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「令和」の時代の梅の花

2020-06-26 00:22:47 | 西日本に梅を訪ねて

 

 馬見丘陵公園から奈良盆地を南下し、大和三山の一つである天香久山の麓の森林公園「万葉の森」へ向かいました。


 万葉で思い出しましたが、現在の元号「令和」名の由来は万葉集の「梅花の歌」の序文

 

 「初春の令月にして、気淑(きよ)く風和(かぜやわ)らぎ」

 【意味:初春のお正月の良い月で、風は穏やか】

 

 であることは良く知られています。


 この万葉集の「梅花の歌」とは、大伴旅人が天平2(西暦730)年に、九州の大宰府の公邸に31人の客を招き、庭の梅を読む歌宴を催した時の「梅花の歌32首」を記したものです。


 つまり元号の「令和」は、今から1300年前に、大陸との外交や政治の要となっていた大宰府公邸で梅を眺めながら、梅の歌を読んだ記録を元に考案されたものなのです。

 

 このように「令和」と梅の花は、切っても切れない関係にあると言えます。


 そのような令和の時代に、大宰府の公邸に招かれた客になったつもりで梅の花を眺めれば、嬉しくも晴れやかな気分に身を浸すことができます。

 

 天平時代には貴人しか眺められなかった梅の花なのです。


 今回もまた、かけがえのないほどに贅沢な旅を楽しめそうな予感がします。


 馬見丘陵公園を出発して30分ほどで万葉の森に到着しました。


 小高い丘へ上る道の道路脇のパーキングに車を置いて、車道から土の坂を20m程も下ると、馬蹄形の谷の斜面に紅白の梅が花を咲かせていました。


 風の囁きも聞こえぬほどに静かな大和路の午後、2~3人のお年寄りがベンチに座り、微かに漂う梅の香を楽しんでいました。

 


 
 万葉の森を後に、次の広橋梅林を目指しました。


 前もって広橋梅林をナビに入力してありますので、ナビから聞こえるお姉さんの指示に従って車を走らせます。


 暫く走っていると、自然公園のような場所に差し掛かりました。


 道路脇の「高松塚古墳」と記された掲示物に気付き、100m程も進んでからUターンしてパーキングに車を停めました。

 


 古墳らしき地形の方へ歩き出しましたが直ぐに、此処も短時間で見学できるような場所でないと悟り、公園の一角に咲いた紅白の梅を写真に撮ると車に戻り、再び次の目的地を目指しました。

 

 

 今回ウィキペディアで「高松塚古墳」を調べますと、藤原京期(694年~710年)に築造された古墳から、1972年に極彩色の壁画が発見され、その壁画が1974年に国宝に指定されたと記されています。


 「高松塚古墳」という言葉は耳にありましたが、その内容を覚えていませんでした。


 この場所もまた「私が改めて来るべきリスト」に加えたのは言うまでもありません。


 それにつけても、奈良盆地は実に多彩です。

 

 イルカのように好奇心の強い人には、かなり危険な地かもしれません。
 

 奈良盆地南部の細い国道をはしり、サクラで有名な吉野山の西隣に位置する広橋梅林に14時半ごろに到着しました。


 広橋梅林は、月ケ瀬、賀名生と並ぶ奈良県の三大梅林の一つで、奈良盆地から和歌山市内へと流れ下る吉野川(和歌山県に入ると紀ノ川と名を変えます)を見下ろす、広橋峠北側斜面に梅林が広がっていました。


 遠くに見える山は右が葛城山、左が金剛山でしょうか。

 

 
 石垣を積んだ急斜面の段々畑に梅が紅色の花を咲かせ、その後ろに黒い森が広がっています。
 


 駐車場に車を停めて、梅畑の周囲を散策してみました。

 

 この場所で梅を育てる暮らしは、かなりの労力を伴うはずです。

 


 急斜面の中に、軽自動車でなければ通れない幅の小道が伸びて、その先に民家が見えていました。


 そんな小道の下斜面で、白梅が早春の柔らかな陽の光を浴びていました。


 谷を隔てた向かいの尾根に、鈍色の屋根瓦を乗せた寺院が見えています。


 本格的な一眼レフカメラを構えたカメラマン風の男女が盛んにカメラのシャッターを切っていました。


 広橋村のあちらこちらに、郷愁を誘う光景が散りばめられていました。

 

 

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