない

本当に社会安全性にとって重要な話というのは 気分が悪くなるので大衆人気は得られない

国会原発事故調査委員会報告書は 社会安全にとって非常に重要な知見であるが ほとんどだれも読まず 誰も理解などしていない

ヒトは先天的には理性で動こうとはしないものなのである

ナチスやミャンマーやイスラエルの兵隊や 群衆では 集団心理によって理性がさらに欠落した行動が 極めて統率協調的に行われるが 

群衆ではない単独犯の通り魔もまた理性など働いてはいない

論理客観的に何が真実であるのかを「考え」ないからバカなのであって バカがやらかす行動はバカげた結果にしか至らない

バカには理屈や道理は通らないので どんなに説明を尽くしても理解することはない

脳の容積にさしたる違いがなくとも バカは難治性が酷いのである

バカは自らの頭の悪さを改善しようとは一切しない

「自分はバカだ」と気分的に落ち込むか 「どうせ自分はバカだから」と称して頭の悪さを正当化するか それこそが「絶望」という罪であることを認識することはない

「絶望して自己自身であろうと欲さない絶望」か「絶望して自己自身であろうと欲する絶望」しかせず 絶望そのものが真理から遠のく罪であることは無視するのである

頭が悪かったことを自覚認識したのであれば どうやったらバカげた間違いに陥らないようにできるのかを自分の頭で「考え」て 初めてバカが治るのである

 

ヒトは 先天的には人間ではない

それは 不条理性ではある

自らの遺伝子も本能習性も 生育環境から刷り込まれた「常識」や価値観も 自分では主体的には選択しておらず 既存の自己自体は選択不可能であり 「自由」ではない

だが それらが本質的な自己でも自由でもないことを理解認識することができれば 常識や因習に囚われることなく現時点での選択可能性の存在を自覚することが可能となる

それはヒトという種の生物ならではの「自由」が存在するのである

その「自由」は論理客観性によってもたらされるものであって 「自分で見つけるもの」であり 神や科学から「与えられる」ものではない

 

 

Ende;

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