このブログの記事のなかでも、これまで小野小町や西行や在原業平などの事跡を取りあげたことがある。とは言え、もともとそうした歴史上の人物に私がとくに興味や関心をもっていたというわけでもなく、ただ昔に学校で習った日本史や古典の中に、それら聞き覚えていた人物の名前があったにすぎない。
日々の散歩や散輪に出かけるおりに、昔授業で教わった歴史上の、すでに過去になったそうした人々の足跡が、たまたま訪れる近所の寺社に残されているのを知って、興味ひかれて少し調べてみようと思い立ったのがきっかけになった。また最近のインターネットの発達もあって、文献や資料に当たるにも調べやすくなったということもある。
先に業平卿の人物の背景について調べていたときに気がついたのだけれども、とくに奈良朝から平安朝への移行期が、それ以降の日本史の基礎を据えるような重要な歴史的な転換期に当たるのではないか、と感じたことである。
そんなことは日本史の常識かもしれないが、学校教育で私の受けた日本史や古典の授業などは通り一遍で、また青年時代にそれだけの理解力もなかったということもあるのだろうけれども、私の歴史認識などその程度のものだった。これまでとくに歴史に興味や関心を駆り立てられると言うこともなかった。
しかし今こうして、未来の時間よりもむしろ過去の時間の方が長くなっていることを実感し始めると、すでに歴史の彼方に隠れてしまった過去の人々の面影が、私自身の過去の時間の延長に色濃く浮かび始めてくるのをどうしても感じる。
近所などを散策していて、藤原乙牟漏様などの旧跡などに出くわすと、そこにすでに眠りに就いている人々の姿が、先に逝った父や母の向こうに現れてきて、若かりし昔よりはよほど歴史に断絶感のなくなっていることに気がつく。
桓武皇后陵や業平卿の終焉の地とされる十輪寺や西行がそこで剃髪したらしい勝持寺などを訪れて見たりするとき、そして、その折りにあらためて彼らの生きた時代の背景なども調べてみると、今まで無造作に頭の中に散らばっていた彼らの人物像が、それぞれ生きてつながってくるようでなかなか面白く興味深くなってくる。
とくに業平たちの生きた平安時代の初期は、「伊勢物語」などの舞台でもあって、業平と同じ時代に生きた藤原高子や小野小町などの人物像の輪郭をもっと深く明確に浮き彫りにしたいという誘惑にかられる。現在のような曖昧模糊のままでは何となく物足りないような気がする。
また、現在の私には在原業平の背後にちらちら瞥見しうるに過ぎない空海や最澄などの面影の方に、むしろ強く惹かれるような気がしている。彼らはいずれも日本史上の頂点に位置するような人々でありながら、その実像についてあまりに疎い自身の現実に驚いている。そのせいか遅まきながらも学生時代の不勉強のやり直しをかねて、この時代を中心に調べなおして見ようと思うようになっている。
幸いにして今は昔とちがってネットの発達によって、文献資料は――もちろんその精確さについては批判的に吟味されなければならないとしても、よほど手に入れやすくなっている。それを実際のフィールドワークで確認してゆくのも、歴史科学の探究として充実した時間になりそうだ。
折りしも今年は源氏物語千年紀とされている。けれども、その作者である紫式部について、その実像については、ただ昔に「紫式部日記」の断片を読んだ記憶がある程度のものでしかない。小説よりもむしろ歴史に惹かれるのは私の性だとしても、今さらながら学生時代に怠った歴史についての空白が多すぎる。生きた証に少しでも埋めてゆくために、自分なりに調べてゆこうかと思っている。
歴史の帳に隠れておぼろげにしか見えていなかった人々の姿を、より明らかに捉えることは興味の尽きないことかもしれない。さしあたってとくに、最澄、空海の生きた平安初期に焦点を絞るべきだろうか。いずれにしてもどれだけ時間を要するかは分からない。そろそろやって行こうかと思う。また、もし同好の士がおられれば歴史散策などにご同行していただければとも思っている。