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天高群星近

☆天高く群星近し☆☆☆☆☆

西行の桜(二)

2007年04月10日 | 日記・紀行
 

西行法師の桜(二)

勝持寺は西山のふもとに抱かれた山寺である。今でこそ交通の便も良くなって、京都の街中からも半時間もあれば来ることはできるが、西行の生きた時代には、まだ奥深い山の中の寺だっただろう。徒歩か、せいぜい馬、駕篭ぐらいしか交通の手段は当然なかったし、だから、それほど簡単にはこうした寺にも訪れることはできなかった。この寺がどのような位置にあるかは、境内のはずれから、遥か眼下に市街地を眺望することによってわかる。

    老人の述懐といふことを、人々詠みけるに

1238  山深み  杖にすがりて  入る人の

     心の奥の  恥づかしきかな

求道の歌とも、恋の歌とも言われる。山が深いように、求道の道も奥深く、杖にすがってまでも道を求めて、山に入る老人の心に比べて、私の心の何と浅ましいことよ。

そうしてこの地で西行もまた世俗を離れ、後世安楽をもとめてこの寺で出家し庵を結び、桜の苗木を植え、求道の道を辿る。

不動堂の左脇に池があり、その中にやさしい顔をした魚藍観音像が立っている。どういうわけかこの観音様は手に竹篭を提げられ、その中に一匹の魚が入っている。それで漁師たちに信仰されているのだという。

阿弥陀堂に向う。勝持寺は天台宗である。その教えは中国の智(538年~597年)から日本の最澄(767年~822年)の教えの流れを汲む。天台宗はまた根本経典を法華経に求め、最澄の創建になる比叡山延暦寺は、日蓮や親鸞などの鎌倉仏教の源流となっている。


靴を脱いで阿弥陀堂に上がる。正面には薬師如来像が端正に鎮座していた。小さな山寺にふさわしい仏様である。古い仏像を前にすると、おのずから当時の人々の精神を、たとえ一時なりとも共有できるような気がする。それも、こうした古い寺を訪れる楽しみの一つである。神々しい仏像を自ら刻んで、その前に額づいて祈った当時の人々の、煩悩からの救済の純粋な願いを、少しでも共感できるからだ。西行の心は今は、彼自身が願ったように、浄土に憩らっているにちがいない。

1540  誓ひありて  願はん国へ  行くべくは    

    西の門より  悟りひらかん

阿弥陀堂のとなりに瑠璃光殿があり、そこに漆塗りの黒く小さな西行像があった。寄木造りで赤子のように抱えて運び出せそうな小さな御像である。髪を下ろした、すでに若くはない西行の面立ちが刻まれていた。室町時代の作で、平安の御世に生きた西行の面影をどれほど正確に伝えているのかどうかわからない。

この小さな西行の背後の両脇に、仁王像が凄まじい形相で見下ろしている。見事な彫刻である。鎌倉時代の作という。いかにも、鎌倉時代にふさわしい武士たちの質実剛健な精神の息吹が感じられる。西行は平安の末期に武士として生まれ、そして、出家して半俗の歌人として死した。時代は、保元の乱、平治の乱と続いて平安貴族の没落の中に、平家や源氏の武家の気風が萌し始めた頃である。その時代は、西行の一見世俗を超克したような歌にも深く刻印されている。

  花の散りたりけるに並びて咲きはじめける桜を見て

772   散ると見れば   また咲く花の  匂ひにも

    後れ先だつ  ためしありけり

 


西行の桜

2007年04月09日 | 日記・紀行
 

西行法師の桜(一)

陽気に誘われて、花の寺に西行を偲びに行く。
西行法師は遺言の歌にも、

78  仏には  桜の花を  たてまつれ
   わが後の世を  人とぶらはば

と詠んでいるように、生涯これほど花に深く執着した歌人はいないのではいかと思う。実際に彼が花にちなんで詠んだ歌はいずれも感銘深く、余人の追随を許さない。

いまだなお青年にあって彼が出家したと伝えられるこの寺と彼の歌を訪ねて、この歌人をとぶらうことにする。

西行の出家は、千百四十年、保延六年十月十五日、二十三歳のときである。法名円位、大宝坊と号す。西行が出家して翌々年、千百四十二年、永治二年三月十五日の藤原頼長の日記『台記』には、実際に対面した西行に年を尋ねると、二十五と答えたことが記されている。そのときの西行の人となりは次のように記されている。

「西行法師来タリテ云ク、一品経ヲ行フニ依リ、両院以下、貴所皆下シ給フナリ。・・・又余年ヲ問フ。答ヘテ曰ク、廿五ナリト。・・・抑西行ハ、本兵衛尉(佐藤)義清ナリ。重代ノ勇士ヲ以ッテ法皇ニ仕フ。俗時自リ心ヲ仏道ニ入レ、家富ミ年若ク、心愁無キモ、遂ニ以ッテ遁世ス。人之ヲ歎美セルナリ。」

実際に西行に会った者の記録であるから、貴重な証言であるといえる。それによれば、出家当時、西行は二十三歳でまだ若く、武門の家に生を享けて、家も豊かであったという。ただそこに藤原頼長が、「心愁無キモ、遂ニ以ッテ遁世ス」と記してあるのは正確ではないだろう。どんなに家が富んでいても、また生活の苦労もないように見えても、西行の和歌を見てもわかるように、天性彼の心ほどに感受性の鋭いものであれば、「心愁無キモ」というのは正しくはないだろう。頼長の眼には外見からはそう見えただけにちがいない。

仁王門をくぐり竹林の間に延びる参道をのぼってゆく。この仁王門だけは応仁の乱の兵火にも生き残って、創建時の面影を伝えるという。白壁に桜が見える。そして正門に至る。去年見た晩秋の、というより初冬の時の面影とはうって変わって、寺の門扉は桜に飾られていた。ウグイスの囀りも聞こえてくる。
   
108 いかでわれ  この世のほかの  思い出でに
   風をいとはで  花をながめん

いずれは、自分もこの世を去ってゆかなければらない身の上である。西行も自分の生のはかないことを知っていた。彼はこの美しい桜の花をこの世に生きた証しとして来世の思い出のために、せめて記憶にとどめようとする。

西行の時代も同じで、美しい花見には人出はいつも多く、ゆっくりと心静かに花を眺めることができなかったこともあったようだ。

 しずかならんと思ひける頃、花見に人々まうで来たりければ

87  花見にと  群れつつ人の  来るのみぞ
   あたら桜の  とがにはありける

週末を避けてきたせいか、そして時間もずらせてきたせいか、幸いに人出も少なく、三々五々にわずかに見られる程度だった。西行のように、街中のような桜見物の人出を桜の罪にしないですむ。

96  山寺の花盛りなりけるに、昔を思ひ出でて

  吉野山  ほきぢ伝ひに  訪ね入りて  
  花見し春は  ひと昔かも

「昔を思い出でて」とあるから、この歌を詠んだとき、西行はすでに若くはなかったのだろう。山寺の花が満開であるのを見て、それをきっかけに、西行は自分が昔、険しい崖道を辿りながら、吉野山に花を訪ねた若き日のことを回想している。

「山寺の花」とあるから、かって自分が剃髪したことのあるこの寺を西行がふたたび訪れた時に、昔の吉野山の山行きを思い出して詠んだとしてもおかしくはない。

このお寺へは私も、青年の頃から何度も数え切れないくらい訪れている。今となっては、かってここを一緒に訪れた人で音信のとれないままの人もいる。そして、私もまた髪も白くなって、昔のままではない。今も昔も、時の流れは誰も押しとどめることができない。


寺と花だけが、おそらく西行の時代からそんなにも変わっていないのだろう。しかし、人の命ははかない。かってこの寺を訪れた無数に多くの人々も、それぞれに自分の花の記憶を携えて、時間の彼方に消えて行くだけである。

言葉も芸術をも残さなかったものは忘れ去られてしまって、記憶にも残らない。ただ西行のように、時間とともに古びない芸術の永遠に生きたものだけが、新たに生きる者の記憶によって折りに触れて現世によみがえってくる。

寺の境内では、白い花びらの山桜と枝垂桜の淡い紅色が春の空を背に一瞬の天上の饗宴を垣間見させてくれているようだった。
鐘楼堂の脇に植わっていた、西行法師の手植えの桜と伝えられる、西行桜をしばし眺める。

 桜花 忘るるなかれ  汝を愛でし   
   懐かしき歌人  法師の御名を

 


桃の節句

2007年03月03日 | 日記・紀行

桃の節句

今日は桃の節句。女の子の節句。大和撫子たちの健やかな幸せを祈る日。

春の苑  くれなゐにほふ  桃の花  
  した照る道に  出で立つをとめ

               大伴家持

久しぶりにテレサ・テンの歌謡曲をアルバムで聴く。この歌姫が亡くなってもうどれくらいの歳月が過ぎたことだろう。若くして突然の不可解な死を遂げた背景に政治的な因縁があったのかなかったのか、今となっては神のみの知る昔のことになってしまった。はたして単純な事故死だったのか。時間はすべてを忘却の彼方に追いやる大河のようである。

 

代表曲は、やはり「時の流れに身をまかせ」か。「別れの予感」など彼女らしさがもっとも良く出ていると思うけれども。こんな曲も彼女の肉声で聴くことはもうできない。すでに忘れられつつある曲になっている。世代の交代はやむをえない。今の若い人には知らない人もいるかもしれない。

 

    テレサ・テン「別れの予感」

 


ある劇作家の死―――木下順二氏のこと

2007年02月01日 | 日記・紀行

ある劇作家の死―――木下順二氏のこと

ある劇作家の死といっても、木下順二氏はすでに有名な人だから、「ある劇作家の死」などといった思わせぶりな言い方はふさわしくないのかもしれない。しかし、最近の若い人にはこの劇作家を知らない人もいるだろう。

高名であった割には、氏の作品を私も全く読んではいない。ただ氏の脚本になる『夕鶴』が、すでに同じく亡くなられた作曲家の團伊玖磨氏の手によって日本製のオペラ『夕鶴』になったのを、ただ一度、それもテレビで見ただけである。つうと与ひょうの夫婦を中心とする物語で、登場人物も西洋オペラのように大掛かりな人数ではなく、内容も質朴なものだった。女優の山本安英さんの記録的な回数の上演が話題になったこともある。

だから木下順二氏は名誉や顕彰にふさわしくない人ではなかった。しかし、氏は生前にはそれほどマスコミにも登場しなかったし、私もテレビで何かの折に見た記憶がかすかに残っているぐらいだ。故郷の名誉市民の授与も国からの賞や勲章も辞退したらしい。

木下順二氏が逝かれたのは、実は昨年の十月三十日で、氏自身の遺言で、半年は黙っていて欲しい、延命治療も葬式もしないでと希望されたという。死を見取ったのも養女の木下とみ子さんただ一人だったらしい。そして、氏の遺灰は母親のそれとともに海に撒かれるという。今年の一月十九日の新聞の追想録という欄に内田洋一という記者が報告していたのを読んで、はじめて氏のご逝去を知った。享年九十二歳だった。関係者の方がたぶん、追悼文など書かれていたはずだが、自分には読む機会もなかった。 

 


秋風が吹く

2006年09月09日 | 日記・紀行
 

 

九月に入り、少しは涼しくなった。風が秋らしくなった。温暖化や環境破壊など騒がれるようにはなったけれど、季節の流れの根本まで崩れたわけではない。
風に秋の到来を感じる。この感性は日本人にはなじみのもので、万葉集や古今和歌集に見られるように、奈良や平安の昔からのものである。
土佐日記の作者で、古今和歌集の編者でもあった紀貫之は、その昔の立秋の日に、貴族の若者たちの伴をして賀茂川の河原を散策したおり、秋を感じて詠んだ歌を残している。

河風の すずしくもあるか うちよする 

        浪とともにや 秋は立つらむ

川風が涼しいね。秋風に打ち立てられるようにして寄せくる浪が、いよいよ秋の到来を感じさせるよ。

古今和歌集に収められたこの歌が、いつ詠まれたのかは正確にはわからない。しかし、紀貫之は9世紀に生まれた人だから、すでに千年以上も昔の出来事である。詞書によれば、五条か六条あたりに貴族の屋敷が多かったから、貴族の青年たちと五条川原あたりを散策したときの歌かもしれない。賀茂川はもちろん今も流れている。けれども今は、京阪電車が走ったり、川沿いの道路を自動車が走るなど、その面影はすっかり変っている。私たちは、観念の中で往時を追憶できるだけである。

「土佐日記」のなかには紀貫之が大阪から京にいたるまで桂川を遡ったことが記録されている。桂川はその堤防の上はよく走る。もちろん今の桂川を舟でさかのぼることはできない。コンクリートで堰が造られたりして、舟のみならず魚すらも遡ることがむずかしい。

もし、行政の施策が行き届いていれば、紀貫之が生きた当時の美しい景観を保つことも可能なのだろうが、そうなってはいない。桂川で舟遊びができればどんなに楽しいだろうと思う。現代の市民が平安の貴族たちのように、その河原で散策を楽しめるようになるのは、まだ遠い先のことかも知れない。

JRの駅から自宅に至るまでには、まだかなりの稲田が残っている。やや色づき始めた稲田の間のあぜ道を風に吹かれて歩く。用水路に白い羽のセキレイが見える。
いつ南国に帰るのか、ツバメの夫婦も少し色づきはじめた稲穂の上をまだ飛び交っている。農家の人が作った小さな垣に白や紫の小さな朝顔がまとわりついている。朝顔を植えるのを忘れていたことを思い出す。来年は植えようと思う。もう夏の名残になってしまったけれど、露を帯びた朝顔の花を早朝に眺めるはすがすがしい。

オシロイバナも目に付くようになった。そのほとんどは赤か白の花である。近くを通りかかると、この花特有の香りが漂う。赤と白の縞模様をもった突然変異に交配した花を見るときもある。たまに見る黄色のオシロイバナがとても美しい。

 


自転車紀行(1-2)洛西

2006年05月14日 | 日記・紀行

 

東海道自然歩道になっているこの辺りは、洛西を取り巻く西山に沿っており、この場所からは、はるか眼下に京都の街並みを一望できる。京都駅前に立っている京都タワーも小さく見える。

ここからは「花の寺」の名で知られる勝持寺も近い。花の寺と聞いて、いかにも俗受けのする観光向けのネーミングだと思っていた。しかし、そうではなかった。この寺で西行法師は出家したそうだ。彼は好きな歌人だったので、この偶然が嬉しかった。西行はこの寺に庵を結び、桜を植えていつくしんだという。その桜はやがて人々から西行桜と名づけられ、そこからこの寺は花の寺とも呼ばれるようになったという。それを知った時、私は自分の無知を恥じた。その桜の木が今でもあるのかどうか知らない。戻ってきてからまだ一度もこの寺を訪れていない。今年の桜の季節にも来なかった。この寺も小塩山もポンポン山もいつかまた訪れるときがあると思う。

少し肌寒いかと思い、少し厚めのジャンパーを着て出たのがあだになった。自転車を走らせると汗ばんでくる。北の方に行くと九号線から亀岡の方に出る。今日は南に走り、昔の田舎の面影をまだところどころに残している山里の、閑静な家並みの間をゆっくり走った。

 

少し坂を上って、女子大のグランドの近くに行くと、その一角に洒落た喫茶店があった。街中ではないから敷地も広く、入り口に至るまで、さまざまの花が並べられ売られていた。多分、花屋さんを兼ねていたのかもしれない。あるいは、花屋さんが喫茶店を兼ねていたのか。とにかく、のどかで落ち着いた感じのする喫茶店だった。どんな花が並べられていたのか思い出せない。それからさらに少し山間に入ったところの木陰などには鷺草が見られた。また、小さな崖の下には山ツツジなどもこっそりと咲いていた。


間もなく石作町に出る。この地は、竹取り物語のかぐや姫に求婚した五人の貴公子の一人、石作皇子のゆかりの地であると言う。この石作皇子は、インドにあった仏の御石の鉢を持ってくるように、かぐや姫から求められたのだった。石作皇子は今もそのユーモアで私たちを楽しませてくれる。確かに、この辺りは洛西ニュータウンができる前は広大な竹林に覆われた丘陵だったから、ここでかぐや姫が生まれてもおかしくはない。竹から生まれた「かぐや姫」を記念する祭りも町にはある。

 

ふたたび下り坂に入って少し走ると、業平ゆかりの寺、十輪寺の標識が立っている。今日はそちらの方には行かず、市街地に至る道の方へと、散輪ももうおしまいするつもりで走らせる。この辺りには大原野の畑が一帯に広がっている。まだもちろん、田植えは行われてはいなかったが、所々に稲の苗代が見られた。柔らかなビロード地の肌触りの絨毯のように、きれいな黄緑色をして風になびいている。畑のサヤエンドウも、スイトピーのような白い花をつけていた。農家の人たちが、観賞用に植えているのか、ヒナギクや大きな花弁を垂らしたショウブも(あやめやカキツバタとの識別が私にはできない)あちこちに見えた。

 

市街に近づいたとき、仕出し料亭「うお嘉」さんの駐車場に送迎用のマイクロバスが着いたばかりらしかった。ウグイス色の和服を着た仲居さんたちが、バスから降りてくる団体客を案内して信号の変わるのを待っていた。このあたりの料亭は筍料理が十八番である。

さらに市街地に入って、スーパーマーケットに近づいたとき、先日に買い忘れをしたことを思い出した。ついでに立ち寄って買って帰ろうと思った。途中に、サラリーマン風の男性に、「料理屋のうお嘉さんはこの道を行けばよいのですか」と尋ねられた。私は自転車を止め、来た道を振り返って指差しながら、「まっすぐ行けばいいですよ。でも歩くと相当ありますよ」と言った。さっきの団体客の一人が、マイクロバスに乗り遅れでもしたのだろうか。荷物も提げていたから気の毒になる。

 

その昔はこの辺りも多くが竹林だった。最近はずいぶんにたくさんに家が新築されて立ち並ぶようになった。しかし残念ながら、そこにかもし出される街並みの印象や雰囲気は、私にはとても気品があるとは思えない。私の価値観や美意識が今の時代には特殊なのだろうか。最近のこうした戸建て住宅の設計者や建築家の美的感覚はどうなっているのだろうと思いもする。もちろん素人の口出すことではないことはわかっているけれど。ただ、そうした風景をその眼に刻みこむ住民や子供たちの精神は、日常にどのような印象や影響を受けて育つだろうか。果たして優れた美意識がはぐくまれるだろうか。 


やがて鉄塔の立っている池の横に出た。この池は町の共同管理地になっている。その池の中のところどころに、黄色のアヤメが、キショウブと言うのだろうか、群生しているのが見えた。それを見て、やはり人間の造形は、とりわけ現代日本人のそれは昔の人以上に、自然の美しさにはまだ及びもつかないのだと思った。

 (06/05/12)


自転車紀行(1)洛西

2006年05月12日 | 日記・紀行
 

久しぶりに、自転車で散歩に出かけた。今日は一日曇り空で、少し肌寒いくらいだった。天気予報を調べても、終日曇り空らしいが、雨は降るようにはないので、気軽に夕方の散輪に出かけた。

とりあえず郵便局が閉まる前に、まず立ち寄ることにした。郵便局の前についたとき、郵便局員の青年が、ちょうど赤いポストから郵便袋を取り出し、その首をロープで括って集配の軽自動車の助手席に放り投げたところだった。その青年は車の後部に回って、運転席に戻ろうとしていた。

ちょと残念な気がしたが、仕方がない。それで自転車を止め置いて、郵便物をバックから取り出してポストに投げ入れようとしたところ、その青年は、助手席の窓を下げて、「まだ大丈夫ですよ」と言って、手を出してくれた。眉の濃い好青年だった。

それで、ポストに入れかけた封書を二通、ありがたくその青年に手渡すと、彼はちらっと宛名と差出人を確認してから、郵便袋に仕舞い込んだ。もし自分が若い女性ででもあったなら、ここから小さな恋愛ストーリィが始まるかもしれないのに。彼に軽く会釈してから、最後の客らしい一人が出てくるのと入れ替わりに自分は局舎に入った。

時間に余裕があれば、その場で書類を書き上げて提出してしまおうと、印鑑なども用意していったのだけれど、時間まぎわなって入ってきた客に、どこか郵便局員はきびしい表情のような気もしたので、書類だけ受け取って、家にもどってゆっくり書き上げることにした。

いつもなら散歩に出るときは、まず九号線に出て、それから洛西ニュータウンの方向に向かう。しかし、今日は、京大付属植物研究所の横手の道から、もう少し早く北に逸れて行った。すると、ちょうど回生病院に通じる道路に出た。この道をたどるのは、洛西の地に帰ってきてからは、多分初めてだと思う。この病院の前の坂道になった道路を少し登ってゆくと、竹林公園に通じている竹の径のコースに入る。久しぶりに、この道を辿ってゆくことにした。この地で長女が生まれたが、幼い間に別れざるを得なかったので、幼かった彼女とこの竹の資料館に一緒に来たのも数えるほどでしかない。いずれにせよ、遠い昔のことになってしまった。

時間は五時を回ったか回らないかの時間のはずだが、最近はすっかり日足も延びて、まだ明るい。竹林の中に入ってしまうと、人影は全くない。少し進んでゆくと間もなく、大きな円筒型の府の水道配水施設が見える。周囲の壁には竹の木のデザインが施されている。

その前を過ぎると間もなく四叉路に出くわす。左の方に行くと、駅の方に向かう。それで反対側の右に折れて、竹の資料館のある道を行った。人影はやはりない。堀り残された竹の子があっちこちに生長して、熊の毛を生やしたような先のとがった杭が、方々に地面に打たれているように見える。竹林の高い梢の方からは、時々、ウグイスの鳴き声が聞こえてくる。人影はない。清小納言は五月のホトトギスは声が醜いと言ったが、このウグイスは、それほど声も濁ってはいない。まだ十分に澄んでいてきれいだ。

ちょうど、竹の資料館に近づいたとき、静かな竹林には不釣合いなほど大きなボリュームで閉館時間を知らせる放送が流れてきた。この頃に、五時になったようだ。この竹の資料館の正面入り口に差し掛かったころ、鎖に閉ざされた駐車場の中で中学生が三人、青いジャージー姿でふざけあったりしながら帰途につこうとしていた。途中で路肩に三台ほど自動車が駐車しているのが見えた。GYAOなどのサイトで知られている新興企業のUSENの営業マンの車らしかった。中の運転席に人がいた。この会社は最近あのライブドアの買収に名乗りをあげことでも知られている。

新緑も美しいが、今はまだ花の季節である。途中に家々の軒並みや公園や畑や山の中に、実に色とりどりの花々が咲いていた。そんな花々の形、色彩を見て、それから、竹林を飛び交う小さな名も知らぬ小鳥やウグイスの鳴き声を聴いていると、大自然の造形の妙に感心せざるを得ない。そこに神を感じるか否かはとにかく、その創造の美には本当に驚く。

特に今の季節では、家々の軒先や公園を飾っている花では、やはりツツジが目立つ。白い花と赤い花がきれいなコントラストを描いている。春らしく黄や黒紫のパンジーもよく植えられていた。そんな軒先の花を眺めながら、境谷の町並みを抜け、洛西高校の横手の新しい歩道から春日町の通りに出た。

この辺りは全く初めてのような気がする。まだまだ、新しい発見のできる場所は多い。これからの残された時間で、この地をどれほど散策できるかは分からない。しかし、でき得ることなら生涯の間、何度でも、定点観測のように、繰り返しこの小さな土地の「紀行文」を書き貯めてゆきたいと思っている。

やがて古い町並みの中の細い通りに入ると、赤茶色の築地塀があり、それを辿ってゆくと、西迎寺と書かれた小さな石碑が目に付いた。この辺りも、このお寺も全くはじめてだった。付近一帯がどこか懐かしい気がする。そして、この辺りの多くの家々は、それぞれ小さな畑を持っていて、木立や畑の間にひっそりと家が建っているという風情である。畑にはトマトや糸瓜の苗が糸に吊るされて植わっていたりする。こうした光景は私にとっては理想郷に近い。以前もこんな風景に出会ったとき、いつか自分もできれば、こんなところで暮らしたいと思ったものだ。

この辺りからは大原野神社は近いはずだったが探さなかった。自転車のハンドルのまま、気の向くままに進む。ただ、大原野の方へは向かおうと思った。

一度、東京の生活から帰ってきたとき、かって、そこで飲んだり食べたり過ごした駅前の小さな中華料理店や商店街が、何か天国のように感じられた記憶もある。何も大きな都市だけが価値があるわけではない。小さな町に、昔の人が、長い歳月を経たのちも、昔のままに暮らしている。天国を何も天空の宇宙に捜し求めるまでもない。

そんなことを考えながら、しばらく走っていると、道端に、東海道自然歩道の表示板に出くわした。

 


天高群星近