2015年9月25日
#、為替、120.25円。12.11円。120.34円。ユーロ、134.42円。134.30円。134.44円。
#ダウ、16201.32ドル。-78.57ドル。ナスダック4734.47。-18.26。
#前場、17560.79円。-11.04円。後場、17880.51円。+308.68円。
作曲家、
羽田健太郎9/25済
羽田 健太郎 (はねだ けんたろう、1949年1月12日 - 2007年6月2日) は、日本の作曲家、編曲家、ピアニスト。通称、ハネケン。劇伴音楽を多く手がけた。2000年4月から2007年5月までテレビ朝日系列の音楽番組『題名のない音楽会21』の司会を務めた。
目次 [非表示]
1 プロフィール
2 来歴 2.1 出生~中学2年生まで
2.2 中学2年~桐朋学園大学卒業まで
2.3 桐朋学園大学卒業~30歳代まで
2.4 30歳代~40歳代
2.5 40歳代~50歳代
2.6 50歳代~死去
プロフィール[編集]
1949年東京都生まれのピアニスト、編曲家、作曲家。東京音楽大学客員教授。桐朋学園高等部から桐朋学園大学音楽学部ピアノ学科卒業。有賀和子、井口基成、柴沼尚子など、業界では特にスパルタで知られる高名な教育者たちに師事。長女は声楽家で現在ショップチャンネルのキャストでもある羽田紋子。
来歴[編集]
出生~中学2年生まで[編集]
1歳の時に銀行員の父を亡くし、住宅会社に勤める外交員の母親と祖父によって育てられた。4歳のときに他人との協調性を学ばせるため、祖父の意見で東京少年少女合唱隊に入れられた。これが羽田と音楽との出会いであった。
小学校2年(北区立王子小学校)の時にピアノに転向、田鎖直江に師事。7か月後に安藤たかに師事。安藤には3年間師事した。その後志田芳久に師事する。志田は当時北区立王子小学校の音楽教師であった。中学2年の進路相談で「音楽学校へ進みたい」と意志を明らかにし志田の知り合いの有賀和子(当時 桐朋学園助教授)を紹介してもらう。
田鎖、安藤、志田はいわゆる「町のピアノ教師」であり本格的な専門教育者ではない。羽田は中学2年生まで本格的な専門教育を受けていなかった。
中学2年~桐朋学園大学卒業まで[編集]
有賀との初めてのレッスンで羽田はチェルニー50番を弾いた。それを聴いた有賀は「(桐朋高校受験は)間に合うかしらね。あと一年半で……」と一言感想を漏らした。当時練習していたチェルニー50番をチェルニー30番へと戻され、基礎から学びなおすことになった。当時の羽田には相当なカルチャーショックであった。高校受験の自由曲はシューマンのノヴェレッテでビリから2番目の成績で合格した。
高校1年生の時に羽田の母親がグランドピアノを購入し、防音のために家を改築する。羽田は有名になった後も終生このピアノを大切に使った。この年の夏休みに一日12時間もの猛練習で急速に実力を伸ばした。これは有名なピアニストの伝記を羽田が読んでヒントを得たもので、『徹子の部屋』で語ったところによれば、「片手ずつゆっくりさらい、完全に出来るようになったら片手ずつ速くさらい、それができたら今度は両手でゆっくりさらい、それが完全にできるようになったら、最後に両手で速くさらう」という地道なものであったが、これを実際に実行すると長い練習時間を必要とする。
大学に進学した1967年、第36回日本音楽コンクールを受けるが第1次予選で落選。その後大学には内緒でホテルのラウンジでピアノを弾くアルバイトをして実演の経験を積んだ。これが後に受けるコンクールでの舞台度胸や実演の経験として功を奏した。
大学4年の時に第39回日本音楽コンクールピアノ部門第3位入賞。入賞曲はベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番。大学のピアノ科を首席で卒業、卒業試験では最高点を取り桐朋音楽賞を受賞した。
桐朋学園大学卒業~30歳代まで[編集]
桐朋音楽大学卒業後、師匠の有賀に今後の進路を問いただされると羽田は軽音楽の道に進むと意思表示した。有賀からは「私の弟子だったということは決してプロフィールには書かないで」と事実上の破門を言い渡された。羽田はクラシックピアニストの現状が非常に厳しいことを認識していたし、苦労をかけてきた母親に一刻も早く恩返ししたいという思いもあった。また在学中からアルバイトで弾いていた時点で軽音楽が流行していてそこに活路を見いだしていた。
在学中に「ある愛の詩」のピアニストの代役を頼まれそこで実力を高く評価されていたが、当時は学生であったため活動は自粛し、大学卒業後に正式にスタジオミュージシャンとしての活躍を開始。この頃、大野雄二らにジャズ・ピアノを師事する。
スタジオ・ミュージシャンとしては、クラシック出身で指が確実に高いレベルでよく動く人材が当時は乏しかったことから非常に重宝され、朝から晩までスタジオにこもり、次から次へと録音をこなしていった(そしてこなせるだけの高い技術があった)。著書によれば、当時のサラリーマンの月給を2日で稼げるほど売れっ子だった。羽田の回想によれば、金は要らないから休ませて欲しいと思うほど、当時は仕事が次から次へと回ってきた。スタジオ録音全盛期の時代と、羽田の活躍の時期が重なったことは幸運であった。
1978年から1980年頃はシンガーソングライター渡辺真知子のバックバンドのリーダーを務めていたことがある。ちなみに彼女の初期のアルバムでピアノを弾いているのは羽田その人である。
当時収録されたレコードの謳い文句には、羽田はクラシック出身であるがポピュラーにも強い、というプロフィールが書かれており、現在のプロフィール(桐朋音楽大学出身で、クラシックに造詣が非常に深い)とは正反対の売り方をしており、若き日の羽田は現在とは違う営業方針をとっていた。それは上記のスタジオ・ミュージシャンとしての活躍のためだったと推察される。
30歳代~40歳代[編集]
1982年5月のNHK交響楽団定期公演で羽田はリヒャルト・シュトラウスのピアノと管弦楽の協奏曲『ブルレスケ』のソリストを依頼された。そのときに有賀和子へレッスンを申し込んで師弟関係を戻している。羽田の言葉によれば、楽譜を渡された時点で弾けるだろう、と高をくくっていたが、N響との公式リハーサルの時にまだ暗譜ができておらず、楽譜を見ながらリハーサルをしていた、それくらいにせっぱ詰まったものだった。
30歳代後半にはN響とラフマニノフのピアノ協奏曲第2番のソリストも務めている。
この頃の羽田はクラシックの仕事も徐々に増やし、また軽音楽奏者としても幅広く活躍するようになっていった。
40歳代~50歳代[編集]
40歳代にはいってからは服部克久の『ピアノでポップスを』(NHK教育)をはじめとする音楽バラエティ番組に出演を増やすようになり、スムーズにポピュラー音楽奏者へとシフトしていった。『タモリの音楽は世界だ!』ではかつらを被り、ベートーヴェンの役を演じてピアノを弾いたり、クラシック分野からの出題を担当するなど、クラシックとポップスの橋渡し的役目を果たした。またCDの製作にも意欲的で、『フックト・オン・シリーズ』を手がけ、クラシックを気楽に聴けるように編曲・録音にも力を入れた。
『ニュースステーション』では富士山山頂からの中継や、自然豊かな森林、風情のある寺、夜桜中継など映像と音楽を調和させる演出の中で、情緒あるポピュラーピアノ曲(自作)の演奏を行うようになり、視聴率の高いこの番組で一般人にも知られるところとなった。
この頃から純粋なピアノ演奏以外のトークを交えた仕事も引き受けるようになる。『おもいッきりテレビ』でコメンテーターとしての出演、舞台「アーニーパイル」「ムーンリット・クラブ」(ピアニスト役、実際舞台でピアノを弾く)も出演した。この頃の羽田はテレビへの露出を多くし、知名度を上げることでさらに仕事が増えるというパターンをとっており、結果としてコンサートなどの演奏機会を増やすことに成功した。またMXテレビ(現TOKYO MX)初のテレビショッピング番組(自社製作)「眺めのいい暮らし」で司会を務め、自らピアノ演奏を披露していた。
50歳代~死去[編集]
1998年12月からは慢性的な飲酒がたたって体調を崩し、『ニュースステーション』を一時降板した。療養後復帰。『新 ハネケンの音楽は愉快だ』によれば、朝、昼、晩と飲酒を繰り返し、1998年12月3日の朝、顔色が悪いのを長女に指摘され病院を受診。その病院で倒れて一週間意識不明となる。ICUで1週間過ごし血液透析を2回繰り返してなんとか一命を取り留めた。この年の大晦日には東急ジルベスターコンサートで『ラプソディ・イン・ブルー』を演奏する予定であったが、急遽降板となる(代役は前田憲男が務めた)。その後は飲酒は一切やめたが、体調不良のため不定期にコンサートのキャンセルなどを余儀なくされていた。療養後は色白だった顔がやや色黒に見えている。
療養後の演奏活動としてはクラシック音楽への原点回帰を思わせ、純粋なクラシック演奏会を自主的に開く。ピアノ三重奏、ピアノ協奏曲などを積極的に取り上げた。
音楽家生活35周年コンサートでは、長年の飲酒による肝障害によりコンサート直前に入院を余儀なくされたが、病室に電子ピアノを持ち込んで練習を重ね(ガーシュウィンのピアノ協奏曲ヘ調)、コンサート当日に高熱を押して見事コンサートを最後まで持ちこたえた。
健康が許せばピアノ独奏・前田憲男、佐藤允彦との共演による『トリプルピアノ』主体の演奏会を開いていたが、後に指揮者へと傾向を変えている。ピアノ演奏は多少するが、難度の低い曲にとどまっている(雨だれの前奏曲やノクターン第2番など)。英雄ポロネーズなどの難度の高い曲を取り上げたときもある(羽田の自主公演では無い)。後にラフマニノフのピアノ協奏曲第2番やラヴェルのピアノ協奏曲など、羽田個人が演奏しておきたい曲(必ずしも有名曲とは限らない)を積極的に企画し、オーケストラと交渉して演奏会を実現させている。
晩年は、ソロコンサートと同時にジョイントコンサート、指揮者としての出演が多く、また長女・羽田紋子(声楽家)とのジョイントコンサートも多かった。
プロ野球東京ヤクルトスワローズのファンであり、何度か神宮球場で『東京音頭』を演奏したことがある。また『題名のない音楽会21』では、フルオーケストラをバックに『東京音頭』を薄緑色のビニール傘をさして乱舞するという熱烈ぶりを見せた。
2007年4月、体調悪化に伴い入院。同時に『題名のない音楽会21』への出演を見合わせ、休養に専念するようになる。
2007年6月2日、午後11時53分、肝細胞癌のため、東京都新宿区の病院で死去。58歳没。法名は、妙音院釋穏健。墓所は港区麻布山善福寺の境内墓地にある。墓石は、生前に型取りした羽田自身の手形の彫刻を用いている。
エピソード[編集]
王子小学校では歌手小川知子と6年間同級生であり、高学年になってからは毎学年1学期の学級委員は羽田と小川であり、2人とも人望のある優等生であったと自ら語っていた。また小川知子は自伝で『私の初恋の人は羽田健太郎君。』と明言している。
1. 広島対阪神戦。
3対0で阪神勝利。
先発、
【広島】福井優也右腕、
【阪神】能見篤史左腕、
「阪神】
1 遊 鳥谷敬 .271 2 三 今成亮太 .295 3 右 福留孝介 .282
4 一 ゴメス .272 5 左 マートン .279 6 中 伊藤隼太 .262
7 二 坂克彦 .219 8 捕 鶴岡一成 .224 9 投 能見篤史 .137
【広島】
1 中 丸佳浩 .254 2 二 菊池涼介 .266 3 右 鈴木誠也 .286
4 左 エルドレッド .230 5 一 新井貴浩 .270 6 三 堂林翔太 .212
7 遊 田中広輔 .266 8 捕 會澤翼 .250 9 投 福井優也 .029
戦評
9月25日(金)広島 vs. 阪神 22回戦
阪神が連敗を4で止めた。阪神は初回、福留の2ランで先制に成功する。3回表には、マートンの適時打でリードを広げた。投げては先発・能見が7回無失点の好投。その後は福原、呉昇桓とつないで完封リレーを収めた。敗れた広島は打線が振るわず、4連敗を喫した。
責任投手/本塁打
勝利投手、[ 阪神 ] 能見(11勝12敗0S)
敗戦投手、[ 広島 ] 福井(9勝6敗0S)
セーブ、[ 阪神 ] 呉昇桓(2勝3敗41S)
本塁打、[ 阪神 ] 福留 20号(1回表2ラン)
[ 広島 ]
阪神バッテリー
能見 、福原 、呉昇桓 - 鶴岡。
広島バッテリー
福井 、戸田 、一岡 、今村 - 會澤。
2. ロッテ対ソフトバンク戦。
6対3でロッテ勝利。18:15
先発、
【ロッテ】涌井秀章右腕、
【ソフトバンク】ウルフ右腕、
【ソフトバンク】
1 二 川島 慶三 .270 2 右 中村 晃 .295 3 中 柳田 悠岐 .363
4 左 内川 聖一 .285 5 一 李 大浩 .288 6 三 松田 宣浩 .291
7 指 長谷川 勇也 .250 8 遊 今宮 健太 .222 9 捕 谷 裕亮 .178
【ロッテ】
1 左 荻野 貴司 .269 2 中 伊志嶺 翔大 .264 3 右 清田 育宏 .325
4 二 クルーズ .258 5 一 福浦 和也 .265 6 指 デスパイネ .253
7 三 今江 敏晃 .289 8 遊 鈴木 大地 .260 9 捕 田村 龍弘 .173
戦評
9月25日(金)ロッテ vs. ソフトバンク 23回戦
ロッテは初回、クルーズの適時打とデスパイネの3ランで一挙4点を先制する。3点リードで迎えた4回裏には、荻野と伊志嶺の連続適時打で2点を加えた。投げては先発・涌井が7回3失点で今季13勝目。敗れたソフトバンクは、先発・ウルフが試合をつくれなかった。
責任投手/本塁打
勝利投手、[ ロッテ ] 涌井(13勝9敗0S)
敗戦投手、[ ソフトバンク ] ウルフ(0勝1敗0S)
セーブ、[ ロッテ ] 内(1勝1敗1S)
本塁打、[ ソフトバンク ] 柳田 33号(5回表ソロ) 、柳田 34号(7回表ソロ)
[ ロッテ ] デスパイネ 17号(1回裏3ラン)
ソフトバンクバッテリー
ウルフ 、千賀 、島袋 - 高谷。
ロッテバッテリー
涌井 、大谷 、内 - 田村。
3.オリックス対日本ハム戦。【京セラドーム】
4対1でオリックス勝利。
先発、
【オリックス】バリントン右腕、
【日本ハム】斎藤佑樹右腕、
【日本ハム】
1 中 陽岱鋼 .268 2 遊 中島卓也 .270 3 二 田中賢介 .289
4 一 中田翔 .266 5 指 近藤健介 .336 6 三 レアード .227
7 右 ハーミッダ .217 8 左 淺間大基 .275 9 捕 大野奨太 .197
【オリックス】
1 左 小田裕也 .316 2 中 駿太 .234 3 右 糸井嘉男 .249
4 一 中島裕之 .249 5 三 小谷野栄一 .304 6 指 T-岡田 .276
7 遊 安達了一 .238 8 二 小島脩平 .182 9 捕 若月健矢 .---
戦評
9月25日(金)オリックス vs. 日本ハム 23回戦
オリックスは1点を追う4回裏、小谷野の犠飛とT-岡田の適時打で2点を挙げて逆転に成功する。そのまま迎えた6回には、再び小谷野の犠飛とT-岡田の適時打が飛び出し、リードを広げた。先発・バリントンは今季4勝目。敗れた日本ハムは、打線がつながりを欠いた。
責任投手/本塁打
勝利投手、[ オリックス ] バリントン(4勝3敗0S)
敗戦投手、[ 日本ハム ] 斎藤佑(1勝3敗0S)
セーブ、[ オリックス ] 佐藤達(2勝7敗12S)
本塁打、[ 日本ハム ]
[ オリックス ]
日本ハムバッテリー
斎藤佑 、金平 、ライブリー - 大野 、石川亮。
オリックスバッテリー
バリントン 、白仁田 、海田 、小松 、岸田 、佐藤達 - 若月 、山崎勝。
スポーツ、
1. 【大混セ、V争いの行方】ヤクルトも巨人も4連勝!ゲーム差2変わらず
スポーツ報知 9月24日(木)21時57分配信
大混戦のセ・リーグは24日、首位・ヤクルトと2位・巨人が共に勝ち2ゲーム差は変わらず。ヤクルトが一歩リードの様相。3位・阪神は中日に敗れ5ゲーム差と後退した。4位の広島も敗れたため阪神とのゲーム差2・5は変わらずCS争いも加熱している。
残り試合もわずかとなったが、セ・リーグの混戦模様は相変わらず。ヤクルトは4連勝とこの日も打撃好調の山田が35、36号と2打席連発、投げてはエース小川が6回2失点の力投で11勝目を挙げた。これで3位以上が確定し、3年ぶりのCS進出が決まった。
2位の巨人も負けずと投打がかみ合い、マイコラスが12勝目を挙げ、坂本の先制V弾で4連勝を決めた。
25日は両チームともに空き日で26、27日と東京ドームで直接対決の2連戦。優勝争いを大きく左右する週末となりそうだ。
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2. 中日・和田が引退試合で胴上げ「やりがいのある野球人生だった」
デイリースポーツ 9月24日(木)22時15分配信
中日・和田が引退試合で胴上げ「やりがいのある野球人生だった」
ナインから胴上げされる和田(撮影・保田叔久)
「中日4-2阪神」(24日、ナゴヤドーム)
中日が接戦を制して2連勝。和田一浩外野手(43)の引退試合、そして谷繁監督兼捕手(44)の、選手としての本拠地最終戦を勝利で飾った。
【写真】場内を一周してファンの声援に応える和田
メモリアルゲームで価値ある勝利。谷繁監督と和田は、笑顔でベンチ前に姿を現し、選手達を出迎えた。本拠地最終戦のセレモニー終了後には、マウンド付近に選手全員が集結。和田と谷繁監督が胴上げされた。
以下はセレモニー後のインタビューに応じた和田の一問一答。
-試合を終えて、胴上げをされて、今の心境は。
「ようやく終わったなと、いう、ちょっとホッとした気持ちと、まだまだやりたかったんじゃないかなという気持ちも少しありますけど、いいチームメートに恵まれて、いいチームに恵まれて、そういう意味では本当にやりがいのある野球人生だったと思っています」
-第1打席で2050本目の安打。感触は。
「引退試合という気持ちよりは、普段の試合という感じで臨めたと思いますし、勝つためになんとか打ちたいなという気持ちでバッターボックスに入ったんで、何とか皆さまにヒットを見せられて本当に良かったと思っています」
-その後打線がつながり、谷繁監督のタイムリーで生還。
「何か特別なものというか…、本当に今まで感じたことのない微妙な気持ちではあったんですけど、本当にうれしかったですね」
-最終打席、一塁を駆け抜けたとき大きく息を吐いていた。あのときの心境は。
「そうですね。あの…、まあ、終わったなっていう…、感じですね」
-ご家族にはどんな言葉を。
「本当にプレッシャーもかかりながら、僕がやってることに対して、毎日毎日プレッシャーを感じてきたと思います。そういう意味では一緒に戦ってきたたと思っているんで、家族には感謝しかないです」
-まだ(現役で)できるのでは。
「いやいや、ありがとうございます。ただ、僕の中ではもう線を引いたので、プレーヤーとしては今年で終わりますけど、今までのようにドラゴンズファンに戻って、ドラゴンズの優勝を夢見ながら、応援したいと思います」
-最後にファンへメッセージを。
「僕自身は今日で現役生活を終わりますけども、まだ後輩たち、強いドラゴンズを必ず復活させてくれると思っています。皆さまの熱い応援と、僕自身もこれからドラゴンズを応援したいと思っていますので、また優勝する日を夢見ながら、今日、現役を退きたいと思います。本当に大きな声援を、今までありがとうございました!」
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3. 阪神・和田監督の退任決定 後任候補に金本&掛布氏 オーナー&社長が極秘会談
デイリースポーツ 9月25日(金)6時59分配信
阪神・和田監督の退任決定 後任候補に金本&掛布氏 オーナー&社長が極秘会談
8回、満塁の好機を逃し、厳しい表情でグラウンドを見つめる和田監督(撮影・田中太一)
阪神が和田豊監督(53)と来季以降の契約を更新しない方針を固めた。24日午後、坂井信也オーナー(67)と南信男球団社長(60)が神戸市内で極秘会談を行い、和田監督の進退について話し合われたもようだ。首位ヤクルトとの差は5ゲームとなり、10年ぶりの優勝が絶望的となった夜、12年から4シーズン続いた和田体制に終止符が打たれることが決まった。シーズン終了を待って、新体制を模索する。後任監督には金本知憲氏(47)、掛布雅之DC(60)らが候補に挙がっている。
【写真】明暗の別れた阪神・和田監督とヤクルト・真中監督
中村勝広GMの悲報から一夜明け、阪神が「和田監督退任」という未来に向けた決断に踏み切った。この日、都内から帰阪した南信男球団社長が極秘裏に向かった先は神戸市内のホテル。その一室で待ち受けたのは坂井信也オーナーだった。
デイリースポーツの取材に対し両者はともに「きょう、お話しすることは何もない」と、緊急とも言えるトップ会談の中身を明かすことはなかったが、議題が和田監督の進退に及んだことは疑いようがない。
必勝を期した球団創設80周年のメモリアルシーズンを今季4年目の和田政権に託したが、例年繰り返される秋口のひ弱さをまた露呈した。電鉄本社、球団は昨オフ1年契約を結んだ和田監督の続投指標を「優勝争い」とその「戦いぶり」に置いてきたが、勝負どころで勝ちきれない体質はファンからも見放され、球団内では指揮官の求心力を疑問視する声も増大。もはや「限界」と見なされても仕方なかった。
巨人にサヨナラ負けした23日の試合後、ナインに中村GMの訃報を伝えた南球団社長は「全力でいいプレーをして1つでも勝ってくれ。それが今できるGMに対する供養になる」と、選手、首脳陣にあらためてチーム一丸を促したが、この夜も最下位の中日相手に気迫なく敗戦。首位ヤクルトとの差は「5」まで開き、10年ぶりリーグ制覇の可能性はゼロに等しくなった。
ポストシーズンで雪辱を目指すチームは残り7試合を全力で戦わなければならない。CS、日本シリーズに向け、フロントが最後まで和田体制をバックアップするスタンスに変わりはないが、将来に向け、新たな舵(かじ)を切る選択はもはや動かぬものとなった。
シーズン全日程の終了を待って、新体制の着手に取りかかるものと思われるが、後任候補には金本知憲氏や掛布雅之DCら複数のOBの名前が挙がっている。夏場の優勝ムードから一変、伝統球団は和田体制に区切りをつけ、創設81年目の新体制を模索することになった。
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4. スポーツ、
1.. 周囲の人が口々に「大人になった」。涌井秀章がロッテで取り戻したもの。
8月28日、QVCマリンフィールドの試合後のベンチ裏のことだ。
お立ち台の準備をする千葉ロッテ・涌井秀章の横で、キャプテンの鈴木大地が無邪気にはしゃいでいた。
この日のヒーローは7回を5安打1失点に抑えて11勝目を飾った涌井と、必死の走塁で内野安打にし、貴重な先制点をあげた鈴木の2人だったが、試合前に何かの約束をしていたのだろう。鈴木は涌井に満点のテスト用紙をひけらかすように、その日の食事のメニューをちゃっかりアピールしていた。
「明日はここにいる背番号7番(鈴木)がまた活躍しそうな気がするので応援よろしくお願いします」と、スタンドのファンの目の前で応戦する涌井。こうした冗談を入れた会話が気軽に交わし合えるほど、涌井は移籍2年目にして、すっかり「千葉ロッテ」というチームに溶け込み、後輩たちに慕われる良き先輩にもなっていた。
西武時代に先発と抑えの間で苦しんだ涌井。
埼玉西武からFA移籍した昨年は、周囲の期待に応えられず7月に2軍降格を経験した。最多勝2回('07年、'09年)、沢村賞1回('09年)の過去の実績から見れば、さぞかし歯がゆい移籍1年目だったと思えるが、しかし、こうした経験もけっして遠回りではなかったのだろう。西武時代から涌井の自主トレをサポートするなど、公私ともに面倒を見てきていた大迫幸一トレーニングコーチは、そんな昨年の涌井についてこう語っている。
「移籍1年目というのは、初めてのチームだから色々と模索しながらやらなければいけないんで、なかなか難しいと思うんです。でも2年目は選手同士の関係もだいたい分かるし、このチームはこういう雰囲気のチームなんだと理解しつつ、調整も自分のペースを守りながらやることができる。だから今年があるんだと思いますよ」
西武時代はストッパーを任されていたことで、先発をしていた自分の姿に戻すことにあらゆる面で苦しんだ。
「(ストッパーは)用意ドンで100で行かなきゃいけないから、先発と体の使い方は当然変わります。先発なんて0からスタートしてもいいくらいです。科学的なことをやれば筋肉の関係もあるかもしれないけど、この世界でやっている限りはとにかく慣れが全て。ポジションがそこだとなったときは、先発の練習方法じゃなくて、短い時間で自分の力を発揮できるように、早く体に覚えさせなければいけない」
先発と抑えでは、意識もタイミングも全部違う。
続けて大迫コーチが語る。
「以前、西武にグラマンがいましたけど、最初は彼も先発をやっていたけど、最終的に抑えをやって結果を出しました。そしたら『僕は抑えの方が合っている』と彼が自分で言いだしたんです。じゃあなんでお前は先発をやったんだと(笑)。彼は先発して4、5勝したら次の年に勝てなかった。じゃあ中継ぎか抑えでもしようかとなったらいきなり145キロ以上の球を投げたわけでしょう。ただ先発だとそれをするのはできない。そういう意識の違いが先発と抑えではあると思うんです。
それと今度はタイミングがあるんです。先発の『イーチ、ニーー、サーン』というタイミングと抑えの『イチ、ニ、サン』のリズム、こういうのも全然違ってくる。投げ込んでいくリズムと、もう1つ気持ちのリズムも全然違う。それが全部やっと昨年の1年間で清算できたんじゃないのかと思うんです」
埼玉西武時代に抑えを経験したことで、涌井自身も気付いたことがあっただろう。身についた技もあっただろう。しかし、年間を通して本格的に抑えを任されるとなると話は違う。調整法から気持ちの作り方まで全てが変わってくる。そこに彼なりの葛藤があった。彼は彼自身を取り戻すために育ててもらったチームを離れ、新天地に活路を見出したのだ。
「考え方がここに来てすごく大人になった」
そんな涌井について大迫コーチは次のように語る。
「考え方がここに来てすごく大人になったよね。男として、人間として、本当に成長したと思う」
今季の涌井は、開幕から彼が登板する全試合で入団3年目の田村龍弘とコンビを組んできている。主戦級の投手と組むことで田村に配球面を学ばせることが狙いだが、田村はそのことについて話を向けられるとこのように答えた。
「ワクさんは僕を試してくれていると思うんですね。自分ではこのボールを投げたら打たれるなとかわかっているだろうけど、それでもあえて僕のサインに頷いてくれている。試合が終わってから2人で反省会をするんですけど、『あの場面は……』などと意見も言ってくれるし、僕もその後で、その日の映像を見て、次の日に『あのときはこうでしたね』って話もします」(「ベースボールサミット」田村龍弘インタビューから)
こうしたとき涌井は、けっして上から目線で田村に語ることはないという。これまでに涌井が発した試合後のコメントを拾っていくと、涌井自身も田村に何かを教えることで再確認することがあるようだ。不要な上下関係で後輩を縛らず、たとえ打たれても後輩だけの責任にせず、相手の意見を尊重することで自分の成長にも取り入れていく。
そうした彼の姿勢があるからこそ、涌井は後輩たちにも慕われ、移籍2年目にしてこれだけの成果をあげているのかもしれない。
勝利数で大谷に次ぐ2位につけている涌井。
ここまで(9月23日現在)25試合を投げて12勝をあげている涌井は、ハーラートップの大谷翔平(北海道日本ハム)に2勝差の2位につけている。首脳陣だけでなく味方投手陣にとっても頼もしいかぎりであるが、中継ぎ陣の1人で今季37試合に登板している香月良仁は、涌井について質問をするとこんなことを語ってくれた。
「先発はよく6回3失点と言われますけど、毎試合7回くらいまで投げるのって相当大変だと思うんです。僕も中継ぎで今年30試合以上投げていますけど、それでも相当しんどいので、そこで僕が感じるのは、第一に体が半端じゃなく強くなければできない、そして年間を通して変わらないスタミナもあるってことです。
それでいて怪我しないように、(スイッチを)入れるときは入れて、無理しなくていいときはそうする。言うのは簡単ですけど、そう簡単にできることじゃないと思います。しかも相手のエース級と対決して勝ちを積み重ねているわけですからね。中継ぎの立場から見れば、投げてみなければ分からない、今回凄く良かったけど、次に投げたらよく分からないという先発よりも、7回くらいまで勝ち負け関係なく毎回投げてくれた方が、計算もできるし、体を休ませることができるので本当に助かるんです」
先発投手の1つの指標とされているQS(クオリティスタート/6イニング以上投げて自責点3以内)が、今季の涌井は全登板数25試合中18試合を数えているが、これは全体の7割を占める数字だ。完投数は24試合に投げてわずか1つで、沢村賞を獲った'09年の数字と比べれば、物足りなくも感じるが、今季は球界全体で先発投手の完投数も少なく、これまで以上に投手の分業制が叫ばれるなかであげた数字である。
年齢を重ねて投球術に深みが出てきた。
大迫コーチは言う。
「僕はずっと見てきて、仕事だけじゃなく普段の付き合いもあるじゃないですか。そうするといい意味で大人になってきていると感じるんです。だから、投球を見ていても、さほど無理してはいかない。自分のペースをしっかり守って、試合に入り込んでいく。だから昔みたいな(相手打者を)威嚇するような威力はないかもしれない。けれど、バッターはそこに戸惑うわけでしょう。そういう意味では年齢と共にいろんなものを経験してきて、それがいい意味で技に出てきている。それもこれまでの様々な経験から来ていることじゃないですか」
「(涌井は)まだ進化していると思いますよ」
さらに大迫コーチは続ける。
「(涌井は)まだ進化していると思いますよ。スピードとかそういうことではなく人間として成長していると思う。だから投球自体も良くなっているでしょう。結果(数字)が良ければ、周りももっと違う目で見てくる。そしたらもっと良くなってくると思うんです。たとえば今、10勝していたとして、それが10勝2敗か3敗だったら、もっと周りの目も違ってくるでしょう。でも今季は9敗しているからほとんど五分の状態。これを勝ち越して、さらに増やしていけるかどうかの問題。そこが上がってこないと自分のテンションも上がらないですよ。人間だもん。
ギアはいつも入っているけど見た目には入っていないように見える。あいつは日本人独特のポーカーフェイスみたいなところがあるじゃないですか。でも、そのときが来たら必ず上げてくると思います。これまでだって1つの試合のなかで必ずそういうシーンがあったでしょう?」
菊池雄星相手に凄みを感じさせた圧巻の投球。
9月13日、西武プリンスドーム。
黒に染まった一塁側スタンドから耳をつんざくほどの選手コールがマウンドに立つ彼の背中に注がれた。
「わくい! わくい!」
この声援にまるで後押しされたかのように彼が投じた初球の真ん中高めのストレートは、146キロを計測し、この日史上6人目のシーズン200本安打を達成した秋山翔吾のバットに空を切らせた。
「(燃えるものが)ないと言ったら嘘になりますけど、こういう大事な試合を任されたというのは分かっているし、期待にしっかりは応えられてないかもしれないですけど、これからあと3、4試合投げると思うので、そこでそれなりに期待に応えられればなと思っています」(涌井)
CS進出をかけたライバル埼玉西武との直接対決に、千葉ロッテ・伊東勤監督はあえて中8日でこの日のマウンドを託した。
相手投手は前回対戦で味方打線を完璧に封じ込んだ菊池雄星。その大一番で試合終盤、菊池にプレッシャーをかけ続け、ミスを誘発させた涌井のこの日の投球は、沢村賞を獲った'09年と比べても遜色がないくらい「凄み」を感じさせたものだった。
“俺たちのエース”に奇跡を託す!
試合後、落合英二ピッチングコーチにも話を訊いた。
「僕は今年からなんで“大人の涌井”しか知りませんけど(笑)。やることはしっかりやるし、そこに妥協がないのが凄いなと思います。ランニング1つにしても黙々とやるところとか、やっぱり1人で走るのは誰だってきついですし、誰かと喋りながら走る方が楽しいかもしれない。でも、そんなときでも涌井は1人で誰も寄せ付けない雰囲気でトレーニングができますし、そういうところで先発投手だなって感じがします。(先発として)ゲームを壊さないのは第一前提ですけども、涌井の場合は交代しても次の投手のことを心配しているから、今日だって脇谷のところを最後必死で獲ってくれたことで、次の投手もイニングの頭から行けたわけだし、あそこ続くと、浅村からは内につなぐ予定だったので、そういう意味では1個のアウトを次の人のためにって思って投げてくれるのは有難いですよね」
報道陣の囲み取材に答える涌井の姿を、この日も益田直也と田村龍弘の2人がまるで自分事のようにいつまでも見守っていた。
苦境を乗り越え、周囲に認められ、一皮も二皮も剥けた“俺たちのエース”に千葉ロッテファンは、ゴールデンイヤーの奇跡を信じて、最大級の声援を送る。
ニュース、
1. 川島なお美さん死去 昨年胆管がん手術 54歳若すぎる…
スポニチアネックス 9月24日(木)23時8分配信
川島なお美さん死去 昨年胆管がん手術 54歳若すぎる…
川島なお美さん
女優の川島なお美(かわしま・なおみ、本名・鎧塚 なお美=よろいづか)さんが24日午後7時55分、胆管がんのため、都内の病院で亡くなった。54歳だった。愛知県出身。
【写真】鎧塚氏と仲睦まじい姿を見せていた川島なお美さん
青山学院大学在学中の79年に「シャンペンNo.5」で歌手デビュー。文化放送の深夜番組「ミスDJリクエスト」で人気を博し、82年に日本テレビ系「お笑いマンガ道場」でアイドル的存在となった。
女優としてキャリアを積み、94年に映画「新極道の妻たち 惚れたら地獄」、96年にテレビ朝日系ドラマ「イグアナの娘」に出演。97年に日本テレビ系ドラマ「失楽園」で濃厚なラブシーンが話題となった。
「私の体はワインでできているの」という言葉で知られるように大のワイン好きで、09年にはパティシエの鎧塚俊彦氏と結婚した。
14年に肝内胆管がんの手術を行ったが、15年9月に報道陣の前に姿を見せた際にはやせ細っていて体調が心配されていた。ミュージカル「クリスマス・キャロル」などを降板。代役が決まった際には「完璧に元気になって女優に復帰できるよう当面は治療に専念させていただくことになりました」とコメントを出すなど復帰を目指していたが、叶わなかった。
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2. 「独BMWも11倍超過」=欧州排ガス基準―米NPO調査
時事通信 9月24日(木)21時17分配信
【フランクフルト時事】ドイツ自動車専門誌アウト・ビルト(電子版)は24日、米NPOが行った実走検査の結果、独BMWのディーゼル車「X3」の排ガスから、欧州の基準値の11倍超の窒素酸化物(NOx)が検出されたと報じた。
このNPOは、独フォルクスワーゲン(VW)の排ガス不正操作が発覚するきっかけの調査を実施した「ICCT」。同誌に「VWは単独の事例でない」と主張している。
これに対しBMWは、VWのような不正は行っていないと強く否定したという。
米環境保護局(EPA)によると、一部のVW車の排ガス浄化機能は検査時に十分に働く一方、実走時は効果が弱まるよう制御されており、有害物質は最大で米基準の40倍に達していた。
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3. 安倍首相とプーチン露大統領、28日に会談へ
読売新聞 9月25日(金)0時17分配信
【モスクワ=緒方賢一】タス通信によると、ロシアのペスコフ大統領報道官は24日、プーチン大統領がニューヨークでの国連総会に出席するのに合わせ、28日に安倍首相と会談すると発表した。
日露首脳会談は昨年11月、北京でのアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議の際に開かれて以来となる。
日露間にはプーチン氏の年内訪日をめざす合意がある。だがロシアは北方領土問題を巡り日本に強硬な姿勢を示し、ウクライナ情勢を巡る日本の対露制裁に不満を強める。首脳会談では、プーチン氏の年内訪日に道筋をつけられるかが焦点となる。
北方領土を巡っては、岸田外相が21日、モスクワでラブロフ外相と会談し、事実上、中断していた交渉の再開を宣言した。しかしラブロフ外相は「領土問題は話し合いの対象でない」などと述べ、厳しい姿勢を示した。プーチン氏は28日、オバマ米大統領とも会談する。
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4. 巡礼者事故、死者717人に=サウジ
時事通信 9月24日(木)21時45分配信
【カイロ時事】サウジアラビア当局によると、24日に起きた聖地メッカ近郊での巡礼者圧死事故の死者数は717人に達した。
負傷者は805人となった。
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5. 川島なお美さん 余命1年宣告されていた…最期はワイン色のドレス
スポニチアネックス 9月25日(金)8時46分配信
川島なお美さん 余命1年宣告されていた…最期はワイン色のドレス
川島なお美さん
タレントの山田邦子(55)が25日、TBS「白熱ライブ ビビット」(月~金曜前8・00)に生出演。同じ所属事務所で、胆管がんのため24日に亡くなった女優の川島なお美さん(享年54)を悼み、涙をぬぐった。
【写真】2004年、愛犬を抱き笑顔の川島なお美さん
川島さんの夫・鎧塚俊彦さん(49)、山田の夫、歌手・大黒摩季(45)の夫、3人の仲が良く、食事会を開く間柄。親交は深かった。
山田は訃報を受け、24日午後10時ごろ、川島さんが亡くなった都内の病院に駆け付け、遺体と対面。耳元で「起きろ」と呼び掛けたが「ダメでした。(大黒)摩季ちゃんときれいにしてあげなきゃいけない、お化粧しに行ってあげようと。(川島さんは)小さくなっていましたが、素晴らしいメークさんが付いているので、本当にきれいになっていました。朝も、意識はないんですが、みんなでシャンプーをしてあげたんですって。(髪の毛も)サラサラで。Tシャツだったらしいのですが、赤いワイン色のドレスに着替えさせてあげていました。きれいでした」と声を詰まらせ、涙ながらに振り返った。
川島さんの肝臓に小さな腫瘍が見つかったのは2013年夏ごろに受けた人間ドック。舞台出演を控えていたため、悩みに悩みぬいた末に翌14年1月28日に手術を受けた。
川島さんは余命を宣告されていたといい、山田は「(13年の)7月ぐらいに、1年ですよ、と。(鎧塚さんは)7月から1月が悔やまれると言っていました。早く(病院に)行けばよかったと…」と明かし、肩を落とした。
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6. 米シアトルでバス事故、留学生4人死亡 日本人複数けが
朝日新聞デジタル 9月25日(金)11時33分配信
米シアトルで24日昼、水陸両用の観光バスと大型バスが衝突する事故が起きた。AP通信によると、この事故で4人が死亡したほか、51人が病院に搬送され、このうち少なくとも2人が重体という。大型バスには、近くのノース・シアトル・カレッジの留学生ら約45人が乗っており、亡くなったのはいずれも留学生だった。在シアトル日本総領事館によると、日本人も複数けがをして病院に搬送されており、けがの程度などの確認を急いでいるという。
シアトルの中国領事館の関係者は地元メディアに、病院や大学から聞いた話として「6カ国の48人が巻き込まれた」と話した。同校によると、留学生は約900人在籍しており、多くがアジア出身という。
事故が起きたのは、シアトル中心部に近い、大きな橋の上。シアトル・タイムズによると、水陸両用のバスが車線からはみ出し、反対車線を走っていたバスの側面に衝突したという。(ニューヨーク=中井大助)
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(英語版)マララさんインタビュー全文
マララさん「教育は義務であり責任」 インタビュー全文
#、為替、120.25円。12.11円。120.34円。ユーロ、134.42円。134.30円。134.44円。
#ダウ、16201.32ドル。-78.57ドル。ナスダック4734.47。-18.26。
#前場、17560.79円。-11.04円。後場、17880.51円。+308.68円。
作曲家、
羽田健太郎9/25済
羽田 健太郎 (はねだ けんたろう、1949年1月12日 - 2007年6月2日) は、日本の作曲家、編曲家、ピアニスト。通称、ハネケン。劇伴音楽を多く手がけた。2000年4月から2007年5月までテレビ朝日系列の音楽番組『題名のない音楽会21』の司会を務めた。
目次 [非表示]
1 プロフィール
2 来歴 2.1 出生~中学2年生まで
2.2 中学2年~桐朋学園大学卒業まで
2.3 桐朋学園大学卒業~30歳代まで
2.4 30歳代~40歳代
2.5 40歳代~50歳代
2.6 50歳代~死去
プロフィール[編集]
1949年東京都生まれのピアニスト、編曲家、作曲家。東京音楽大学客員教授。桐朋学園高等部から桐朋学園大学音楽学部ピアノ学科卒業。有賀和子、井口基成、柴沼尚子など、業界では特にスパルタで知られる高名な教育者たちに師事。長女は声楽家で現在ショップチャンネルのキャストでもある羽田紋子。
来歴[編集]
出生~中学2年生まで[編集]
1歳の時に銀行員の父を亡くし、住宅会社に勤める外交員の母親と祖父によって育てられた。4歳のときに他人との協調性を学ばせるため、祖父の意見で東京少年少女合唱隊に入れられた。これが羽田と音楽との出会いであった。
小学校2年(北区立王子小学校)の時にピアノに転向、田鎖直江に師事。7か月後に安藤たかに師事。安藤には3年間師事した。その後志田芳久に師事する。志田は当時北区立王子小学校の音楽教師であった。中学2年の進路相談で「音楽学校へ進みたい」と意志を明らかにし志田の知り合いの有賀和子(当時 桐朋学園助教授)を紹介してもらう。
田鎖、安藤、志田はいわゆる「町のピアノ教師」であり本格的な専門教育者ではない。羽田は中学2年生まで本格的な専門教育を受けていなかった。
中学2年~桐朋学園大学卒業まで[編集]
有賀との初めてのレッスンで羽田はチェルニー50番を弾いた。それを聴いた有賀は「(桐朋高校受験は)間に合うかしらね。あと一年半で……」と一言感想を漏らした。当時練習していたチェルニー50番をチェルニー30番へと戻され、基礎から学びなおすことになった。当時の羽田には相当なカルチャーショックであった。高校受験の自由曲はシューマンのノヴェレッテでビリから2番目の成績で合格した。
高校1年生の時に羽田の母親がグランドピアノを購入し、防音のために家を改築する。羽田は有名になった後も終生このピアノを大切に使った。この年の夏休みに一日12時間もの猛練習で急速に実力を伸ばした。これは有名なピアニストの伝記を羽田が読んでヒントを得たもので、『徹子の部屋』で語ったところによれば、「片手ずつゆっくりさらい、完全に出来るようになったら片手ずつ速くさらい、それができたら今度は両手でゆっくりさらい、それが完全にできるようになったら、最後に両手で速くさらう」という地道なものであったが、これを実際に実行すると長い練習時間を必要とする。
大学に進学した1967年、第36回日本音楽コンクールを受けるが第1次予選で落選。その後大学には内緒でホテルのラウンジでピアノを弾くアルバイトをして実演の経験を積んだ。これが後に受けるコンクールでの舞台度胸や実演の経験として功を奏した。
大学4年の時に第39回日本音楽コンクールピアノ部門第3位入賞。入賞曲はベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番。大学のピアノ科を首席で卒業、卒業試験では最高点を取り桐朋音楽賞を受賞した。
桐朋学園大学卒業~30歳代まで[編集]
桐朋音楽大学卒業後、師匠の有賀に今後の進路を問いただされると羽田は軽音楽の道に進むと意思表示した。有賀からは「私の弟子だったということは決してプロフィールには書かないで」と事実上の破門を言い渡された。羽田はクラシックピアニストの現状が非常に厳しいことを認識していたし、苦労をかけてきた母親に一刻も早く恩返ししたいという思いもあった。また在学中からアルバイトで弾いていた時点で軽音楽が流行していてそこに活路を見いだしていた。
在学中に「ある愛の詩」のピアニストの代役を頼まれそこで実力を高く評価されていたが、当時は学生であったため活動は自粛し、大学卒業後に正式にスタジオミュージシャンとしての活躍を開始。この頃、大野雄二らにジャズ・ピアノを師事する。
スタジオ・ミュージシャンとしては、クラシック出身で指が確実に高いレベルでよく動く人材が当時は乏しかったことから非常に重宝され、朝から晩までスタジオにこもり、次から次へと録音をこなしていった(そしてこなせるだけの高い技術があった)。著書によれば、当時のサラリーマンの月給を2日で稼げるほど売れっ子だった。羽田の回想によれば、金は要らないから休ませて欲しいと思うほど、当時は仕事が次から次へと回ってきた。スタジオ録音全盛期の時代と、羽田の活躍の時期が重なったことは幸運であった。
1978年から1980年頃はシンガーソングライター渡辺真知子のバックバンドのリーダーを務めていたことがある。ちなみに彼女の初期のアルバムでピアノを弾いているのは羽田その人である。
当時収録されたレコードの謳い文句には、羽田はクラシック出身であるがポピュラーにも強い、というプロフィールが書かれており、現在のプロフィール(桐朋音楽大学出身で、クラシックに造詣が非常に深い)とは正反対の売り方をしており、若き日の羽田は現在とは違う営業方針をとっていた。それは上記のスタジオ・ミュージシャンとしての活躍のためだったと推察される。
30歳代~40歳代[編集]
1982年5月のNHK交響楽団定期公演で羽田はリヒャルト・シュトラウスのピアノと管弦楽の協奏曲『ブルレスケ』のソリストを依頼された。そのときに有賀和子へレッスンを申し込んで師弟関係を戻している。羽田の言葉によれば、楽譜を渡された時点で弾けるだろう、と高をくくっていたが、N響との公式リハーサルの時にまだ暗譜ができておらず、楽譜を見ながらリハーサルをしていた、それくらいにせっぱ詰まったものだった。
30歳代後半にはN響とラフマニノフのピアノ協奏曲第2番のソリストも務めている。
この頃の羽田はクラシックの仕事も徐々に増やし、また軽音楽奏者としても幅広く活躍するようになっていった。
40歳代~50歳代[編集]
40歳代にはいってからは服部克久の『ピアノでポップスを』(NHK教育)をはじめとする音楽バラエティ番組に出演を増やすようになり、スムーズにポピュラー音楽奏者へとシフトしていった。『タモリの音楽は世界だ!』ではかつらを被り、ベートーヴェンの役を演じてピアノを弾いたり、クラシック分野からの出題を担当するなど、クラシックとポップスの橋渡し的役目を果たした。またCDの製作にも意欲的で、『フックト・オン・シリーズ』を手がけ、クラシックを気楽に聴けるように編曲・録音にも力を入れた。
『ニュースステーション』では富士山山頂からの中継や、自然豊かな森林、風情のある寺、夜桜中継など映像と音楽を調和させる演出の中で、情緒あるポピュラーピアノ曲(自作)の演奏を行うようになり、視聴率の高いこの番組で一般人にも知られるところとなった。
この頃から純粋なピアノ演奏以外のトークを交えた仕事も引き受けるようになる。『おもいッきりテレビ』でコメンテーターとしての出演、舞台「アーニーパイル」「ムーンリット・クラブ」(ピアニスト役、実際舞台でピアノを弾く)も出演した。この頃の羽田はテレビへの露出を多くし、知名度を上げることでさらに仕事が増えるというパターンをとっており、結果としてコンサートなどの演奏機会を増やすことに成功した。またMXテレビ(現TOKYO MX)初のテレビショッピング番組(自社製作)「眺めのいい暮らし」で司会を務め、自らピアノ演奏を披露していた。
50歳代~死去[編集]
1998年12月からは慢性的な飲酒がたたって体調を崩し、『ニュースステーション』を一時降板した。療養後復帰。『新 ハネケンの音楽は愉快だ』によれば、朝、昼、晩と飲酒を繰り返し、1998年12月3日の朝、顔色が悪いのを長女に指摘され病院を受診。その病院で倒れて一週間意識不明となる。ICUで1週間過ごし血液透析を2回繰り返してなんとか一命を取り留めた。この年の大晦日には東急ジルベスターコンサートで『ラプソディ・イン・ブルー』を演奏する予定であったが、急遽降板となる(代役は前田憲男が務めた)。その後は飲酒は一切やめたが、体調不良のため不定期にコンサートのキャンセルなどを余儀なくされていた。療養後は色白だった顔がやや色黒に見えている。
療養後の演奏活動としてはクラシック音楽への原点回帰を思わせ、純粋なクラシック演奏会を自主的に開く。ピアノ三重奏、ピアノ協奏曲などを積極的に取り上げた。
音楽家生活35周年コンサートでは、長年の飲酒による肝障害によりコンサート直前に入院を余儀なくされたが、病室に電子ピアノを持ち込んで練習を重ね(ガーシュウィンのピアノ協奏曲ヘ調)、コンサート当日に高熱を押して見事コンサートを最後まで持ちこたえた。
健康が許せばピアノ独奏・前田憲男、佐藤允彦との共演による『トリプルピアノ』主体の演奏会を開いていたが、後に指揮者へと傾向を変えている。ピアノ演奏は多少するが、難度の低い曲にとどまっている(雨だれの前奏曲やノクターン第2番など)。英雄ポロネーズなどの難度の高い曲を取り上げたときもある(羽田の自主公演では無い)。後にラフマニノフのピアノ協奏曲第2番やラヴェルのピアノ協奏曲など、羽田個人が演奏しておきたい曲(必ずしも有名曲とは限らない)を積極的に企画し、オーケストラと交渉して演奏会を実現させている。
晩年は、ソロコンサートと同時にジョイントコンサート、指揮者としての出演が多く、また長女・羽田紋子(声楽家)とのジョイントコンサートも多かった。
プロ野球東京ヤクルトスワローズのファンであり、何度か神宮球場で『東京音頭』を演奏したことがある。また『題名のない音楽会21』では、フルオーケストラをバックに『東京音頭』を薄緑色のビニール傘をさして乱舞するという熱烈ぶりを見せた。
2007年4月、体調悪化に伴い入院。同時に『題名のない音楽会21』への出演を見合わせ、休養に専念するようになる。
2007年6月2日、午後11時53分、肝細胞癌のため、東京都新宿区の病院で死去。58歳没。法名は、妙音院釋穏健。墓所は港区麻布山善福寺の境内墓地にある。墓石は、生前に型取りした羽田自身の手形の彫刻を用いている。
エピソード[編集]
王子小学校では歌手小川知子と6年間同級生であり、高学年になってからは毎学年1学期の学級委員は羽田と小川であり、2人とも人望のある優等生であったと自ら語っていた。また小川知子は自伝で『私の初恋の人は羽田健太郎君。』と明言している。
1. 広島対阪神戦。
3対0で阪神勝利。
先発、
【広島】福井優也右腕、
【阪神】能見篤史左腕、
「阪神】
1 遊 鳥谷敬 .271 2 三 今成亮太 .295 3 右 福留孝介 .282
4 一 ゴメス .272 5 左 マートン .279 6 中 伊藤隼太 .262
7 二 坂克彦 .219 8 捕 鶴岡一成 .224 9 投 能見篤史 .137
【広島】
1 中 丸佳浩 .254 2 二 菊池涼介 .266 3 右 鈴木誠也 .286
4 左 エルドレッド .230 5 一 新井貴浩 .270 6 三 堂林翔太 .212
7 遊 田中広輔 .266 8 捕 會澤翼 .250 9 投 福井優也 .029
戦評
9月25日(金)広島 vs. 阪神 22回戦
阪神が連敗を4で止めた。阪神は初回、福留の2ランで先制に成功する。3回表には、マートンの適時打でリードを広げた。投げては先発・能見が7回無失点の好投。その後は福原、呉昇桓とつないで完封リレーを収めた。敗れた広島は打線が振るわず、4連敗を喫した。
責任投手/本塁打
勝利投手、[ 阪神 ] 能見(11勝12敗0S)
敗戦投手、[ 広島 ] 福井(9勝6敗0S)
セーブ、[ 阪神 ] 呉昇桓(2勝3敗41S)
本塁打、[ 阪神 ] 福留 20号(1回表2ラン)
[ 広島 ]
阪神バッテリー
能見 、福原 、呉昇桓 - 鶴岡。
広島バッテリー
福井 、戸田 、一岡 、今村 - 會澤。
2. ロッテ対ソフトバンク戦。
6対3でロッテ勝利。18:15
先発、
【ロッテ】涌井秀章右腕、
【ソフトバンク】ウルフ右腕、
【ソフトバンク】
1 二 川島 慶三 .270 2 右 中村 晃 .295 3 中 柳田 悠岐 .363
4 左 内川 聖一 .285 5 一 李 大浩 .288 6 三 松田 宣浩 .291
7 指 長谷川 勇也 .250 8 遊 今宮 健太 .222 9 捕 谷 裕亮 .178
【ロッテ】
1 左 荻野 貴司 .269 2 中 伊志嶺 翔大 .264 3 右 清田 育宏 .325
4 二 クルーズ .258 5 一 福浦 和也 .265 6 指 デスパイネ .253
7 三 今江 敏晃 .289 8 遊 鈴木 大地 .260 9 捕 田村 龍弘 .173
戦評
9月25日(金)ロッテ vs. ソフトバンク 23回戦
ロッテは初回、クルーズの適時打とデスパイネの3ランで一挙4点を先制する。3点リードで迎えた4回裏には、荻野と伊志嶺の連続適時打で2点を加えた。投げては先発・涌井が7回3失点で今季13勝目。敗れたソフトバンクは、先発・ウルフが試合をつくれなかった。
責任投手/本塁打
勝利投手、[ ロッテ ] 涌井(13勝9敗0S)
敗戦投手、[ ソフトバンク ] ウルフ(0勝1敗0S)
セーブ、[ ロッテ ] 内(1勝1敗1S)
本塁打、[ ソフトバンク ] 柳田 33号(5回表ソロ) 、柳田 34号(7回表ソロ)
[ ロッテ ] デスパイネ 17号(1回裏3ラン)
ソフトバンクバッテリー
ウルフ 、千賀 、島袋 - 高谷。
ロッテバッテリー
涌井 、大谷 、内 - 田村。
3.オリックス対日本ハム戦。【京セラドーム】
4対1でオリックス勝利。
先発、
【オリックス】バリントン右腕、
【日本ハム】斎藤佑樹右腕、
【日本ハム】
1 中 陽岱鋼 .268 2 遊 中島卓也 .270 3 二 田中賢介 .289
4 一 中田翔 .266 5 指 近藤健介 .336 6 三 レアード .227
7 右 ハーミッダ .217 8 左 淺間大基 .275 9 捕 大野奨太 .197
【オリックス】
1 左 小田裕也 .316 2 中 駿太 .234 3 右 糸井嘉男 .249
4 一 中島裕之 .249 5 三 小谷野栄一 .304 6 指 T-岡田 .276
7 遊 安達了一 .238 8 二 小島脩平 .182 9 捕 若月健矢 .---
戦評
9月25日(金)オリックス vs. 日本ハム 23回戦
オリックスは1点を追う4回裏、小谷野の犠飛とT-岡田の適時打で2点を挙げて逆転に成功する。そのまま迎えた6回には、再び小谷野の犠飛とT-岡田の適時打が飛び出し、リードを広げた。先発・バリントンは今季4勝目。敗れた日本ハムは、打線がつながりを欠いた。
責任投手/本塁打
勝利投手、[ オリックス ] バリントン(4勝3敗0S)
敗戦投手、[ 日本ハム ] 斎藤佑(1勝3敗0S)
セーブ、[ オリックス ] 佐藤達(2勝7敗12S)
本塁打、[ 日本ハム ]
[ オリックス ]
日本ハムバッテリー
斎藤佑 、金平 、ライブリー - 大野 、石川亮。
オリックスバッテリー
バリントン 、白仁田 、海田 、小松 、岸田 、佐藤達 - 若月 、山崎勝。
スポーツ、
1. 【大混セ、V争いの行方】ヤクルトも巨人も4連勝!ゲーム差2変わらず
スポーツ報知 9月24日(木)21時57分配信
大混戦のセ・リーグは24日、首位・ヤクルトと2位・巨人が共に勝ち2ゲーム差は変わらず。ヤクルトが一歩リードの様相。3位・阪神は中日に敗れ5ゲーム差と後退した。4位の広島も敗れたため阪神とのゲーム差2・5は変わらずCS争いも加熱している。
残り試合もわずかとなったが、セ・リーグの混戦模様は相変わらず。ヤクルトは4連勝とこの日も打撃好調の山田が35、36号と2打席連発、投げてはエース小川が6回2失点の力投で11勝目を挙げた。これで3位以上が確定し、3年ぶりのCS進出が決まった。
2位の巨人も負けずと投打がかみ合い、マイコラスが12勝目を挙げ、坂本の先制V弾で4連勝を決めた。
25日は両チームともに空き日で26、27日と東京ドームで直接対決の2連戦。優勝争いを大きく左右する週末となりそうだ。
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2. 中日・和田が引退試合で胴上げ「やりがいのある野球人生だった」
デイリースポーツ 9月24日(木)22時15分配信
中日・和田が引退試合で胴上げ「やりがいのある野球人生だった」
ナインから胴上げされる和田(撮影・保田叔久)
「中日4-2阪神」(24日、ナゴヤドーム)
中日が接戦を制して2連勝。和田一浩外野手(43)の引退試合、そして谷繁監督兼捕手(44)の、選手としての本拠地最終戦を勝利で飾った。
【写真】場内を一周してファンの声援に応える和田
メモリアルゲームで価値ある勝利。谷繁監督と和田は、笑顔でベンチ前に姿を現し、選手達を出迎えた。本拠地最終戦のセレモニー終了後には、マウンド付近に選手全員が集結。和田と谷繁監督が胴上げされた。
以下はセレモニー後のインタビューに応じた和田の一問一答。
-試合を終えて、胴上げをされて、今の心境は。
「ようやく終わったなと、いう、ちょっとホッとした気持ちと、まだまだやりたかったんじゃないかなという気持ちも少しありますけど、いいチームメートに恵まれて、いいチームに恵まれて、そういう意味では本当にやりがいのある野球人生だったと思っています」
-第1打席で2050本目の安打。感触は。
「引退試合という気持ちよりは、普段の試合という感じで臨めたと思いますし、勝つためになんとか打ちたいなという気持ちでバッターボックスに入ったんで、何とか皆さまにヒットを見せられて本当に良かったと思っています」
-その後打線がつながり、谷繁監督のタイムリーで生還。
「何か特別なものというか…、本当に今まで感じたことのない微妙な気持ちではあったんですけど、本当にうれしかったですね」
-最終打席、一塁を駆け抜けたとき大きく息を吐いていた。あのときの心境は。
「そうですね。あの…、まあ、終わったなっていう…、感じですね」
-ご家族にはどんな言葉を。
「本当にプレッシャーもかかりながら、僕がやってることに対して、毎日毎日プレッシャーを感じてきたと思います。そういう意味では一緒に戦ってきたたと思っているんで、家族には感謝しかないです」
-まだ(現役で)できるのでは。
「いやいや、ありがとうございます。ただ、僕の中ではもう線を引いたので、プレーヤーとしては今年で終わりますけど、今までのようにドラゴンズファンに戻って、ドラゴンズの優勝を夢見ながら、応援したいと思います」
-最後にファンへメッセージを。
「僕自身は今日で現役生活を終わりますけども、まだ後輩たち、強いドラゴンズを必ず復活させてくれると思っています。皆さまの熱い応援と、僕自身もこれからドラゴンズを応援したいと思っていますので、また優勝する日を夢見ながら、今日、現役を退きたいと思います。本当に大きな声援を、今までありがとうございました!」
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3. 阪神・和田監督の退任決定 後任候補に金本&掛布氏 オーナー&社長が極秘会談
デイリースポーツ 9月25日(金)6時59分配信
阪神・和田監督の退任決定 後任候補に金本&掛布氏 オーナー&社長が極秘会談
8回、満塁の好機を逃し、厳しい表情でグラウンドを見つめる和田監督(撮影・田中太一)
阪神が和田豊監督(53)と来季以降の契約を更新しない方針を固めた。24日午後、坂井信也オーナー(67)と南信男球団社長(60)が神戸市内で極秘会談を行い、和田監督の進退について話し合われたもようだ。首位ヤクルトとの差は5ゲームとなり、10年ぶりの優勝が絶望的となった夜、12年から4シーズン続いた和田体制に終止符が打たれることが決まった。シーズン終了を待って、新体制を模索する。後任監督には金本知憲氏(47)、掛布雅之DC(60)らが候補に挙がっている。
【写真】明暗の別れた阪神・和田監督とヤクルト・真中監督
中村勝広GMの悲報から一夜明け、阪神が「和田監督退任」という未来に向けた決断に踏み切った。この日、都内から帰阪した南信男球団社長が極秘裏に向かった先は神戸市内のホテル。その一室で待ち受けたのは坂井信也オーナーだった。
デイリースポーツの取材に対し両者はともに「きょう、お話しすることは何もない」と、緊急とも言えるトップ会談の中身を明かすことはなかったが、議題が和田監督の進退に及んだことは疑いようがない。
必勝を期した球団創設80周年のメモリアルシーズンを今季4年目の和田政権に託したが、例年繰り返される秋口のひ弱さをまた露呈した。電鉄本社、球団は昨オフ1年契約を結んだ和田監督の続投指標を「優勝争い」とその「戦いぶり」に置いてきたが、勝負どころで勝ちきれない体質はファンからも見放され、球団内では指揮官の求心力を疑問視する声も増大。もはや「限界」と見なされても仕方なかった。
巨人にサヨナラ負けした23日の試合後、ナインに中村GMの訃報を伝えた南球団社長は「全力でいいプレーをして1つでも勝ってくれ。それが今できるGMに対する供養になる」と、選手、首脳陣にあらためてチーム一丸を促したが、この夜も最下位の中日相手に気迫なく敗戦。首位ヤクルトとの差は「5」まで開き、10年ぶりリーグ制覇の可能性はゼロに等しくなった。
ポストシーズンで雪辱を目指すチームは残り7試合を全力で戦わなければならない。CS、日本シリーズに向け、フロントが最後まで和田体制をバックアップするスタンスに変わりはないが、将来に向け、新たな舵(かじ)を切る選択はもはや動かぬものとなった。
シーズン全日程の終了を待って、新体制の着手に取りかかるものと思われるが、後任候補には金本知憲氏や掛布雅之DCら複数のOBの名前が挙がっている。夏場の優勝ムードから一変、伝統球団は和田体制に区切りをつけ、創設81年目の新体制を模索することになった。
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4. スポーツ、
1.. 周囲の人が口々に「大人になった」。涌井秀章がロッテで取り戻したもの。
8月28日、QVCマリンフィールドの試合後のベンチ裏のことだ。
お立ち台の準備をする千葉ロッテ・涌井秀章の横で、キャプテンの鈴木大地が無邪気にはしゃいでいた。
この日のヒーローは7回を5安打1失点に抑えて11勝目を飾った涌井と、必死の走塁で内野安打にし、貴重な先制点をあげた鈴木の2人だったが、試合前に何かの約束をしていたのだろう。鈴木は涌井に満点のテスト用紙をひけらかすように、その日の食事のメニューをちゃっかりアピールしていた。
「明日はここにいる背番号7番(鈴木)がまた活躍しそうな気がするので応援よろしくお願いします」と、スタンドのファンの目の前で応戦する涌井。こうした冗談を入れた会話が気軽に交わし合えるほど、涌井は移籍2年目にして、すっかり「千葉ロッテ」というチームに溶け込み、後輩たちに慕われる良き先輩にもなっていた。
西武時代に先発と抑えの間で苦しんだ涌井。
埼玉西武からFA移籍した昨年は、周囲の期待に応えられず7月に2軍降格を経験した。最多勝2回('07年、'09年)、沢村賞1回('09年)の過去の実績から見れば、さぞかし歯がゆい移籍1年目だったと思えるが、しかし、こうした経験もけっして遠回りではなかったのだろう。西武時代から涌井の自主トレをサポートするなど、公私ともに面倒を見てきていた大迫幸一トレーニングコーチは、そんな昨年の涌井についてこう語っている。
「移籍1年目というのは、初めてのチームだから色々と模索しながらやらなければいけないんで、なかなか難しいと思うんです。でも2年目は選手同士の関係もだいたい分かるし、このチームはこういう雰囲気のチームなんだと理解しつつ、調整も自分のペースを守りながらやることができる。だから今年があるんだと思いますよ」
西武時代はストッパーを任されていたことで、先発をしていた自分の姿に戻すことにあらゆる面で苦しんだ。
「(ストッパーは)用意ドンで100で行かなきゃいけないから、先発と体の使い方は当然変わります。先発なんて0からスタートしてもいいくらいです。科学的なことをやれば筋肉の関係もあるかもしれないけど、この世界でやっている限りはとにかく慣れが全て。ポジションがそこだとなったときは、先発の練習方法じゃなくて、短い時間で自分の力を発揮できるように、早く体に覚えさせなければいけない」
先発と抑えでは、意識もタイミングも全部違う。
続けて大迫コーチが語る。
「以前、西武にグラマンがいましたけど、最初は彼も先発をやっていたけど、最終的に抑えをやって結果を出しました。そしたら『僕は抑えの方が合っている』と彼が自分で言いだしたんです。じゃあなんでお前は先発をやったんだと(笑)。彼は先発して4、5勝したら次の年に勝てなかった。じゃあ中継ぎか抑えでもしようかとなったらいきなり145キロ以上の球を投げたわけでしょう。ただ先発だとそれをするのはできない。そういう意識の違いが先発と抑えではあると思うんです。
それと今度はタイミングがあるんです。先発の『イーチ、ニーー、サーン』というタイミングと抑えの『イチ、ニ、サン』のリズム、こういうのも全然違ってくる。投げ込んでいくリズムと、もう1つ気持ちのリズムも全然違う。それが全部やっと昨年の1年間で清算できたんじゃないのかと思うんです」
埼玉西武時代に抑えを経験したことで、涌井自身も気付いたことがあっただろう。身についた技もあっただろう。しかし、年間を通して本格的に抑えを任されるとなると話は違う。調整法から気持ちの作り方まで全てが変わってくる。そこに彼なりの葛藤があった。彼は彼自身を取り戻すために育ててもらったチームを離れ、新天地に活路を見出したのだ。
「考え方がここに来てすごく大人になった」
そんな涌井について大迫コーチは次のように語る。
「考え方がここに来てすごく大人になったよね。男として、人間として、本当に成長したと思う」
今季の涌井は、開幕から彼が登板する全試合で入団3年目の田村龍弘とコンビを組んできている。主戦級の投手と組むことで田村に配球面を学ばせることが狙いだが、田村はそのことについて話を向けられるとこのように答えた。
「ワクさんは僕を試してくれていると思うんですね。自分ではこのボールを投げたら打たれるなとかわかっているだろうけど、それでもあえて僕のサインに頷いてくれている。試合が終わってから2人で反省会をするんですけど、『あの場面は……』などと意見も言ってくれるし、僕もその後で、その日の映像を見て、次の日に『あのときはこうでしたね』って話もします」(「ベースボールサミット」田村龍弘インタビューから)
こうしたとき涌井は、けっして上から目線で田村に語ることはないという。これまでに涌井が発した試合後のコメントを拾っていくと、涌井自身も田村に何かを教えることで再確認することがあるようだ。不要な上下関係で後輩を縛らず、たとえ打たれても後輩だけの責任にせず、相手の意見を尊重することで自分の成長にも取り入れていく。
そうした彼の姿勢があるからこそ、涌井は後輩たちにも慕われ、移籍2年目にしてこれだけの成果をあげているのかもしれない。
勝利数で大谷に次ぐ2位につけている涌井。
ここまで(9月23日現在)25試合を投げて12勝をあげている涌井は、ハーラートップの大谷翔平(北海道日本ハム)に2勝差の2位につけている。首脳陣だけでなく味方投手陣にとっても頼もしいかぎりであるが、中継ぎ陣の1人で今季37試合に登板している香月良仁は、涌井について質問をするとこんなことを語ってくれた。
「先発はよく6回3失点と言われますけど、毎試合7回くらいまで投げるのって相当大変だと思うんです。僕も中継ぎで今年30試合以上投げていますけど、それでも相当しんどいので、そこで僕が感じるのは、第一に体が半端じゃなく強くなければできない、そして年間を通して変わらないスタミナもあるってことです。
それでいて怪我しないように、(スイッチを)入れるときは入れて、無理しなくていいときはそうする。言うのは簡単ですけど、そう簡単にできることじゃないと思います。しかも相手のエース級と対決して勝ちを積み重ねているわけですからね。中継ぎの立場から見れば、投げてみなければ分からない、今回凄く良かったけど、次に投げたらよく分からないという先発よりも、7回くらいまで勝ち負け関係なく毎回投げてくれた方が、計算もできるし、体を休ませることができるので本当に助かるんです」
先発投手の1つの指標とされているQS(クオリティスタート/6イニング以上投げて自責点3以内)が、今季の涌井は全登板数25試合中18試合を数えているが、これは全体の7割を占める数字だ。完投数は24試合に投げてわずか1つで、沢村賞を獲った'09年の数字と比べれば、物足りなくも感じるが、今季は球界全体で先発投手の完投数も少なく、これまで以上に投手の分業制が叫ばれるなかであげた数字である。
年齢を重ねて投球術に深みが出てきた。
大迫コーチは言う。
「僕はずっと見てきて、仕事だけじゃなく普段の付き合いもあるじゃないですか。そうするといい意味で大人になってきていると感じるんです。だから、投球を見ていても、さほど無理してはいかない。自分のペースをしっかり守って、試合に入り込んでいく。だから昔みたいな(相手打者を)威嚇するような威力はないかもしれない。けれど、バッターはそこに戸惑うわけでしょう。そういう意味では年齢と共にいろんなものを経験してきて、それがいい意味で技に出てきている。それもこれまでの様々な経験から来ていることじゃないですか」
「(涌井は)まだ進化していると思いますよ」
さらに大迫コーチは続ける。
「(涌井は)まだ進化していると思いますよ。スピードとかそういうことではなく人間として成長していると思う。だから投球自体も良くなっているでしょう。結果(数字)が良ければ、周りももっと違う目で見てくる。そしたらもっと良くなってくると思うんです。たとえば今、10勝していたとして、それが10勝2敗か3敗だったら、もっと周りの目も違ってくるでしょう。でも今季は9敗しているからほとんど五分の状態。これを勝ち越して、さらに増やしていけるかどうかの問題。そこが上がってこないと自分のテンションも上がらないですよ。人間だもん。
ギアはいつも入っているけど見た目には入っていないように見える。あいつは日本人独特のポーカーフェイスみたいなところがあるじゃないですか。でも、そのときが来たら必ず上げてくると思います。これまでだって1つの試合のなかで必ずそういうシーンがあったでしょう?」
菊池雄星相手に凄みを感じさせた圧巻の投球。
9月13日、西武プリンスドーム。
黒に染まった一塁側スタンドから耳をつんざくほどの選手コールがマウンドに立つ彼の背中に注がれた。
「わくい! わくい!」
この声援にまるで後押しされたかのように彼が投じた初球の真ん中高めのストレートは、146キロを計測し、この日史上6人目のシーズン200本安打を達成した秋山翔吾のバットに空を切らせた。
「(燃えるものが)ないと言ったら嘘になりますけど、こういう大事な試合を任されたというのは分かっているし、期待にしっかりは応えられてないかもしれないですけど、これからあと3、4試合投げると思うので、そこでそれなりに期待に応えられればなと思っています」(涌井)
CS進出をかけたライバル埼玉西武との直接対決に、千葉ロッテ・伊東勤監督はあえて中8日でこの日のマウンドを託した。
相手投手は前回対戦で味方打線を完璧に封じ込んだ菊池雄星。その大一番で試合終盤、菊池にプレッシャーをかけ続け、ミスを誘発させた涌井のこの日の投球は、沢村賞を獲った'09年と比べても遜色がないくらい「凄み」を感じさせたものだった。
“俺たちのエース”に奇跡を託す!
試合後、落合英二ピッチングコーチにも話を訊いた。
「僕は今年からなんで“大人の涌井”しか知りませんけど(笑)。やることはしっかりやるし、そこに妥協がないのが凄いなと思います。ランニング1つにしても黙々とやるところとか、やっぱり1人で走るのは誰だってきついですし、誰かと喋りながら走る方が楽しいかもしれない。でも、そんなときでも涌井は1人で誰も寄せ付けない雰囲気でトレーニングができますし、そういうところで先発投手だなって感じがします。(先発として)ゲームを壊さないのは第一前提ですけども、涌井の場合は交代しても次の投手のことを心配しているから、今日だって脇谷のところを最後必死で獲ってくれたことで、次の投手もイニングの頭から行けたわけだし、あそこ続くと、浅村からは内につなぐ予定だったので、そういう意味では1個のアウトを次の人のためにって思って投げてくれるのは有難いですよね」
報道陣の囲み取材に答える涌井の姿を、この日も益田直也と田村龍弘の2人がまるで自分事のようにいつまでも見守っていた。
苦境を乗り越え、周囲に認められ、一皮も二皮も剥けた“俺たちのエース”に千葉ロッテファンは、ゴールデンイヤーの奇跡を信じて、最大級の声援を送る。
ニュース、
1. 川島なお美さん死去 昨年胆管がん手術 54歳若すぎる…
スポニチアネックス 9月24日(木)23時8分配信
川島なお美さん死去 昨年胆管がん手術 54歳若すぎる…
川島なお美さん
女優の川島なお美(かわしま・なおみ、本名・鎧塚 なお美=よろいづか)さんが24日午後7時55分、胆管がんのため、都内の病院で亡くなった。54歳だった。愛知県出身。
【写真】鎧塚氏と仲睦まじい姿を見せていた川島なお美さん
青山学院大学在学中の79年に「シャンペンNo.5」で歌手デビュー。文化放送の深夜番組「ミスDJリクエスト」で人気を博し、82年に日本テレビ系「お笑いマンガ道場」でアイドル的存在となった。
女優としてキャリアを積み、94年に映画「新極道の妻たち 惚れたら地獄」、96年にテレビ朝日系ドラマ「イグアナの娘」に出演。97年に日本テレビ系ドラマ「失楽園」で濃厚なラブシーンが話題となった。
「私の体はワインでできているの」という言葉で知られるように大のワイン好きで、09年にはパティシエの鎧塚俊彦氏と結婚した。
14年に肝内胆管がんの手術を行ったが、15年9月に報道陣の前に姿を見せた際にはやせ細っていて体調が心配されていた。ミュージカル「クリスマス・キャロル」などを降板。代役が決まった際には「完璧に元気になって女優に復帰できるよう当面は治療に専念させていただくことになりました」とコメントを出すなど復帰を目指していたが、叶わなかった。
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2. 「独BMWも11倍超過」=欧州排ガス基準―米NPO調査
時事通信 9月24日(木)21時17分配信
【フランクフルト時事】ドイツ自動車専門誌アウト・ビルト(電子版)は24日、米NPOが行った実走検査の結果、独BMWのディーゼル車「X3」の排ガスから、欧州の基準値の11倍超の窒素酸化物(NOx)が検出されたと報じた。
このNPOは、独フォルクスワーゲン(VW)の排ガス不正操作が発覚するきっかけの調査を実施した「ICCT」。同誌に「VWは単独の事例でない」と主張している。
これに対しBMWは、VWのような不正は行っていないと強く否定したという。
米環境保護局(EPA)によると、一部のVW車の排ガス浄化機能は検査時に十分に働く一方、実走時は効果が弱まるよう制御されており、有害物質は最大で米基準の40倍に達していた。
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3. 安倍首相とプーチン露大統領、28日に会談へ
読売新聞 9月25日(金)0時17分配信
【モスクワ=緒方賢一】タス通信によると、ロシアのペスコフ大統領報道官は24日、プーチン大統領がニューヨークでの国連総会に出席するのに合わせ、28日に安倍首相と会談すると発表した。
日露首脳会談は昨年11月、北京でのアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議の際に開かれて以来となる。
日露間にはプーチン氏の年内訪日をめざす合意がある。だがロシアは北方領土問題を巡り日本に強硬な姿勢を示し、ウクライナ情勢を巡る日本の対露制裁に不満を強める。首脳会談では、プーチン氏の年内訪日に道筋をつけられるかが焦点となる。
北方領土を巡っては、岸田外相が21日、モスクワでラブロフ外相と会談し、事実上、中断していた交渉の再開を宣言した。しかしラブロフ外相は「領土問題は話し合いの対象でない」などと述べ、厳しい姿勢を示した。プーチン氏は28日、オバマ米大統領とも会談する。
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4. 巡礼者事故、死者717人に=サウジ
時事通信 9月24日(木)21時45分配信
【カイロ時事】サウジアラビア当局によると、24日に起きた聖地メッカ近郊での巡礼者圧死事故の死者数は717人に達した。
負傷者は805人となった。
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5. 川島なお美さん 余命1年宣告されていた…最期はワイン色のドレス
スポニチアネックス 9月25日(金)8時46分配信
川島なお美さん 余命1年宣告されていた…最期はワイン色のドレス
川島なお美さん
タレントの山田邦子(55)が25日、TBS「白熱ライブ ビビット」(月~金曜前8・00)に生出演。同じ所属事務所で、胆管がんのため24日に亡くなった女優の川島なお美さん(享年54)を悼み、涙をぬぐった。
【写真】2004年、愛犬を抱き笑顔の川島なお美さん
川島さんの夫・鎧塚俊彦さん(49)、山田の夫、歌手・大黒摩季(45)の夫、3人の仲が良く、食事会を開く間柄。親交は深かった。
山田は訃報を受け、24日午後10時ごろ、川島さんが亡くなった都内の病院に駆け付け、遺体と対面。耳元で「起きろ」と呼び掛けたが「ダメでした。(大黒)摩季ちゃんときれいにしてあげなきゃいけない、お化粧しに行ってあげようと。(川島さんは)小さくなっていましたが、素晴らしいメークさんが付いているので、本当にきれいになっていました。朝も、意識はないんですが、みんなでシャンプーをしてあげたんですって。(髪の毛も)サラサラで。Tシャツだったらしいのですが、赤いワイン色のドレスに着替えさせてあげていました。きれいでした」と声を詰まらせ、涙ながらに振り返った。
川島さんの肝臓に小さな腫瘍が見つかったのは2013年夏ごろに受けた人間ドック。舞台出演を控えていたため、悩みに悩みぬいた末に翌14年1月28日に手術を受けた。
川島さんは余命を宣告されていたといい、山田は「(13年の)7月ぐらいに、1年ですよ、と。(鎧塚さんは)7月から1月が悔やまれると言っていました。早く(病院に)行けばよかったと…」と明かし、肩を落とした。
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6. 米シアトルでバス事故、留学生4人死亡 日本人複数けが
朝日新聞デジタル 9月25日(金)11時33分配信
米シアトルで24日昼、水陸両用の観光バスと大型バスが衝突する事故が起きた。AP通信によると、この事故で4人が死亡したほか、51人が病院に搬送され、このうち少なくとも2人が重体という。大型バスには、近くのノース・シアトル・カレッジの留学生ら約45人が乗っており、亡くなったのはいずれも留学生だった。在シアトル日本総領事館によると、日本人も複数けがをして病院に搬送されており、けがの程度などの確認を急いでいるという。
シアトルの中国領事館の関係者は地元メディアに、病院や大学から聞いた話として「6カ国の48人が巻き込まれた」と話した。同校によると、留学生は約900人在籍しており、多くがアジア出身という。
事故が起きたのは、シアトル中心部に近い、大きな橋の上。シアトル・タイムズによると、水陸両用のバスが車線からはみ出し、反対車線を走っていたバスの側面に衝突したという。(ニューヨーク=中井大助)
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