プロコフィエフの日本滞在日記

1918年、ロシアの若き天才作曲家が、大正期のニッポンで過ごした日々

プロコフィエフ出国の経緯

2005-05-13 | 訳者解説
 日本滞在日記の邦訳をお届けするにあたり、今まで詳細が明らかではなかったプロコフィエフ「亡命」の経緯を、彼自身の日記によってたどってみることにしましょう。

 早熟の天才作曲家が、破竹の勢いでその才能を開花させつつあった1917年、ロシア革命が起こります。内乱状態となったロシアでは、創作活動のこれ以上の発展は見込めない――。そう判断した未来ある作曲家は、しばらくの間、祖国を離れる決意を固めました。「亡命」しようとしたわけではなかったのです。

 日記によると、1918年4月20日、プロコフィエフはボリシェビキの司令部が置かれたペトログラードのスモーリヌイ女学院にて、文部人民委員部部長アナトーリー・.ルナチャルスキーと面会し、次のような会話を交わしています。

ルナチャルスキー(以下:L) 「やめたまえ。なぜアメリカに行くんだね」
プロコフィエフ(以下:P) 「この一年、私は懸命に働きました。
  ですから今は新鮮な空気を吸いたいのです」
L 「ロシアにはこんなに新鮮な空気が充満しているではないか」
P 「それは精神的な意味でしょう。そうではなくて、物理的に新鮮な空気に飢えているんです。
  想像してみてください!太平洋を斜めに突っ切るんですよ!」
L 「よかろう。書面に記入したまえ。必要な書類を用意しよう」

 4月23日、プロコフィエフはルナチャルスキーを再訪。その間、コンサートを聞きに来ていたルナチャルスキーに、作曲家は交響曲の感想を求めます。文部人民委員部部長の答えはこうでした。
「たいへんよかった。誰もが破壊活動に余念がないときに、あなたは創作活動をしている。それがよくわかった」(日記より)

  翌24日、プロコフィエフはパスポートを受け取るためスモーリヌイを訪ねますが、用意できるのは三日後だ、と告げられます。
 さらに4月29日、作曲家は「特急は運行中止となり、モスクワから出ることになる」(日記より)と知らされます。特急とはシベリア鉄道の特急列車を指すと思われ、当時、シベリア鉄道の始点は首都ペトログラードでした。それが内乱の影響により、モスクワ発に変更となったのでしょう。

 こうして5月2日、プロコフィエフは「シベリア特急をつかまえるために」(日記より)モスクワへと旅立ち、同7日夜、極東ウラジオストックを目指す列車に乗り込んだのでした。


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