イマヌエル:カントの「純粋理性批判」は 哲学界では「近代哲学の最高峰」などと称しているが その内容は論理整合性を欠いた根拠のない勝手な決め付けの陳列に過ぎない
カントの「純粋理性批判」というのは その時代における科学技術の急速な進歩に対する主観的嫌悪感や猜疑心に基づいた屁理屈に過ぎず 論としての体を為してすらいない
そもそも「理性を批判する論理」であるから 自己矛盾も甚だしい
その内容はといえば 「理性を超越した悟性」だの「純粋統覚」だの 「絶対に知覚することの出来ない叡智界」だの 「人間は叡智界に属しているのである」だの「天空の星々と人々との関係性」だのといった 論理的には何の根拠もないオカルトファンタジーである
現在の哲学界では 大脳辺縁系を損傷した人が「赤ん坊の屍体を見ても食事に支障がない」とか「何を訊ねてもわからないとしか言わない」という一面的現象だけを抽出して 「大脳辺縁系を損傷した人=純粋理性状態=人間性の反証」という雑な印象操作によって あたかもカントの純粋理性批判が間違っていないかのようにはぐらかしているだけである
実際には大脳辺縁系を損傷した人が利己的利益追求をするわけでもなければ 科学的真理の探求を歯止めなく行うわけでもなく バカ「哲学者」共の主張では何らカントの「純粋理性批判」の内容を正当化できる論拠には全くならないのである
理性が純粋状態の場合 現実には人畜無害である
大脳辺縁系を損傷した人は 何を訊ねても自分で物事を決めることが出来ずに「わからない」としか答えることができない
これは 何ら「科学的真理の追求」には該当しない
科学的判断において「わからないことは わからない」と判断を保留する謙虚さは必要だが 歯止めなく 他人の迷惑にも配慮せずに自分の功績のために非人道的な大量破壊兵器の研究を推進することとは全く別の話である
大脳辺縁系を損傷していれば 別に「自分の功績のため」に行動することはない
当然 利己的利益追求にも興味はない
そもそも「自分の興味」を生み出す脳機能を損傷しているのであって 決して暴走的に何かをすることはないのである
何を訊ねても「わからない」としか答えないのは 訊ねている方が「答え」を求めているのであって 大脳辺縁系を損傷している人自体は何も「追求」などしていないのである
ヒトが「赤ん坊の屍体を見てしまうと食事に支障をきたす」のは 大脳辺縁系 扁桃核による反射的なものである
普通 ネズミの屍体を目の前にしながらでも食事は不味いだろう
踏み潰されたカマキリの屍体でも やっぱり気分は悪いものである
ナチス政権下のポーランド アウシュビッツ ビルケナウ ユダヤ人絶滅収容所の官吏アドルフ:アイヒマンは ユダヤ人を効率良く大量に屍体に変換するための計画書の作成に尽力した
だが 屍体を直接見ることは嫌ったという
屍体を直接見ることを嫌ったということは 大脳辺縁系は損傷していなかったという証拠でもある
ナチス政権への忠誠忠実さをアピールし 組織内部での評価欲しさに客観的に自分の行動責任を放棄したのは 大脳辺縁系が促す欲望によるものである
大脳辺縁系は様々な欲望を促し 利己的利益報酬や世間的評価などを目的とした情動行動の源となる
夕暮れの空の色を見て「美しい」と思うのも大脳辺縁系の働きであり
まりちゅうの水着グラビアに目を奪われるのも大脳辺縁系の働きである
大脳辺縁系というのは様々な欲望や感情を作り出すが 欲望自体を欲することは出来ないものでもある
しかし 日々の生活の中で出てくる様々な欲望の中から これからも生き続ける上において最も大切な「目的」が何かを「選択」することは不可能ではない
その「目的」が 本当に自分が求めているものなのかどうかを検証するのは理性である
「本当の事」という真理を見分けるためには 論理客観的根拠に基づいた考えが必要不可欠であり 気分感情だけでは「道理」というものを欠いた個人的好き嫌いだけの判断にしかならないからだ
しかし 目先の感情に意識を奪われてしまうことで利己的利益追求に走ったり 他人への迷惑に配慮を欠いたりして人間性や倫理を喪失するようになるのである
気分感情の強度程度によって 理性を失うことで ヒトは嘘でもデマでもペテンでも簡単に信じ込んで鵜呑みにするようになり 本当に望んだ結果とは異なる行動に陥ってしまうのである
「人間」としての「目的」とは何か それは社会安全性や持続可能性を基準とした行動である
公益的視点というものを持つためには 先ず自分が主体的に物事を「考える」必要があり ただ漫然と世間の流行や常識に流されていたのでは人間性や倫理には配慮が働かなくなる
「ナチス政権が悪い」だの「東京電力の体質が悪い」だの「時代や社会が悪い」といった多数他人に責任転嫁することは簡単だが 人間性や倫理というものは「個人が自律的に社会的責任判断選択をすること」であって 世間多数の顔色を窺って表面的に善人を装っても人間性や倫理にはならない
ヒトは哺乳類であるから 赤ん坊を見るとほぼ無条件で「かわいい」と思う習性がある
ヒトは「かわいい」ものが大好きなのである
ミニチュアプードルに人気があるのも 「かわいい」からである
ところが 虐待を受けて育った人の場合 赤ん坊の鳴き声に耐えられずに暴力を振るってしまうこともある
その場の「好き」とか「嫌い」の強度程度だけでしか行動が決定せず 理性による客観的な行動抑制が効かないのが原因である
感情が落ち着いてから冷静に考えれば 乳児を虐待してはいけないことくらい 本当は「知って」いるのだが 「知って」いながら目先の感情に抗うことができないから虐待は連鎖するのである
感情の源は大脳辺縁系である
「赤ん坊の屍体を見て哀しい」と思うのも 「赤ん坊の鳴き声がうるさくて苛つく」のも どちらも感情である
強姦魔が女性を襲うのも 強盗が金を奪うのも 通り魔が人を殺すのも 全て感情 すなはち大脳辺縁系の働きによるものである
感情というものは ヒトの理性を簡単に喪失させるものでもあり 振り込め詐欺師の口車に騙されて 後で冷静になって考えてみればバカみたいな嘘であっても 目先の感情に促されて簡単に理性を失い嘘を信じ込んでしまうのである
冷静さを失う原因は かつての祖先の生息環境の影響によるものである
自然界の過酷な生存競争においては 物事を冷静に考えていたのでは対応が遅れて天敵などに喰われてしまう
そのため 恐怖などの感情が強く働いた場合には物事を深く検証したりせずに反射的に逃げ出したり噛み付いたりする個体への収束進化が促される淘汰圧力が働いた結果である
それは別に「生き延びよう」と考えて行動しているのではなく 条件反射的無意識に促される行動であって 結果的に「死なずに済んだ」習性を持った個体の性質に過ぎない
主体的に「選んだ」のではなく かつての祖先の生息環境によって受動的に「選ばれた」のであって そこに「自分の主体的選択」が介在する余地はない
従って その場限りの感情に無為に無意識に流されていたのでは到底「自分の意思選択」とは言えないのである
理性は 場合によって感情に反する行動選択を要求する
「殴りたいけど 殴るべきではない」という葛藤を理性は求めてくる
だから理性は気分感情にとっては「邪魔」なものでもあり 気分が良くなるものではない
「自分の自動車運転技能は 加齢によって衰えているかも知れない」という客観的検証よりも 「俺は90歳にもなるけど 全然大丈夫だ」と思い込んでいた方が気分感情的には安心満足なのである
「自分だけは絶対に大丈夫」と思っているヒト程 振り込め詐欺に簡単に騙されるのである
「自分だけは絶対に大丈夫」だと思っていれば安心満足だからこそ 自己客観的に物事を「考える」ことができなくなるのである
なぜ そう 「思う」のかと言えば そう「思って」いた方が気分的に安心満足だからである
自己に対する過信というものも 過信しておいた方が気分的に安心満足感が得られるという大脳辺縁系の構造的欠陥によるものである
そもそも大脳辺縁系というのは ヒトがヒトになる以前の野生動物とほとんど同じであって 解剖学的にも動物行動学的にもほとんど一緒だと言える
イヌが統率協調的に獲物を仕留めることと 子供が集団でイジメをすることや 暴力団やテロリスト集団の統率協調性も 先天的な「社会形成習性」によるものであって 理性が働いていたら無差別暴力などという非合理的行動には陥らないのである
理性は気分が悪い
東京電力社内において 原発の津波に対する脆弱性を主張し対策を上司に進言しても 「いつ来るのかもわからぬ津波に対する危険性を考慮に入れたら 日本中のどこにも原発など造れないだろ」と言われた場合 自分が社内でこれからも給料を貰い続けるためには上司の言動に従っておいた方が気分的には楽である
こうした東電の無責任な「体質」に嫌気がさして退職し 福島から遠く離れた四国で農業を営んでいる元社員もいる
国会原発事故調査委員会報告書において 事故の最も根源的な原因として「組織の利益を優先し 個人が自律的な社会的責任を負わなかったこと」と結論付けている
機械工学的な原因が何であろうとも 最終的には運用する「人間」の問題であることに違いはないのである
犯罪者に懲罰を与えておくと満足する
犯罪者がなぜ犯罪を犯すような無責任な人格になったのかについては検証し 同じ様な犯罪者が出ないようにするためにはどうすれば良いのかについては 誰も考えようとはしない
論理客観的に考えれば ヒトである以上は同じ様な犯罪者がこれから出てくる可能性は充分にあるわけで 同じ轍を踏まないため 同じ様な被害者を減らすためには 刑罰ではなく徹底した原因究明と再発防止策を施すことが社会的には最も合理的で効率が良いのだが 被害者感情的にはそれは満足感が得られないものでもある
飲酒運転で子供5人を殺傷した男を 何年刑務所にブチ込んだら飲酒運転事故がなくなると言えるであろうか
たとえ死刑にしたとしても 無責任な奴がいる限り飲酒運転事故は撲滅できないのである
実際 中国では麻薬取締法違反は極刑であるが 麻薬の生産ではトップクラスを維持し続けているのである
たとえ日本であっても 通り魔が何度死刑になっても通り魔事件は繰り返すし アメリカでも銃乱射事件は後を絶たない
相模原障害者施設津久井やまゆり園虐殺事件の植松聖に対し 梅沢富美男は「こんな奴に裁判など要らぬ 死刑にしちまぇ!」と怒鳴り散らして大衆人気を得た
社会的な合理性は何もないが 罰は大衆人気が得られるのである
合理性のある再発防止策を放棄しておいて厳罰化さえしておけば気分的には安心満足できるのが ヒトという種の生物の先天的習性というものである
気分的な安心を優先し 論理客観的な根拠ある安全性を無視するのがヒトという種の生物の先天的習性というものである
「理性=悪いもの」という方程式を鵜呑みにしておけば 気分的には安心満足であろう だが 実際には「理性=気分が悪いもの」なだけであって 理性なくして人間性も倫理も安全性も持続可能性も成立しないのである
安全性を優先しない倫理なんぞあり得ないからだ
私がいくら哲学界や生物学界を批判しても 非合理な「はぐらかし」や「ごまかし」が繰り返され 異端者扱いの謗りしか受けず 何ら世間的評価にはならないが 世間的評価がありさえすれば人間として正しい行動であることの論証にはならない
占い師やペテン師であっても大衆人気を得て世間的には成功することはある
ヒトは 観念的な根拠のない決め付けが自分の主観的観念にとって都合が良い場合は無条件で鵜呑みにし 気分的安心満足によって決め付けをした相手を好きになり 信じ込んで疑わなくなる
気分が良くなりさえすれば 「勝手な決め付け」に論理客観的根拠がなくても構わず 嘘でもデマでも鵜呑みにするようになる
養老孟司の「脳化」云々の話に人気が出たのも その後に誰も疑わなくなったのも 世間の観念的「常識」にとって迎合する気分の良くなる話だったからである
「洗脳」状態のヒトというのは 自分の主観的気分が安心満足だからこそ 疑うことなく盲目的に何かに取り憑かれることが出来るのであって 「脳が洗われる」かのように安心満足するから「洗脳」なのである
自分が一度信じ込んでいたものを否定されると 自らの頭の悪さを自覚しなければならなくなるので気分が悪くなる だから洗脳は解くのが難しいのである
一度バカになると バカの難治性は酷く いくら論理的に説明しても主観的気分による拒絶反応しかしなくなるのである
「自分だけは絶対に大丈夫だ」という過信の穴に閉じこもり 自分の頭の悪さを客観的に検証する冷静さは失われる
そうやってヒトは社会的責任判断能力を喪失するのである
その果てにある「結果」がいかなるものかは 私の責任の範疇にはない
Ende;