(問)平和行進についてお伺い致します。
最近、全国的にみて、若干低調になって
いるように思われます。一時会員参加者による
発声は止められ、五井先生のテープによる先導
ということで、心の中で祈り言を唱えて
おりましたが、最近は再び五井先生のお声の後に
唱和するようになりました。
私達は、世界人類が平和でありますようにとの
街頭唱和でもって、あたりを光で浄め、祈りを
知らない一般の方々への啓蒙活動になることを
信じて実施しておりますが、最近、少し軽視
されているように感じるのですが、現在では、
その時代ではないのでしょうか。
(答)自分の信じている宗教、南無阿弥陀仏
でもアーメンでも、一緒に唱えるということは、
気持ちがすがすがしくなるんですよね。
キリスト教であれば、アーメンと言った時に、
五井先生であれば、世界人類が平和であります
ようにと皆で唱える、守護霊様守護神様
ありがとうございますと言うと、そこでピタッと
この生命が一緒になるという気持ちを言って
下さっているんだと思うんですよね。
必要が無くなった、段々回数が少なくなって
きているというのは、二つばかり理由が
ありまして、一つにはステッカーが貼られ、
ピースポールが世界中に建立され、書物などが
広まったということ。
結局、平和行進は何が目的だったかというと、
勿論、自分でこの祈りが世界中で一番素晴らしい
と思って、祈りを知らせて下さる、今言われた
啓蒙ですよね。それと全然これを知らない人でも、
あの言葉を聞くと本当に心が和むという以上に、
平和に満ちてきて、別に白光を知らなくても
五井昌久を知らなくても、その言葉だけが胸に
残って、いつの間にか自分の生活の中にその
言葉が入るということだけでも、すごいこと
なんですよね。
ところがさっきも言いましたように、色んな
ステッカー等が貼られて、浄めの場所が広く
なってきた。ということは、平和行進の一つの
奥の目的は、光をふりまいて行くということ
なんです。浄めをしてゆくということなん
ですよね。どんな所にでも歩いて行って
踏み分けて行って、昔役の小角が山野を跋渉して
ということがありますけれど、本当そうなんです。
役の行者だった時に、何故山野を跋渉したか
というと、それこそ怪(もののけ)ね、生き霊、
悪霊というものを全部光に変えていくという
ことが必要だったんですね。本当に、まだ
そういうものが幽界という閉じ込められた世界
ではなくて、地上の中に堂々と姿を現わして
いたような世界でしたからね。それをどんどん
光に変えてゆくという意味があって、肉体を
滅する位までの行をしながらやっていかなきゃ
いけなかったの。で、その古い弟子が〇〇君
であり〇〇君であって、皆そうなんですよね。
皆飛び歩いた仲間なんですよ。
だけれども、そうやって飛び歩いて、自分の
生命を差し上げますという位にやっていた
そういう人が、段々文明が進んで行って、生活が
便利になって、世界が狭くなってくると、皆
それぞれ生活というものがあります、暮しという
ものがあります、経済もあります。そうなって
くると、そういう生命がけのことがどこまで可能
かといったら、なかなか出来ないんですよ。
ですから、世界人類が平和でありますように
というあの言葉に全部集約して、このことを
唱えると、愛の神様の愛念が、愛の気が
流れてきてね、そんじょそこらの低級霊なんかは
全部浄化されて、あの言葉を聞くだけで
唱えるだけで、光に変わってゆくというそういう
祈り言でしょう。それを唱え伝えるということは、
それだけでもすごいことなんですよね。
もう一つには、皆がみんな生命を捧げたら人間
生きていけませんからね。やっぱり生きて行って、
その生き通しの生命を次の世界へ持って行って、
宇宙の平和の中に入り込んでゆくというのが
人間の真性ですから、そこで今の現在の状況に
合わせていって、世界人類が平和であります
ようにという祈り言が出て来た。
で、この祈り言も昔は〇〇さんが言ったように、
自分の自己啓発もある、啓蒙もある、そういう
意味で、色んな所を言って歩いた。確かに
そうなんです、自分たちが最初言っていくことは
恥ずかしいですよね。ステッカーを貼ること自体
恥ずかしいですし、五井先生の著書を上げること
でも、つっ返されたらどうしようという想いが皆
あって、そこを乗り越えて皆渡したりするん
ですよね、リーフレットを渡したりね。皆それで、
それぞれ強くなってゆくんですよね。
それが今は、ピースポール等が出来てきた為に、
皆がみんな世界に行かなくても、今度は世界中に
ある程度ばらまかれたから、そこの国の人が
そこの国の言葉で感じて祈ってる。
世界人類が平和でありますようにという言葉は、
世界語になってきてる訳ですね。世界語になって
宇宙語になっている訳です。元々宇宙人の全部の
人の言葉なんです。もっと言うと、宇宙人類が
平和でありますようにと言ってもいいんです。
そういう言葉なんです。世界というのは
地球世界だけではないんですね。宇宙全体の
何億とある宇宙の全部の生命が、全体で体中で
祈っているのが、世界人類が平和であります
ようにという言葉なんですよ。この今の地球の
ここに話を戻すと、皆歩いてゆかなくても、
あちこちにピースポールが立った。
そこでもし弊害が出てくるとすれば、
ピースポールやステッカーに頼っちゃって、
唱える力とか、唱えて感激するとか、あるいは、
大きな声で祈ることによる感動・感激とかを
通して、ああ神様というのは本当にいるんだな
というようなことが、段々回数が少なくなって
くるとそれは言わない訳ですから、そこで祈り
というものはいいもんだなあという、元初の感動
というものがなくなってくるんですよ。頼っ
ちゃうから。
だから、皆がねみそぎなどに何故あんなに
集まるかというと、自分の言葉で自分の本心に
降りていって、五井先生に神様に大神様に挨拶
したい、あるいは、私はこういう風に思って
いるんですがどうなんでしょうかという想いを、
そのまま預けるというね。
みそぎにあれだけ来るというのは、皆本当に
本心開発をやってゆきたい、霊性開発をやって
ゆきたいんです。とそういうことなんです。
ですから、平和行進というものは、一つには、
祈り言葉が拡がっているから、そういう所でもう
しなくてもいいよという風に、とればとれるん
です。ですけど、〇〇さんが言ったみたいに、
自分の中の内奥の声というものを本当に
みつめて、そこから自分の内を努めてゆく。
努めていって自分の人間の真性というものを
磨いてゆくという点から言えば、今これ程必要な
ものはないんですよ。平和行進位。それは自分の
為にもなる人の為にもなる。それは歩いている
だけで、人間は光なんですから浄まっている訳
ですからね。
だから、一石三鳥も四鳥もなんですよ。そこに
それぞれの守護の神霊の加護がある訳ですからね。
ですから本当に、祈りとは何ぞや、唱えるとは
何か。
唱名念仏ということね、言いましたでしょう。
あの親鸞も法然もね。唱名するということは
何かといったら、唱名している内に無になり空に
なって、永遠の生命の中に溶け込んでゆくという
ことなんですよ。自分もなく我もなく人もなく、
永遠の生命の中に溶け込んでいって、自分が
本当に朗らかな生命の光の一筋のその一部なんだ
というところで、三昧になるんです。三昧
というのは、原稿にも書きましたけど、単なる
法悦境ではないんですよね。自分だけの世界に
浸るということではないんですよ。ですから、
平和行進が単なる自己満足ですとか、良い言葉
だなあと酔いしれるというのですかね、その
程度で満足するのでしたらやらない方がまし
なんですよ。
一時、平和行進の唱和を止めたというのは、
自己満足で自己顕示で酔いしれる人が
いますでしょう。これだけ大きな声で読んでます、
五井先生聞いて下さいと。しかし、本当の霊性
というのはそういうものじゃないよということを、
やっぱり磨かせる為に止めたんです。
どんないい習慣でも、どんなに良い言葉でも、
それに人間が慣れてくると、その中にある光が
どんなに大きいか深いか広いかということに気が
つかないんですね。気がつき難くなるんです。で、
一回それをポンと突き放されて、例えば、
平和行進でも何でもね、はいじゃあ止めましょう
という形で止められてしまうと、その一人一人
にとって、どれ程大事でどれ程自分の中に
くい込んでいたかいないかということが分かる訳
なんですよね。あるいは、自分自身の意識の
上では、平和行進はそんなに必要ないと思って
いても、思いがけない人から、なぜ平和行進
しないんですかと、そんなことを他人から
言われたりして、他の人の中にそれ程くい込んで
いたかというようなことで知らされる。それが
その人の魂の開発になるというようなことが
あるんですよ。
ですから、自己満足や自己顕示欲に終わるその
人達の魂の開発が、そろそろきちっとなって
ゆけばですね、魂が澄み清まって純度が高く
なれば、自ずから平和行進しましょうという風な、
つまり、集会の案内をもう一度出しましょう
と同じことなんです。
やっぱりやらなきゃ駄目ですね、というように
実践の方へなってゆく筈なんですよね。だから、
平和行進をやって下さいという声を本当に高めて
下すって、やっぱりやって下さるということが
一番なんです。で、平和の祈りというものは、
本当は自分もない人もない、ただ神様の生命の
中に入り込むという大調和の祈りですから、
我というものを無くさせる祈りですから、
自分が自分がという我をとって、大我の中に
入れる祈りですから、やっていく内に、自分の
意識はとも角も、その奥の体の中には徳がずっと
積もってゆく訳ですよね。ですから大いにやって
いただいていいんです。
本部が中心になるんじゃないんですよ。人間が
中心なんですよね。
最近、全国的にみて、若干低調になって
いるように思われます。一時会員参加者による
発声は止められ、五井先生のテープによる先導
ということで、心の中で祈り言を唱えて
おりましたが、最近は再び五井先生のお声の後に
唱和するようになりました。
私達は、世界人類が平和でありますようにとの
街頭唱和でもって、あたりを光で浄め、祈りを
知らない一般の方々への啓蒙活動になることを
信じて実施しておりますが、最近、少し軽視
されているように感じるのですが、現在では、
その時代ではないのでしょうか。
(答)自分の信じている宗教、南無阿弥陀仏
でもアーメンでも、一緒に唱えるということは、
気持ちがすがすがしくなるんですよね。
キリスト教であれば、アーメンと言った時に、
五井先生であれば、世界人類が平和であります
ようにと皆で唱える、守護霊様守護神様
ありがとうございますと言うと、そこでピタッと
この生命が一緒になるという気持ちを言って
下さっているんだと思うんですよね。
必要が無くなった、段々回数が少なくなって
きているというのは、二つばかり理由が
ありまして、一つにはステッカーが貼られ、
ピースポールが世界中に建立され、書物などが
広まったということ。
結局、平和行進は何が目的だったかというと、
勿論、自分でこの祈りが世界中で一番素晴らしい
と思って、祈りを知らせて下さる、今言われた
啓蒙ですよね。それと全然これを知らない人でも、
あの言葉を聞くと本当に心が和むという以上に、
平和に満ちてきて、別に白光を知らなくても
五井昌久を知らなくても、その言葉だけが胸に
残って、いつの間にか自分の生活の中にその
言葉が入るということだけでも、すごいこと
なんですよね。
ところがさっきも言いましたように、色んな
ステッカー等が貼られて、浄めの場所が広く
なってきた。ということは、平和行進の一つの
奥の目的は、光をふりまいて行くということ
なんです。浄めをしてゆくということなん
ですよね。どんな所にでも歩いて行って
踏み分けて行って、昔役の小角が山野を跋渉して
ということがありますけれど、本当そうなんです。
役の行者だった時に、何故山野を跋渉したか
というと、それこそ怪(もののけ)ね、生き霊、
悪霊というものを全部光に変えていくという
ことが必要だったんですね。本当に、まだ
そういうものが幽界という閉じ込められた世界
ではなくて、地上の中に堂々と姿を現わして
いたような世界でしたからね。それをどんどん
光に変えてゆくという意味があって、肉体を
滅する位までの行をしながらやっていかなきゃ
いけなかったの。で、その古い弟子が〇〇君
であり〇〇君であって、皆そうなんですよね。
皆飛び歩いた仲間なんですよ。
だけれども、そうやって飛び歩いて、自分の
生命を差し上げますという位にやっていた
そういう人が、段々文明が進んで行って、生活が
便利になって、世界が狭くなってくると、皆
それぞれ生活というものがあります、暮しという
ものがあります、経済もあります。そうなって
くると、そういう生命がけのことがどこまで可能
かといったら、なかなか出来ないんですよ。
ですから、世界人類が平和でありますように
というあの言葉に全部集約して、このことを
唱えると、愛の神様の愛念が、愛の気が
流れてきてね、そんじょそこらの低級霊なんかは
全部浄化されて、あの言葉を聞くだけで
唱えるだけで、光に変わってゆくというそういう
祈り言でしょう。それを唱え伝えるということは、
それだけでもすごいことなんですよね。
もう一つには、皆がみんな生命を捧げたら人間
生きていけませんからね。やっぱり生きて行って、
その生き通しの生命を次の世界へ持って行って、
宇宙の平和の中に入り込んでゆくというのが
人間の真性ですから、そこで今の現在の状況に
合わせていって、世界人類が平和であります
ようにという祈り言が出て来た。
で、この祈り言も昔は〇〇さんが言ったように、
自分の自己啓発もある、啓蒙もある、そういう
意味で、色んな所を言って歩いた。確かに
そうなんです、自分たちが最初言っていくことは
恥ずかしいですよね。ステッカーを貼ること自体
恥ずかしいですし、五井先生の著書を上げること
でも、つっ返されたらどうしようという想いが皆
あって、そこを乗り越えて皆渡したりするん
ですよね、リーフレットを渡したりね。皆それで、
それぞれ強くなってゆくんですよね。
それが今は、ピースポール等が出来てきた為に、
皆がみんな世界に行かなくても、今度は世界中に
ある程度ばらまかれたから、そこの国の人が
そこの国の言葉で感じて祈ってる。
世界人類が平和でありますようにという言葉は、
世界語になってきてる訳ですね。世界語になって
宇宙語になっている訳です。元々宇宙人の全部の
人の言葉なんです。もっと言うと、宇宙人類が
平和でありますようにと言ってもいいんです。
そういう言葉なんです。世界というのは
地球世界だけではないんですね。宇宙全体の
何億とある宇宙の全部の生命が、全体で体中で
祈っているのが、世界人類が平和であります
ようにという言葉なんですよ。この今の地球の
ここに話を戻すと、皆歩いてゆかなくても、
あちこちにピースポールが立った。
そこでもし弊害が出てくるとすれば、
ピースポールやステッカーに頼っちゃって、
唱える力とか、唱えて感激するとか、あるいは、
大きな声で祈ることによる感動・感激とかを
通して、ああ神様というのは本当にいるんだな
というようなことが、段々回数が少なくなって
くるとそれは言わない訳ですから、そこで祈り
というものはいいもんだなあという、元初の感動
というものがなくなってくるんですよ。頼っ
ちゃうから。
だから、皆がねみそぎなどに何故あんなに
集まるかというと、自分の言葉で自分の本心に
降りていって、五井先生に神様に大神様に挨拶
したい、あるいは、私はこういう風に思って
いるんですがどうなんでしょうかという想いを、
そのまま預けるというね。
みそぎにあれだけ来るというのは、皆本当に
本心開発をやってゆきたい、霊性開発をやって
ゆきたいんです。とそういうことなんです。
ですから、平和行進というものは、一つには、
祈り言葉が拡がっているから、そういう所でもう
しなくてもいいよという風に、とればとれるん
です。ですけど、〇〇さんが言ったみたいに、
自分の中の内奥の声というものを本当に
みつめて、そこから自分の内を努めてゆく。
努めていって自分の人間の真性というものを
磨いてゆくという点から言えば、今これ程必要な
ものはないんですよ。平和行進位。それは自分の
為にもなる人の為にもなる。それは歩いている
だけで、人間は光なんですから浄まっている訳
ですからね。
だから、一石三鳥も四鳥もなんですよ。そこに
それぞれの守護の神霊の加護がある訳ですからね。
ですから本当に、祈りとは何ぞや、唱えるとは
何か。
唱名念仏ということね、言いましたでしょう。
あの親鸞も法然もね。唱名するということは
何かといったら、唱名している内に無になり空に
なって、永遠の生命の中に溶け込んでゆくという
ことなんですよ。自分もなく我もなく人もなく、
永遠の生命の中に溶け込んでいって、自分が
本当に朗らかな生命の光の一筋のその一部なんだ
というところで、三昧になるんです。三昧
というのは、原稿にも書きましたけど、単なる
法悦境ではないんですよね。自分だけの世界に
浸るということではないんですよ。ですから、
平和行進が単なる自己満足ですとか、良い言葉
だなあと酔いしれるというのですかね、その
程度で満足するのでしたらやらない方がまし
なんですよ。
一時、平和行進の唱和を止めたというのは、
自己満足で自己顕示で酔いしれる人が
いますでしょう。これだけ大きな声で読んでます、
五井先生聞いて下さいと。しかし、本当の霊性
というのはそういうものじゃないよということを、
やっぱり磨かせる為に止めたんです。
どんないい習慣でも、どんなに良い言葉でも、
それに人間が慣れてくると、その中にある光が
どんなに大きいか深いか広いかということに気が
つかないんですね。気がつき難くなるんです。で、
一回それをポンと突き放されて、例えば、
平和行進でも何でもね、はいじゃあ止めましょう
という形で止められてしまうと、その一人一人
にとって、どれ程大事でどれ程自分の中に
くい込んでいたかいないかということが分かる訳
なんですよね。あるいは、自分自身の意識の
上では、平和行進はそんなに必要ないと思って
いても、思いがけない人から、なぜ平和行進
しないんですかと、そんなことを他人から
言われたりして、他の人の中にそれ程くい込んで
いたかというようなことで知らされる。それが
その人の魂の開発になるというようなことが
あるんですよ。
ですから、自己満足や自己顕示欲に終わるその
人達の魂の開発が、そろそろきちっとなって
ゆけばですね、魂が澄み清まって純度が高く
なれば、自ずから平和行進しましょうという風な、
つまり、集会の案内をもう一度出しましょう
と同じことなんです。
やっぱりやらなきゃ駄目ですね、というように
実践の方へなってゆく筈なんですよね。だから、
平和行進をやって下さいという声を本当に高めて
下すって、やっぱりやって下さるということが
一番なんです。で、平和の祈りというものは、
本当は自分もない人もない、ただ神様の生命の
中に入り込むという大調和の祈りですから、
我というものを無くさせる祈りですから、
自分が自分がという我をとって、大我の中に
入れる祈りですから、やっていく内に、自分の
意識はとも角も、その奥の体の中には徳がずっと
積もってゆく訳ですよね。ですから大いにやって
いただいていいんです。
本部が中心になるんじゃないんですよ。人間が
中心なんですよね。