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思い出すらも不要なのか

2024-07-10 | つれづれ
クラウドが「容量もういっぱいだよぉ」というので、容量の大きいファイルや動画や写真から削除している。

削除して思うのは実に簡単に削除できてしまうな!ということである。

容量の大きいファイルを見て「いる」「いらない」をやるわけだが、「いる」とは思った物ですら、もう数年ばかし見ていない動画やファイルや写真だったりする。

数年ばかし見ていない「いらない」ものを消したからといっても自らに大きな悲しみを産むわけではなく、このデータに興味があるのは自分自身のみで、他者から見てさほど…というものであるということを知ってしまった今では、割と躊躇なく削除してしまう。

久しぶりに会った人に、自らの旅行の写真を見てもらうときの反応が良い例である。
自らはそこで体験した思い出や感情が想起されるので見ていて楽しいものだが、見せられている側からすると「すごいねぇ」「きれいだねぇ」「へぇ~」マシーンと化しているのは自明である。

あと、思い出すのは親の後始末の時のシーン。既に幼少期の子供達の写真が配布された後であったのも理由のひとつではあるが、見事に皆興味がない様子であった。

つまり皆今ここの生活のこと以外、基本的には全く興味がないわけである。

ひょっとすると、過去を想起できるのは時間とお金の余裕のある者の特権かもしれない。あるいは余裕が無くて過去を思い出して良い感情を懐かしんでいるか。

えー普通に思い出すし、消えたら普通に寂しいよーという人は色々恵まれているのじゃないかしら。
少なくとも今思い出すだけの時間があって、かつ、思い出しても嫌な気がしないのだもの。

親が親の視点から見ていた何某かに興味があったのはまだ自分が世を知らぬ若かりし頃のみで、すでに親と子は別個体であることを認識してしまった子においては、それがそのまますんなりとはいかなかった。

ちょっと嫌だな…が大分嫌だな…になり、もう微塵も思い出したくもないになった。

そういうわけで、他人の記憶そのものには興味がなく(記憶を受けて育った今ここの他人様のあり様には興味はあるが)、自分が忘れ去ってしまった自分の記憶にもそんなに惜しい…!という気持ちもなく、もしかして私思い出すらも無用なの…?と切ない気持ちになっている。

なんで切ない気持ちになっているかというと、確かに私は社不でサイコパス気味かもしれないが、サイコパス気味と言ったって程度はあるでしょう、と思っているから。

海岸から10mくらいのところを漂っていたつもりが、海岸から150mくらいのところにいた、みたいな気持ち。

まぁでも、「いらない」と今の自分が思ったデータを捨てているだけだから、「いる」と思うものを「いる」と思っているうちは死ぬまで取っておこうと思っている。

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