鵜住居川を渡り、鵜住居駅に停車した列車の窓から、2019年ラグビーWCで使用された釜石鵜住居復興スタジアムが見えました。
2011年の東日本大震災津波襲来時、この場所には釜石東中学校と鵜住居小学校がありました。
そして3月11日2時46分、中学生達は地震発生直後から自主的に避難を始め、訓練通りに避難した生徒に犠牲者は一人も出なかったそうです。
中学生達は海抜4mの第一避難場所から更に高台へと、小学生と保育園児の手を引いて避難を続けました。
鵜住居駅に停車した列車右手の高台に、新築された鵜住居小学校が見えました。
列車が動きだすと小学校の隣に、新釜石東中学校が見えます。
駅を出て、列車が少しずつ標高を上げると、線路に沿って、被災者の方々の住居らしき家並が見えてきました。
鵜住居駅と次の両石駅の間に、箱崎半島へ続く標高44mの「恋の峠」があります。
あの日、釜石東中学校と鵜住居小学校の生徒達はこの辺りまで避難したそうです。
そして列車は峠を下り、両石(りょういし)駅に停車しました。
この駅がある釜石町両石町の集落を襲った津波は海抜24mに達し、260戸あった住宅は、高台の13戸を残し全て流失したそうです。
列車が再び動き出すと、高い場所を通る線路から眺める両石湾が、白い夏雲の下で穏やかな表情を見せていました。
こんな長閑な風景を10~20年も見続けると、みんないつの間にか、津波の恐ろしさを忘れてしまうのかもしれません。
両石湾の岸辺を離れた列車は、両石湾に注ぐ水海川に沿って2㎞程東へ進み、釜石湾の北に伸びる馬田岬(まだみさき)へ伸びる尾根の基部をトンネルで抜け、目の前に、今まで見てきた景色とは異なる、煙突が目立つ工場が見えてきました。
ネット地図で確認すると日本製鉄の製鉄所だろうと思いますが、この煙突が、釜石市に着いたことを強く印象付けます。
すぐに列車は甲子川(かつしがわ)を渡りました。
ところで私は、今まで甲子を(こうし、きのえね)と読んでいましたが、(かつし)と読むことを初めて認識しました。
甲子は他に(きね、かし、かふじ)などとも読むそうです。
そして列車は13時53分、釜石駅へ定刻通りに到着しました。
釜石から乗り継ぐ盛行きの列車は、14時13分発の発車です。
駅の外に出て街を見学する時間はありません。
降りたホームの周囲を見回すと、少し離れた場所に二両編成の気動車が止まっていました。
駅の「三陸鉄道 盛方面」の表示に従って地下通路へ下り、
地下通路を左に進み、盛行きの列車が待つホームへ上がりました。
列車はクーラーが効いているので、汗をかきませんが、外へ出ると、強い陽射しが駅舎の屋根を熱し、思わず、自販機のボタンに手を伸ばします。
盛行きの列車の窓から、宮古から乗ってきた列車を確認しました。
その背後に、釜石駅周辺の山々が映り込んでいました。
三陸海岸は基本的に、このような山稜が海岸に迫り、その山を削る川に沿う僅かな平地に人々が暮らします。
そんなリアス式海岸は、川が絶え間なく海へ、森の豊かな栄養素を注ぎます。
そんな奥深い入り江の海は、津波さえなければ、海の幸に溢れる楽園なのです。
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