宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

支部集会の在り方について

2012-09-25 09:20:01 | 祈り
 (問)支部集会の在り方ですが、支部集会は
どの様にあるべきか。最近はどちらかというと
本部指向というか、そう感じられますが、
これからの在り方についてお聞きしたいんですが。



 (答)つまらない話だね。本部もつまらないし
支部もつまらない、そういう考えでゆくと
集会もつまらなくなるでしょう。何か、やる方も
燃えないローソクを相手にしているみたいじゃ
ないですか。せっかくローソクをつけるん
だったら、燃えるマッチを置いとかないと
駄目になっちゃうんじゃないですか。

 結局、支部とか集会とかいっても、どんな
人間の集まりでも、人間が生き生き生きる
というか、人間がその瞬間を楽しく自分が
生きていて良かったなという、充実している
想いに満ちてゆかないとね。それは宗教だけの
話じゃなくて、どんな団体集団でも
そうなんです。
 で、そういうものが無くなってしまったら、
もうそこに属する気も無くなるし退屈でね。
 こんな所に居たくないや、ということになる。
 やっぱり、自分がまず生き生きできるか
できないかというところから、支部とか集会を
やってゆく人が入らないといけないですね。
 自己満足ということではなくて、自分の心が
生き生きしているかしていないかということは、
例えば宗教であれば、生命の本源、本心が
喜んでいるかいないかというところに基準が
ある訳です。そこのところを聞いてみて、
そこが生き生きしていれば、皆も生き生き
する訳なんですね。

 だから、支部集会の在り方というのは、
逆に言えば、人間の在り方生き方が素直で
あるか素直でないかにあるんですね。今の
本部は少し病気のところもある。別に誰が悪い
という訳でもないし、白光が悪いという訳でも
ない。あれはあれでああいう生き方を一回は
させられる訳なんですけど、結局は、あそこ
でもって色々な人間の我というんでしょうかね。
 神様の目から見ると違うこともあるけれど、
とも角人間の我でもってどこまで出来る
かどうか、バベルの塔じゃないけれど、
一回積み上げないと人間というものは納得
しないし、本当に納得しないし、責任無責任に
なってしまう。つまり、何かこれが自分だ
というものが無くなってしまえば、人間と
いうのは弱いもんでしょう。自分の存在を
ちゃんと証拠立ててくれるようなね、
寄っかかる、例えば、本部講師であるとか
准講師、常任幹事であるとか、そういう
一つの肩書きなり。肩書きというものは
どうでもいいんだけれども、そういうものが
ないと人間は動きにくいんですよ。

 例えば、〇〇支部というものは本当は無くても
いいんです。無い方が本当なんです。白光も
無くていいんです。いいんですけれど、
それをしちゃうと、いつも言ってるように、
お祈りでも何でも最初形から入るということが
必要だというのは、まず皆で共通にできる形が
あってはじめて人間というものは安心できて、
それで神様に頼ってゆけるというところを
もっていますので、一応そういう意味で、形
というものが非常に大事だと。単に外形だけ
でなく、支部とか集会というものが人間が
集まって来る所ですからね。そこでは色々な
人がいますよ色々なタイプの人がね。10人
居たら、10人そのまま放っておいたら喧嘩に
なるんですよ。お互いがお互いを主張して
譲らなきゃ絶対喧嘩になるんですよね。
 どこかで譲らなきゃ絶対喧嘩になっている。
 それが、あの先生はこう言っていた、本部は
こう言っていた、〇〇はどうだ〇〇がどうだ
〇〇がどうだ、〇〇さんがどうのこうのという
ようなことじゃまとまってゆかないんですよ。
 誰がどうだこうだということは向こうから
見れば判っていることなんですよ。判っていて
使うんですから、その辺は堪忍してあげないと、
一段飛躍できないんです。

 とに角皆で祈っている時は、どの人がどうだ
とか、この人がこうだとかいう想いは無くなって
いるんですよ。世界人類が平和であります
ように、世界人類の中に自分が入っちゃう
訳でしょう。
 個人名は無くなる訳なんですその時。自分が
とか、相手が誰々さんがとかね、〇〇さんが
優柔不断で、あの人何を考えているのか判らない
なんていう想いは、無くなるんですよ。その時
には。それが祈りなんです。そういうものを
実は一番中心にもって来ないと、人間という
ものはまとまってゆかないんです。

 要するに、自分を大事にする、相手を大事に
するということは、色んな自分の気持ちとか、
相手の都合とか自分の都合はさておいて、
元々の生命の本源のところで、そうですねと
言えるものを核心にもってこないと、人間と
いうものは本来まとまらないものなんですよ。
 何故かというと、人間というものは
そういう風にして神様から分かれて来た生命
だから、そうなんです。ですから、支部や
集会の在り方という前に、人間の在り方人間の
生き方というものを自分の中にどれだけ深く
問うてゆくことが出来るかという、今
どんな風に〇〇〇〇が問うているのか
どうなのか、そこのところで考えていかないと、
支部とか集会とか本部とかということになると、
永遠に腹を立てなくてはならない。

 私が居る時でもおかしかったですよ。色々な
人がいて。だけど私は絶対咎めなかったですよ。
 この人がこういう風にすると危ないなあとか、
色々思ったんですよ。この人が会社を経営
すると絶対倒産すると。でも倒産させたよね。
 それは、倒産ぎりぎりまで行って、パチンと
その人がぶつかって、そこで初めて、ああ人間
というものはどういうものなのか、弱くなる
ということはどういうことなんだと、そこで
悟る。一段階飛躍する。そこのところを
当て物屋みたいにして、あなた、こっちに
行ったら事故にあうからこっちに行きなさいよ
というのは、私は出来ない。それは、その人の
守護霊さん守護神さん、もっと言えば、
宇宙神が、その人の生命がどこでどういう風に
こう曲がって、どこでどういう風にぶつかって、
それで最終的にはこういう光輝く白光に
成るんですよという風に、計画書が皆出てるん
ですからね。だから、先生お願いします、先生
病気ですと言って来た時に、勿論、病気で
可愛想だなと思いますよ。家庭の中で争議が
あって喧嘩になっていれば、そういうものを
治めてあげたいと思うけれども、それよりは、
その人の幽体を浄めている訳ですからね。
 肉体の想いと同時に幽体を浄めて、幽体
というものを光輝くものにして、霊体神体
というものが本当に光に満ちたものに
なるように。皆の話を聞いてなかったというん
じゃなくて、聞きながらもっと高い世界へ、
世界人類が平和でありますようにという、
消えてゆく姿という祈りのエレベーターに
乗せて、生命のただ中に行けるようにしたのが
私なんですね。その役目を仰せつかったのも
私なんです。

 ですから、支部も大事です、集会も大事です。
 支部集会がなかったら本部もないんです。
 もっと言えば、どんな大きな所でも、
一人一人の人間が集まってないと集会には
ならないんです。社会にはなって
ゆかないんです。一人を忘れたところには崩壊が
来るんです。確かにそうなんです。ただ崩壊が
来るけれども、崩壊というものが人間の我で
来させているのか、あるいは、守護霊さん
守護神さんが計算ずくでさせているのかという
判断は非常に難しいんです。

 だから、どんな事態が起きてきても、とに角
自分もなるたけ腹を立てない修行をする。
 相手を責めない修行をする。それが一番
近道なんですよね。で、もし腹を立てたく
なったらですね、五井先生に全部、あの野郎が
ああなんですがって言っていらっしゃいね。
 その人に当たると、その人の折角の修行の
段階が曇ってくるんですよね。この野郎と想うと
この野郎が相手に行っちゃうんですよね。それが
いけないんですよね。この野郎と想ったら
この野郎を連れて五井先生の所に来たら、
この野郎を静めてあげますから。

 固定観念で人を見てはいけないというのは、
ものすごく難しいんですよ。この人はこういう
人だと思い込むんですよ。この人は最後まで
話を聞かない人だなあとか色々思うんですよ。
 思うんですけれど、要するに、世界人類が
平和でありますようにとやっている時には、
そんなことはちっとも思わないでしょう。
 祈っている時には楽しいでしょう。そういう
つもりで人に対してゆくということを心がけて、
言葉を胸におさめるというんですかね、余り
語らない。語りたいでしょうけれど、語らない
修行をこれからしていって下さい。受け流して
ニコニコするというのが一番いいんですよね。
 敵をつくらないんですむんです。

 やっぱり、片腹痛い想いとかね、あの人に
任せてあの人はやり手だけれども、どうもと
言われてしまうと、まとまるものもまとまら
なくなるんですよね。人間はみんな癖があって、
癖があったっていいんだけれど、その癖を
強烈なものにしてしまうと、ある人に支持
されてある人に支持されないということに
なるから、やっぱりどこかで中間色を持つ
ということが一番いいんです。その中間色は、
集会というお仕事をする人にとってはお祈り
なんですよね。自分を押さえるとかいうのじゃ
なくて、神様に全部預けちゃって、神様
よろしくお願いしますというそこから始まって
ゆかなくては、とてもじゃないが、人間が
人間を治めるなんてことは絶対出来ないん
ですから。肉体人間の想いがやるんでは
なくて、後ろに守護霊さん守護神さんが
ついている、五井先生がいる、五井霊団がある
白光がある。人間の本来の姿は光なんだ神の子
なんだという想いでやって下さることですね。
 自分がやるんじゃないという想いでやると。
 それは高慢になれというのではなくて、
させて下さるということですね。
 それでやっていけば腹は立ちませんよ。

排卵誘発剤を使用しての出産について

2012-09-24 07:48:48 | 祈り
 (問)水子オペとはちょうど逆になるん
ですが、排卵促進剤というものも、脳死の
問題と一緒に論じられ、あまり良くないと、
神様の御心を汚すものだと言われており、
一方バイオテクノロジーで遺伝子の
組み替えも出来るという現状において、
子供が欲しいという人達は、手段があれば
どうしても使いたくなるものですが、
このことについてどうお考えでしょうか。


 (答)人間というものは、自分の願望を
いつか現実にかえたいというものがあって、
そういう想いがあって、だから、科学の発達、
現代文明の発達があり、今でこぼこの
ところもあるけれども、こんなに便利に
なったでしょう。そういう中で、生命
について、たやすく排卵誘発剤を使って、
生命がポコポコと出て来るというような
ことは、人間が生命を管理するということに
なってくるから、それに対してどうなんだ
という事だと思いますがね。

 科学というものは、人間世界で考えて
いるようなちゃちなものではないん
ですよ本当はね。生命に対する科学という
ものは、もっと向こうの方では進んでいて、
排卵誘発剤なんて神界から見ていると、
何兆年前の一つの道具に過ぎないので、
全部計算の中に入っているんです。やたら
それをポコポコ生んじゃって、無責任に、
子供は可愛くないのに生んでしまって、
あとどうしようなんて無責任なそんな人が
増えても困るけれども、排卵誘発剤を使う
というような人は、よっぽどの人なんですね。
 本当に子供が欲しい。そういう気持ち、心
というものは、神様には通じているんですよ。

 私だって、まだ世の中に生きていた頃に、
如是我聞にかいてあるでしょ。この人まだ
赤ちゃんが生まれないと何回かお聞きして、
それで写真にお浄めをして、じゃあね
と言ってしてあげたというのは、まだ
あの時代にはそんなものがなかったので、
私はしてあげたけれど、要するにそんなもの
なんですね。

 その人が、真実自分の欲望だけでなくって、
軽はずみな気持ちだけでなくって、本当に
子供が欲しいという気持ちがあれば、それが
例え現象的に排卵誘発剤であっても、それを
使って、魂の親と父親が相談して、この子が
生まれるようにしようというような形で
出てくる訳です。だから、ああいうものは
むやみに使ってはいけないけれど、しかし、
本当に今それを使って生まれて来ようと
している生命、あるいは、これから生まれて
来る未来の生命というものは、そういう意味
では、神様の管理下にあると考えた方が
よい訳です。

 で逆に、産児制限をしている中国なんか
一人っ子しか駄目という、あれは
悖(もと)るんです。どんな形であっても、
人間が生活してゆくことで、地球だって
狭いしね、人間の生きてゆく都合という
ものがありますから、どんなに広い家を
建てたいと思っても、狭ければ広く出来ない
ということと一緒で、人間がここまでは
いいよといって許された枠というものを
はみ出した時には、それは畏れを知らない
ということになる訳ですね。その範囲で
産児制限を、原則的には私は産児制限は反対
なんですけれど、又、排卵誘発剤を使って
産むということは、その枠を、人間の良心、
宗教的に言えば本心、そういうものに悖る
かどうかというぎりぎりのところで判断して、
そこでどうなんだという、そこで考えて
ゆかないと、徒らに人を責めることになるし、
自分を責めることになるし、神様という
ものを疑うことになる。

 ただ神界では、生命科学の中ではそういう
ものも昔の昔の昔の道具になっています。
 ですから、今にそういうものを使わなく
ても、人間が本当に祈り心で心素直に生活を
してゆけば、自然に宿るようになるんです。
 それは何故かというと、魂の親と地上の
親の連絡というものは本当は出来るん
ですから。本当は魂の親というのは後ろに
いつもいるんですからね。だから、人間の
性(さが)が本当に素直になってゆけば、
魂の親があと一年位したら自分に赤ちゃんを、
女の子を授けてくれるとか分かるように
なるんです。分かるようになる為には
やっぱり遠く思うかも知れないけれど、
祈ってゆかないとどうしようもないんです。
 祈りというのは超能力じゃないけれど、
そういうものをもらうにしても何にしても、
祈りによって霊性開発して、自分を素直に
してゆくところから全部始まるんです。
 科学も全部そこから始まるんです。
 そういうように考えて下さい。

水子供養について

2012-09-23 09:49:25 | 祈り
 (問)水子供養とか水子地蔵とか
ありますが、最近のお寺のああいうものは、
あれでも浄まるんですか。水子の形をかりた
幽界の感情霊のようなものでしょうか。


 (答)あれはなかなか浄まらないんですが、
なかなかそんなものじゃないんですが、愛念
というものはね。水子供養などが何で
成り立ってゆくかというと、ああ悪いことを
した、生まれてくるべき生命を自分が
絶っちゃったという想いでしょう。それが
ずっと自分の中にたまり過ぎちゃうと、
キリスト教の原罪みたいになって、自分を
責めることになるんだけれど。

 でも、水子というものはないんだといって、
不感性になって、何をしてもいいんだ
ということになったら、これまた人間として
失格な訳です。やっぱり思いやりというのか、
生命に対する極みのない想いというのか、
それを失ったら人間が人間でなくなる
訳ですからね。それが自分の生んだ生命を
絶っちゃった、子供達への素直な愛惜の想い
というものが、こっちから見ていると光の
波になるんですよね。神界から見ているとね。
 それは必要なんです。

 ただ、そういう親の素直なきれいな
気持ちを、この世の中で利用して儲けて
いる人はいる訳で、その人達はその人達で
又ぶつかってどこかで修行しなくては
ならないということはある訳ですから、この
世の中で繁盛しているものが必ずしも真理か
というと、そうではない。真理というものは
もっと別のところにある。そこのところは
分けて考えてあげないと。
 一所懸命そこで素直な気持ちで悪かったと
思って、どんなに商売だけのお寺にしても、
そこに祭ってもらおうと来ているお母さん達の
気持ち、家族の気持ちが本当に澄んで、光の
ようなものであれば、それはお寺を突き抜けて、
守護霊さん守護神さんの手で、ずっと高い所
まで行って清められて光になって還ってます。

 ですから、現象界と霊的なものとの世界の
結びつきというものは、全く違う世界の
有り様(よう)を示している訳で、世の中
こんな商売気だけのものが繁盛しておかしい
じゃないかといって、言ってしまうのも、
これも一刀両断過ぎるところも
あるんですよね。

水子の霊について

2012-09-22 08:36:19 | 祈り
 (問)水子の霊についてお聞きしたいんですが、
水子というのは菩薩行の魂なので、幽界みたいな
ものと違い、簡単に祟るというものにはならない
という話を聞いたことがありますが。
 実際に水子の霊がついている方というのは、
俗に耳にするんですが、そういうものというのは、
何がそういう形になって、何を守護の神霊達が
この本人に伝えたいのか、お伺い致します。


 (答)水子の霊というのは、前にも言いました
ように、菩薩行なんで、自分は生まれない中途で
生命を絶たれてしまうんだということを分かっ
てる訳なんです。分かっていますから、絶たれ
ちゃっても、そちらのところの子供に生まれて、
親なり家族達を栄えさせてゆく。又、こちらが
悪かったなと思って子供の霊を祈っていれば、
その光が届いて、向こうからも光が来て、両方
良くなってゆくという霊体ですけどね。

 ところが、白光でも水子供養ということで
みたま祭りの中でやりますけれど、人間という
のは、神界にも霊界にも幽界にも肉体界にも
同時に存在していると言ってるでしょう。
 幽界というのは、いろんな人間が、不調和の
想い、良くない暗い想いというのか、想いが
凝り固まって訳の分からない取りつく化物とか、
そういうものを生み出している世界、それが
幽界なんですね。
 大体水子の霊、霊障といわれているものは、
だいたいこの幽界の、人間世界の方に何か隙が
あったら取り憑いてやろうという想いなのです。
 想いというのは何処から来るかといったら、
これは神様が造ったのでもない、悪魔が造った
のでもない。人間の中の色々な不安だとか、
苛立ちとか恐怖だとか。
 はっきり言えば、人間の中で何が一番恐怖か
といったら、肉体の生命が70年80年で
終わっちゃったら、自分達は一体何処に
行くんだろうと。何処から来て何処に流れて
行くんだろうと。もしかして肉体だけで
終わりだったら、こんな不安に満ちたものはない
というので、色んなものが起きている訳ですね。
 この不安を解消する為に宗教があるんですが、
尚且つ家が火事になったとか、親が死んで
いっちゃったとか、子供を流産したとか、
そういうことが続いてくると、何か神様、仏様
というけれども、そんな想いになれなくて、
決してそんな良い光ばかり受けているのでは
なくて、光をのみつくすような闇があるんでは
ないかという、そんな想いが段々ふくれていって、
それが例えば、幽界の色々な生物達の力を借りて、
水子なんていう想念の化物を生み出してしまって
いるんです。

 そこのところが大事なんで、守護の神霊が
それをもって何をするかというと、守護の神霊は
何も関係ないんです。そういう想念には全く関係
ないんです。もし関係がありとしたら、そういう
不幸とみえる出来事に対して、じゃあどんな風に
生きてゆくべきかという、一つの魂の鍛え
としての躓きの石をわざと送っているのは
ありますよね。そういう意味で、色々な世界を
見回してみて、ああこの人にとってここが一番
弱いんだな、で、このところでちょっと不幸と
みえるようなものを置いとかないと、この人は
強くなってゆかない。
 守護の神霊がそんなことを考えるのは、この世
だけの何十年の世界だけを考えているのでは
なくて、何十生何百生何千生後の、その人の
天命の入り具合、神様の懐への入り具合を考えて、
躓きの石を置く訳なんですよね。

 だから、この世の中で、不幸続きで不幸続きで
それで死んじゃったという人があって、それだけ
見れば、神様は非常に不公平だということに
なって、やっぱり水子もある霊障もあるという
ことになってしまうことになるんですが、
そういう一生を送ることで、その人が前生の
借りを払い落として、次の生命の世の中で、全く
明るい生命になって生まれ変わるということは、
いくらでもある訳ですね。
 そういう意味で言うと、生命というのは決して
障りというものはない訳で、生命というものは
どんなに闇にみえてもお先真暗にみえても、
家の中はひっくり返って、息子と嫁がうまく
ゆかないとかですね。あるいは、色々な家族の
中でくっついて離れたとかね、子供がいうことを
聞かないとかね、そんなことも皆悩みですよね。
 別に水子だけでなくても、それだけで闇に
見えちゃう。でもそれがその人の一生というか、
何十生何千生生き通しの生命を、障りなくずっと
輝かす為に、何千年先の為に今必要なんだと。

 そういうところから見てゆかないと、生命
というものは途方もなく大きいもんですからね。
 そういう意味で言えば、水子というものは全く
存在しないんです。想念の障りだと思っている
部分、人間が不幸だと思って見れば見る程不幸の
固まりに見える。そこのところを利用して存在
させられているというだけの話なんです。
 ただ、守護の神霊がそういうものを置く場合
には、ただその想念を利用するんじゃなく、必ず
その抜け道というものがある。私が前に天が
空いているよと言ったけれど、必ず絶対に援軍が
あるんですよね。

 闇があるところには光があるから、想念
というものは全部消えてなくなっちゃうもの
なんですから、消えてゆく姿でもって
見てゆけば、水子も何も粉砕されちゃうんです。
 だがその辺が、どこでどうという区切りが
非常につきにくいんです。でも一切は全部光
なんですから、全部が永遠の生命に溶け込んで
くる。その為の過程なんですから。それは全然
心配することはない訳です。悲しむことも
ない訳です。

脳死について

2012-09-21 10:41:20 | 祈り
 (問) 脳死についてお伺いします。よく肝臓
とか脳死の状態でないと内臓移植が出来ない
ということでしたので、私が以前登録について
問い合わせていたら、白光誌上で、昌美先生が、
脳死の状態では完全に霊線が切れている訳では
ないから、神様の御心に反すると言われて
おりました。
 他人の場合はそうだなと思うんですが、自分が
脳死状態でしたら、あまり役に立たないんで、
自分の内臓が誰かの役に立つんであればやりたい
と思いますがいけないことなんでしょうか。


 (答) いけないとか、いけなくないという
問題じゃないんですね。霊線が切れてないという
ことはその通りなので、つまり、人間というのは、
肉体死を迎えてはじめて、霊体になって、上から
自分を見て守護霊に連れてゆかれるということが
あるんですね。そこに行くまで肉体に留まって
いるというのは、留まっているんです。

 但し、脳死といっても色々な形がありまして。 
 つまり、皆の役に立ちたいという形で、愛念が
凝り固まっている、祈りに満ちているもの
であれば、その段階で、霊線というものは
切れるにしても切れ方が違うんですね。
 自己満足で切れるんだったら、切れてしまう
というより切ってしまうというものであれば、
人間の我が儘になってしまう訳で。
 誰かの役に、しかも、自分の愛する者の役に
立ちたいという場合には、これは我が儘に
ならない訳ですから、我が儘にならない場合は、
守護霊さんの方で許可をする場合がある訳ですね。

 その場合には、自分達が判断するしないという
ことよりも、自然に気持ちが動いちゃって、
そこで、自分のまわりの肉親、自分のみならず
自分のまわりの、その人を知っている人達も、
お医者さんも看護婦さんも、全部、そういう
環境が整った中で、じゃあそうしましょう
ということになって、まわりの空気が
動いちゃう訳です。

 そうじゃない場合というのは、どこかに
自己満足なり、その人間の勝手な運命修正で
あったりということになってしまう訳です。
その辺が非常に難しいんです。

 だから、以前あなたが想った時に、ちょうど
白光誌でそれはいけませんと言ったのは、
決してその愛念がいけないとか言った訳じゃ
なくて、科学と祈り心、宗教というものが
一致して、一緒のスタートラインに立って、
じゃあやりましょうという、あの段階では
まだそこまで行ってないんです。

 心霊科学とか神界の方の科学は何を原点に
しているかというと、人間の想念波動の奥にある
生命波動のいのちを、どういう風に生かすか
というところにある訳です。生命(いのち)を
生かすというのは、単に肉体の生命を生かす
ということだけではなくて、結局、生命
というのは、生き通しの生命ですから、死
という一つの肉体身の区切りを一つ受けて、
又二つ受けて、十受けて、脱いで行って脱いで
行って、神様に素直になるという、そういう為の
生命波動科学というものを、神界でやっている
訳ですね。

 で、それを脳死の状態から、じゃあ誰かの役に
この臓器を立てようという場合には、肉体的にも
その人の生命が生き生きするし、あるいは、
霊的にもその人が一段階も二段階もレベルアップ
して、守護霊さんの格もぐんと昇って、では
次の世界でこの人にこのような修行をさせよう
とか、生命波動科学のこの分野をこの人に
させようという場合に、脳死の臓器移植という
ことが、両方いい形で両方万歳の形で、きっと
なってゆく訳ですが、あの段階ではまだ両方
万歳の所までいかなかったんです。だから
ストップをかけたのです。

 今だったら、もう色んな宇宙の霊人も
おりますし、それから、白光(真宏会)の中で
平和の祈りを祈って下さる方、外で白光の中の人
ではないけれど、この祈りはいい祈りだといって、
名前も知らないような人達が、今世界中で沢山
祈っていますから、そういう人達の結集した
お祈りの力、真心、愛念というものが
善灯(ぜんとう)の固まりになって、そこで
脳死OKというそっちの方へ、あるいは、
臓器移植をして、自分も良くなり相手も良くなる
という、大調和の方向へもうそろそろゆきかけ
てもいい訳です。

 だから、こうだからいけないということは、
神様の世界では全くない訳で、全く枠がない
ということは、完全に近い肉体を持ったまま、
完全に近い霊性を人間が持たなくてはいけない
という、非常に難しいところがあって、その霊性
ということは何かというと、本当に素直な
やさしい真心、愛情ということなんですよね。
愛情を発揮するということが、一点一画
くり返しになりますが、自分の自己満足や自分の
我が儘や、自分だけの家族が満ち足りていれば
いいとか、そういう愛情じゃ甘いんですね。

 その辺をもっともっと厳しくして、これが
世界人類にまで拡がってゆくような愛情の元に
なっていれば、一も二もなくすんなり環境が
整っちゃって、自分が力まなくても、臓器移植
でも何でも出来るようになっちゃう訳です。
 もうそろそろあなたは登録してもいいですよ。
 やりたいならおやりなさい。