近年司法の改革が進められて来た。昨年には裁判員法が公布され、五年以内に裁判員制度が発足することになった。よりよき司法制度に向かっての一歩前進として評価したい。昔から「三人寄れば文殊の知恵」ということわざもあるように、出来うる限りの多くの人の知恵、知識、経験を持ち寄って合議が行われれば、さらにいっそう正義と真実が実現されることになるだろう。市民が公共の問題に関心を持ち、認識を深めつつ公共の精神を培ってゆくのは良いことである。
とはいえ、現在の裁判制度のもとで下される判決の中には、首を傾げたくなるようなものも多い。1997年に神戸でおきたいわゆる「神戸児童連続殺傷事件」に対する判決もその一つであった。この事件の犯罪者が14歳の少年であったということもあって、この特異な事件は世間の耳目を集めることにもなった。この事件を契機として、ますます凶悪化する少年犯罪にの傾向に対して、少年法の改正にも取り組まれることになった。事件に対しても判決が下されたが、少年は少年院ではなく、医療少年院に送致され、保護処分になることが明らかになった。そのときに、私は何かこの判決に不本意なものを感じたのだが、はっきりしないままに中途に放棄したままだった。
私が感じたそのときの違和感とは、要するにこの判決によっては正義が回復されないのではないかということから来るものである。この判決では、少年は犯罪者ではなく病人として、少なくとも一種の精神的な異常者として取り扱われることになる。しかし、これでは、犯罪と精神病理との区別を解消してしまうことになる。確かに、犯罪は一種の「精神的な病」といえるかも知れないが、しかし、少なくとも犯罪は肉体的な病理現象とは区別されなければならない。実際にこの判決で検討された協同鑑定書においても、少年が「普通の知能を有し、意識も清明で精神病であることを示唆する所見のないこと」を認めて裁判官もそれに同意している。
もともと、犯罪とは精神的な機能においてはまったく「正常」な状態で実行されるものである。そうでなければそれは、もはや犯罪とは言えず、「病気」にすぎない。私には現在の裁判官がどのような人間観、刑法理論に基づいて判決を下す傾向があるのかよくわからない。しかし、裁判というのは、失われた正義を回復することが、根本的な使命である。欧米の裁判所の梁を飾っている、目隠しされた正義の女神の像が手に天秤を握っているのはこのことを象徴している。裁判官が医療者や精神的カウンセラーになってしまっては、裁判は裁判の意義を保てない。
裁判官の中垣康弘判事も、被害女児の両親の「少年を見捨てることなく少年に本件の責任を十分に自覚させてください」ということばを引用し、そして、「いつの日か少年が更生し、被害者と被害者の遺族に心からわびる日の来ることを祈っている」といいながら判決文を結んでいる。ただ、私がこの井垣判決で感じた疑問点は、そこには少年の更正のための配慮はあっても、失われた正義を回復するという、裁判官の ──それは国家の意思でもある──確固とした意思のないことである。犯罪とは国家の法(正義)を侵害することである。そして、犯罪者による正義への、法へのこの不当な侵害については、犯罪者が正当に処罰されることによって、犯罪者に刑罰が課せられることによって、法と正義が回復されるのである。また、犯罪者自身も正しく処罰されることによって人格として尊重されることになる。なぜなら人間の尊厳は意思の自由の中にあるのであり、犯罪者といえども善悪を知る存在であり、かつ、明確に悪を選択し、正義を侵害する選択をしたからである。
神戸児童連続殺傷事件の判決では、女神の天秤は著しく傾いたままで、失われた正義の均衡は回復していないようにも思える。社会と国家の正義は破損されたままである。そして、再び、神戸の犯罪少年の崇拝者が最近になって同じ犯罪を犯した。裁判官は今回の十七歳の少年をどのように処断するのだろうか。