天高群星近

☆天高く群星近し☆☆☆☆☆

概念とは何か①

2005年07月12日 | 文化・芸術

言語学や論理学において、「概念とは何か」という問題を解くことは、すなわち、「概念の概念を明らかにすることは、核心的な課題であると思っている。
もちろん、私たちは、別に、概念の何たるかを特に問題にすることがなくとも、不自由はなく、日常的には自由に思考しながら、さまざまな問題を解決しつつ暮らしている。 」

しかし、少なくとも、言語や思考の本質を明らかにすることを目的とする哲学においては、その中心的な問題が「概念」にあることは言うまでもない。少なくとも、私にとってはそうである。


ここでは、特に二人の思想家の概念論について触れながら、私自身の概念観を深めて行きたいと思う。


一人は、マルクスである。マルクスは「概念」の発生、あるいは形成について、おおよそ、次のように説明している。(今、マルクスの『経哲草稿』が手元にないので、直接マルクスの考えを紹介することが出来ないが、参照出来次第ここに引用するつもりでいる。)「多くの事物を経験的に観察して、たとえば、バラや菊やナデシコなどを見て、それらが、いずれも緑色の葉や茎や根を持ち、また、色鮮やかな花を咲かせ、また、その生育に、光や土壌、空気などの共通の条件を必要としている。人間はこのように、経験を通じて個別的な事物を比較類推しながら、それらに共通の要素を抽出し、抽象化して「概念」を作る。そこから、たとえば「植物」という概念を形成する。」大体、マルクスの概念観はそのようなものであったと思う。そこでは、青年マルクスは概念を思考の形式、あるいは、一般的な表象として理解しているだけである。

それに対して、ヘーゲルの概念観はそこにとどまらない。もちろん、ヘーゲルの概念にはそうした意味も含まれるのであるが、さらに、概念を事物の運動の魂、主体として捉える。この概念観が、多くの唯物論者をしてヘーゲル批判に駆り立てることになった。

ヘーゲルはそうした誤解を招くことを知りながら、──概念について次のように規定している。「概念は自立的に存在する主体的な力として自由なものである」(小論理学§160)ヘーゲル自身がはっきりと述べているように、概念を単に思考の形式、もしくは単なる表象と見る見方は、概念についての低い理解であり、むしろ、概念は、「あらゆる生命の原理であり、したがって絶対に具体的なものである」とされている。おそらくチョムスキーらの生得観念もこうした概念観に共通するものを持っていると思われる。そして、唯物論者は、こうした概念観に異を唱えているのである。

ヘーゲルにあっては、概念は単に形式にとどまらず、同時に具体的な内容でもある。そして、また、ヘーゲルは「絶対者は概念である」と定義する。絶対者が神の論理的な規定であることからすれば、ここでは宗教的な「神」の表象が、「概念」として捉えられている。(小論理学§161参照)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天高群星近