song1234です. こんにちは、お元気ですか?

日記です。Since 2007年11月~、神奈川県湘南在住、ハワイアン、ウクレレ、スチールギター演奏が趣味。

スチールギター・村上一徳氏

2020年07月13日 20時07分36秒 | スチールギター

梅雨に中、午前中は何とか雨はなさそう、、でも午後からは雨予報、、
で、いつものように早めに昼食に出かける。
近くのデニーズ、、最近多い。

今日は平日なので、ランチね。
前菜の、生ハム生野菜が冷たくておいしい。


食事中、外見たら、今にも降りそう、、まずい、、、傘持ってこなかった。。。
早めに帰宅です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日は、戦前の日本のスチールギターの発展と普及に大きく貢献された
「村上一徳氏(むらかみかずのり氏、、愛称・いっとくさん)」について
触れてみたい。

いちハワイアンフアンのおいらが、巨匠「村上一徳氏」を取り上げるのは
僭越極まりないのですが、意外と、村上氏のことを取り上げている情報は少ない、
氏の代表作「熱風」は知っているが、村上氏の作品とは、知らない方も多いのでは?
ハワイアンフアンでも、特にお若い方は、詳細は知らない方が多いのでは、、、
ということで取り上げさせて頂きます。

村上一徳(かずのり)
1913年(大正2年)8月22日生まれ(大連で生まれた)

帰国後、成城学園、神戸商大の時に、WSG(Wood Steel Guitar)に
魅せられる。灰田氏の演奏を聴いて、ハワイアンギターの弾き方を
知る。昭和9年~12年(1934年~1937年)大学を卒業するまで
関西でレコーデングする興味を覚え、タイヘイ(当時のレコード会社)やテイチク、
放送、ダンパに出演した。
昭和9年(1934年)村上20歳の時、学友を誘って、↓「ムラカミ・アンド・
ヒズ・サザン・クロス・カレジアン」を組織する。
写真の真ん中のラップスチールを乗せているのが、村上氏。。
若くして、このようなバンドを組織化して活動している、、
このあたりに、たぐいまれなカリスマ的な資質を感じますね。


(1934年、京都・桂会館ダンスホールに出演した村上バンド、一徳氏は、神戸商大生)

その後、村上氏は、東京へ足を延ばし、SCC第一回演奏会を朝日講堂で行った。
ジャズとハワイアン、タップダンスとハワイアン等と銘打ったコンサートに出演している。

村上氏は、スチールギターは、ハワイアンだけではなく、ジャズや他のジャンルにも
十分適応できる楽器だと確信している。だから、ハワイアンにはこだわらなかった。
(このあたりは、大橋節夫氏の感覚と一致している、そのせいか、オッパチさんは
村上氏の熱風を頻繁に弾いている)

明けて、1935年(昭和10年)22歳になって、JOBK(NHK大阪)に
3回出演して、11月に再び、東京の帝国ホテル講堂にて、第二回目の
SCC演奏会をやっている。
12月放送で、バッキー白片と共演し、初めてリッケンバッカーのスチールを
見た、、。欲しかった!!
写真↓左から2番目、バッキー白片氏、その右の学生が村上氏。
この時は、村上氏は、ウクレレ、スチールは、バッキーさん。


WSG(Wood Steel Guitar)では、当時のスチールの巨匠ソル・ホオピイのスタイルに
深く傾倒していた村上氏は、軽快なタッチを加えた演奏を、タイヘイに4枚、テイチクに1枚
レコーデングしている。

昭和11年(1936年)夏、村上氏は、渡米の機会を得て、ソル・ホオピイ、
アンデイ・アイオナ、サム・コキ等一流ハワイ楽団に逢っている。
この時、リッケンバッカー工場に行って、工場見学した後、あこがれの
リッケンバーッカーのスチールギターを入手した(フライパン)。

バッキー白片の持参したリッケンバッカースチールギターを見てから、
ようやく入手できた村上氏の喜びは、大変なものであったろう。。
村上氏は、渡米中に、サムコキやマッキンタイアにスチールギターを師事してから
帰国した。
チューニングは、今まで、Aメジャーから、Dm7(F6)に変えた。
当時は、SG(スチールギター)が盛んで、レコード会社では、SGの入った曲は
大体よく売れた、、それは、複雑なハーモニーでなく、メロデイ一本で
はっきりしているのが、日本人に受けたのではないか、、と思われた。

その後、村上氏は、少し音楽から離れる時はあったが、昭和13年(1938年)には
小島正雄氏や牧田義雄氏らとプレイしている。

そして、セントルイス・ブルースのレコード化、年間50万枚を売るベストセラー
となった。
村上氏は、昭和16年(1941年)昭子夫人と結婚し、長男洋一君、
長女京子さん(現、ジャズシンガー)が生まれている。
↓写真は、左から、長男洋一君(1942年生)、奥様(昭子夫人)、一徳氏、
長女京子さん(1944年生)。


朝吹英一氏の主宰した、親しい友人という意味を込めた「カルア・カマアイナス」は、
学生、社会人の構成で1940年10月の第一回公演から1943年6月の
第7回定期公演まで続けられた。

村上氏も途中からだが、その一員として参加し、演奏曲に自身の「熱風」がある。
但し、戦争当時だったので、敵性音楽とかで、レコード化はできなかった。
後、なんと1985年3月、40年以上も経ってから発売されている。
このブログ、2011-3-31 参照ください。。

村上氏は、大変な酒豪だったらしい。
1963年、享年50歳にて亡くなった、死因は不明です。
人生としては短かったが、歩んできた道には、数々の偉業を残してきた偉人だと思います。


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2 コメント

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軍隊「なに?ハワイアンだと!」 (Tommy)
2020-07-14 10:01:23
村上一徳氏については、熱風の作曲者程度しか知りませんでした。
戦前に大活躍されてたんですね。もし時代が20年ほど後だったら、戦後ハワイアンブームの中心におられたでしょう。
敵性音楽→戦前は 肩身の狭い思いでの演奏だったか。
これじゃ、酒でも呑んでなきゃ やってやれないや
(と思うのは俺だけか、失礼いたしました)。
Tommy様 (song1234)
2020-07-14 19:04:13
大橋節夫氏の師匠(諸説ありますが)になりますが、戦争でご苦労されたはずですね。スチールギターに惚れ込んで、この楽器は、ジャズ等いろんなジャンルに適用できる、という感性は、大橋氏と共通してましたね。だから、熱風をハニーアイランダーズは演奏したのでしょう。もう少し長生きして頂きたかったです。

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