仙丈亭日乘

あやしうこそ物狂ほしけれ

読書録 2023年6月 後半

2023-06-30 19:10:00 | 読書録(備忘)


620

『劒岳〈点の記〉』新田次郎 1977

再読。

 本邦最後に残された未踏峰、越中劒岳。

柴崎芳太郎率いる測量隊は、明治40712日、梅雨の中休みを逃さず、長次郎雪渓から劒岳に登頂。

頂上で錫杖の頭と剣の穂先が見つかり、大昔の修験者がすでに登頂していたことがわかった。

発足したばかりの日本山岳会と競うような形にはなったものの、山岳会代表だった小島烏水からの祝電が良かった。

 劒岳はぼくの憧れの山。

昭和49年8月、今は亡き叔父に連れられて、黒部側から入山し、阿曽原、仙人湯、仙人池、池の平を経由して真砂沢出合でテントを張ったのだが、おりからの台風で1日停滞し、おかげで時間切れ、剣沢を経て劔御前から室堂に下山したのでした。

そして、さらに平成元年のゴールデンウィーク、立山から劒岳に登る計画だったのだが、初日に季節外れの吹雪(雷雨ならぬ雷雪)に見舞われて室堂の小屋泊まり。翌日は見事な晴天だったが、立山三山を縦走して劒御前小屋までで、またもや室堂に下山。

二度とも劔のすぐ麓まで行ったのに敗退したのでした。

劒岳には登りたかったけれど、夏に別山尾根からの一般ルートを登るのではなく、6月頃に測量隊と同じ長次郎雪渓から登りたかった。

その思いをあたためているうちに、すでに還暦を過ぎて腰と膝がダメになってしまい、駅の階段ですらしんどいようになってしまいました。

 さて、作者の新田次郎が劒岳に初めて登ったのは昭和51年9月、64歳の時だったとのこと。あのレジェンド、佐伯文蔵さんにガイドしてもらったそう。

ああ、羨ましい。


6月27

『壬生義士伝』浅田次郎 2000

再読。

200210月にフレズノで過ごした時に持って行った時が初読でした。

アメリカで幕末の物語を読むのも乙なものだと考えたのでした。

新選組の吉村貫一郎。

ちっぽけな器ながら、あまりにも硬く美しい器。

龍馬暗殺の下手人、斎藤一説。

左利きで居合の得意な斎藤一なら、龍馬の額が横一文字に割られていた説明がつく。なるほど。

会津が破れて北の果てに転封され、斎藤一が先乗りで盛岡を通った時に、原敬少年が斎藤一に握り飯を差し出すシーン、いいなぁ。

そして、貫一郎の嫡男、嘉一郎。

南部二十万石を背負うて函館の戦で十七年の短い生涯を終える。

嘉一郎の生涯は輝いていた。

命よりも大切なものが確かにあるのだ。

 



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