巨人戦スポーツ解説

プロ野球の巨人戦の解説です。

2015年5月31日楽天対巨人戦延長10回4対3で楽天サヨナラ勝利!

2015-05-31 17:29:35 | Weblog
      2015年5月31日
国民栄誉賞受賞
長谷川町子5/31
長谷川 町子(はせがわ まちこ、1920年(大正9年)1月30日 - 1992年(平成4年)5月27日)は、日本の漫画家。日本初の女性プロ漫画家として知られる。代表作に『サザエさん』、『いじわるばあさん』、『エプロンおばさん』など。

経歴[編集]

佐賀県小城郡東多久村(現・多久市)生まれ。三人姉妹の次女[1]。三菱炭坑の技師であった勇吉のワイヤーロープの事業開業に伴い幼少時に福岡市春吉に転居した。

春吉尋常小学校を卒業。旧制福岡県立福岡高等女学校(現・福岡県立福岡中央高等学校)2年生の1933年(昭和8年)まで福岡で育った。父の死去に伴い1934年(昭和9年)、一家そろって上京する。

山脇高等女学校(現・山脇学園高等学校)に転校。「田河水泡の弟子になりたい」という町子の独り言に姉と母は奔走、山脇高等女在学中に田河水泡に師事、1935年に少女倶楽部に掲載された『狸の面』で漫画家デビューする。内弟子として田河家で生活するが、ホームシックから11カ月で出戻る。その後、1939年に初連載作品となった『ヒィフゥみよチャン』で女性漫画家としての地位を確立する。1940年からは、3人の女学生を描いた『仲よし手帖』という人気連載を持っていた(1942年まで少女倶楽部に連載、戦後は少女にて1949年から1951年まで連載)。第二次世界大戦(太平洋戦争)が開戦してから、姉の長谷川毬子は朝日新聞記者の東学(アズマ マナブ)と結婚するが、東は召集され1944年のインパール作戦で玉砕する。わずか1週間の結婚生活であったが、毬子は生涯独身を貫き通した。

1944年に福岡市百道(発音:ももち:海岸の地名)に長谷川一家は疎開する。この頃、町子は博多湾の見える丘でスケッチ中に憲兵にスパイ容疑で逮捕される事件があった。町子がスケッチした方向に軍用基地(雁ノ巣飛行場)があったためスパイと疑われたためである。関係者の奔走により町子は釈放された。町子は西日本新聞社に学芸部の校閲係として勤務するが、終戦の翌日に退職した。

終戦後、夜に進駐軍のアメリカ兵が姉・毬子と町子しかいなかった長谷川家へ訪れる出来事があった(母は鹿児島への用事で不在、妹の洋子は結核による入院)。戦後の混乱の中で広まっていたアメリカ兵の噂を聞いていた二人は恐怖におののき、勇気を出して町子が応対したところアメリカ兵は彼女を子供と勘違いしてガムやチョコレートを沢山与えたという(この時には彼女から恐怖と不安は無くなっていた)。英語が解らなかった彼女は近所の西南学院の英語教師にアメリカ兵の応対を頼む。後日、彼から聞いた話ではアメリカ兵は遊ぶ場所を探して迷いこんで長谷川家に訪れていたという。なお、事なきを得た際に姉はまだ恐怖に陥っていた為、中々鍵を開けてくれず町子が家に入る事ができなかったが、その事を町子は憤慨し生涯忘れなかったという[2]。

1946年(昭和21年)フクニチ新聞社から創刊された「夕刊フクニチ」で彼女は連載漫画を頼まれた。自宅の近所である百道海岸付近を妹と散歩しているときに『サザエさん』の家族構成や名前を思いついた。当初は作者自身は「アルバイトのつもりでやっていた」と語っている。

その後、作者の引越しと合わせ磯野家も東京に引越した。連載を再開する際、作者本人がマスオの顔を忘れていて、西日本新聞社東京支局まで行き確認したエピソードがある。『サザエさん』は1951年から『ブロンディ』の後を承けて朝日新聞の朝刊を飾り、新聞4コマ漫画の第一人者となる。同漫画は後に何度か中断期間を挟みつつ1974年(昭和49年)まで連載された。

1946年の暮れに一家そろって上京するが、当時東京都への転入は食糧事情悪化のため厳しく禁止されており、夕刊フクニチの記者という名目で許された。1947年には、姉・毬子と共に設立した姉妹出版(のち姉妹社)から『サザエさん』第1巻を自費出版するが、当初のサイズがB5判の横綴じという形だったため書店の店頭に並べにくいとの理由から返品され、姉妹出版は当時の日本出版配給から出入り禁止の処分を受けた。その後、長谷川家は返品された第1巻に占拠される事態となった。その後、実母・貞子の薦めで『サザエさん』第2巻を借金した資金で出版、B6判にサイズを変更した際、読者に好評だったこともあり、B5判の第1巻は店頭に置かれることが許された。以降、『サザエさん』の第1巻はB6判に改訂されて再出版され、全68巻出版された。

なお、姉・毬子の夫である義兄が戦死し、妹・洋子の夫である義弟も洋子と姪を残して病死した後は、町子と母、姉・毬子、妹・洋子、二人の姪とで長谷川家で生活していた。このことから長谷川家は完全な女系家族であったことが伺える。

1965年(昭和40年)2月20日に神奈川県の箱根町に所有していた別荘が放火され160平方米を全焼した。原因は、無断侵入していた浮浪者によるものと推定されている。それ以前にも、別荘には空き巣に入られる事件も起きている。

漫画の連載が中断になることもあったが、執筆上から来るストレスでの休載が理由であった。しかし、47歳の時に胃潰瘍になり、胃の5分の4を摘出した。実際は胃潰瘍でなく胃癌であったが、妹・洋子の夫が癌で夭折していることを知っていた町子は「癌になったら自殺する」と周囲に述べていたため、家族は胃潰瘍で貫き通した。胃癌だった事実は町子に生涯知らされることはなかった。

1970年(昭和45年)11月19日に東京都の世田谷区桜新町1丁目にある長谷川町子の自宅が放火された。この時は発見が早く長谷川町子本人が消火器を使って火災を消し止めた。火災の消火後、長谷川宅からすぐ近くの路上に座り込んでいた山口大教養学部の男子学生が放火の容疑で逮捕された。この学生はノイローゼで警察の取調べに対して「長谷川町子が俺を盗聴器で調べているから放火した」と語ったという。

1970年(昭和45年)に知的財産権に関する先駆的行動として、作者に無断でキャラクターを使用していた立川バスを提訴し、勝訴(サザエさんバス事件)。 1978年、『サザエさんうちあけ話』を原作とし、姉毬子を主役としてNHKの朝の連続ドラマ『マー姉ちゃん』が放送され、姉を熊谷真美、町子を田中裕子が演じて、田中が注目されるきっかけとなった。

1982年(昭和57年)、紫綬褒章受章。このときのインタビューで新作発表の質問に対し「もう漫画を描くつもりはない」と答えている。それでもエッセイ風の漫画をときおり発表することもあり1987年(昭和62年)3月22日の朝日新聞に掲載された『サザエさん旅あるき』が最後の作品となった。

1992年(平成4年)5月27日、心不全のため死去。享年73(満72歳没)。遺言により1か月間は公表されなかった。訃報は1カ月後の6月末に朝日新聞社とフジテレビの両社から公表された。フジテレビでは、公表後もっとも早い放送である火曜日の『サザエさん』再放送のラストでブルーバックのテロップで哀悼の意を表し、かつ故人の遺志で今後も放送を続ける旨を伝えた。同年7月、家族漫画を通じ戦後の日本社会に潤いと安らぎを与えたとして国民栄誉賞が授与された。他に第8回(1962年(昭和37年)度)文藝春秋漫画賞、第20回(1991年(平成3年)度)日本漫画家協会賞を受賞。

姉妹社単行本の裏表紙に表示された姉妹社のシンボルマークは、道路標識をモチーフにした表示板に「SSS」と記された「スリーエスマーク」であった。これは、毬子・町子・洋子の長谷川三姉妹を表すものであった。

エピソード[編集]
少女時代は悪童という言葉がよく似合うやんちゃな女の子であった。小学校の授業中に、先生の似顔絵を描いていたら先生にチョークを投げつけられ、罰として廊下に立たされた。町子は、それを逆手にとって先生の癖を漫画にし、授業中に同級生に回していたことがある。
小学校卒業式の日に、友人を校庭の物置に閉じ込めたまま帰ってしまい、その友人は学校の用務員に助けられて事無きを得たエピソードがある。数十年後にクラス会で、その友人と再会した際に、言うまでもなく咎められたことを「サザエさんうちあけ話」で明かしている。町子も旧友と話していた際に「みんな酔うほどに私からいじめられた話ばかりするのよ。福岡へ帰ったら罪ほろぼししなけりゃ」と述べ、苦笑いしたくだりがある。
小学校時代は、クラス替えがなく担任の松本先生も6年間替わらなかったので、良くも悪くも一家族のような組だったという。掃除時間には、町子は掃除を怠けて男子とチャンバラをして遊んだりしていたが、ある日、友人の女子生徒が男子に泣かされたりすると「義ヲ見テセザルハ勇ナキナリ」と言って、その男子を校舎の屋上につれだしてやっつけていたという。得意科目は図画と作文であった[3]。14歳の青年期に福岡から東京の山脇高等女学校に編入した時は、博多弁がおかしいと笑われて辛かったという。その後、町子は徐々に人見知りになり、人付き合いが苦手になってしまい、仕事の依頼や作品の管理も姉の毬子があたり、パーティなどの類いにもほとんど出席せず、連載を持っていた朝日新聞社や毎日新聞社にも数える程しか顔を出さなかった。亡くなる前年に文部大臣賞に選出され出席したときには、出席者たちが「動く長谷川町子を初めて見た」とどよめいたという逸話も残っている。東京での友人・知人は極端に少なかった一方で、福岡時代の旧友とは数十年以上の交友があり、旧友達が集団上京してくるエピソードを「サザエさん旅あるき」に描いている。
子供だった頃、流行していたアイス饅頭が食べたがったが、母が不衛生だと買ってくれず、お手伝いさんからの小遣いで、買って食べながら帰っていると、うしろから誰かに肩をつかまれ、振り返るとそこに居たのが母だったという苦い思い出がある。このように母の貞子は躾に厳しく悪戯が過ぎると町子は鶏小屋へいれられ、優しいお手伝いさんがいつも助け出していたという。
聖公会のクリスチャン。姉や妹とは違い、結婚をせず生涯独身を通した。上京してから礼拝していなかった町子も、田河水泡夫妻に勧められて近所の教会に通った。付き添った夫妻ものちに熱心なクリスチャンになった(「サザエさんうちあけ話」より)。
後年、毬子・町子と洋子一家とは些細な行き違いから絶縁状態に陥り、「サザエさんうちあけ話」で描かれた洋子の存在が「サザエさん旅あるき」では一切触れられていないほか[4]、町子が亡くなった際も「洋子には知らせるな」と毬子は近親者に緘口令を敷き、見かねた長谷川美術館関係者がそっと知らせて来たという。そのこともあり、遺産相続等の一切の権利を洋子一家は放棄したという(長谷川洋子著「サザエさんの東京物語」より)。
戦時中、出征する兵士に頼まれて「虎は千里を駆けて帰る」という諺から、日の丸の旗に虎をよく描いていた。
サザエさん等で動物が多く登場しているが、長谷川も実際に犬や猫を多く飼っていた。「サザエさんうちあけ話」では、特に飼い犬に関するエピソードが描かれている。また、長谷川が当時飼っていた犬と一緒に写っている写真も残されている。
サザエさんの連載を持っていた1963年12月に姉と些細なケンカをして家出をした事がある。ひとまず厚生年金会館の宿泊施設に身を寄せるが、実は独り暮らしをした事もなく途方に暮れていたところ、翌日に朝刊で力道山の急死を知り、その影響かもう一度自分の人生を思い直し帰宅する。彼女によれば、その出来事が自分の人生のターニングポイントだったと述懐している。[5]
父の病気を機に家族で聖公会に入信したが、戦後は母の影響から妹や母とともに無教会主義の集会に参加するようになり[6]、集会で講義をしていた矢内原忠雄と交友関係を持つようになった(妹の結婚式の司式を矢内原にしてもらい、その数年後、矢内原は死の半年前にも病を押して長谷川の義弟の葬式の司式を引き受けた)。『うちあけ話』では矢内原からの海外探訪の誘いがあったが断ったことが語られている。
町子の地元の放送局RKB毎日放送により『サザエさんふるさとへ帰る』という番組が企画されたが、町子本人が出演拒否し、その時旧友に「あなたたち私のかわりに出てよ。いくら悪口言ってもいいから」と言って結局出演せず小学校時代の旧友が出演した。このように町子自身は表舞台に顔を出すことが苦手であった。
趣味で収集した各種美術品コレクションを活かすために私財を投じて「長谷川町子美術館」(東京都世田谷区桜新町)を開館。姉妹社の解散後、「財団法人長谷川町子美術館」として作品の著作権管理を行なっている。当初は「長谷川美術館」だったが町子の没後、現名称に変更された。住まいは、世田谷区用賀二丁目である(現在もそこに長谷川家がある)。
胃潰瘍(実際は胃癌)による入院の際に、胃潰瘍手術の麻酔から覚めるのが遅くなったエピソードがあり、酒に弱い体質だった事からくるものだったと長谷川は語っている。なお、果実酒なら少々たしなむ程度でもあったという。
2015年現在、長谷川町子関連の映像化された作品は現在過去問わずDVDなどでソフト化されたことはなく(ただし例外で、「読売テレビ50年社史」付属のDVDに、いじわるばあさんの一部のシーンが収録されている)、名画座で映画上映されることも稀である。その権利関係の管理の厳しさから「日本のディズニー」と一部で呼ばれている[誰によって?]。
1993年3月には墓から遺骨が盗まれるという事件(長谷川町子遺骨盗難事件)が発生したが後に戻っている。犯人は不明のままで、2015年現在も未解決事件となっている。

作品[編集]
長谷川は以下の漫画作品以外にも、趣味で製作した絵画や粘土細工による人形等の作品も幾つか遺している。
漫画作品[編集]
狸の面 (デビュー作。2頁「少女倶楽部」1935年10月号)
かき (8コマ 「少女倶楽部」1935年11月号)
オマハリ (6コマ 「少女倶楽部」1935年12月号)
少倶の発売日 (6コマ 「少女倶楽部」1936年1月号)
へのへのもへ字 (8コマ 「少女倶楽部」1936年2月号)
ターチャントヘイタイサン (4頁 「漫画と教育講談」講談社の漫画絵本63 1938年)
トン子博士の動物病院 (2頁 「少女倶楽部」臨時増刊号 1939年)
ヱイ子さんのお留守番日記 (4頁 絵と文 「少女倶楽部」秋の増刊 1939年)
はらつゞみ合戦 (4コマ 「少女倶楽部」秋の増刊 1939年)
ヒィフゥみよチャン (「國民新聞」誌上で1939年3月13日から同年7月10日まで100回に渡り連載) - 連載
仲よし手帖 (「少女倶楽部」連載 1940年 - 1942年、「少女」連載 1949年 - 1951年) - 連載
翼賛一家大和さん (「アサヒグラフ」連載 1941年2月5日号 - 同年5月14日号) - 連載
クニチャンと礼法 (「愛国夫人」連載 1941年7月-) - 連載
ヨウちゃん(「こどもマンガクラブ」連載 1948年10月~1949年?) - 連載
となりのぼっちゃん (7コマ 婦人世界3月号 1949年)
にいさんのアルバイト (7コマ 少年3月号 1949年)
びょうきみまい (7コマ 少年クラブ6月号 1949年)
サザエさん - (「夕刊フクニチ」→「新夕刊」→「朝日新聞」連載 1946年4月22日 - 1974年2月21日) - 連載 別冊サザエさん
よりぬきサザエさん
サザエさん(「少女クラブ」連載 1955年) - 連載

似たもの一家 (「週刊朝日」連載 1949年4月10日号 - 12月15日号) - 連載
新やじきた道中記 (「週刊朝日」連載 1951年11月4日号 - 1952年12月28日号) - 連載
町子かぶき迷作集 (「週刊朝日」連載 1952年 - 1956年) - 連載
わかめちゃんとかつおくん (「たのしい一年生」連載 1956年9月 - 1961年2月) - 連載
わかめちゃん (「たのしい幼稚園」連載 1962年 - 1963年) - 連載
エプロンおばさん (「サンデー毎日」連載 1957年1月6日号 - 1965年7月25日号) - 連載
いじわるばあさん (「サンデー毎日」連載 1966年1月2日号 - 1971年7月18日号) - 連載
まんが幸福論 (文藝春秋臨時増刊・漫画讀本「陽春特別号」1967年2月)
さっちゃん
のんき夫婦
銭形平次捕物帳
いじわる看護婦
いじわるクッキー
サザエさんうちあけ話 (「朝日新聞」日曜版 連載 1978年4月 - 11月) - 連載
サザエさん旅あるき (「朝日新聞」連載 1987年4月 - 10月) - 連載
巨人対楽天戦【コボスタ宮城】
対で勝利。
先発、
【楽天】則本昂大右腕、9.10回松井裕樹左腕、
【巨人】高木勇人右腕、9回山口哲也左腕、10回マシソン右腕、

【巨人】
1番 右 橋本 到2番 中 立岡 宗一郎3番 左 亀井 善行代打片岡治大、
4番 遊 坂本 勇人5番 一 アンダーソン6番 指 高橋 由伸
7番 捕 阿部 慎之助8番 三 井端 弘和 9番 二 吉川 大幾
【楽天】
1番 中 福田 将儀2番 二 藤田 一也3番 右 松井 稼頭央
4番左 枡田 慎太郎5番 一 中川 大志6番 遊 後藤 光損
7番指 ペーニャ8番 捕 嶋 基宏9番 三 ウィーラー代走森山周西田哲朗

#、今日は勝ち越す為に大事な試合!則本¡強振は禁物‽力を抜いて鋭くセンター返しと選球眼です。高木は3点以内に押さえてほしい。阿部のリード!!。
1回表、1番、0.1.1.1.1.2.2.2.、、、3.2.、7ヒット価値ある2番、0.1.4ライナー?3番、
1.0.2.0.3.0.四球4番坂本、0.1.0.2.1.2.、2.2.全球ボール球?6ライナーダブルプレー??。22球。
1回裏、1番、0.1.0.2.、1.2.、2.2.4ゴロ2番、1.0.2.0.2.1.3.1.3.2.、6ゴロ3番、0.1.0.2.1.2.、見逃し三振。内角低めのストレート143キロ。19球。、
2回表、5番、0.1.1.1.1.2.3ゴロ6番、1.0.1.1.2.1.2.2.空振り三振ボール7番、1.0.1.1.1.2.4ゴロ。
2回裏、4番、1.0.1.1.2.1.2.2.3.2.空振り三振カット高い?5番、9フライ真ん中?6番、1.0.1.1.1.2.、
3回表、8番、0.1.4ゴロ9番、0.2.1.2.、2.2.中三塁打1番、1.0.8ヒット1点2番、0.1.1.1.2塁7ヒット1点3番、0.1.9フライ4番、0.2.2.2.盗塁失敗。      2対0。
3回裏、7番、02.2.2.9ヒット8番、0.1.1.1.1.2.2.2.3.2.9フライ9番、6ゴロ。
4回表、4番、0.1.7ヒット5番、2.0.2.1.3ゴロダブルプレー6番、0.2.1.2.、、2.2.空振り三振。
4回裏、1番、0.1.1.1.4ゴロ2番、0.2.1.2.7ヒット高い3番、0.1.6ゴロダブルプレー。
5回表、7番、0.1.1.1.1.2.2.2.、3.2.9ヒット8番、バント2塁9番、0.1.3ゴロ3塁
1番、1.0.6フライ。
5回裏、注4番、0.1.1.1.1.2.2.2.、、4ゴロフォーク真ん中5番、1.0.2.0.2.1.8フライ
6番、0.1.7フライカット。66球.後2点追加点!。
6回表、2番、0.1.4ゴロ3番、1.0.5ゴロ4番、0.1.0.2.、1.2.空振り三振。88球。
6回裏、要注意7番、2.0.2.12.2.3.2.四球?8番、0.1.0.2.空振り三振9番、0.1.左二塁打真ん中高めのストレート1番、0.1.0.2.1.2.2.2.フライ、ボール?2番、1.0.1.1.右三塁打  
2点内角高めのストレートボール球3番、1.0.1.1.6フライ。    2対2。
7回表、5番、0.2.2.2.4ゴロ6番高橋、1.0.1.1.1.2.2.2.空振り三振ボール?7番、2.0.2.1.3.1.3.2.、空振り三振。107球。
7回裏、最重要4番、0.1.0.2.1.2.2.2.空振り三振5番、1.0.1.1.2.1.2.2.空振り三振6番、1.0.1.1.左ホームラン4号1点フォーク高い?7番、0.2.1.2.2.2.空振り三振、。
ボールが高い❓3失点‽。                 2対3。
8回表、8番井畑、1.0.左二塁打代走片岡9番吉川、1.0.1.1.左二塁打エンタイトルツーベース1点策は1番、バントフライ?2番立岡、1.0.1.1.1.2.4ゴロ3塁3番亀井、  
0.1.1.1.2.1.2.2.空振り三振。4球ボール球?。         3対3。
追い着いたが無死2塁追加できず??。
8回裏、8番、1.0.1.1.1.2.9フライ9番、0.1.6ゴロエラー代走森山1番、0.1.1.1.1.2.盗塁失敗見逃し三振。助かった。負けられない!!。
9回表、重要【松井】4番、1.0.1.1.2.1.2.2.、3.2.、5ゴロ5番、1.0.1.1.1.2.2.2.、3.2.3ゴロ6番高橋由、0.1.1.1.1.2.空振り三振。先頭打者!。
9回裏、【山口】2番、1.0.1.1.2.1.2.2.、4ゴロ3番、0.1.0.2.1.2.7ヒット4番、0.1.6ゴロダブルプレー。ナイス!。ボールを打つな!。
10回表、7番阿部、3ゴロ8番打片岡、1.0.0.2.0.3.0.3.1.3.2.、、、7ヒット価値ある
策は?9番吉川、0.1.0.2.6ゴロホースアウト1番橋本、0.1.0.2.、1.2.2.2.空振り三振。ボール??。
吉川のところはバントが常識!。
10回裏、【マシソン】5番、1.0.2.0.ホームラン3号サヨナラ1点。

総評。
8回表同点に追いつき無死2塁、橋本バント失敗追加出来ず?10回一死片岡ヒットで出塁9番𠮷川、はバントです!。得点出来なくても、橋本に対するプレッシャーが違う?
マシソンがボール先行して、サヨナラ?打つべき手を逃せば当然の結果です。
1. 楽天対巨人戦【コボスタ宮城】13:00
延長10回4対3で楽天サヨナラ勝利。
先発、
【楽天】則本翔太右腕、
【巨人】高木勇人右腕、

戦評
5月31日(日)楽天 vs. 巨人 3回戦

楽天が劇的なサヨナラ勝利。楽天は2-2で迎えた7回裏、後藤のソロで勝ち越しに成功する。その後同点を許すも延長10回に、中川のソロが飛び出し試合を決めた。投げては、2番手・松井裕が今季初勝利。敗れた巨人は、3番手・マシソンが痛恨の一発を浴びた。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ 楽天 ] 松井裕(1勝0敗11S)

敗戦投手、[ 巨人 ] マシソン(0勝3敗2S)

セーブ

本塁打、[ 巨人 ]
        [ 楽天 ] 後藤 4号(7回裏ソロ) 、中川 3号(10回裏ソロ)

巨人バッテリー
高木勇 、山口 、マシソン - 阿部。

  楽天バッテリー
則本 、松井裕 - 嶋。
2.ソフトバンク対ヤクルト戦【ヤフオクドーム】
5対2でソフトバンク勝利。13:00
先発、
【ソフトバンク】寺原隼人右腕、
【ヤクルト】石山泰稚右腕、

戦評
5月31日(日)ソフトバンク vs. ヤクルト 3回戦

ソフトバンクは初回、内川と福田の適時打などで3点を先制する。1点差に迫られて迎えた4回裏には、高谷の2ランが飛び出しリードを広げた。投げては、先発・寺原が5回2失点で今季2勝目。敗れたヤクルトは、先発・石山が4回5失点と試合をつくれなかった。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ ソフトバンク ] 寺原(2勝0敗0S)

敗戦投手、[ ヤクルト ] 石山(3勝4敗0S)

セーブ、[ ソフトバンク ] サファテ(2勝0敗12S)

本塁打、[ ヤクルト ] 山田 7号(3回表ソロ)
       [ ソフトバンク ] 高谷 1号(4回裏2ラン)

ヤクルトバッテリー
石山 、松岡 、久古 、徳山 - 中村。

 ソフトバンクバッテリー
寺原 、二保 、五十嵐 、バリオス 、サファテ - 高谷。
3日本ハム対中日戦。【札幌ドーム】13:00
8対6で日本ハム勝利
先発、
【日本ハム】有原航平右腕、
【中日】バルデス左腕、

戦評
5月31日(日)日本ハム vs. 中日 3回戦

日本ハムは1点を追う1回裏、打者一巡の猛攻で5点を挙げて逆転に成功する。2点リードで迎えた8回には、中島卓の適時打で加点した。投げては、先発・有原が5回2失点で今季2勝目。敗れた中日は、打線が7回以降に追い上げを見せるも、序盤の失点が響いた。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ 日本ハム ] 有原(2勝1敗0S)

敗戦投手、[ 中日 ] バルデス(2勝5敗0S)

セーブ、[ 日本ハム ] 増井(0勝0敗13S)

本塁打、[ 中日 ]
        [ 日本ハム ]

中日バッテリー
バルデス 、岡田 、西川 、又吉 - 杉山。

 日本ハムバッテリー
有原 、谷元 、石井 、鍵谷 、宮西 、増井 - 近藤 、大野。
4.西武対阪神戦。【西武プリンス】13:00
9対4で西武勝利。
先発、
【西武】12郭 俊麟右腕、
【阪神】能見篤史左腕、

戦評
5月31日(日)西武 vs. 阪神 3回戦

西武が逆転勝利。西武は3点を追う7回裏、渡辺の犠飛と秋山の適時打で1点差に迫る。なおも2死一二塁の好機をつくると、主砲・中村の3ランが飛び出し、この回計5点を挙げて逆転した。投げては、4番手・宮田がプロ初勝利。敗れた阪神は、投手陣がリードを守れなかった。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ 西武 ] 宮田(1勝0敗0S)

敗戦投手、[ 阪神 ] 能見(3勝6敗0S)

セーブ

本塁打、[ 阪神 ]
         [ 西武 ] 中村 15号(7回裏3ラン)

阪神バッテリー
能見 、安藤 、高宮 、松田 - 藤井。

 西武バッテリー
郭俊麟 、武隈 、岡本篤 、宮田 、増田 、高橋朋 - 炭谷。
5.ロッテ対ÐeℕA戦。【QVⅭマリン】13:00
9対5でロッテ勝利。
先発、
【ロッテ】大嶺祐太右腕、
【ÐeℕA】須田幸太右腕ん、

戦評
5月31日(日)ロッテ vs. DeNA 3回戦

ロッテは初回、鈴木と角中の連続本塁打で2点を先制する。その後は3回裏に、根元と荻野貴の連続適時打などでリードを広げた。投げては、先発・大嶺祐が7回途中3失点で今季3勝目。敗れたDeNAは、打線が終盤に追い上げを見せるも、先発・須田の乱調が響いた。

責任投手/本塁打

勝利投手、
[ ロッテ ] 大嶺祐(3勝2敗0S)

敗戦投手、[ DeNA ] 須田(1勝2敗0S)

セーブ

本塁打、[ DeNA ]
       [ ロッテ ] 鈴木 1号(1回裏ソロ) 、角中 2号(1回裏ソロ)

DeNAバッテリー
須田 、国吉 、東野 、林 - 高城 、黒羽根。

 ロッテバッテリー
大嶺祐 、大谷 、西野 - 田村 、吉田。

6オリックス対広島戦。【京セラドーム】
2対1で広島勝利。13:00
先発
【オリックス】西 勇輝右腕、
【広島】、福井優也右腕、

戦評
5月31日(日)オリックス vs. 広島 3回戦

広島が同一カード3連勝。広島は1点を追う7回表、シアーホルツの適時三塁打で同点とする。続く8回には、松山のソロが飛び出し、勝ち越しに成功した。先発・福井は8回途中1失点で今季4勝目。敗れたオリックスは、先発・西が好投するも、打線が応えられなかった。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ 広島 ] 福井(4勝1敗0S)

敗戦投手、[ オリックス ] 佐藤達(1勝5敗0S)

セーブ、[ 広島 ] 中崎(0勝3敗5S)

本塁打、[ 広島 ] 松山 2号(8回表ソロ)
       [ オリックス ] T-岡田 4号(4回裏ソロ)

広島バッテリー
福井 、中崎 - 會澤。

 オリックスバッテリー
西 、佐藤達 、塚原 - 伊藤 、山崎勝 。

スポーツ、

1. 【日本ダービー】ドゥラメンテ2冠!M・デムーロ「夢みたい」
スポニチアネックス 5月31日(日)15時53分配信

【日本ダービー】ドゥラメンテ2冠!M・デムーロ「夢みたい」

<日本ダービー>ダービーを制覇したドゥラメンテ

 12年に生産されたサラブレッド6897頭の頂点を決める競馬の祭典「第82回日本ダービー」(G1、芝2400メートル・晴良18頭)は31日、東京競馬場10Rで行われ、M・デムーロ騎手が騎乗の1番人気、ドゥラメンテ(牡3=堀厩舎、父キングカメハメハ、母アドマイヤグルーヴ)が、直線で末脚を伸ばして快勝。皐月賞に続く戴冠で堂々の2冠を達成した。勝ち時計は2分23秒2。

【写真】坂路で最終調整を行っていたドゥラメンテ

 1馬身3/4差の2着にサトノラーゼン、3着にはハナ差でサトノクラウンが入った。

 レースはミュゼエイリアンがハナを主張し、キタサンブラック、タガノエスプレッソ、そしてスピリッツミノルが上がっていく。ドゥラメンテは中団に位置しレースを進めた。

 ミュゼエイリアンが先頭のまま最終コーナーから直線へ。2番手につけたキタサンブラックと逃げ粘るが、残り200メートルでドゥラメンテが脚を伸ばす。一気にかわすと、そのまま後続を振り切ってゴールに飛び込んだ。

 栄冠を手にした鞍上のM・デムーロは「すごい、夢みたい。1番人気ですごいプレッシャーだったが、良かった。うれしい」と声を震わせた。「ちょっとテンションが高かった」というが、強さを見せつけての完勝に「この馬は強い。すごい脚の馬ですね」と称えていた。
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2. デーブ楽天、9年ぶり巨人に勝ち越し!中川がプロ初サヨナラ弾
サンケイスポーツ 5月31日(日)17時1分配信

デーブ楽天、9年ぶり巨人に勝ち越し!中川がプロ初サヨナラ弾

楽天・大久保監督と抱き合うサヨナラ本塁打の中川(左)=コボスタ宮城(撮影・荒木孝雄)(写真:サンケイスポーツ)

 (セ・パ交流戦、楽天4x-3巨人=延長十回、3回戦、楽天2勝1敗、31日、コボスタ宮城)楽天がサヨナラ勝ちだ! 同点で迎えた延長十回、中川大志内野手(24)がサヨナラ本塁打。松井裕に今季初白星がつき、チームは対巨人に9年ぶりの勝ち越しとした。

 楽天は1点リードの八回に追いつかれると、2試合連続の延長戦に突入。九回から先発・則本に代わってマウンドに上がった松井裕は十回、一死から安打を打たれるも、慌てることなく吉川を遊ゴロ、橋本を空振り三振に仕留めた。その裏、マウンドには山口に代わってマシソン。先頭で打席に立った中川はカウント2-0と優位になった3球目、152キロ外角の直球を捉えると、打球は左翼スタンドに飛び込む3号ソロは勝負を決めるサヨナラ本塁打。劇的幕切れにベンチから大久保監督も飛び出すと、生還した中川と抱き合って喜んだ。

 プロ入り初のサヨナラホームランに中川は「思いっきり振りました」と振り返った。先発・則本は同級生とあって、「きょうはノリ(則本)が先発だったし、絶対に勝ちたかった。ノリが投げているときに打って、もっと楽に投げさせてあげたかったんですけど…。辛抱強く投げてくれていたので、試合だけは絶対に勝とうと最後の打席は気合を入れていった。ホームランが打ててよかった」というと、笑顔が溢れた。

 大久保監督は「見送らずに初球から打ちにいくという姿勢が見えていましたし、四球取りにいくのではなく、しっかり振りにいったのがよかった」と中川をたたえると、「精一杯精進して、練習して、そっちを大事にしてほしい」とこれからの活躍も期待した。巨人に9年ぶりの勝ち越し。「伝統の巨人軍。そのチームを相手に若い選手らが挑んでくれたことが今後の自信につながる」と淡々とコメントした。
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ニュース、

1. <日韓防衛相>4年ぶり会談 交流再開の方針確認
毎日新聞 5月30日(土)22時12分配信

 【シンガポール飼手勇介】シンガポール訪問中の中谷元防衛相は30日、韓国の韓民求(ハン・ミング)国防相と会談し、関係改善に向け、自衛隊と韓国軍との共同訓練など防衛交流の本格的な再開を目指す方針を確認した。日韓防衛相会談は2011年6月以来約4年ぶり。

 中谷氏は冒頭で「日韓国交樹立50年の節目で、4年ぶりにお目にかかれたことは大変意義がある」と述べ、韓氏も「友好関係がさらに発展していくことを望む」と語った。

 日韓間では、12年の李明博(イ・ミョンバク)大統領(当時)の竹島上陸などで関係が悪化し、防衛交流は多くが中断した。会談で中谷氏は、自衛隊の観艦式への韓国艦艇の参加や、日韓の捜索救難共同訓練の実施を提案した。会談後、記者団に「(韓国側も)前向きな反応だった」と述べた。

 また、中谷氏は会談で、北朝鮮の核・ミサイル情報を日米韓3カ国間で共有するための日韓の軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の早期締結の必要性を指摘したが、韓氏は「受け止めた」と述べるにとどめた。同協定は、韓国世論の反発から、12年に締結直前で撤回された経緯がある。

 中谷氏は安全保障関連法案の内容も説明した。韓氏が集団的自衛権の行使などを念頭に「韓国と関係があることは相談してほしい」と要請したのに対し、「韓国の同意なしに自衛隊が韓国領域内に侵入することはない」と理解を求めた。

 会談は予定を20分超過し、1時間に及んだ。中谷氏は会談後、「今後の日韓の交流にむけてよい基盤が作れた」と述べた。

 両氏はその後、カーター米国防長官と日米韓防衛相会談を開き、北朝鮮の核開発などに対する連携強化と情報共有を進める方針を確認した。
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2. インドの熱波、死者2000人超える 南部2州で大きな被害
AFP=時事 5月31日(日)8時37分配信

インドの熱波、死者2000人超える 南部2州で大きな被害

インド・アムリツァルの道端で、通行人に振舞う甘いジュースを大きな容器に入れるボランティアたち(2015年5月29日撮影)。【翻訳編集】 AFPBB News

【AFP=時事】インド政府当局は30日、同国で数週間続いた熱波による死者が2000人を超えたと発表した。

【写真特集】熱波に見舞われたインド
 同国南部のアンドラプラデシュ(Andhra Pradesh)とテランガナ(Telangana)両州では、5月中旬以降、熱波による死者が計1979人を記録。東部オリッサ州(Orissa)で17人、他地域全体で9人が死亡し、同国内の死者数合計は2005人に達した。

 インドでは毎年真夏になると、貧しい人々を中心に数百人が死亡するが、国際災害データベースEM-DATによると、今回インドを襲った熱波による死者は2541人が死亡した1998年に次ぎ同国史上で2番目、全世界でも史上5番目の多さだった。

 被害の大きいアンドラプラデシュ、テランガナ両州では熱波から身を守るための教育キャンペーンを実施している。テランガナ州の災害管理責任者を務めるB.R.ミーナ(B.R. Meena)氏は、パンフレットや地元メディアを利用し、外出を避けたり、十分な水分を摂取するよう人々に促している。

「当州での死者数は現在までで合計489人。熱波がやや弱まったことと、当局による教育キャンペーンの成果で、28日から熱波による死者は出ていない」とミーナ氏は語る。

 また5月中旬以降、死者1490人を記録した隣接するアンドラプラデシュ州でも、熱波の対処方法を伝える広報キャンペーンを実施している。同州の災害管理責任者トゥルシ・ラニ(P. Tulsi Rani)氏は、「ここ数日で、死者は明らかに減少した」とAFPに話した。

 このところの暑さのため305人が死亡した同州プラカサム(Prakasam)地区の保健当局者は、ここ数日間で状況は改善し、熱中症の症状で病院を訪れる人も減少したと話す。

 インドでは30日、各地で最高気温が45度を記録しした。首都ニューデリー(New Delhi)の天気予報では、インドのいくつかの州で今週も高い気温が続くと警告している。南部のケララ(Kerala)州では今週にもモンスーンによる雨季が始まると予報されているが、インドの乾燥地帯に雨が降るのは数週間先だとみられている。【翻訳編集】 AFPBB News
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3. 東京駅コインロッカーから女性遺体 1カ月ほど保管庫に
朝日新聞デジタル 5月31日(日)12時17分配信

東京駅コインロッカーから女性遺体 1カ月ほど保管庫に

遺体が見つかったコインロッカー周辺を調べる警察官=31日午前11時59分、JR東京駅、日吉健吾撮影

 31日午前9時ごろ、東京都千代田区の東京駅内のコインロッカーの管理会社から、「ロッカーに入っていたスーツケースの中に人のようなものが見える」と近くの交番に届け出があった。警視庁によると、入っていたのは女性の遺体で、警視庁は死体遺棄事件として捜査を始めた。

【写真】遺体が見つかったコインロッカー付近は一時騒然とした=31日午後0時5分、JR東京駅、日吉健吾撮影

 丸の内署の発表では、スーツケースは縦約70センチ、横約50センチ、幅約25センチ。1カ月ほど前に、南口改札付近のコインロッカーに無施錠で入っていたため、管理会社の職員が駅構内にある一時保管庫に移していた。1カ月経ったため、31日に職員がスーツケースを開け、中を見て届けたという。

 警視庁は女性の身元やスーツケースが預けられた経緯などを調べている。
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2015年5月30日楽天対巨人戦。延長11回5対3で巨人勝利。橋本!

2015-05-30 22:52:59 | Weblog
      2015年5月30日
国民栄誉賞受賞者
長谷川一夫5/30済
長谷川 一夫(はせがわ かずお、1908年2月27日 - 1984年4月6日)は、日本の俳優。旧芸名に林 長丸(はやし ちょうまる)、林 長二郎(はやし ちょうじろう)。愛称は長さん。

戦前から戦後にかけて、二枚目の時代劇スターとして活躍し、同時代の剣戟俳優である阪東妻三郎、嵐寛寿郎、市川右太衛門、大河内傳次郎、片岡千恵蔵とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた[2]。歌舞伎界から松竹に入り、松竹時代劇の看板俳優となった。その後東宝、大映と移り、300本以上の作品に出演。舞台やテレビドラマでも大きな活躍を見せており、晩年には宝塚歌劇『ベルサイユのばら』の初演で演出を行った。没後、俳優初の国民栄誉賞を受賞。

最初の妻は初代中村鴈治郎の次女・林たみ。のちに離婚し、新橋の名妓・飯島繁と再婚。俳優の林成年は長男、女優の長谷川季子と長谷川稀世は長女・次女、また稀世の娘に女優の長谷川かずきがいる。

歌舞伎界へ[編集]

1908年(明治41年)2月27日、京都府紀伊郡堀内村字六地蔵(現在の京都市伏見区六地蔵)に生まれる。一夫の叔父(母の弟)で、家業の造り酒屋を継承し、大手座という芝居小屋を経営していた長谷川宗太郎の影響で、幼いころから大手座に出入りし、芝居を見て育った。

1913年(大正2年)、中村鶴之助一座の『菅原伝授手習鑑 寺子屋』に風邪で倒れた子役の代役として、菅秀才を演じ舞台デビューした[3][4]。これが奇縁となり、翌1914年(大正3年)、関西歌舞伎の中村福円の弟子となり[5]、中村 一夫を名乗る。全国を巡業漂泊し、1917年(大正6年)、福円一座と共に初東上して浅草吾妻座に出演、嵐 佳寿夫と改名した[6]。

1918年(大正7年)、初代中村鴈治郎の門下に加わり、その長男林長三郎に預けられ、林長丸を名乗る[6]。鴈治郎一座の関西青年歌舞伎には、後に映画界に移る市川百々之助、市川右一(市川右太衛門)、嵐徳太郎(嵐寛寿郎)らがいた。長丸は女形として人気を博し、鴈治郎からは実の子のように可愛がられたという[2]。

1926年(大正15年)、大阪松竹座こけら落としの舞台に出ているところ、観劇に来た大阪松竹社長白井松次郎と二代目実川延若にその美貌ぶりを認められる。

映画界へ[編集]





林長二郎時代
1927年(昭和2年)、白井の社長命令で、師の了解のもと松竹下賀茂撮影所に入社。師から林長二郎の芸名を貰い、犬塚稔監督の『稚児の剣法』で銀幕デビューを果たす。

当時、時代劇映画の製作に注力し始めた松竹は、林を期待の新人スターとして、莫大な宣伝費をかけて売りだされた。結果、この映画は若い女性の間で大人気となり、林は抜群の美貌に加え、若手時代劇スターを渇望していた松竹が社をあげて宣伝したことが功を奏してたちまちスター俳優となった。

同年、主演第2作目で衣笠貞之助監督の『お嬢吉三』に出演。以来衣笠とは大映時代までの約50作品でコンビを組んだ。松竹時代では『鬼あざみ』『二つ燈籠』『鯉名の銀平』などの衣笠作品に主演、同時に美剣士スターとして大人気となった。

1935年(昭和10年)、衣笠の『雪之丞変化』が公開されると、長二郎の人気は頂点に達する。物語の面白さもさることながら、長二郎は3役(女形の歌舞伎役者に身をやつして両親の仇討ちをする剣豪の雪之丞、それを助ける義賊の悪太郎、雪之丞の母)に扮して千変万化の主演ぶりを見せ、大ヒットとなった。「流す涙がお芝居ならば・・・」の主題歌も流行した[7]。

東宝、新東宝へ[編集]

1937年(昭和12年)、松竹を退社し、東宝に移籍。「忘恩の徒」とマスコミから轟々たる非難を浴びる。移籍の背景には長谷川が最新の設備に惹かれたことと、松竹の扱いに憤慨した母親が長谷川に相談せず東宝との契約書に押印したとの事情も伝えられている[8]。

同年11月12日、『源九郎義経』(渡辺邦男監督)の撮影中に、「松竹への恩義を忘れた不徳義漢」との建前で、撮影所出入りの不良少年・増田三郎と、金という男の二人に襲われて顔を斬りつけられ、左頬を貫通する深手を負い、撮影続行不能、映画は中止。「林長二郎暴漢に顔を斬らる!」との新聞見出しに京都中がてんやわんやとなり、この「二枚目映画スタアの受難」は日本全国を騒然とさせた。この事件の裏には松竹の意向があったと噂されている(東宝移籍のいきさつも参照)。

1938年(昭和13年)、怪我を機会に、芸名を本名の長谷川一夫に戻し、『藤十郎の恋』(山本嘉次郎監督)で銀幕復帰。独自に工夫したメイキャップで傷跡を消し、再起不能とまでいわれた逆境を跳ね返して堂々二枚目スタアに返り咲いた。また、『鶴八鶴次郎』などでは山田五十鈴とコンビを組み、ヒットを飛ばした。そのほか、李香蘭と共演した『白蘭の歌』(渡辺邦男監督)、『支那の夜』(伏水修監督)などといった現代劇に出演したが、時代劇ではこれという決定作は少なかった[9]。

1942年(昭和17年)、演劇の実演を行うため、山田五十鈴らと新演伎座を結成。

1944年(昭和19年)、召集され、鳥取連隊に入隊。後に除隊され、1945年(昭和20年)の終戦時まで慰問公演を各地で行った。

1947年(昭和22年)、東宝が東宝争議で機能停止。長谷川は組合側にも経営者側にも立たず、大河内伝次郎、藤田進、黒川弥太郎、高峰秀子、入江たか子、花井蘭子、山田五十鈴、原節子、山根寿子とともに「十人の旗の会」を結成して日映演東宝支部を脱退、3月25日に新東宝の設立に参加した。

1948年(昭和23年)、新演伎座を株式会社化し、自らその代表となる。映画製作も行い『小判鮫』『幽霊暁に死す』などを製作した。翌1949年(昭和24年)、新東宝の『銭形平次捕物控 平次八百八町』(佐伯清監督)に主演し、長谷川の十八番となる銭形平次を初めて演じた。

大映から映画界引退、その後[編集]

1953年
1950年(昭和25年)、大映京都撮影所に重役として迎えられる。翌1951年(昭和26年)、『銭形平次』(森一生監督)が公開、以後『銭形平次捕物控』シリーズとして、大映で計17本の作品が作られ、同社を支える人気シリーズの一つとなった。

1953年(昭和28年)、イーストマン・カラー第1作である、衣笠監督の『地獄門』に主演。作品はカンヌ国際映画祭グランプリとアカデミー賞外国語映画賞を受賞した。翌1954年(昭和29年)、溝口健二監督の『近松物語』に主演。

1955年(昭和30年)7月、この年より東宝歌舞伎を主宰し、東京宝塚劇場を中心に新歌舞伎座、御園座、中日劇場で公演を行い、大成功させる。年2回ほど公演を行い、二代目中村扇雀(四代目坂田藤十郎)、十七代目中村勘三郎、六代目中村歌右衛門ら豪華なゲスト出演で知られ、華やかなレヴュー『春夏秋冬』などの公演で人気を得た。

1963年(昭和38年)、『江戸無情』(西山正輝監督)を最後に、「後進に道を開く」と言い残し、ひとまず映画界を去った[9]。ここまで大映のトップスターであり続けた。

以後は、東宝歌舞伎など演劇を中心に活躍したが、テレビドラマにも多く出演し、1964年(昭和39年)には大河ドラマ『赤穂浪士』に大石内蔵助役で主演、これが生涯の当たり役のひとつとなった。

1974年(昭和49年)、宝塚歌劇の『ベルサイユのばら』初演の演出を行い、大きな話題になった。

1983年(昭和58年)、東宝歌舞伎正月公演『半七捕物帳』が最後の舞台となり、同年秋に糖尿病の悪化で入院。翌1984年(昭和59年)には繁夫人と死別。その時から急速に衰え、後を追うようにして4月6日、頭蓋内膿瘍のため東京慈恵会医科大学附属病院で死去。享年76。没後、国民栄誉賞を受賞した。

人物・エピソード[編集]

『銭形平次』(1951年)
「ミーハー」とは、林長二郎のファンのために作られた言葉である[10]。若い女性が大好きな「みつまめ」と、「はやし長二郎大好き人間」を揶揄してできたのが「ミーハー族」というキャッチフレーズだった[11]。

一時期、日本橋小網町のガソリンスタンド明光石油株式会社日本橋カズヲスタンドSSと供に赤坂で料亭賀寿老(かずお)を繁夫人と経営していた。酒が体質的に飲めず、大の甘党であったこともあり、晩年は糖尿病などの慢性病に悩まされた。

映画界入りのきっかけ[編集]
いわゆる時代劇六大スタアのなかで、長谷川は一番若い。長谷川はもともと旅芝居の子役出身で、大阪の青年歌舞伎では女形をしていた。長谷川は昭和2年の映画界入りについて次のように語っている。
「活動写真は好きでした。阪妻が好きで、十四、五の頃でしたか、活動に出たいなんて言っていると、市川百々之助が出てきたんですね。百々之助にできるなら僕にもできるなんて、思ったこともあります」
市川右太衛門もこれと同じことを語っている。百々之助は女性ファンからチャンバラスタアとしては異例の人気を得たが、長谷川の女性人気はこれに次ぎ、凌ぐものだった。デビュー作『稚児の剣法』前後についてはこう語っている。
「その頃は、百々之助、阪妻、大河内傳次郎が雲の上の人でした。みなさんのような、激しい立ち回りは私にはできませんでしたから、きれいな、踊りを踊るような立ち回りすればと、考えたんですね。ラストシーンで膝が見えても白粉塗ってるような時分でしょう。カッコよかったのかもしれませんねえ」
長谷川には門閥の背景がないため出世の見込みはなく、芝居畑から若い映画界へ飛び込んで行ったのは、阪東妻三郎や市川右太衛門、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎らとまったく同じ状況だった。しかし映画界は歌舞伎の世界からは「泥芝居(泥の上でやる芝居)」と呼ばれ、軽んじられてもいた。
「映画は、面白かったというよりも、失敗したら帰るところがないという、そんな気持ちでしたね。映画入りは、止めたのが半分、しっかりやりなさいよと応援してくれたのが半分でしたから。たまにお芝居の楽屋に行きますと、ああ、土の匂いがすると思ったらカツドウ役者が来てる、と、そんな風に言われたものですよ。カツドウ役者、泥の上で芝居すると、地べたの役者なんて言われたんですね[12]」
後年長谷川は、師の門人で指南役の初代市川箱登羅から「役者は舞台に出て当たり前、シャシン(映画の事)なんかに出るな。土の上で芝居したらあかん。板(舞台のこと)には戻られへんで。」と常々言い聞かせられていたので抵抗があったが、昭和元年12月に師から「白井はんから話が来てるんや。シャシンに出なはれ。名前も林の苗字名乗ってええ、長三郎の一字を取って長二郎と名乗り。お前との師弟の仲はなくならへんで。成駒屋の門人のままやねんで。」と励まされたので決心がついたという(山川静夫との対談での証言)。

美剣士スター[編集]

『雪之丞変化』(1935年)では女形を務めた経験を生かして女役を演じた。
松竹時代の長谷川(当時は林長二郎の芸名)は、『稚児の剣法』で銀幕デビューしてからその美貌で売りだされて、美剣士スターと称された。女形あがりのため女役を演じることも多い。戦時中は「軍国主義的な容貌ではない」などと非国民扱いまでされ、その美貌は生涯女性ファンを魅了し、時代劇の命脈を「日本人の半分」に繋いできた。

1928年正月、銀幕デビュー10か月後に、挨拶のため上京したが、東京駅頭では、1万人余りのファン(主に女性)が歓声をあげて出迎えた。詰めかけたファンは雪崩をうって揉み合い、何十・何百と林立するノボリ、打ち振られるハンケチと、凄まじい人気ぶりだった。長二郎のうるんだまなざしは「眼千両」と言われ、世の女性ファンを虜とした。時代劇スタアが女性のアイドルとなるのは、実に市川百々之助以来のことだった。デビューの年には十八本もの作品に出演している。本人は「家に帰れたのはたったの九日間だけ。労働基準法のない時代でしたからね」と笑っている[2]。

女形出身の長二郎は、よく人気に応えて、たちまち全国の女性層のアイドルとなり、チャンバラスタアとはまた違った世界で、長二郎ブームが始まった。女形出身の衣笠貞之助監督が自らの経験を生かして、同じ女形出身の長二郎を磨きに磨いたのだから、やくざをやっても、殿様をやっても、剣士をやっても、何もかも水の滴るばかりの美男ぶりを見せるので、女性ファンにとってはたまらない魅力となり、劇場では銀幕に向かって思わず「長さァ~ん!」、「あたしがここにいるわよ!」と、あちらからもこちらからも狂わんばかりの声が飛んだ。あげくのはてに、共演した女優へ恨みと嫉妬の脅迫状が送られてくる始末だった。

長谷川の立ち回りは「上目使いに微笑を含み、殺陣でさえ婀娜っぽい」とされ、うるんだまなざしは「眼千両」と言われた。他の剣豪スタアとは一味も二味も違って異質な長谷川の殺陣は、「市川右太衛門を所作事とすれば、“剣劇レビュー”」と評された[2]。

犬塚稔とともに、デビュー時代の長谷川と組んで「新人三人組」と呼ばれた円谷英二は、長谷川の眼の演技について、こう述べている。
「長谷川君の眼は現在に至る迄定評のあるところだが、それとても、只天性のものばかりではなく、彼が実によく眼の扱い方を研究していたことにはさらに定評がある。照明に対して最も効果的な自分の位置、顔の角度視線の定点等には彼は最も細心な注意を常に払っていたのも並々ならぬ彼の研究の成果だったに違いない[13]」。
昭和初期、活動写真の役者は白塗りの歌舞伎スタイルが常識だった。が、長谷川は円谷とのコンビで、「顔に影を落とす」という陰影撮影法を試している。これは当時の映画界ではタブーの手法であり、円谷はこの手法を責められて、予算も設備も一等劣る「B級班」落ちさせられている[14]。新人だった長谷川は円谷が「キャメラというものをたたきこんで呉れた」と述べていて、後年、そんな円谷と試した様々な撮影手法を懐かしがり、また親交厚かった円谷を偲んでいる[15]。

小国英雄によると、斬られたときの「手のアップ」がいちばんうまい剣戟俳優は長谷川だったそうで、長谷川主演の映画で、斬られた相手の手のアップを撮ろう、となったときに、長谷川が自分で「ワッ」と手の演技をして撮らせたことがあったという。

稲垣浩は長谷川の華麗な立ち回りについて、「林長二郎なんて言う人は女形だったんだけど、映画で美剣士役でチャンバラができたということは、やっぱり踊りの下地があったからです」と述べている[16]。

東宝移籍のいきさつ[編集]

長谷川は1937年に松竹から東宝に移籍を決め、暴漢に顔を斬りつけられるというテロ事件に遭っている。が、長谷川本人はこのテロを特にタブー視していない。

当時、東宝の砧撮影所は、業界でも最新の撮影設備を備え、もっとも進歩的なところであり、上京のたびに長谷川はこれらの機材を見て羨ましく思っていたという。松竹下加茂にも新しいキャメラを入れて欲しいと嘆願したこともあったが、受け入れてはもらえなかった。長谷川は「俳優にとって一番の願いは、いい作品に出演することだ」と語っている。金銭がらみの複雑な歌舞伎の世界がのしかかっていたではあろうが、東宝の新しい撮影機材とシステム、魅力ある企画は長谷川の心をとらえ、移籍を決心させたのである。

しかし、この決心は松竹の心証をいたく悪くしたばかりか、ジャーナリズムを敵に回してしまった。新聞各紙は「忘恩の徒」と書きたて、一斉に長谷川非難を始めたのである。そんな折に長谷川は「二枚目の命」である顔を斬られた[12]。

林長二郎を松竹下加茂撮影所から引き抜いた東宝は、『源九郎義経』を早く撮るため、これをわざわざ合併したばかりの京都のJ.O.スタヂオで撮入させた。引き抜きからまだ1ヶ月しか経たないうえに松竹の地元京都での撮影はいかにも刺戟が強すぎた上に、東宝は長二郎の護衛に地元の侠客笹井一家を護衛に充てていた。この護衛を着けたことが、結果的にテロ事件を呼んでしまったのである。事件の翌日から、警察は地元の不良少年を片っ端から引っ張ったが、犯人の見当はつかなかった。犯人である増田三郎という撮影所出入りのチンピラ少年を見つけ出したのは、増田と顔見知りだったマキノ正博で、実際に顔を斬りつけたのは増田の身内の金という男だった。マキノは増田を説得し、一週間の猶予を与えて金とともに太秦警察署に出頭させたが、その間にも警察の犯人探しは続けられていて、引っ張られた者の中には当時千本組の侠客だった永田雅一の姿もあった。マキノによると池永浩久や渡辺邦男監督、護衛にあたった笹井組の笹井静一(マキノ正博の義理の兄)も強いショックを受けていたといい、笹井はマキノの問いに対して、この事件の裏に大金を生むスタアを巡った、映画会社のどろどろとした内幕を示唆している。

緊急入院した林長二郎は自戒を込めて何も話さず、この事件を肝に銘じて忘れぬよう、あえて顔の傷を整形したりしなかった。裁判所も「役者の顔は生命」として、実行犯に二年という異例の刑期で実刑判決を下している[17]。
「この事件が起こって以来、皆さん、スタアさん、自由にほかの会社に出られるようになったんですよ。テロ以来、ピタッと非難の記事が無くなりました。顔を切られて、再起不能の俳優なのに、可哀そうだという面もあったのでしょう」
犯人検挙の後、長谷川は「背後関係は探ってくれるな」と申し出て事件は一件落着となっている。このいきさつについて、長谷川は次のように語っている。
「ええ、もうよして下さいって言ったんです。背後関係を調べても私の顔が元通りになるわけではありませんし、それに映画界のボロが出るだけでしょう。業界全体のイメージダウンになりますから[12]」
舞台俳優、長谷川一夫[編集]

長谷川は映画界を退いた後は舞台に専念した。この理由について次のように語っている。
「五十五歳になったら映画はやめようと、若いころから思っていました。皺くちゃのオッサンになって映画出てたらおかしいでしょう。私は二枚目で売ってますから、いい男でなけりゃならないんですよ。顔がたるんでから、いい男の役で出るのは嫌ですから」
東宝歌舞伎の基本パターンは、十代の頃、大阪・松竹座で二代目楳茂都扇性の振り付けを見て、ショーを覚えたのが始まりだった。昭和17年に小林一三、渋沢栄一に呼ばれ、「洋楽が入った歌舞伎調の芝居をやってほしい」と頼まれ、結成したのが新演伎座である。しかしこれはジャーナリズムにこっぴどく叩かれたという[10]。

舞台活動では、戦前の1937年、初代鴈治郎追善公演で大阪中座、歌舞伎座に出演し「忠臣蔵連理鉢植」などで他の歌舞伎俳優と共演している。これは松竹本社の意向によるものであったが、当時映画俳優は歌舞伎役者より格下とみられる傾向があり、ましてや舞台を去って映画界へ移った長谷川への風当たりは強く、早速「何で活動写真の俳優と出るんだ。」と抗議が出た。この時は白井松次郎らが「長谷川が出るから客が来るんやないか。」と言い返して事なきを得た。映画界に入っての長谷川は歌舞伎界との縁を完全に切ったことはなく、師の初代鴈治郎と十五代目市村羽左衛門を終生崇拝し、六代目尾上菊五郎の演技を研究するなど東西の梨園の名優を手本とした。同年代の六代目中村歌右衛門や十七代目中村勘三郎とは舞台に共演したり、私生活でも交友を続けていた。戦後の関西歌舞伎の凋落を見かねて、二代目鴈治郎や十三代目片岡仁左衛門らによる自主公演「七人の会」に「七人半でもええさかいに出しとくんなはれ。」と真剣に参加を求めたこともある。(諸事情により実現されなかった。)

研究熱心で、終戦直後、長谷川がルンバなどの最新のダンスを舞台で演じたのを見学した古川ロッパはその上手さに舌を巻き「まったくあなたの努力はすごい」と激賞したと日記に書き残しているように、歌舞伎舞踊を基礎としながらも常に新しい境地を開拓する姿勢は最後まで衰えなかった。 戦後になってから舞台出演が本格化。東京の歌舞伎座の舞台に立つことで、舞台俳優として長谷川一夫が成功する。このショーは豪華なゲスト出演者で有名で、梨園からは六代目歌右衛門、十七代目勘三郎、二代目中村扇雀、八代目松本幸四郎(初代白鸚)、三代目實川延若、二代目市川小太夫、十代目岩井半四郎。そのほかにも女優の初代水谷八重子、山田五十鈴、京マチ子、淡島千景、新珠三千代、草笛光子、歌手の美空ひばり、越路吹雪、江利チエミ、桜田淳子なども出演。長男の林成年、長女の長谷川季子、甥の林与一も出演している。

長谷川一夫と稲垣浩[編集]

稲垣浩が長谷川と初めて知り合ったのは「林長二郎」時代のことで、当時稲垣は助監督だった。年末に長二郎から助監督連に「金二円」のお歳暮が配られた。薄給の助監督にとって金二円の商品券は「(『一本刀土俵入』の)駒形茂兵衛のようにうれしかった」といい、その二円で買ったソフト帽は、翌年監督に昇進してからも四、五年かぶっていた。会社が違うので仕事はしなかったが、会えば「コーちゃん」、「長さん」という親しさで、「いつか一緒に仕事がしたいな」と言い合った。

それから27年目に一緒に仕事をしたが、わずかな日数しか貰えず、『風雲千両船』(1952年)は特別出演、『お祭半次郎』(1953年)は一週間の早撮りだった。「なが年約束しながら心ゆくまでの仕事ができなかったのは残念」として、「見るたびに時間のなかった当時を思い出し、ためいきが出たり、懐かしく思ったり」と当時を述懐している。

稲垣浩は「長谷川一夫さんほど運の強い人はないと思う」と語っている。映画入りして以来、ついに一度も人気の落ちることもなく、特別な事情のない限り助演に回ったこともないという大スタア、東宝歌舞伎の切符は毎回売り切れ、『ベルサイユのばら』も大当たりとなった。また、「もう一つ不思議なこと」として、長谷川の去ったあとの会社は、たいてい落ち目になることを挙げている。

古巣である松竹を去って東宝へ移ったとき暴漢に看板である顔を切られたが幸いにも大事に至らなかった。だが、去った後の松竹は華やかさを失い、ついには他力の助けをかりねばならなくなった。戦後は東宝争議によって東宝を去り新東宝を創立したが、東宝は無残な状態となり、新東宝を去るとまもなく新東宝はつぶれた。大映時代は会社役員ともなったが役員解任とともに大映を去ると、大映の屋台骨が崩れ始めた。稲垣は「どこまでついている人なのか計りしれない」と評している[18]。

受賞・受章歴[編集]
1953年:ブルーリボン賞大衆賞
1957年:菊池寛賞
1965年:紫綬褒章
1978年:勲三等瑞宝章
1980年:菊田一夫演劇賞演劇大賞
1981年:松尾芸能賞特別大賞
1984年:国民栄誉賞(没後追贈)

映画[編集]

『地獄門』(1953年)右は京マチ子。

『残菊物語』(1956年)左は淡島千景。稚児の剣法(1927年、松竹)
お嬢吉三(1927年、松竹)
勤王時代(1928年、松竹)
御用船(1927年、松竹)
白井権八(1928年、松竹)
人(1928年、松竹)
人形武士(1928年、松竹)
お坊吉三(1929年、松竹)※男女二役をトリック撮影
黒手組助六(1929年、松竹)
月形半平太(1929年、松竹)
関の弥太っぺ(1930年、松竹)
忠臣蔵(1932年、松竹) - 浅野内匠頭、吉田沢右衛門
鼠小僧次郎吉(1932年、松竹)
髪結新三(1932年、松竹)
菊五郎格子(1932年、松竹)
鯉名の銀平(1933年、松竹) - 鯉名の銀平
二つ燈籠(1933年、松竹) - 清吉
一本刀土俵入り(1934年、松竹) - 駒形茂兵衛
沓掛時次郎(1934年、松竹)
侠客曾我(1934年、松竹)
くらやみの石松(1935年、松竹)
雪之丞変化(1935年、松竹) - 中村雪之丞、闇太郎、母親
お夏清十郎(1936年、松竹)
元禄快挙余譚 土屋主税 落花の巻・雪解篇(1937年、松竹) - 土屋主税
番町皿屋敷(1937年、松竹)
大坂夏の陣(1937年、松竹) - 坂上出羽守
蒙古襲来 敵国降伏(1937年、松竹) - 北條時宗
源九郎義経(1937年、東宝)※テロ事件により撮影中断、未完成。スチールのみ現存。弁慶役は大河内傳次郎
藤十郎の恋(1938年、東宝) - 坂田藤十郎 ※東宝入社第一作
鶴八鶴次郎(1938年、東宝)
忠臣蔵(1939年、東宝) - 浅野内匠頭
喧嘩鳶(1939年、東宝) - 加賀鳶吉五郎
白蘭の歌(1939年、東宝) - 松村康吉
支那の夜(1940年、東宝) - 長谷哲夫
蛇姫様(1940年、東宝) - 千太郎
燃ゆる大空(1940年、東宝) - 大橋大尉
熱砂の誓ひ(1940年、東宝)
阿波の踊子(1941年、東宝)
男の花道(1941年、東宝)
婦系図(1942年、東宝) - 早瀬主税
三十三間堂通し矢物語(1945年、東宝) - 星野勘左衛門
或る夜の殿様(1946年、東宝) - 平喜一郎
東宝千一夜(1947年、新東宝)
大江戸の鬼(1947年、新東宝)
幽霊暁に死す(1948年、新演技座) - 小幡平太郎、息子小平太
小判鮫(1948年、新演技座)※男女二役
甲賀屋敷(1949年、新演技座)
千両肌(1950年、新演技座)
鬼あざみ(1950年、新演技座)
月の渡り鳥(1951年、大映)
銭形平次捕物控シリーズ(大映) - 銭形平次 銭形平次(1951年)
銭形平次捕物控 恋文道中(1951年)
銭形平次捕物控 地獄の門(1952年)
銭形平次捕物控 からくり屋敷(1953年)
銭形平次捕物控 金色の狼(1953年)
銭形平次捕物控 幽霊大名(1954年)
銭形平次捕物控 どくろ駕篭(1955年)
銭形平次捕物控 死美人風呂(1956年)
銭形平次捕物控 人肌蜘蛛(1956年)
銭形平次捕物控 まだら蛇(1957年)
銭形平次捕物控 女狐屋敷(1957年)
銭形平次捕物控 八人の花嫁(1958年)
銭形平次捕物控 鬼火燈籠(1958年)
銭形平次捕物控 雪女の足跡(1958年)
銭形平次捕物控 美人蜘蛛(1960年)
銭形平次捕物控 夜のえんま帖(1961年)
銭形平次捕物控 美人鮫(1961年)

源氏物語(1951年、大映) - 光源氏 ※大映創立十周年映画
治郎吉格子(1952年、大映)
大佛開眼(1952年、大映) - 楯戸ノ国人
風雲千両船(1952年、大映)※特別出演
浅間の鴉(1953年、大映) - 沓掛時次郎
地獄門(1953年、大映) - 盛遠
花の三度笠(1954年、大映)
近松物語(1954年、大映) - 駒形茂兵衛
藤十郎の恋(1955年、大映)
薔薇いくたびか(1955年、大映) - 山村御風
つばくろ笠(1955年、大映)
逢いぞめ笠(1956年、大映)
新・平家物語 義仲をめぐる三人の女(1956年、大映) - 木曽次郎義仲
月形半平太 花の巻・嵐の巻(1956年、大映)
残菊物語(1956年、大映) - 尾上菊之助
子の刻参上(1957年、大映)
源氏物語 浮舟(1957年、大映) - 光源氏の子・薫の君
鳴門秘帖(1957年、大映) 
忠臣蔵(1958年、大映) - 大石内蔵助
口笛を吹く渡り鳥(1958年、大映)
日蓮と蒙古大襲来(1958年、大映) - 日蓮
四谷怪談(1959年、大映)
歌麿をめぐる五人の女(1959年、大映)
次郎長富士(1959年、大映) - 清水次郎長
山田長政・王者の剣(1959年、大映)
風来物語 仁侠篇・あばれ飛車(1959年・1960年、大映) - 巽の直次郎
一本刀土俵入(1960年、大映)
水戸黄門海を渡る(1961年、大映) - 水戸黄門、シャグシャイン
秦・始皇帝(1962年、大映) - 干越 
雪之丞変化(1963年、大映) - 中村雪之丞、闇太郎 ※映画出演300本記念作品
江戸無情(1963年、大映)※最後の出演作品
ちゃんばらグラフィティー 斬る!(1981年、東映)※主演場面の抜粋


巨人対楽天戦【コボスタ宮城】
延長11回5対3で巨人勝利。
先発、
【楽天】レイ右腕、6.7回青山浩二右腕、8.9回戸村健次右腕、武藤好貴右腕、
10回福山浩博之右腕、11回長谷部泰平左腕、
【巨人】杉内俊哉左腕、8回山口哲也左腕、9.10回澤村拓一右腕、
11回マシソン右腕、
【巨人】
1番 中 橋本 到2番三 立岡 宗一郎代打井畑弘和3番 左 亀井 善行
4番 遊 坂本 勇人5番 一 アンダーソン6番 捕 阿部 慎之助、實松一成、
7番 指 高橋 由伸8番 右 長野 久義 9番 二 片岡 治大代打矢野謙次、
二吉川大幾、
【楽天】
1番 中 福田 将儀2番 二 藤田 一也3番 右 牧田 明久代打右松井稼頭央、
4番 左 枡田 慎太郎5番一 中川 大志6番 遊 後藤 光尊
7番 指 ペーニャ8番 捕 小関 翔太、嶋 基宏9番三 ウィーラー、西田哲郎、

1回表、1番、8フライ2番、0.1.0.2.中二塁打好打3番、1.0.7ヒット1.3塁4番、
 2.0.2.1.5ライナー5番、0.1.1.1.中二塁打2点貴重6番、0.1.0.2.1.2.2.2.空振り三振。ボール?。                          2対0。
1回裏、1番、0.1.0.2.1.2.2.2.、見逃し三振2番、0.1.フライ3番、3.0.四球?4番、
 0.2.1.2.2.2.3.2.4ゴロ。18球。
2回表、7番、1.0.1.1.1.2.空振り三振8番0.1.1.1.2.1.8フライ9番、0.1.1.1.6ゴロ。
2回裏、5番、1.0.1.1.1.2.2.2.3.2.、7ヒット6番、0.1.1.1.1.2.6ゴロホースアウト7番、
4ゴロダブルプレー¡外角低めのスライダー。追加点!。
3回表、1番、0.1.0.2.、1.2.3ゴロ2番、0.1.1.1.6ゴロ内野安打3番、1.0.盗塁2.0.失敗3.0.四球4番坂本、6ゴロ真ん中低め。打つ球では無い?。
3回裏、8番、0.1.1.1.1.2.2.2.3.2.8ヒット9番、2.0.?2.1.2.2.7ヒット1番、バント2.3塁2番、0.1.1.1.7ヒット1点3番、0.1.1.1.2.1.内フライ4番、0.1.1.1.2.1.3.1.3.2.四球
満塁?5番、0.1.0.2.1.2.2.2.、7ヒット2点6番、9フライ。    2対3。
杉内、ボール先行で悪い??。
4回表、5番、0.1.1.1.4ゴロ6番、2.0.2.1.2.2.、、3.2.3ゴロ引掛け?7番、0.1.1.1.1.2.2.2.8ヒット8番長野、0.1.1ゴロ。
4回裏、重要7番、フライ8番、0.1.0.2.空振り三振9番、0.1.1.1.1.2.2.2.3.2.見逃し三振。5.6回の攻防!!?。
5回表、重要9番片岡、1.0.1.1.2.1.6ゴロ1番、0.1.1.1.9フライ2番、1.0.1.1.1.2.見逃し三振。
5回裏、重要1番、2.0.2.2.1ゴロ2番、0.1.0.2.1.2.2.2.3.2.四球?3番、8フライ
 4番、0.1.0.2.盗塁失敗。88球。凌いだ。亀井から!!。
6回表、【青山】3番、7フライ4番、0.1.1.1.2.1.2.2.空振り三振5番、0.1.1.1.1.2.9フライ。
6回裏、最重要4番、0.1.1.1.2.1.2.2.8フライ5番、1.0.1.1.2.1.2.2.、空振り三振内角低めのストレート6番、1.0.1.1.1.2.8ヒット7番、7ヒット1.3塁8番1.0.1.1.1.2.2.2.4フライ。良く凌いだ。107球。援護点を!!。
7回表、6番阿部、2.0.2.2.7フライ7番、0.11.1.1.2.。見逃し三振8番、1.0.1.1.1.2.空振り三振。ボール??。
7回裏、9番、0.2.2.2.見逃し三振1番、0.1.1.1.1.2.、6ゴロ2番、1.0.2.0.6ゴロ内野安打3番、1.0.8フライ。凌いだ。
8回表、【戸村】9番打矢野、6ゴロ1番、1.0.1.1.中二塁打2番、1.0.9ヒット1点価値ある3番亀井、0.1.1.1.2.1.2.2.空振り三振4番坂本、2.0.2.2..ランエンドヒット8ヒッ ト1.3塁【武藤】5番アンダーソン、1.0.4ゴロ。       3対3。
8回裏、【山口】4番、0.2.2.2.フライ5番、1.0.4ゴロ6番、9ヒット7番、0.1.1.1.2.1.
ランエンドヒット右二塁打真ん中❓2.3塁8番、0.1.1.1.1.2.2.2.3.2.空振り三振。危ない。
9回表、【武藤】6番、1.0.1.1.1.2.2.2.9フライ7番高橋、2.0.2.1.2.2.9ヒット代走鈴木無し?8番長野、1.0.2.0.2.1.2.2.3.2.5ゴロ2塁代走太田9番吉川?、0.1.1.1.2.1.3.1.四球1番橋本、0.1.3ゴロ。ÐeℕA勝勢!
9回裏、【澤村】9番打西田、0.1.0.2.1.2.2.22.2..3.2.、、右エラー落球1番、バント2塁
2番、敬遠???3番打松井、0.1.0.2.1.2.、3.2.8フライ4番、1.0.6フライ。助かった。
10回表、【福山】2番、8ヒット価値ある3番、0.1.バント2塁4番坂本、2.0.5ゴロ?5番、敬遠当然6番實松、1.0.2.0.2.1.3.1.6ゴロ。
10回裏、5番、1.0.1.1.4フライ6番、0.1.0.2.1.2.2.2.、、空振り三振内角高めのストレート7番、1.0.1.1.2.1.2.2.3.2.四球8番嶋、1.0.1.1.1.2.2.2.3.2.四球最悪?9番、8フライ。危ない??44球。
11回表、【長谷部】7番太田、1.0.2.0.3.0.四球代走鈴木無し??8番長野、1.0.1.1.2.1.9フライ、ボール?9番、0.1.1.1.2.1.3.1.3.2.空振り三振盗塁成功2塁1番橋本、1.0.1.1.
左二塁打1点貴重2番立岡代打井畑、1.0.1.1.2.1.2.2.、3.2.1点けん制悪送球エラー?四球3番亀井、0.2.1.2.空振り三振。                     5対3。
11回裏、【マシソン】1番、1.0.2.0.1ゴロ助かった2番、0.1.9ヒット3番、ゴロダブルプレー。

総評。
2対3でリードを許す8回一死後1番橋本二塁打2番立岡9ヒットで同点延長へ
8回山口、9.10回澤村が踏ん張って11回表8番太田四球8番長野三振?盗塁成功
1番橋本二塁打で1得点2番代打井畑何が有ったか❓1点を追加。11回裏はマシソン
一死後ヒットを許すが松井ゴロダブルプレーで勝利。
1. 楽天対巨人戦【コボスタ宮城】14:00
延長11回5対3で巨人勝利。
先発、
【楽天】レイ右腕、
【巨人】杉内俊哉左腕、

戦評
5月30日(土)楽天 vs. 巨人 2回戦

巨人が延長戦を制した。巨人は1点ビハインドで迎えた8回表、立岡の適時打で同点とする。そのまま延長戦に突入し迎えた11回、橋本が値千金の適時二塁打を放ち、勝ち越しに成功した。3番手で登板した澤村が今季4勝目。敗れた楽天は6番手・長谷部が誤算だった。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ 巨人 ] 澤村(4勝2敗17S)

敗戦投手、[ 楽天 ] 長谷部(0勝1敗0S)

セーブ、[ 巨人 ] マシソン(0勝2敗2S)

本塁打、[ 巨人 ]
         [ 楽天 ]

巨人バッテリー
杉内 、山口 、澤村 、マシソン - 阿部 、實松。

 楽天バッテリー
レイ 、青山 、戸村 、武藤 、福山 、長谷部 - 小関 、嶋。
2.ソフトバンク対ヤクルト戦【ヤフオクドーム】
5対3でヤクルト勝利。18:00
先発、
【ソフトバンク】スタンリッジ右腕、
【ヤクルト】石川雅規左腕、

戦評
5月30日(土)ソフトバンク vs. ヤクルト 2回戦

ヤクルトは初回、雄平の犠飛で先制する。その後、5回表に中村の適時打、続く6回には畠山に3ランが飛び出しリードを広げた。投げては先発・石川が6回途中1失点で今季4勝目。敗れたソフトバンクは、9回に2点差まで追い上げるも及ばず連勝が3で止まった。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ ヤクルト ] 石川(4勝5敗0S)

敗戦投手、[ ソフトバンク ] スタンリッジ(5勝4敗0S)

セーブ、[ ヤクルト ] バーネット(1勝0敗13S)

本塁打、[ ヤクルト ] 畠山 11号(6回表3ラン)
       [ ソフトバンク ]


ヤクルトバッテリー
石川 、秋吉 、オンドルセク 、ロマン 、バーネット - 中村。

ソフトバンクバッテリー
スタンリッジ 、嘉弥真 、森福 - 細川 、高谷。

3.日本ハム対中日戦。【札幌ドーム】14:00
4対2で日本ハム勝利
先発、
【日本ハム】大谷翔平右腕、
【中日】吉見一起右腕、

戦評
5月30日(土)日本ハム vs. 中日 2回戦

日本ハムは1点ビハインドで迎えた6回裏、淺間と大野の適時二塁打で逆転に成功する。続く7回には主砲・中田にソロが飛び出し、貴重な追加点を挙げた。投げては先発・大谷が8回2失点13奪三振の力投で、無傷の開幕7連勝をマーク。敗れた中日は打線が振るわなかった。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ 日本ハム ] 大谷(7勝0敗0S)

敗戦投手、[ 中日 ] 田島(3勝3敗0S)

セーブ、[ 日本ハム ] 増井(0勝0敗12S)

本塁打、[ 中日 ]
       [ 日本ハム ] 中田 18号(7回裏ソロ)

中日バッテリー
吉見 、岡田 、田島 、高橋聡 、又吉 、浅尾 - 松井雅 、杉山。

 日本ハムバッテリー
大谷 、増井 - 大野。
4.西武対阪神戦。【西武ポリンス】14:00
9対2で西武勝利。
先発、
【西武】菊池雄星左腕、
【阪神】横山雄哉左腕

戦評
5月30日(土)西武 vs. 阪神 2回戦

西武は同点で迎えた3回裏、浅村の適時打、中村の2ランで3点を挙げ、勝ち越しに成功する。続く4回にも中村がグランドスラムを放ち、リードを広げた。投げては先発・菊池が7回153球2失点の熱投で今季初勝利。敗れた阪神は先発・横山が誤算で、連勝は4で止まった。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ 西武 ] 菊池(1勝2敗0S)

敗戦投手、[ 阪神 ] 横山(0勝1敗0S)

セーブ

本塁打、[ 阪神 ] 上本 2号(6回表ソロ)
        [ 西武 ] メヒア 8号(2回裏ソロ) 、中村 13号(3回裏2ラン) 、中村 14号(4回裏満塁)

阪神バッテリー
横山 、石崎 、山本 、安藤 - 鶴岡 、小宮山。

 西武バッテリー
菊池 、岡本篤 、大石 - 炭谷。
5.ロッテ対ÐeℕA戦。【QVⅭマリン】14:00
5対1でÐeℕA勝利。
先発、
【ロッテ】石川 歩右腕、
【ÐeℕA】井納翔一右腕、
戦評
5月30日(土)ロッテ vs. DeNA 2回戦

DeNAは2回表、高城の適時打で先制する。その後同点で迎えた7回、2死一三塁から代打・下園の適時打で勝ち越すと、9回には石川の適時打などで3点を加え試合を決めた。投げては、先発・井納が8回1失点の好投で今季4勝目。敗れたロッテは、打線が振るわなかった。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ DeNA ] 井納(4勝2敗0S)

敗戦投手、[ ロッテ ] 石川(4勝3敗0S)

セーブ

本塁打、[ DeNA ]
         [ ロッテ ]

DeNAバッテリー
井納 、山崎康 - 高城。

 ロッテバッテリー
石川 、益田 - 吉田。
6オリックス対広島戦。【京セラドーム】
対で勝利。14:00
先発
【オリックス】スタンリッジ右腕、
【広島】、ジョンソン左腕、

戦評
5月30日(土)オリックス vs. 広島 2回戦

広島は1-1で迎えた6回表、相手の暴投の間に勝ち越しに成功。その後同点とされるも、9回に再び相手の暴投の間に勝ち越した。投げては先発・ジョンソンが7回途中2失点の好投。敗れたオリックスは先発・金子千尋が試合をつくるも、バッテリーエラーに泣いた。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ 広島 ] 永川(1勝1敗0S)

敗戦投手、[ オリックス ] 平野佳(0勝1敗6S)

セーブ、[ 広島 ] 中崎(0勝3敗4S)

本塁打、[ 広島 ] シアーホルツ 4号(4回表ソロ)
        [ オリックス ] カラバイヨ 11号(8回裏ソロ)

広島バッテリー
ジョンソン 、戸田 、永川 、中崎 - 石原。

 オリックスバッテリー
金子千尋 、岸田 、佐藤達 、平野佳 - 伊藤。

スポーツ、

1. ソフトバンク 3連勝で首位浮上!柳田2試合連続弾!摂津4勝目
スポニチアネックス 5月29日(金)21時21分配信

ソフトバンク 3連勝で首位浮上!柳田2試合連続弾!摂津4勝目

<ソ・ヤ>3回無死で11号ソロを放った柳田はナインの出迎えに笑顔

 ◇交流戦 ソフトバンク7―4ヤクルト(2015年5月29日 ヤフオクD)

 ソフトバンクは11安打7得点と打線が火を噴き3連勝。日本ハムが敗れたため、チームは再び首位に浮上した。

 ソフトバンクは初回、内川と李大浩の連続本塁打で幸先よく3点を先制。直後の2回に1点差に迫られたが、細川の犠飛で再び点差を広げ、3回には柳田の2試合連続となる11号左越えソロが飛び出した。

 6―4と点差詰められた6回には松田にも12号ソロが出て、相手を突き放したソフトバンク。投げては先発の摂津が6回5安打4失点で4勝目を手にした。

 ヤクルトは先発の小川が初回から投球のリズムをつくれずに今季最多の7失点。6回9安打で3敗目を喫し、3年目にして自身初のヤフオクドームでのマウンドはほろ苦いものとなった。打線は2回にデニングの来日初となる2ランが飛び出し、6回にも今浪の2号2ランでソフトバンクに追いすがったが、大量失点が響いた。
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李大浩 、 ヤフオクドーム 、 ソフトバンク を調べる

2. 大谷 球団初の開幕投手無傷7連勝 逆転呼んだ今季最多13K快投
スポニチアネックス 5月30日(土)17時15分配信


3
. 巨人・橋本 地元で決勝打にニヤリ「僕の一つの夢だった」
スポニチアネックス 5月30日(土)19時1分配信

巨人・橋本 地元で決勝打にニヤリ「僕の一つの夢だった」

<楽・巨>青空の下、スタンドの声援に応える橋本

 ◇交流戦 巨人5―3楽天(2015年5月30日 コボスタ宮城)

 宮城出身の巨人・橋本が地元で魅せた。3―3で迎えた延長11回、2死二塁から決勝の左翼線適時二塁打。試合後のお立ち台では「育った仙台で活躍する姿を見せるのが僕の一つの夢だった。結果を出せて良かった」と表情を緩めた。

 この日は「1番・中堅」でスタメン出場。1点ビハインドの8回には1死から二塁打を放って出塁し、立岡の右前適時打で試合を振り出しに戻すホームも踏んだ。

 「(地元だと)思いすぎると空回りしちゃうタイプなので意識せずに。でもきょうは知り合いとか家族とかが見に来ていたので、何とかいいところを見せたいと思っていました」。“敵地”でチームを勝利に導く活躍。歓声に橋本はニヤリと白い歯を浮かべた。
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ニュース、

1. 小笠原、神奈川で震度5強=M8.5、深さ590キロ―日本の広域で揺れ
時事通信 5月30日(土)20時40分配信

 30日午後8時24分ごろ、小笠原諸島西方沖を震源とする地震があり、東京都小笠原村・母島と神奈川県二宮町で震度5強、埼玉県の春日部市などで同5弱を観測した。気象庁によると、地震の規模(マグニチュード=M)は推定8.5と大きかったが、震源の深さが約590キロと深かった。この地震による津波の心配はない。
 揺れは遠くまで伝わり、日本列島の広い範囲で観測された。
 東京消防庁によると、都内では地震直後に転んでけがをしたという通報や、複数のエレベーター閉じ込め事故が起きた。
 JR東海によると、東海道新幹線は東京―新横浜間で一時運行を見合わせ。JR東日本では、東北、上越、北陸各新幹線では停電が発生、一部区間で速度を落とし運行するなどした。
 在来線では山手線、東海道線、横須賀線が全線で、京浜東北・根岸線も一部区間で運行を見合わせた。
 日本原子力発電によると、茨城県東海村の東海第2原発に異常はないという。中部電力も静岡県御前崎市の浜岡原発に異常はないとしている。
 主な各地の震度は次の通り。
 震度5強=東京都小笠原村・母島、神奈川県二宮町。
 震度5弱=埼玉県鴻巣市、春日部市、宮代町。
 震度4=東京都千代田区、横浜市、さいたま市、茨城県取手市、栃木県栃木市、群馬県館林市、千葉市、山梨県忍野村、長野県佐久市、静岡県伊豆の国市。 
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2015年5月29日楽天対巨人戦。5対3で楽天勝利。

2015-05-29 23:05:28 | Weblog
      2015年5月29日
#、為替、123.83円。123.73円。123.83円。+46.98ユーロ、135.69円。135.56円。135.63円。
#ダウ、18126.12ドル。-36.83ドル。ナスダック5097.97。-9.61。
#前場、20598.44円。+46.98円。後場、20563.15円。+11.69円。
国民栄誉賞受賞者
長嶋茂雄5/29
長嶋 茂雄(長島 茂雄[1]、ながしま しげお、1936年2月20日 - )は、千葉県印旛郡臼井町(現:佐倉市)出身の元プロ野球選手(内野手)・プロ野球監督。

闘志溢れるプレイと無類の勝負強さで巨人の4番打者として活躍し続けた。「ON砲」として並び称された王貞治とともに巨人のV9に大きく貢献し、国民的人気を誇った。2001年より株式会社よみうり(現:株式会社読売巨人軍)専務取締役、巨人軍終身名誉監督。2013年、国民栄誉賞を受賞した。

経歴[編集]

1936年、千葉県印旛郡臼井町(現:佐倉市)に生まれた。父は「利(とし)」、母は「ちよ」。兄1人・姉2人の4人兄弟の末っ子である。生家は農家だったが、土地は貸し出し、父は町役場の収入役や助役をしていた[2]。母は意志が強いしっかり者だった[2]。

幼少時代、阪神タイガースの藤村富美男のプレーを見て野球選手を志すようになる。藤村への憧れから幼少期は阪神ファンだった。[要出典]小学4年生から兄の影響で野球を始めたが、当時は終戦間もなくということもあって道具があまり揃えられず、母親にビー玉と堅い布でボールを作ってもらっていたという。また、グラブも母親の手縫いのもので[3]、初めて握ったバットは青竹を割った手製のものであった[4]。小学6年のときに兄が所属していた地元の青年野球団ハヤテ・クラブに入団。兄の下で遊撃手として育てられた。

高校時代[編集]

1951年4月、千葉県立佐倉第一高等学校に進学する。2年生から4番打者を担う[3]。高校時代はほぼ無名だったが、高校最後の大会地区予選で勝ち進み、南関東大会に千葉代表校として出場を果たす。第1回戦、熊谷高校との試合(昭和28年8月1日大宮球場)で、遊撃手の長嶋は試合前に負傷していた三塁手・鈴木英美に代わって三塁手を務めた[5]。遊撃手で度重なるエラーをしていたことからのコンバートであり、以降、三塁手として定着。同試合には敗れたものの、6回表に福島郁夫投手から高校公式試合で自身唯一の本塁打を放った[6]。このバックスクリーン下の芝生への鋭いライナー性の本塁打[6] を、当時の新聞は飛距離を350フィート(約107m)と推定した。

この特大の本塁打により長嶋は野球関係者から大いに注目を集めることとなった。この本塁打を見ていた1人に朝日新聞記者・久保田高行がいた。久保田からその話をきいた報知新聞記者・田中茂光が、内野手のスカウトにあたっていた富士製鉄室蘭野球部マネージャー・小野秀夫に話をした[7]。小野は長嶋に富士製鉄室蘭への入社を勧めるも、長嶋の父親は進学を希望し、さらに上司から北海道からの新人が内定したとの連絡を受けたため、断念[8]。小野はかわりに、自らの出身校・水戸商高の先輩にあたる砂押邦信が監督を務める立教大学への進学を勧めた[8]。砂押の教育方針に感銘を受けた長嶋の父親は、読売ジャイアンツからのプロ入りのオファーも長嶋に知らせない上で、進学を理由に勝手に断っている。プロ入り志望の長嶋は激怒したという。

同年11月下旬、静岡の伊東スタジアムで行われた立教大学野球部推薦入学のセレクションが行われた。フェンス直撃を含む3本の安打を打ち(杉浦忠からも安打)、参加者80人中20人が甲子園出場組という中で推薦順位2位で合格し(1位は本屋敷錦吾、3位は杉浦)[9]、砂押にも認められた。

大学時代[編集]

1954年に立教大学経済学部に進学するも、同年6月に父親が急逝。長嶋家は一家の大黒柱を失い困窮したが、母親が行商をするなどして生計を支えた。この時期、大学を中退してプロ入りすることも考えたが、母親から反対され断念している。野球部では砂押監督に目をかけられ、ジョー・ディマジオ・ヨギ・ベラなどのプレイを参考にしたメジャー流の練習や杉浦の自宅に呼んでの練習など「特別扱いの猛練習」を重ね、正三塁手となる。[10]翌年に先輩の大沢昌芳(大沢啓二)らが砂押排斥運動を起こす[11]。砂押の退任後、辻猛の下で同期の杉浦忠投手(南海ホークス)、主将を務めた本屋敷錦吾内野手(阪急ブレーブス、阪神)と共に「立教三羽烏」と呼ばれ、東京六大学野球において1956年春季・1957年秋季に首位打者を獲得する活躍を見せた。また1955年秋季から1957年秋季まで、5シーズン連続でリーグベストナイン(三塁手)に選ばれる。1957年には六大学リーグの通算新記録となる8本塁打を放った[12]。打撃に加えて守備や俊足も野球関係者から高い評価を受け、石井連藏は大学時代の長嶋の守備について「早稲田も頑張って、ずいぶん三遊間にヒット性の打球を打ちましたが、ほとんど長嶋に捕られましたね。彼の守備範囲は普通の人の二倍くらいあったんじゃないでしょうか。しかも守備範囲が荒れていない」と評している。

高校時代から既にプロ入りが確実視されており、さまざまな球団が長嶋との接触を図っていた[13][14][15] が、本命は南海ホークスとされていた。

時を前後して、読売ジャイアンツが長嶋の家族に接触して説き伏せる作戦[16] に出ていて、母親から「せめて在京の球団に」と懇願されたのが決め手[17] になり、長嶋は南海から一転、巨人への入団を決め、11月20日に契約した。背番号は千葉茂(前年引退)のつけていた「3」(当初は15を提示されたが拒否)、契約金は当時最高額の1800万円(南海は2000万円を提示していた)、年俸は200万。

大沢啓二が語ったところによると、先に南海に入団していた大沢と二人きりで話をし、「どうしても巨人に行きたいんです」と先輩である大沢に頭を下げたという。大沢は、「この事がなかったら、今の長嶋茂雄は無かっただろう」と語っている。しかし、この件もあってその後も大沢には頭が上がらなかったという。

鶴岡にはオープン戦の時に南海行きを断ったことを謝罪。この時、鶴岡は「関東の男の子が関東のチームに入るのは、一番ええ」と笑って答えたという。杉浦は鶴岡への仁義を尽くすとしてそのまま南海入りしたが、その後も長嶋との友情は絶えることがなかった。

現役時代[編集]
雑誌『ベースボールマガジン』1958年4月16日号。右は広岡達朗
オープン戦で7本の本塁打を放つなど、活躍の期待が高まるなかで開幕戦を迎えた。1958年4月5日、対国鉄スワローズ戦に、3番サードで先発出場してデビュー。国鉄のエース金田正一に4打席連続三振を喫し、そのすべてが渾身のフルスイングによる三振であったことが伝説的に語り継がれている。また、翌日の試合でもリリーフ登板した金田に三振を喫している。オープン戦の最中、ある解説者が長嶋を褒め称え「金田など打ち崩して当然」といった趣旨の発言をしていたのを偶然耳にした金田は激昂。この日の登板のために特訓を重ね、肩のピークがちょうど来るようにしたという。その後は金田を打つようになり、翌年の開幕戦では本塁打を放っている。長嶋の最終的な対金田通算対戦成績は、打率.313、18本塁打。

その2日後の4月7日国鉄戦で三林清二から初安打、4月10日の対大洋ホエールズ戦で権藤正利から初本塁打を放つと、8月6日の対広島戦から川上哲治に代わる4番打者となり、チームのリーグ優勝に貢献した。

9月19日に行なわれた対広島戦(後楽園)では、鵜狩道夫から新人記録となる28号本塁打を放ったが、一塁ベースを踏み忘れて、本塁打を取り消された[18](記録はピッチャーゴロ[19])。もしこのベースの踏み忘れがなければ、新人にして「トリプルスリー(打率3割・本塁打30本・30盗塁)」の記録が達成されていた[18]。長嶋は翌9月20日の対阪神戦で28号を打ち直し、新人本塁打プロ野球新記録を達成。

最終打撃成績は、29本塁打・92打点を記録し、本塁打王と打点王の二冠を獲得。打率は、大阪タイガースの田宮謙次郎と首位打者争いをしたが、田宮がシーズン終盤に欠場して以降、全試合出場を続ける長嶋は打率を下げ、最終的にはリーグ2位の.305に終わった。しかし長嶋は最多安打を記録、盗塁もリーグ2位の37と活躍し、新人王に選ばれた。

同年は全イニング出場を達成したが、新人での全イニング出場は1956年の佐々木信也(高橋ユニオンズ)に次ぐ史上2人目、セ・リーグでは史上初だった。新人選手の全イニング出場はその後1961年に国鉄の徳武定之が記録したが、以後現在に至るまでこの3人だけである。また、新人の89得点は戸倉勝城の90得点に次ぐ歴代2位で、新人のセ・リーグ記録。そのほかにも新人選手として34二塁打は歴代1位、290塁打は歴代1位、153安打はセ・リーグ記録、92打点はセ・リーグ記録であり、打率・本塁打・盗塁もそれぞれ新人歴代5位以内に入っている。

1959年6月25日、後楽園球場で行われた対大阪戦は、昭和天皇が試合を観戦する日本プロ野球史上初の天覧試合となった。試合は大阪が1点を先制するが、5回に長嶋と5番打者の坂崎一彦が2者連続で本塁打を放って巨人が逆転した。6回には大阪が3点本塁打で試合をひっくり返したが、7回に6番打者・王貞治が2点本塁打を放って同点とした。試合はそのまま進み、4対4で9回裏を迎える展開となる。この際、決着が着かず延長戦になった場合、時間が押している天皇をどうするか、9回を迎えた時に関係者が深刻に悩み始めていた。9回裏、阪神は先発の小山正明を交代し、2番手の村山実が登板。打席に立った先頭打者の長嶋は、カウント2ストライク2ボールからの5球目・内角高めに食い込んできたシュートを叩いた。打球は左翼スタンドへ伸びて劇的なサヨナラ本塁打となり、同天覧試合は巨人の勝利で幕切れとなった。

この試合は、大学野球時代からスーパースターであった長嶋が放ったサヨナラ本塁打ということもあり、そのドラマ性も相まって大きく報道され、長嶋の勝負強さが日本中に知れ渡るようになった[20]。それまでは大学野球が一番人気で、金銭を取って野球をするプロ野球は軽んじて見られている面があったが、以降は国内におけるプロ野球の人気が高まっていった。「この試合からプロ野球の隆盛は始まった」ともいわれている[21]。

この時の長嶋のサヨナラ本塁打は左翼ポール際の上段に突き刺さるものであり、村山は1998年に死去するまで、このエピソードについて問われるたび「あれはファウルだった」と言い続けていた。なお、同試合では新人の王貞治も本塁打を打っている。これは106回あったON(オーエヌ)アベックホームランの第1号である。

2年目となった同年シーズンは、2位・飯田徳治の.296を大きく引き離す打率.334を記録し、自身初の首位打者を獲得。本塁打はリーグ3位の27本塁打、打点はリーグ4位の82打点を記録した。翌年の1960年も打率.334で首位打者を獲り、4番打者ながらリーグ2位の31盗塁を記録。1961年には打率.353で2位・近藤和彦の.316に大差をつけて3年連続となる首位打者を獲得し、28本塁打で本塁打王も獲得。打点はリーグ2位の86打点で、打点王の桑田武には8打点及ばなかった。

1962年は打率.288でリーグ5位(首位打者は森永勝治の.307)に終わるが、本塁打と打点はそれぞれリーグ2位、盗塁はリーグ3位を記録する。本塁打王と打点王のタイトルは同僚の王貞治が獲得し、同年以降、長嶋と王は巨人の中軸打者としてON砲(おうえぬほう)と称された。これは米メジャーリーグベースボールのニューヨーク・ヤンキースにおけるミッキー・マントルとロジャー・マリスにつけられたMM砲になぞらえた愛称である。打順は通常、3番王、4番長嶋であったが、両者のコンディションの良し悪しにより、長嶋が3番、王が4番のように、しばしば入れ替わることもあった。巨人は1965年から1973年まで日本シリーズを9連覇し(V9)、2人はこの間のチームを代表するプレイヤーであった。

1963年は打率.341・37本塁打・112打点で首位打者と打点王を獲得。本塁打は王の40本塁打に次ぐリーグ2位で、王の打点も長嶋に次ぐリーグ2位だった。1964年はリーグ3位タイの31本塁打を残し、打率と打点はリーグ4位を記録。1965年も王の104打点に次ぐリーグ2位の80打点を残すなど活躍した。

1966年6月8日、村山はあと4つと迫った通算1500奪三振に際し、「1500奪三振は長嶋さんから獲る」と宣言。一方、長嶋は試合前に「バントしてでも三振はしない」と報道陣に語った[22]。村山は5回までに3つの三振を獲り、6回表に長嶋との対戦となった。長嶋は2ストライク1ボールのカウントから4球目のフォークボールを空振り、三振。2球目と4球目に計2回スイングしたが、どちらもフルスイングで、三振を喫した4球目のスイングではヘルメットが脱げた。長嶋は試合後、「あれは打てなくても仕方ない」と語り、予告を達成したライバルへ敬意を示した。村山はその後の1969年8月1日、通算2000奪三振も長嶋から奪っている。2人は現役時代は口も利かなかったが、引退後には意気投合し、お互いに「チョーさん」「ムラさん」と呼び合う仲になった。村山の死後、長嶋は「彼(村山)は一球たりともアンフェアな球(ビーンボール)を投げなかった」と述懐している[22]。

長嶋はこの1966年シーズンを打率.344で終え、5度目の首位打者を獲得。26本塁打・105打点はそれぞれ王に次ぐリーグ2位だった。翌年の1967年は入団以来初めて打率ベストテンから漏れるなど、不調に終わった。

1968年9月18日の阪神とのダブルヘッダーの第2試合。巨人が序盤からリードし、5対0となった4回表の場面、3番の王に対して、阪神のジーン・バッキーが2球続けて死球寸前のボールを投げてきた。王はマウンドに詰め寄って抗議し、ベンチからも選手、コーチ陣が飛び出し乱闘となる。この乱闘でバッキーと巨人のコーチの荒川博が退場となった。そしてバッキーに代わって権藤正利が登板したが、王の後頭部を直撃する死球をぶつけてしまう。王は担架で運ばれ、試合は20分中断された。乱闘に参加しなかった長嶋は、その直後、権藤の投じたカーブを打ち返し、35号の3ランを打った。さらに8回にも2ランを放ち決着をつけた。

1968年シーズンは王に次ぐリーグ2位の打率.318、王とデーヴ・ロバーツに次ぐリーグ3位の39本塁打を残し、リーグ最多の125打点を記録して打点王となった。1969年は王とロバーツに次ぐリーグ3位の打率.311、リーグ4位の32本塁打を残し、115打点で打点王を獲得。1970年は打率でリーグ10位と低迷するが、一方でリーグ5位タイの22本塁打を残し、リーグ最多の105打点を記録して3年連続の打点王となった。

苦手のコース・球種の無い長嶋は、敬遠を受けることが多かった。初年度の1958年には6試合連続敬遠を記録。1961年には年間敬遠数が35にも達し、8月29日の阪神戦では小山正明に走者無しの場面で敬遠された。1960年の国鉄との開幕戦では、5回二死1塁の場面で、カウント1ストライク2ボールとなったところで捕手の平岩嗣朗が立ちあがり、長嶋を敬遠しようとした。村田元一は捕手の構えた位置に投げたが、長嶋は強引にバットを振りに行き、左翼席中段への本塁打となった。同年7月16日には、投手が敬遠で投げた球を無理やり打ちに行き、二塁打を記録した。また、1962年7月12日の中日戦でも、9回表の2死ニ、三塁の打席で河村保彦の敬遠球を打ちにいき、レフト前に逆転タイムリーを放っている。

敬遠策への抗議として、長嶋は打席上で素手で構えたことがある。1968年5月11日の中日戦、二死2塁の場面で山中巽投手は敬遠策を取った。長嶋はこれに対して3球目からバットを持たずに打席に入り、素手だけで構えて抗議に出た。球場内はどよめいたが、絶対打つことができない長嶋を、山中はそのまま2球ボールを続けて歩かせた。1971年6月17日の広島戦では、7回二死3塁という場面で、広島の井上善夫、水沼四郎のバッテリーは、敬遠策で長嶋との勝負を回避しようとした。3球続けてボールが投げられたところで長嶋はバットを捨て、素手で構えた。スタンドが騒然とする中、絶対に打撃はありえないにも関わらず4球目も敬遠のボールが投げられて四球となり、一塁に歩くこととなった[23]。

1971年5月25日の対ヤクルトスワローズ戦にて、浅野啓司から史上5人目となる通算2000本安打を達成。1708試合での到達は、川上哲治に次いで歴代2位のスピード記録であり、右打者では歴代最速記録である。また、大学卒でプロ入りしたプロ野球選手では初の達成者となった。同年シーズンは2位の衣笠祥雄の.285を大きく引き離す打率.320を残し、6度目の首位打者となった。34本塁打、86打点はそれぞれ王に次ぐリーグ2位だった。

1972年はリーグ3位の92打点、リーグ4位の27本塁打を放った一方、打率はベストテンから漏れた。同年からコーチを兼任。翌年の1973年シーズンも成績が下降した。1973年シーズン終了後、監督の川上より「生涯打率3割を切らないうちに引退したほうが良い」と引退を勧告されたが、それを拒否して翌年も現役を続けた[24]。

現役引退[編集]

1974年10月12日、中日の優勝が決まり巨人のV10が消えた日、長嶋は現役引退を表明。翌日のスポーツ新聞の一面は長嶋引退の記事一色となり、中日の優勝はまるで脇に追いやられてしまったという[25]。引退会見では「僕はボロボロになれるまでやれて幸せだった。最後まで試合に出ますよ」と残りの中日戦2試合の出場を約束した。また、別のインタビューでは「『あしたはきっと良いことがある』。その日、ベストを出しきって駄目だったとしても、僕はそう信じ、ただ夢中でバットを振ってきました。悔いはありません」と自分の現役時代について振り返った[4]。

引退会見翌日の10月13日の中日戦ダブルヘッダーが長嶋の引退試合となる予定だったが、降雨で14日に順延となった。この日は中日の優勝パレードと同日であり、監督の与那嶺要以下、星野仙一、高木守道ら主力はパレードへの参加を強制され、中日側は力の衰えた選手や一軍半の選手が出場することとなった。与那嶺、星野、高木らは電話で長嶋に非礼を詫びている。それに対して長嶋は「こっちのことより、(中日にとって1954年以来の)20年ぶりの優勝を思い切り祝ってくださいよ」と明るく答えたという[25]。

引退試合前のミーティングで長嶋はチームメイトに「思い残すことはない。みんなもいつか引退の日が来るが、それまでベストを尽くして悔いのないプレーをしてほしい」と挨拶。その後、この年史上初の2年連続三冠王を決めていた王にそっと「すまんねぇ、今日は引き立て役になってもらうよ」とささやいた。それに対して王は笑って「今日はパッと明るく、アベックホーマーで行きましょう」と答えている[25]。

引退試合の第1試合は3番三塁で出場。第2打席に村上義則から現役最後の本塁打を放った。この試合では王も本塁打を放ち、王の言葉どおり最後(106本目)のONアベック本塁打を記録した。第1試合終了時、長嶋は外野フェンスに沿って泣きながらファンに挨拶した。当初は第2試合終了後場内を一周する予定で、全く予定外の行動だった。長嶋はこの時の行動について「今日ほどスタンドの拍手が胸に響いたことはなかった。第1試合が終わったら知らないうちに外野に足が向いていたんだ」と語っている[25]。

続く、第2試合は、4番三塁で出場。長嶋はこの試合の第3打席で現役最後の安打をセンター前に放った。最終打席は8回裏1死1、3塁で佐藤政夫から、ショートへの併殺打に終わった。試合は10対0で巨人が勝利。第2試合終了時、長嶋は名残惜しむように一人一人と握手し、最後は王と腰に手を寄せあいながらベンチに引き揚げた。

引退セレモニーのスピーチでは「我が巨人軍は永久に不滅です!」という言葉を残した。この言葉は、しばしば「永遠に不滅です」と誤って引用される場合も多く見られる。[26][27]。なお、当時小学生の長男・長嶋一茂はこの引退試合を一切観ていない。当初長嶋は一茂に始球式担当を持ちかけたが、「恥ずかしい」と拒否し、一茂は試合時間に歯科医にかかっていた[28]。

長嶋の引退は読売新聞の1974年十大ニュースの4位になるなど、スポーツに留まらない社会的事件であった。

同年11月21日、選手時代につけていた背番号3は読売ジャイアンツの永久欠番と認定された[29]。

第1次巨人監督時代[編集]

1974年11月21日、巨人の第9代監督に就任した長嶋は、「クリーン・ベースボール」を標榜した。川上が築き上げた確率野球(自らの失策を減らし、相手の失策を誘い、そこにつけこんで勝利するスタイル)を捨て、投、打の力量差がそのまま勝敗につながるという信念のもとにチームを再編。そのためヘッドコーチに関根潤三、投手コーチに宮田征典、守備・走塁コーチ補佐に黒江透修などをそれぞれ招聘し、川上時代のスタッフはほぼ一掃された。新背番号は「90」。新背番号を考えていた長嶋は当時小学生の息子の一茂に相談した際に「現役のときは3つの3があった(打順が3番、背番号3、3塁手)から、3を3つ足して9。」と言われ、それをきっかけに「90」にした(当時背番号9は吉田孝司が付けていたため)。

長嶋は現役最終年時点で、引退即監督就任は考えておらず、現役を2・3年は続行したい思い(フットワークの衰えは認めていたが、それでもまだ現役をやれると思っていたという)があった。また、引退後2・3年はバックネット裏から野球を研究したり、コーチを経験してからの監督就任を考えていたが、チーム事情から引退即監督就任の運びとなった(『読売新聞』1999年11月27日付)。

球団としては戦後初の非日系の外国人選手[30] であるデーブ・ジョンソンを獲得し、自らの後継三塁手とした。なお、ジョンソンはメジャーリーグ情報を長嶋に伝えるパイプとしての役割もあり、度々長嶋家にメジャーの試合を録画したものを持ち寄り、長嶋一家とともに鑑賞していた。この場に立ち会った一茂はメジャーに憧れ、野球(リトルリーグ)や、独学でウエイトトレーニングを始めた。

1975年のシーズンは、球団創設以来初の最下位に終わった。この時、長嶋は自身の野球人生は「波乱万丈」だと思ったという(『読売新聞』1999年11月27日付)。そのため1975年のオフには「グリーン・ベースボール」「チャレンジ・ベースボール」を標榜し、勝つ野球へのシフトチェンジを行った。日本ハムファイターズから、「安打製造機」と呼ばれた張本勲を高橋一三、富田勝との交換で獲得。さらにトレードでライオンズから先発も抑えもできる加藤初も獲得した(このとき東尾修もトレード候補だったが、「球の速い方」の加藤を選択したとの関係者の証言あり)。外野手である高田繁を内野手の三塁に、当時としては異例のコンバートをし、ジョンソンを本来の二塁に移動するなど、チーム強化に着手した。翌1976年には最下位から一転、リーグ優勝を果たした。日本シリーズは阪急ブレーブスに3勝4敗で敗れた。

1977年シーズン中にヤクルトから倉田誠との交換で当時巨人キラーと言われていた浅野啓司を獲得するなどし、「3年目こそ、長嶋の真価が問われる」という声の中、リーグ優勝を果たす(V2)。日本シリーズは1勝4敗で2年連続で阪急に敗れた。

1977年オフには大洋ホエールズからジョン・シピンを獲得し、正二塁手とする。

1978年はシーズン当初から低迷が続き、8月後半、一旦は首位に立つものの力尽き、結局、広岡達朗率いるヤクルトが優勝した。同年オフに江川事件が起きており、江川卓との交換トレードで、エースの小林繁が阪神に移籍。

1979年は5位に終わった。長嶋は若手を率いて伊東スタジアムで秋季キャンプを行なった(伊東キャンプ)。江川卓、西本聖、角三男、藤城和明、鹿取義隆、赤嶺賢勇、山倉和博、笠間雄二、中畑清、淡口憲治、篠塚利夫、松本匡史、平田薫、山本功児、中司得三、河埜和正、中井康之、二宮至の18人が参加。このキャンプで若手の結束力が高まる。キャンプ中に行われた練習試合で若手が全く活躍せず、ベテランだけが活躍したこともあり、当初は1976年オフの再来とも言われたが、後に若手は藤田元司時代の主力選手となる。

また、このオフには張本がロッテオリオンズに放出され、ニューヨーク・ヤンキースでプレーしたロイ・ホワイトを獲得した。ホワイトは張本に代わり、1980年のシーズン中には40歳を迎える王とともに打線の中軸を担う人材として期待された。スタッフでは、長嶋の理解者であり、伊東キャンプでも臨時コーチを務めた青田昇をヘッドコーチに招請するなど、チーム再建を企図した。しかし青田は週刊誌のインタビューで、暴力団と自身の交際を認めるような発言をしたため問題となった(青田舌禍事件)。この責任を取り青田はシーズン前に辞任する。

野球マスコミやファンの間では、栄光のV9時代を懐かしみ、前監督の川上哲治の待望論が徐々に出るようになっていった。実際に川上派と呼ばれる巨人OBが長嶋のチーム作りに干渉(前述の1976年オフの柴田のトレード失敗など)する[31] ようになり、また、1976年オフに山ごもりのパートナーでもあり、自らが監督になる際にコーチに抜擢した淡河弘を原辰徳のドラフト騒動の時に失い(原の家に長嶋の密書を持っていったという理由で解任された)、1979年オフには前述の騒動で青田昇を失ったのを筆頭に、1975年から1979年までの間、11人のコーチが解任される。

長嶋批判が渦巻く中、1980年8月に当の川上が、青田昇、牧野茂、藤田元司、国松彰らを集めて週刊文春の座談会を開き、取材担当の瀧安治にオフレコにする条件として長嶋の後継監督ついて色々と話し合った。ところが数日後にその記事が掲載され、長嶋降ろしの波は避けられないものとなった。[32] 最終的に、球団のオーナーである正力亨ではなく、読売新聞社社長の務臺光雄が、1980年のシーズン終了前に長嶋の監督解任を決断した。球団がAクラスを確保すれば続投と公言していたものが一転した形で、「陰謀」と騒がれることになった。川上派の批判に晒され続けた長嶋は、川上(とその一派)による数年かけた裏工作の結果とみなし、長嶋の川上への悪感情は決定的なものになった[33]。川上がOB会会長になった後はOB会への欠席を続け、1990年に、OB会から今年出席しないと除籍という勧告を受けて[33]、しぶしぶ出席したのをきっかけに川上と「和解」。

長嶋は辞任という名の「事実上の解任」後、正力からフロントへの入閣を進められたが、フロントは性に合わないと拒否して退団届を提出し、個人事務所「オフィスエヌ」を設立し、浪人時代を始める。

後継監督には藤田元司が就いたが、藤田は前述の座談会に参加しており、また同座談会で川上が後継監督として名前を挙げていたこともあり、「長嶋派」のマスコミからバッシングの対象とされ、1981年に日本一になった際にもそれは続いた。

第1次監督退任以降[編集]

浪人時代は野球のみならずスポーツ全般の伝道者的役割、スポーツ外交官的役割を演じた。特に浪人1年目、1981年は、2月キューバ文化視察、同月(設立前の)韓国野球委員会での講演、同年6月中国棒塁協会での野球指導、同年10月ワールドシリーズ観戦などと世界中を駆け巡った。

この時期からスポーツ番組のみならずバラエティ番組に多数出演。独特のキャラクターが受け、面白いオジサンのイメージが定着。翌1982年1月に報知新聞社の客員評論家に就任。

この間、他球団から相次いで監督就任の打診があったが、巨人への思いからそれらを全て断った(『読売新聞』1999年11月27日付)。1990年オフオリックスから監督の要請を受けるが断り神戸出身で長嶋の大学・巨人の後輩土井正三を推薦し土井が監督に就任した[34]。

第2次巨人監督時代[編集]

1990年の川上哲治との和解、1991年の務臺光雄の死去、渡邉恒雄の読売新聞社社長就任など、長嶋の監督再就任への道筋が徐々に出来上がり、1992年オフに報知新聞社客員を辞任し、1992年10月12日に第13代監督として復帰会見を行う。新背番号は「33」(3を2つ合わせたもの)。同年11月のドラフト会議において、星稜高等学校の松井秀喜を引き当てた。長嶋の監督復帰は翌年に発足を控えたJリーグへの対策という意味もあった(『読売新聞』1999年11月27日付)。

監督に復帰した長嶋は長らく「スピード&チャージ」(後にチャージ&チャージ)を標榜。浪人時代に感銘を受けたキューバ野球の実践を目指した。現役大リーガーだったジェシー・バーフィールドを入団させ、また一茂をヤクルトから金銭トレードで獲得し、親子で巨人の一員となる。

復帰初年度の1993年は3位に終わった。打線は低迷しチーム打率は12球団最下位だった。そのオフ、フリーエージェント制度が導入されると、中日ドラゴンズから落合博満を獲得した。

翌1994年には中日と同率で最終戦を迎え、リーグ優勝達成。試合前から、長嶋はこの試合を「国民的行事」とコメントしており、後に「10・8」と語り継がれる名試合となった。さらには、巨人の監督として初めて西武ライオンズに勝利して長嶋の指揮では初めて日本一となり、正力松太郎賞を受賞。

1995年はヤクルトからFAで広沢克己と自由契約になったジャック・ハウエル、広島からもFAで川口和久、メジャーリーグ・ミネソタ・ツインズからシェーン・マックを4億円で獲得するなど30億補強とも言われた大型補強を敢行したが広沢、松井ら大型打線が落合を除き全体的に調子が上がらず、桑田真澄の故障による長期離脱などチーム状態が上向かずヤクルトの後塵を終始拝し続け3位に終わる。

1996年には広島に最大11.5ゲーム差をつけられが、リーグ優勝を果たし、前年に果たせなかった2年越しの「メークドラマ」を完成させる(1999年は「メークミラクル」、2001年は「ミラクルアゲイン」をそれぞれキャッチコピーとして使用したが、いずれもV逸に終わっている)。しかし日本シリーズではオリックスに1勝4敗で敗退し、同年オフ、一茂に自ら戦力外通告を行い、現役を引退させる。

1997年は西武からFAで清原和博、ロッテからエリック・ヒルマン、近鉄から交換トレードで石井浩郎を獲得するなど大型補強を行ったが補強戦力が不振や故障に泣き、またエース斎藤雅樹の不振もあり4位に終わり、この頃から若手の伸び悩みで長嶋への批判も多くなる。

1998年は大物ルーキー高橋由伸の加入で野手の若返りが進み、開幕5連勝を飾るなど順調なスタートを切ったが、6月以降斎藤や桑田などベテラン投手陣に疲れが見え徐々に失速。7月に横浜に7点差を逆転された試合が契機になり以後は3位でシーズンを終えた。開幕初の4番に座った松井がプロ初タイトルでホームラン・打点の二冠を獲得した。

その間も長嶋は監督に留まり続けるが、シーズンオフになる度に後継監督候補として、堀内恒夫や森祇晶、江川卓などのOBの名が取り沙汰された。その中、後任とさせるために1998年より原辰徳を一軍コーチとして入閣させる。一方、原はコーチ時代について、「長嶋さんにはいろいろ助言もしたが、最終的に全て長嶋さんが決断をしていた。無責任のようだけど、3年間自分は座っているだけだった」と述べたことがある[35]。

1998年、7月31日の対阪神戦(阪神甲子園球場)において判定を巡りバルビーノ・ガルベスが主審の橘高淳を目掛けてボールを投げ付ける事件が発生した。長嶋は著書『野球は人生そのものだ』の中で、監督としての責任から、球団社長の渡邉恒雄に辞表を提出したが慰留され、カード終了の次の日に頭を丸めた[36]。1999年は大物ルーキー上原浩治が20勝を挙げ、同じく新人の二岡智宏も遊撃に定着、2年目の高橋は3割30本をマークするなど若手が活躍したが、桑田や斎藤、ガルベスのベテラン投手陣に衰えが目立ち、シーズン終盤にこの年好調だった高橋が故障で離脱。高橋や松井ではなく大不振の清原を4番に置き続けた長嶋の采配も疑問視され2位に終わり優勝を逃した。

2000年には、FAで獲得した江藤智に背番号「33」を譲り、長嶋は現役時代の背番号3に変更。当初、この背番号3を長嶋は、ユニフォームの上に上着を着て、マスコミ・ファンには隠していた。世間の背番号3の長嶋が見たいという気運が高まった頃にユニフォームを公開し、当時、話題性に欠けていたチームの話題作りに大いに貢献した。同年、長嶋率いる巨人は日本シリーズで、王貞治が監督の福岡ダイエーホークスに勝利し日本シリーズ優勝達成。

翌2001年、この年を以って監督業から勇退。9年間の監督生活にピリオドを打った。長嶋の勇退およびヘッドコーチ職に就いていた原を後任の監督とする発表がなされた記者会見での当時日本テレビアナウンサーの吉田填一郎からの「長嶋さんにとって野球とは何ですか?」という質問に「野球というスポーツは人生そのものです」と答えた[37]。



1.巨人対楽天戦【コボスタ宮城】
5対3で楽天勝利。
先発、
【楽天】辛島 航左腕、9回松井裕樹左腕、
【巨人】ポレダ左腕、7回香月良太右腕、戸根千明左腕、
【巨人】
1番右 長野 久義 2 番三 井端 弘和3 番左 亀井 善行
4番 遊 坂本 勇人 5番一 アンダーソン6番 指 矢野 謙次
7番 中 大田 泰示8番 捕 相川 亮二9番 二 片岡 治大
【楽天】
1番 中 福田 将儀 2番 二 藤田 一也 3番 右 松井 稼頭央
4番指 枡田 慎太郎 5番 一 中川 大志 6 番遊 後藤 光尊
7番 左 牧田 明久 8 番捕 小関 翔太 9番三 ウィーラー
今日は矢野、太田、相川❓左投手に右打者??
1回表、1番、1.0.1.1.1.2.見逃し三振2番、0.1.1.1.2.1.2.2.空振り三振3番、0.1.1.1.1.2.9フライ。13球。
1回裏、1番、5ゴロ2番、0.1.1.1.1.2.、7フライ3番、0.1.1.1.2.1.3.1.8フライ11球。
2回表、4番、1.0.1.1.2.1.3.1.6ゴロ5番、0.1.0.2.、9フライボール?6番、0.1.1.1.1.2.、空振り三振。
2回裏、4番、0.1.1.1.1.2.4ゴロ5番、0.1.0.2.1.2.2.2.左ホームラン21.0.1.1.1.2.2.2.号1点外角のストレート152キロ高い?6番、1.0.1.1.5.ライナー7番、1.0.1.1.1.2.2.2.5  ライナー。29球。                         0対1。
3回表、7番太田、0.1.1.1.2.1.2.2.3.2.空振り三振8番、1.0.1.1.3ライナー9番、0.1.0.2.、、1.2.9フライ。チェンジアップボール?。
3回裏、8番、1.0.1.1.1.2.空振り三振9番、0.1.1.1.4ゴロ1番、1.0.2.0.2.1.3.1.3.2.6ゴロ。真ん中のスライダー。42球。
4回表、1番、0.1.1.1.2.1.2.2.3.2.空振り三振、ボール?2番、0.1.0.2.9ヒット高め3番亀井、9ヒット外角のスライダー好打1.3塁4番坂本、2.0.3.0.ワイルドピッチ四球1点1.3塁5番アンダーソン、0.2.1.2.、、空振り三振6番矢野、2.0.2.1.ランエンドヒット7ヒット好打1点1.3塁7番太田、0.1.4ゴロ好捕。       2対1。
4回裏、要注意2番、0.1.左二塁打高い?3番、0.1.0.2.高い?1.2.2.2.ワイルドピッチ3塁、、、空振り三振外角低めのストレート143キロ4番、2.0.2.1.3.1.四球5番、
4フライ内角高めのストレート154キロ6番、0.1.1.1.盗塁2.3塁1.2.、、2.2.8ヒット
外角高めのスライダー❓悪い2点7番、1.0.1.1.盗塁2塁2.1.3.1.四球8番、10.1.盗塁
 2.3塁7ヒット2点9番、1.0.1.1.5ゴロ。酷い!           2対5。
5回表、8番、0.1.1.1.2.1.左ホームラン号1点貴重9番、4ゴロ1番、0.1.1.1.1.2.空振り三振ボール?2番、0.1.1.1.1.2.、空振り三振。ボール?。
5回裏、【続投?】最重要1番、1.0.1.1.2.1.4ゴロ2番、0.1.中二塁打真ん中?3番、6フライ4番、1.0.1.1.1.2.7ヒットホームタッチアウト!亀井好返球。1点欲しい。
6回表、3番亀井、1.0.バントフライ?4番、1.0.5ゴロ5番、0.1.1.1.2.1.4ゴロ。90球。
6回裏、5番、0.1.1.1.1.2.2.2.3.2.空振り三振ボール6番、3ゴロ真ん中7番、0.1.0.2.1.2.2.2.、8ヒット8番、1.0.2.0.盗塁2.1.2.2.、フライ。106球。ここまで!?。
7回表、6番、4ゴロ7番、6ゴロ8番、0.1.3ゴロエラー9番片岡、0.1.1.1.1.2.、、
 空振り三振、ボール?。
7回裏、【香月】重要9番、1.0.1.1.2.1.2.2.3.2.、4ゴロ1番、1.0.7ヒット【戸根】2番、1.0.1.1.1.2.2.2.3.2.3ゴロ2塁3番、1.0.4フライ.後は打線!!。
8回表、1番、0.1.0.2.8フライ2番、0.1.1.1.2.1.2.2.、1.ゴロ3番、1.0.1.1.2.1.3.1.3.2.7フライ。
8回裏、【戸根】4番、0.1.0.2.1.2.2.2.4ゴロ5番、1.0.1.1.1.2.、、空振り三振6番、0.1.1.1.1.2.2.2.、3ゴロ。ナイス!。
9回表、【松井】4番、0.1.1.1.8ヒット5番代打阿部、0.1.1.1.1.2.2.2.、見逃し三振?
3塁?6番矢野、0.1.0.2.ボール球1.2.、空振り三振ボー4球ボール?7番太田?、0.1.1.1.
2.1.2.2.ゴロ。貧打

総評。
ポレダ、走られ、甘い球を打たれた?相川のリードが悪すぎる??。
1. 楽天対巨人戦【コボスタ宮城】
5対3で楽天勝利。
先発、
【楽天】辛島 航左腕、
【巨人】ポレダ左腕、

戦評
5月29日(金)楽天 vs. 巨人 1回戦

楽天は2回裏、中川のソロで先制する。その後リードを許して迎えた4回には、後藤と小関の適時打で4点を挙げて逆転に成功した。投げては、先発・辛島が8回3失点の好投。最後は守護神・松井裕が締めて逃げ切った。敗れた巨人は、先発・ポレダが4回につかまった。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ 楽天 ] 辛島(2勝0敗0S)

敗戦投手、[ 巨人 ] ポレダ(5勝2敗0S)

セーブ、[ 楽天 ] 松井裕(0勝0敗11S)

本塁打、[ 巨人 ] 相川 1号(5回表ソロ)
         [ 楽天 ] 中川 2号(2回裏ソロ)

巨人バッテリー
ポレダ 、香月 、戸根 - 相川。

楽天バッテリー
辛島 、松井裕 - 小関。
2.ソフトバンク対ヤクルト戦【ヤフオクドーム】
7対4でソフトバンク勝利。18:00
先発、
【ソフトバンク】摂津 正右腕、
【ヤクルト】小川泰弘右腕、

戦評
5月29日(金)ソフトバンク vs. ヤクルト 1回戦

空中戦を制したソフトバンクが3連勝。ソフトバンクは初回、内川の2ランと李大浩のソロで3点を先制する。その後は、2点リードで迎えた3回裏に柳田のソロ、6回には松田のソロが飛び出すなど、直実に加点した。敗れたヤクルトは、先発・小川が一発攻勢に沈んだ。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ ソフトバンク ] 攝津(4勝4敗0S)

敗戦投手、[ ヤクルト ] 小川(3勝3敗0S)

セーブ、[ ソフトバンク ] サファテ(2勝0敗11S)

本塁打、[ ヤクルト ] デニング 1号(2回表2ラン) 、
今浪 2号(6回表2ラン)
      [ ソフトバンク ] 内川 5号(1回裏2ラン) 、李大浩 12号(1回裏ソロ) 、柳田 11号(3回裏ソロ) 、松田 12号(6回裏ソロ)

ヤクルトバッテリー
小川 、久古 、徳山 - 中村。

 ソフトバンクバッテリー
攝津 、森 、五十嵐 、サファテ - 細川 。
3.日本ハム対中日戦。【札幌ドーム】18:00
4対2で中日勝利
先発、
【日本ハム】吉川光夫左腕、
【中日】大野雄大左腕、

戦評
5月29日(金)日本ハム vs. 中日 1回戦

中日は3回表、堂上のソロが飛び出し、先制に成功する。その後は同点で迎えた8回に、エルナンデスの犠飛とルナの適時三塁打で2点を勝ち越した。投げては、先発・大野が8回2失点の好投で今季6勝目。敗れた日本ハムは、打線がわずか2安打と振るわなかった
責任投手/本塁打

勝利投手、[ 中日 ] 大野(6勝2敗0S)

敗戦投手、[ 日本ハム ] 吉川(5勝2敗0S)

セーブ、[ 中日 ] 福谷(2勝2敗10S)

本塁打、[ 中日 ] 堂上 1号(3回表ソロ)
        [ 日本ハム ]

中日バッテリー
大野 、福谷 - 杉山。

 日本ハムバッテリー
吉川 、鍵谷 、白村 - 近藤。
4.西武対阪神戦。【西武ポリンス】18:00
1対0で阪神勝利。
先発、
【西武】牧田和久右腕、
【阪神】メセンジャー右腕、

戦評
5月29日(金)西武 vs. 阪神 1回戦

阪神が4連勝。阪神は3回表、1死二三塁からマートンの内野ゴロの間に三塁走者が生還し、1点を先制する。投げては、先発・メッセンジャーが7回無失点の力投。その後は3投手の継投で逃げ切った。敗れた西武は、先発・牧田が好投を見せるも、打線が援護できなかった。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ 阪神 ] メッセンジャー(3勝5敗0S)

敗戦投手、[ 西武 ] 牧田(4勝3敗0S)

セーブ、[ 阪神 ] 呉昇桓(1勝0敗14S)

本塁打、[ 阪神 ]
        [ 西武 ]

阪神バッテリー
メッセンジャー 、高宮 、福原 、呉昇桓 - 藤井。

 西武バッテリー
牧田 、武隈 - 炭谷 、岡田 。
5.ロッテ対ÐeℕA戦。【QVⅭマリン】18:15
4対3でロッテ勝利。
先発、
【ロッテ】古野拓哉さあ椀、
【ÐeℕA】山口  俊右腕、

戦評
5月29日(金)ロッテ vs. DeNA 1回戦

ロッテが3連勝。ロッテは1点を追う7回裏、角中の適時三塁打で同点とすると、さらに2死三塁から相手の暴投の間に勝ち越しに成功した。投げては、2番手・大谷が今季初勝利。守護神・西野が今季12セーブ目を挙げた。敗れたDeNAは、救援陣が踏ん張れなかった。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ ロッテ ] 大谷(1勝1敗0S)

敗戦投手、[ DeNA ] 大原(0勝1敗0S)

セーブ、[ ロッテ ] 西野(0勝2敗12S)

本塁打、[ DeNA ] 後藤 2号(4回表2ラン)
       [ ロッテ ]

DeNAバッテリー
山口 、大原 、長田 、林 - 高城。

 ロッテバッテリー
古谷 、大谷 、カルロス・ロサ 、西野 - 田村 、吉田。
6オリックス対広島戦。【京セラドーム】
6対3で広島勝利。18:00
先発
【オリックス】山崎福也左腕、
【広島】、黒田博樹右腕、

戦評
5月29日(金)オリックス vs. 広島 1回戦

広島は2回表、梵の2ランで先制に成功する。その後は同点で迎えた5回に丸の2ランで勝ち越すと、7回には菊池と丸の連続適時打で加点した。投げては、先発・黒田が7回途中2失点の好投で今季4勝目。敗れたオリックスは、先発・山崎福が4失点と試合をつくれなかった。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ 広島 ] 黒田(4勝2敗0S)

敗戦投手、[ オリックス ] 山崎福(0勝2敗0S)

セーブ

本塁打、[ 広島 ] 梵 3号(2回表2ラン) 、丸 6号(5回表2ラン)
    [ オリックス ] 糸井 5号(9回裏ソロ)

広島バッテリー
黒田 、戸田 、ザガースキー 、永川 、中崎 - 石原。

 オリックスバッテリー
山崎福 、塚原 、海田 、マエストリ - 伊藤。



ニュース、

1. 口永良部島で噴火 住民1人がケガ
日本テレビ系(NNN) 5月29日(金)14時17分配信

 29日午前10時前、鹿児島県の口永良部島で噴火があった。気象庁は5段階の噴火警戒レベルを最も高いレベル5に引き上げ、地元の屋久島町は住民の全島避難を指示した。

 気象庁によると29日午前9時59分ごろ、口永良部島の新岳で噴火が発生した。気象庁は5段階の噴火警戒レベルを居住地域でも避難が必要なレベル5に引き上げて厳重な警戒を呼びかけている。屋久島町は午前10時15分、島民全員に対し、口永良部島からの全島避難を指示した。住民を島の番屋ヶ峰という高台の建物に集めているという。

 番屋ヶ峰に避難している朝倉康文さん「仕事をしていたら音がしたので外に出たら噴煙が上がっていた。そのまま車ですぐに避難しました。一度噴火しているので、高台に逃げるということで町として把握していたので、みなさんすぐに避難した」

 気象庁は会見を行い、火砕流が火口から西の方向に流れ、一部が海岸線まで到達したのを確認したとしている。さらに、噴火の規模などからマグマが関与した噴火の可能性があるとして、今回と同じ規模の噴火が今後も起こるおそれがあるという。

 一方で、気象庁は去年8月の口永良部島の噴火を受けて、噴火警戒レベルを3に上げて職員を現地に常駐させるなど、監視態勢を強めていた。

 また、海上保安庁によると、噴火でケガをした住民1人を鹿児島県の防災ヘリで輸送中という。現在は噴火直後に比べて噴煙の量などは減っているが、依然として噴火が続いており、気象庁は火砕流の発生や大きな噴石の飛散に厳重な警戒を呼びかけている。.

2015年5月28日。巨人対西武戦。4対1で巨人勝利。

2015-05-28 23:14:38 | Weblog
      2015年5月28日
#為替、123.75円。124.15円。123.82円。ユーロ134.75円。135.38円。135.12円。
#ダウ、18162.99ドル。+73.84ドル。ナスダック5106.59。+73.84。
#前場、20609.28円。+136.70円。後場、20551.46円。+78.88円。

国民栄誉賞受賞者
千代の富士 貢(ちよのふじ みつぐ、1955年6月1日 - )は、北海道松前郡福島町出身の元大相撲力士。第58代横綱。本名は秋元 貢(あきもと みつぐ)。血液型はA型。

目次 [非表示]
1 人物 1.1 誕生~入門前
1.2 初土俵~十両昇進
1.3 新入幕~肩脱臼との戦い
1.4 再入幕~三役昇進
1.5 横綱昇進~ウルフフィーバー
1.6 限界説との戦い
1.7 度重なる不幸~国民栄誉賞受賞
1.8 1000勝到達~現役引退
誕生~入門前[編集]

1955年に北海道松前郡福島町で漁師を営む家に生まれた。子供の頃から漁業を手伝って自然に足腰が鍛えられ、中学生では運動神経が抜群だった。特に陸上競技では走り高跳び・三段跳びの地方大会で優勝し、なかには「オリンピック選手もいける」と言われるほどだったが、相撲は大嫌いだった。1年生のときに盲腸炎の手術を受けたが、秋元少年の腹の筋肉が厚いために手こずって予定を大幅に上回る長時間の手術になってしまい、終了直前に麻酔が切れてしまった。それでも必死に耐え続ける体格の良い秋元少年を見た病院長が見出し、千代の山の入門の世話をしたことがある若狭龍太郎に連絡した。その連絡を受けた九重(千代の山)から直々に勧誘されたが、自身はあまり気が乗らず、両親も入門に大反対したため一旦は断わっていた。

それでも諦めない九重は秋元少年に対して「とりあえず東京に行こう。入門するなら飛行機[1]に乗っけてあげるよ」「中学の間だけでも(相撲を)やってみて、後のことを考えたらどうだ?」などと持ちかけると、結局、その飛行機にどうしても乗りたいがために、家族の反対を押し切って九重部屋に入門を決めた。

初土俵~十両昇進[編集]

本名のまま1970年9月場所初土俵を踏み、翌11月場所序ノ口につき「大秋元」と改名、1971年1月場所「千代の冨士」(後「千代の富士」)と名付けられた。四股名の由来は、九重の四股名である「千代の山」と同じ部屋の先輩横綱・北の富士から取られた。上京して相撲を始めたものの陸上への未練も捨てがたく、転入した福井中学校では台東区立中学連合の陸上競技大会の砲丸投げで2位に入賞する活躍を見せた。相変わらず相撲に馴染めないまま日時だけが過ぎて行き、中学校を卒業後は帰郷する予定で、1971年3月場所の終了後は荷物を実家へ送り返してしまった。土俵での成績は概ね良好のため、逸材を手放すことを恐れた九重は秋元少年を故郷の後援会会員に世話を頼んで明治大学付属中野高校定時制へ進学させた。そこで学業と相撲の両立を図ったが失敗し、6ヶ月で中途退学して相撲に専念した。

小兵(幕内定着の頃まで体重は100kg以下)ながら気性の激しさを表す取り口で順調に出世して、1974年11月場所19歳5ヶ月で十両昇進、史上初の5文字四股名の関取となった。異名の「ウルフ」については、ちゃんこ番として魚を捌いているところを見た九重が「狼みたいだな」と言ったことから付けられた。当初は狼と呼ばれていたものがいつしか変化したそうで、これを聞いた春日野理事長は「動物の名前で呼ばれる力士は強くなる。ワシは『マムシ』だった。狼は若乃花の昔のあだ名だ」と言ったという。

新入幕~肩脱臼との戦い[編集]

1975年9月場所で昭和30年代生まれの力士としては第一号の新入幕を果たし幕内初白星を元大関大受から挙げるが、相撲の粗さが元で5勝10敗と負け越し。その後幕下まで陥落し、昭和30年代生まれの力士としての幕内勝ち越し第一号も当時「北の湖二世」と呼ばれ将来を嘱望された小沼に先を越された。人並み以上の奮起で帰り十両を果たすが、以前から課題だった先天的に両肩の関節の噛み合わせが浅いという骨の形状から来る肩(左肩)の脱臼が顕在化する。[2]取り口も力任せの強引な投げ技を得意としていたために左肩へますます負担がかかり、度重なる脱臼に悩まされた。このため、2年間を十両で過ごすことになるが、元NHKアナウンサーの向坂松彦はこの頃から「(千代の冨士は)ケガ(脱臼)さえなければ幕内上位にいる人だと思う。ウルフと言われる鋭い目はいつの日か土俵の天下を取るものと見ている」と将来性を見抜いていた。[3]

1977年10月29日に九重が死去したことで、部屋は北の富士が継承した。

1977年頃からは頭をつける体格に合った相撲が見られるようになり、その成果もあって脱臼も幾分か治まり、1978年1月場所には再入幕を果たした。同年5月場所13日目の対貴ノ花戦は、取組前の「両者とも足腰が良いからもつれるだろう」という実況・解説者の予想を覆して、頭を付けて懐に入ってから強烈な引き付けで貴ノ花の上体を起こし、貴ノ花が左からおっつけるところを一気に寄り切るという会心の相撲で勝利し、銀星と勝ち越しを同時に手にする大きな白星となった。この場所、9勝6敗の成績を挙げて初の敢闘賞を受賞。この活躍から同年7月場所では新小結の座につき、貴ノ花・旭國の2大関を破ったが、5勝10敗と負け越し。幕内に定着したと思われた1979年3月場所の播竜山戦で右肩を脱臼して途中休場し、入院して脱臼との戦いをまたも強いられることとなる。これは全治1年、手術すれば2年という重大な怪我であり、「もし2カ月で治したいなら筋力トレーニングを行い肩の周辺を筋肉で固めなさい。」と医師に勧められる。この肩を筋肉で固めるという対策に活路を見出し、こうして毎日500回の腕立て伏せ・ウェイトトレーニングに励んで脱臼を克服した。[4]

再入幕~三役昇進[編集]

同年5月場所は周囲の予想通り十両に陥落したものの、取組中のケガだったことから公傷制度を利用して肩の治療に専念するはずだった。しかし、手続きの不手際で公傷と認められないことが場所の直前になって発覚したため、このまま休場すれば幕下陥落の危機もあったことから3日目より強行出場、9勝を挙げて同年7月場所に幕内へ復帰した。以後は着実に力をつけ、幕内上位に定着することとなる。

千代の富士貢の銅像
肩の脱臼を受けて、それまでの強引な投げから前廻しを取ってからの一気の寄りという形を完成させ[5]、1980年3月場所から幕内上位に定着する。横綱・大関陣を次々と倒して人気者となり、特に大関昇進後の増位山に対しては6戦6勝負けなしと「増位山キラー」とされた。同年9月場所には小結で幕内初の二桁勝利となる10勝5敗の成績を挙げた(この場所以降引退まで、皆勤場所では全て二桁勝利)。同年11月場所に新関脇に昇進すると初日から8連勝し11勝4敗の成績を挙げ、大関を目前として1981年1月場所を迎えた。

1981年1月場所は前場所をはるかに上回る快進撃で、若乃花を真っ向勝負で寄り倒すなど初日から14連勝を記録。そして迎えた千秋楽(1月25日)、1敗で追いかけた北の湖との直接対決を迎えた。本割では吊り出しで敗れて全勝優勝こそ逃すものの、吊り出された時に北の湖の足を見て作戦を立てており、それが見事決まって優勝決定戦では北の湖を右からの上手出し投げで下し、14勝1敗で幕内初優勝を果たした。場所後に千代の富士の大関昇進が決定したが、千秋楽の大相撲中継視聴率は52.2%、千代の富士の優勝が決まった瞬間の最高視聴率は65.3%に達し、現在でも大相撲中継の最高記録となっている(ビデオリサーチ調べ)。

横綱昇進~ウルフフィーバー[編集]

新大関で迎えた3月場所は11勝4敗、5月場所は13勝2敗と連続して千秋楽まで優勝争いに残り、横綱昇進が懸かった7月場所には千秋楽で北の湖を破って14勝1敗の成績で2度目の優勝を果たして横綱を掴んだ。非常に劇的な瞬間に、千秋楽審判委員として土俵下に控えていた当時の九重親方(北の富士)は勝負が決まった瞬間手で涙を拭った。横綱土俵入りは九重と同じ雲龍型を選択した[6]。横綱推挙の際「2代目・千代の山」の襲名を打診されたが、これを「横綱2人分(千代の山+北の富士=『千代の富士』)のいまの四股名の方が強そうだから」と固辞した。千代の富士の大関・横綱昇進伝達式の際には、北の富士と、北の富士からの配慮で先代九重親方の未亡人が同席していた。

新横綱となった同年9月場所の2日目、ライバルと言われた隆の里との取組で場所前から痛めていた足を負傷し、新横綱が途中休場という憂き目を見る(新横綱の休場は昭和以降では武蔵山・吉葉山に次いで3人目)。新横綱誕生の期待が一転して失望に変わった。しかし、同年11月場所では12勝3敗の成績で朝汐との優勝決定戦を制して横綱としての初優勝を飾ることで復活を見せた。この場所も14日目に隆の里に敗れている。隆の里はその後も千代の富士の天敵と言えるような存在で、千代の富士を長く苦しめることになった。

1981年には、同一年中に関脇・大関・横綱の3つの地位で優勝するという史上初の記録を達成した。関脇から横綱へ一気に駆け上がるとともに新横綱での挫折、翌場所の復活優勝と、1981年は千代の富士にとって激動の1年であったと言える。こうした事情から、関脇・千代の富士(不詳)、大関・千代の富士(テレビマガジンにおける永谷園「味ぶし」の宣伝に登場)と記された各種記録は少ない。

この時期の千代の富士は、細身で筋肉質な体型と精悍な顔立ち、そして豪快でスピーディな取り口から若い女性や子供まで知名度が高まり、一種のアイドル的な人気を得ていた。一気に大関・横綱への昇進を決めた1981年は「ウルフフィーバー」の年として記憶されている。千代の富士の取組にかかる懸賞の数は他の力士に比べて圧倒的に多く、懸賞旗が土俵を数周してもまだ余る状態だった(大抵の場合三周以上していた)。

限界説との戦い[編集]

1982年には3連覇を達成し、自身初の年間最多勝も受賞する。横綱昇進後の最初の3年間は強い時は強いが頼りない部分も見受けられ、1982年7月場所後の『読売大相撲』に「ウルフV3はしたけれど……ひどい、低調しらけ場所」という総評が出されるなど周囲の崩れに助けられたという意見もあった。特に1984年は年明けから振るわず、3月場所は右股関節捻挫で中日から途中休場。同年5月場所は2年ぶりの優勝を目指す北の湖敏満から一方的な寄りを受けて11勝4敗に終わった。同年7月場所は左肩の脱臼で全休したほか、同年9月場所は入幕2場所目の小錦の突き押しにあっけなく敗れ、横綱としての責任を問われることになった。

同年11月場所は久々に優勝したが、翌年は30歳を迎えるという年齢的な面から一時は限界説も流れた。[7]

度重なる不幸~国民栄誉賞受賞[編集]

しかし、千代の富士にとって本当の黄金時代は30代に入ってからで、両国国技館のこけら落としとなった1985年1月場所は全勝優勝を果たして幸先良いスタートを切る。5月場所から廻しの色が青から「黒」に変わり、この年には史上3人目となる年間80勝を達成、3年ぶり2度目の年間最多勝にも輝いた。1986年1月場所に天敵・隆の里が引退し、同年3月場所から7月場所までの番付は千代の富士のみ一人横綱となる(7月場所後に北尾が横綱昇進し一人横綱は3場所で解消)も、1986年5月場所から1987年1月場所までは5連覇を達成した(1986年も2年連続3度目の年間最多勝となるが、これが自身最後の同受賞)。

1987年前半はわずかに崩れたことで千代の富士時代は終わりに近づいたとの声が高まり、「次の時代を担う力士は誰か」というアンケートまで実施された。しかしその声を打ち消すかのように、1988年5月場所7日目から11月場所14日目まで53連勝を記録するなど、他を寄せ付けない強さで1980年代後半から平成初期にかけての「千代の富士時代」を築き上げた。53連勝で止まった1988年11月場所千秋楽(対大乃国戦)が奇しくも昭和最後の取組となる。53連勝は昭和以降の記録としては2014年1月場所現在、双葉山(69連勝)、白鵬(63連勝)に次いで歴代3位。

1989年1月場所も優勝候補筆頭だったが、前場所に連勝記録が途切れて緊張感がなくなったか雑な相撲が目立ち、8日目に寺尾に敗れて以降は優勝争いから後退、11勝4敗に終わる。4年4ヶ月ぶりに西正横綱として登場した同年3月場所は初日から他を寄せ付けない強さで、14日目に大乃国を破って優勝を決めたが、この一番で左肩を再び脱臼したことで千秋楽が不戦敗となり、表彰式では左肩にテーピングを巻いて登場、右手のみで賜杯を手にした。[8]

1989年6月には、同年2月に誕生したばかりの三女をSIDS(乳幼児突然死症候群)で生後僅か4か月足らずで亡くす不幸に見舞われてしまう。千代の富士の家族や自身も精神的なショックが大きく、師匠の九重でさえも「もう相撲は取れないのではないか」と思われる程だったという。しかしその直後の7月場所は首に数珠を掛けて場所入りし、12勝3敗の成績ながらも千秋楽の優勝決定戦では、奇しくも同部屋の弟弟子だった横綱北勝海を下して、奇跡の優勝を果たした。同年9月場所には通算勝ち星の新記録を達成し、同年9月28日に大相撲で初となる「国民栄誉賞」の受賞が決定した。この日は先代九重(千代の山)の13回忌が行われた日でもあり、千代の富士は「苦労をかけた師匠に良い報告ができます」と言った。協会は一代年寄「千代の富士」を満場一致で承認するが、本人は九重とも相談のうえで辞退している。[9]

1000勝到達~現役引退[編集]

1990年1月場所には優勝回数を30と大台に乗せた。同年3月場所の7日目には花ノ国戦に勝利して前人未踏だった通算1000勝の大記録を達成した[10]。しかし、同年5月場所と7月場所は旭富士に優勝を奪われ、旭富士の横綱昇進の引き立て役になった。さらに夏巡業で左足を痛めて同年9月場所を全休、35歳という年齢から引退を囁かれたが、同年11月場所に復帰して4横綱が存在する中で14日目に31回目の優勝を決め、同時に幕内通算804勝目を上げて北の湖と並んで史上1位タイとして貫禄を見せ付けた。

1991年1月場所初日に幕内通算805勝目を挙げ、当時の大相撲史上単独1位(現在は史上2位)の記録を達成したが、翌日の逆鉾戦で左腕を痛めて途中休場。翌場所も全休した。復帰場所となった1991年5月場所は初日に、当時新鋭だった貴花田(のち貴乃花)と対戦するが、まわしが取れず頭をつけられて寄り切りで敗れた。この時は再燃した引退説を否定するものの、翌日の板井戦は勝利したものの納得いく相撲とは程遠く、「もう1敗したら引退する」との決意を固めて、3日目の貴闘力戦に挑んだがとったりで完敗。この貴闘力戦の取組を最後に、「気力・体力の限界」として当日の夜九重部屋にて緊急記者会見で現役引退を表明[11]、「小さな大横綱」として歴史に名を刻んだ。引退と同時に、陣幕親方(元前頭1・嶋錦)と自身が所有していた年寄・八角を名跡交換したため、年寄・陣幕を襲名し九重部屋の部屋付きの親方となった。

千代の富士の引退相撲・断髪式は1992年1月場所後に行われた。
1.巨人対西武戦【東京ドーム】18:00
4対1で巨人勝利。
先発、
【巨人】マイコラス右腕、9回澤村拓一右腕、
【西武】西口文也右腕、5回田中靖洋右腕、7回大石達也右腕、
8回宮田和希左腕、
【西武】
1番 中 秋山 翔吾2番 左 栗山 巧3番 二 浅村 栄斗
4番 三 中村 剛也5番 右 森 友哉6番 一 セラテリ
7番 捕 炭谷 銀仁朗8番 投 西口 文也代打大崎雄太朗投田中靖洋、大石達也
代打脇谷亮太投宮田和希9番 遊 金子 侑司
【巨人】
1番 中 長野 久義 代走鈴木尚広2番 三 立岡 宗一郎3番 右 亀井 善行
4番 遊 坂本 勇人5番 一 アンダーソン6番 捕 阿部 慎之助
7番 左 高橋 由伸太田泰示8番二 片岡 治大9番 投 マイコラス、澤村拓一
連敗は許されない!勝てないマイコラス先発¡。打線が援護できるか?。
1回表、1番、2.0.2.1.2.2.空振り三振ストレート145キロ2番、0.2.1.2.2.2.4ゴロフォーク高い・3番、0.1.1.1.2.1.2.2.、3.2.、四球4番、0.1.0.2.1.2.2.2.盗塁2塁3.2.空振り三振カーブ。24球。
1回裏、1番、2.0.2.2.3.2.6ゴロ2番、0.1.3ゴロ3番、2.0.2.1.3.1.8フライ。13球。
2回表、5番、0.1.4ゴロ真ん中?6番、0.1.4ゴロフォークボール7番、0.1.0.2.、空振り三振真ん中高めのストレート141キロ。32球。
2回裏、4番、2.0.2.1.3.1.3.2.、、空振り三振ボール?5番、0.2.、1.2.、2.2.、右ホームラン真ん中低めのスライダー好打3号1点6番、1.0.1.1.4フライ7番高橋、2.0.左二塁打8番片岡、0.2.1.2.、2.2.ワイルドピッチ3塁5ゴロ。       0対1。
3回表、重要8番、0.2.1.2.空振り三振9番、1.0.1.1.2.1.2.2.見逃し三振カーブ1番、1.0.5ゴロ。ナイス!!43球。追加点!!。
3回裏、9番、0.1.1.1.1.2.、空振り三振1番、0.2.1.2.、2.2.3.2.、6ゴロ2番、0.1.0.2.、空振り三振。村田を外して立岡?。理解出来ない?・。
4回表、要注意2番、1.0.1.1.2.1.2.2.空振り三振3番、0.1.0.2.1.2.2.2.8ヒットスライダー好打4番、0.1.1.1.1.2.空振り三振カーブ5番森、9ヒット高い・1.3塁6番、
0.1.0.2.1.2.2.2.3.2.、四球❓満塁7番、1.0.6フライ真ん中高めのストレート140キロ。助かった。
4回裏、3番亀井、2.0.フライ低い?4番、1.0.6フライ低い?5番、1.0.1.1.2.1.8ヒットカーブ6番阿部、9ヒット1.3塁7番高橋、1.0.1.1.2.1.9ヒット1点貴重8番片岡、
 0.1.左二塁打2点大きい9番、0.1.0.2.空振り三振。      0対4。
二死からの3点追加!。
5回表、重要8番代打大崎、0.2.1.2.1ゴロ9番、0.1.バントヒット1番、0.1.1.1.2.1.2.2.盗塁失敗3ゴロ。ナイス!!78球。後2点追加点!!。
5回裏、【田中】1番、9ヒット2番、0.1.1.1.1.2.6ゴロ内野安打ここはバント!3番亀井、0.1.5ライナー愚策??4番、0.1.1.1.9フライ5番、0.1.1.1.2.1.5ゴロ。
無死1.2.塁で無策?ボケ監督‽・。1点を取りに行くべき!。6回表は要注意です。
6回表、最重要2番、1.0.1.1.1.2.2.2.3ゴロ3番、1.0.2.0.2.1.2.2.見逃し三振カーブ
4番、0.1.0.2.1.2.空振り三振。ストレート148キロ。92球。7回まで?。
6回裏、6番、1.0.2.0.2.1.3ゴロ7番太田?、6ゴロ内野安打8番片岡、1.0.1.1.2.1.3.1.3.2.盗塁失敗??、四球9番、9フライ。
7回表、注目5番、0.1.1.1.5フライ内角高めのストレート150キロ6番、1.0.バント
5ゴロヒット7番、0.1.1.1.1.2.6ゴロダブルプレー。ナイス!101球。
7回裏、【大石】1番、0.1.0.2.8ヒット代走鈴木ここもバントです2番、1.0.1.1.2.1.盗塁成功無死2塁バント2フライ3番亀井、1.0.1.1.8ヒット1.3塁4番坂本、0.1.1.1.1.2.
 見逃し三振外角高めのストレート141キロ??5番、0.1.1.1.2.1.アウト??
5.7回得点できず??
8回表、鬼門・8番打脇谷、1.0.1.1.2.1.8フライ9番、0.1.0.2.1.2.空振り三振カーブ、ボール1番、1.0.8ヒット真ん中2番、0.1.甘い?1.1.1.2.2.2.3.2.、、、高い?、、
 、7フライ真ん中高めのスライダー。よくしのいだ!ここまでです!。
8回裏、【宮田】5番、1.0.1.1.1.2.2.2.見逃し三振6番、0.2.1.2.見逃し三振7番、0.2.1.2.見逃し三振。情けない?。
9回表、【澤村】3番、1.0.1.1.1.2.、2.2.空振り三振4番、右ホームラン12号1点5番、
0.1.1.1.2.1.2.2.3.2.、空振り三振6番、1.0.1.1.2.1.2.2.空振り三振。   1対4。
  
総評。
マイコラス8回被安打5¡123球無失点。2回アンダーソン先制ソロ4回3番4番二死から5番アンダーソン8ヒット6番阿部9ヒット7番高橋、9ヒットで1点南朋も8番片岡左二塁打で2点追加が非常に大きかった。5回7回のシャンスで無得点が不満です。
1. 巨人対阪神戦【郡山】
4対1で巨人勝利。
先発、
【巨人】マイコラス右腕、
【西武】西口文也右腕、

戦評
5月28日(木)巨人 vs. 西武 3回戦

巨人は2回裏、アンダーソンのソロが飛び出し先制する。4回には、高橋由の適時打、片岡の適時二塁打で3点を追加し、リードを広げた。投げては、先発・マイコラスが8回無失点の快投で来日初勝利。敗れた西武は、先発・西口が試合をつくれず、打線も振るわなかった。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ 巨人 ] マイコラス(1勝2敗0S)

敗戦投手、[ 西武 ] 西口(0勝1敗0S)

セーブ

本塁打、[ 西武 ] 中村 12号(9回表ソロ)
        [ 巨人 ] アンダーソン 3号(2回裏ソロ)

西武バッテリー
西口 、田中 、大石 、宮田 - 炭谷。

 巨人バッテリー
マイコラス 、澤村 - 阿部。
2.ヤクルト対日本ハム戦。【神宮】18:00
7対4でヤクルト勝利。
先発、
【ヤクルト】成瀬善久左腕、
【日本ハム】上沢直之右腕、

戦評
5月28日(木)ヤクルト vs. 日本ハム 3回戦

ヤクルトは初回、川端の適時二塁打などで幸先良く3点を先制する。その後も6回裏に川端の適時打が飛び出すなど、着実に得点を重ねた。投げては、先発・成瀬が今季2勝目。最後は守護神・バーネットが締めた。敗れた日本ハムは、終盤に追い上げるもあと一歩及ばなかった。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ ヤクルト ] 成瀬(2勝5敗0S)

敗戦投手、[ 日本ハム ] 上沢(3勝5敗0S)

セーブ、[ ヤクルト ] バーネット(1勝0敗12S)

本塁打、[ 日本ハム ]
      [ ヤクルト ]

日本ハムバッテリー
上沢 、屋宜 、ガラテ - 近藤。

 ヤクルトバッテリー
成瀬 、松岡 、バーネット - 中村。
3.中日対ソフトバンク戦。【ナゴヤドーム】
7対2でソフトバンク勝利18:00
先発、
【中日】山井大介右腕、
【広島】武田翔太右腕、

戦評
5月28日(木)中日 vs. ソフトバンク 3回戦

ソフトバンクは1点を追う7回表、柳田のソロなどで3点を挙げ、逆転に成功する。続く8回には、2打席連続となる柳田のソロ、高田の3点適時二塁打が飛び出し、試合を決めた。投げては、先発・武田が6回1失点で今季4勝目。敗れた中日は、先発・山井が7回に崩れた。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ ソフトバンク ] 武田(4勝2敗0S)

敗戦投手、[ 中日 ] 山井(2勝4敗0S)

セーブ

本塁打、[ ソフトバンク ] 柳田 9号(7回表ソロ) 、柳田 10号(8回表ソロ)
       [ 中日 ] 高橋周 3号(3回裏ソロ)

ソフトバンクバッテリー
武田 、五十嵐 、バリオス 、サファテ - 高谷。

中日バッテリー
山井 、高橋聡 、西川 - 谷繁 、松井雅 、杉山。
4.ÐeℕA対オリックス戦。【横浜】18:00
4対3でオリックス勝利。
先発、
【ÐeℕA】三嶋一輝右腕、
【オリックス】ディクソン右腕、

戦評
5月28日(木)DeNA vs. オリックス 3回戦

オリックスは2回表、西野と安達の連続適時打で2点を先制する。その後は、4回に糸井の適時打、8回には安達の適時二塁打でリードを広げた。先発・ディクソンが7回無失点の好投で今季6勝目。敗れたDeNAは最終回に1点差まで詰め寄るも、あと一歩及ばなかった。

責任投手/本塁打
勝利投手、[ オリックス ] ディクソン(6勝3敗0S)

敗戦投手、[ DeNA ] 三嶋(4勝2敗0S)

セーブ

本塁打、[ オリックス ]
       [ DeNA ]

オリックスバッテリー
ディクソン 、佐藤達 、平野佳 - 山崎勝。

 DeNAバッテリー
三嶋 、国吉 、林 、東野 - 高城、
5.阪神対楽天戦。【甲子園】18:00
延長11回4対3で阪神サヨナラ勝利。
先発、
【阪神】サンティアゴ右腕、
【楽天】菊池保則右腕、

戦評
5月28日(木)阪神 vs. 楽天 3回戦

阪神がサヨナラ勝ち。阪神は1点を追う8回裏、伊藤隼が適時打を放ち同点とする。そのまま迎えた延長11回、2死満塁の好機から福留が押し出しの四球を選び、試合を決めた。投げては、5番手・福原が今季3勝目。敗れた楽天は、前半のリードを投手陣が守りきれなかった。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ 阪神 ] 福原(3勝1敗1S)

敗戦投手、[ 楽天 ] 戸村(2勝5敗0S)

セーブ

本塁打、[ 楽天 ] 枡田 2号(5回表ソロ)
      [ 阪神 ]
 楽天バッテリー
菊池 、武藤 、福山 、松井裕 、戸村 - 嶋。

 阪神バッテリー
サンティアゴ 、松田 、高宮 、呉昇桓 、福原 - 鶴岡 、小宮山 。
6広島対ロッテ戦。【マツダスタジアム】
12対10でロッテ勝利。18:00
先発
【広島】野村祐輔右腕、
【ロッテ】、唐川侑巳右腕、

戦評
5月28日(木)広島 vs. ロッテ 3回戦

ロッテが乱打戦を制した。ロッテは3-3で迎えた6回表、代打・福浦、清田、鈴木、角中、今江の5者連続適時打など打者一巡の猛攻で7点を加点し勝ち越しに成功した。投げては、先発・唐川が今季2勝目。敗れた広島は、8回に7点を挙げ2点差まで迫るも及ばなかった。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ ロッテ ] 唐川(2勝0敗0S)

敗戦投手、[ 広島 ] 野村(3勝3敗0S)

セーブ、[ ロッテ ] 西野(0勝2敗11S)

本塁打、[ ロッテ ] 根元 1号(2回表ソロ) 、クルーズ 12号(6回表ソロ)
        [ 広島 ] 會澤 3号(8回裏3ラン) 、菊池 4号(8回裏3ラン)
 
ロッテバッテリー
唐川 、益田 、金森 、松永 、西野 - 田村 、吉田。

 広島バッテリー
野村 、今井 、今村 、戸田 - 石原 、會澤。

スポーツ、

1. DeNA逆転勝ちで両リーグ最速30勝
デイリースポーツ 5月27日(水)21時12分配信

DeNA逆転勝ちで両リーグ最速30勝

7回、石川の勝ち越し打で生還した二走・白崎(手前)を満面の笑みで迎える中畑監督(撮影・吉澤敬太)

 「交流戦、DeNA4-2オリックス」(27日、横浜)

 DeNAが逆転勝ち。両リーグ最速で30勝に到達した。

 初回に2点を先制されたが、その裏にロペスの適時打で1点。1点を追う七回にはバルディリスの同点ソロ、石川の左前適時打で逆転した。

 先発の三浦は先制こそ許したが、7回を6安打2失点で負けなしの3勝目を挙げた。

 オリックスは先発・東明が5回1/3を1失点と好投したが、3番手・塚原が誤算だった。

 決勝打の石川は「三浦さんが一生懸命に投げていたので頑張ろうと思った」と振り返った。三浦は「初回はどうなることかと思ったが、我慢して抑えることができた」と笑顔で話していた。
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2. 阪神 延長11回サヨナラ!藤浪援護できずも福留が劇弾!
スポニチアネックス 5月27日(水)21時36分配信

阪神 延長11回サヨナラ!藤浪援護できずも福留が劇弾!

<神・楽>2回1死、西田を見逃し三振に抑える藤浪

 ◇交流戦 阪神2―0楽天(2015年5月27日 甲子園)

 阪神が延長11回に福留の決勝2ランでサヨナラ勝ちした。

【写真】延長11回、サヨナラ本塁打の福留を祝福する阪神ナイン

 0―0の11回、2死走者なしからゴメスが右前打で出塁。続く福留の中越えサヨナラ2ランで勝利をもぎ取った。

 投げてはここ2試合連続完投勝利と好調の藤浪が、この日も初回から150キロ台を連発する圧巻の投球。131球を投げ、13三振を奪う力投で10回を4安打無失点。勝敗はつかなかったものの、14日のヤクルト戦(神宮)からの連続無失点も26イニングに伸びた。
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3. 錦織、不戦勝で4回戦進出、3回戦の相手ベッカーが負傷で棄権「早く回復してほしい」
デイリースポーツ 5月28日(木)20時21分配信

 男子テニスの錦織圭(25)=日清食品=が28日、自身のツイッターを更新し、全仏オープンテニスの3回戦で対戦する予定だった相手、ベンヤミン・ベッカー(33)=ドイツ=が右肩の負傷で棄権したことについて「早く回復してほしい」などとつぶやいた。

 錦織は英語で「Very sorry to hear about Benjamin being injured. I hope he recovers fast.」と記した。

 錦織は今回の全仏オープンで1、2回戦ともストレート勝ち。試合中には苦戦する様子を見せながらも、世界ランキング5位の実力で勝利をもぎとった。

 世界ランキング48位のベッカーの棄権で錦織は不戦勝となり、2年ぶりの4回戦進出を決めた。
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ニュース、

1. 安倍首相「専守防衛は不変」=巻き込まれ型を否定―衆院特別委
時事通信 5月27日(水)15時48分配信

 安倍晋三首相は27日午後の衆院平和安全法制特別委員会で、集団的自衛権の行使を容認する安全保障関連法案について、先制攻撃を排除した「専守防衛」の原則を変更するものではないとの見解を示した。民主党の長妻昭代表代行が「専守防衛の定義が変わったのではないか」とただしたのに対し、「専守防衛の考え方は全く変わりない」と否定した。
 専守防衛は「相手から武力攻撃を受けて初めて防衛力を行使し、その行使の態様も自衛の必要最小限にとどめる」とするもので、日本の安保政策の基本姿勢。安保関連法案では、日本が直接攻撃されていない場合でも「わが国と密接な関係にある他国」が攻撃を受ければ自衛隊が出動し、集団的自衛権を行使できる。首相は答弁で「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険。これを防衛するのが専守防衛だ」と強調した。
 維新の党の松野頼久代表は、政府・与党が安保法案成立を急ぐのは、明白な危機が現実に迫っているためかと質問。首相は中国を念頭に「アジア太平洋地域で軍事力を増強している国がある。軍事バランスを保って、相手に隙を見せないために、やっていかないといけない」と説明した。北朝鮮の核・ミサイル開発にも触れ、「安全保障は何か起こってからでは遅い」と理解を求めた。
 維新の党の柿沢未途幹事長は、首相が集団的自衛権に関し「米国の戦争に巻き込まれることは絶対にない」と断言していることを取り上げ説明を求めた。首相は「巻き込まれるとは、わが国の存立に関わりないが米国に言われるままに戦争をすることだ。(武力行使の)新3要件が守られている限り、『巻き込まれ型』はない」と明言した。
 海外で外国軍を後方支援する自衛隊が攻撃を受ける可能性については、「絶対ないわけではない。そのときは一時休止、退避の判断は当然行われなければならない」と述べた。共産党の志位和夫委員長への答弁。 
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2. 〔NY外為〕円、一時124円台=7年11カ月ぶり(27日午後3時)
時事通信 5月28日(木)4時30分配信

 【ニューヨーク時事】27日午後のニューヨーク外国為替市場の円相場は、年内米利上げ観測の強まりを背景とした円売り・ドル買いが続き、一時は2007年6月22日以来7年11カ月ぶりに1ドル=124円台に乗せた。その後はやや円が買い戻されており、午後3時05分現在は123円85~95銭と前日午後5時(123円05~15銭)比80銭の円安・ドル高。
 ユーロは同時刻現在、1ユーロ=1.0880~0890ドル(前日午後5時は1.0867~0877ドル)。対円では同134円85~95銭(同133円80~90銭)。(了)
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3. 今井雅之さん 主のいないブログにコメント殺到「天国に行くには早すぎますよ」
デイリースポーツ 5月28日(木)14時22分配信

今井雅之さん 主のいないブログにコメント殺到「天国に行くには早すぎますよ」

亡くなった今井雅之さん

 大腸がんのため28日に54歳で逝去した俳優の今井雅之さんを悼み、公式ブログにその死を惜しむコメントが殺到した。

【写真】わずか2カ月で…別人のように痩せてしまった今井雅之の比較写真

 今井さんのブログが最後に更新されたのは4月28日、舞台「THE WINDS OF GOD」の加古川・福岡公演中止決定を報告するもので、スタッフの手によるものか事務的な記述だった。

 しかしそのブログは、今井さんとファンを結ぶ最短距離にあるものだった。

 最初のコメントは関係者か、あるいは何らかの事情でその死を知った人によるものか報道より1時間以上早く午前10時5分「なぜ神は、才能ある若者を召されるのか…合掌…」という内容で投稿された。

 そして逝去のニュースが流れた午前11時半過ぎからは「天国に行くには早すぎますよ」「訃報を知った瞬間、涙が溢れてきました」などと秒単位で投稿があり、約3時間で600件を超えた。

 中には「神戸三宮で会った時から、ずっと大好きでした。気さくに握手に応じてはった姿、今も覚えてます」「同郷で幼い時に今井さんの講演・舞台を観させて頂き、それ以来応援していました」「兄貴、まだまだ話したいこと、ようけあったけど、めっちゃ悔しいですわ」と今井さんとのつながりの深さを思わせるものもあった。
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今井雅之 、 THE WINDS OF GOD 、 ブログ を調べる。

2015年5月27日巨人対西武戦。5対4で西武勝利。

2015-05-27 23:38:29 | Weblog
      2015年5月27日
#、為替、123.01円。123.08円。122.90円。ユーロ、133.86円。133.90円。124.04円。
#ダウ、184154ドル。-56.61ドル。ナスダック5032.75。-56.61。
#前場、20425.15円。-12.33円。後場、20472.58円。35.10円。
国民栄誉賞受賞者
高橋尚子5/27済
高橋 尚子(たかはし なおこ、1972年5月6日 - )は、日本の元陸上競技選手(女子マラソン)。岐阜県岐阜市出身。血液型O型。シドニーオリンピック金メダリスト[1]。女子マラソンの元世界記録保持者[2]。女子スポーツ界で初の国民栄誉賞を受賞。愛称は「Qちゃん」。現在はスポーツキャスター、マラソン解説者などで活躍している。
目次 [非表示]
1 来歴 1.1 学生時代まで
1.2 リクルート時代
1.3 積水化学時代
1.4 五輪優勝・世界記録達成
1.5 スカイネットアジア航空(佐倉アスリート倶楽部)時代
1.6 ファイテン(チームQ)~現役引退 

来歴
学生時代まで

岐阜県出身。1972年(昭和47年)5月6日、父親、母親ともに教育者の家庭に、二人兄妹の妹として生まれる。2歳まで、母の実家のある高山市で過ごした後、岐阜市に移る。中学から陸上競技を始め、岐阜市立藍川東中学校・岐阜県立岐阜商業高等学校・大阪学院大学商学部を卒業。

県立岐阜商業高校時代は800mの選手で県大会で岐阜県1位であったが、全国インターハイでは予選で敗退となった。高校2年生の時に初めて岐阜県代表に選ばれて全国都道府県対抗女子駅伝に出場した。その時の区間順位は47人中45位であった。

大阪学院大学時代は日本学生種目別選手権の1500mで優勝して全国で初タイトル獲得。関西インカレでは中距離2種目で優勝して女子最優秀選手に選出された年もあるなど、800m、1500m、3000mの3種目で何度も優勝しているが、学生日本一を決める大会の日本インカレでは、1993年、1500mで2位、3000mで3位。1994年も1500mで2位、3000mで3位と両種目とも2年連続で同じ順位となり表彰台には上がったが、学生チャンピオンになることはできなかった。しかし、この4年間で高校時代の全国インターハイに出場できるレベルの選手から、学生トップクラスの選手になるまでに成長していた。また、高橋は大阪学院大学陸上競技部で初めて日本インカレの表彰台に上がった選手である。全日本大学女子駅伝、全国都道府県対抗女子駅伝などでも活躍した。

在学中、教師になるために母校、県立岐阜商業高校で教育実習を受けていたが、陸上をもっと続けてみたいという気持ちも強くあった。実業団数社からの勧誘もあり、大学卒業後の自分の進路について、悩むことになる。陸上を続けるなら、勧誘されていた企業ではなかったが、小出義雄監督率いるリクルートの門を何故叩かないのかと高校時代の恩師、県立岐阜商業監督、中澤正仁から助言を受ける。大阪学院大学の監督の計らいで富山インターハイの折に、金沢市内に泊まっていた小出監督と面接ができることになった。社の方針で大卒は採用していないと一度は断られたが、高橋の熱意が届き、夏のリクルート北海道合宿に参加できることになった。その合宿で高橋の走りを見た小出は一目で素質を見抜き、正社員ではなく契約社員という条件ではあるものの、リクルートに入社できることになった。

リクルート時代

1995年リクルートに入社。有森裕子、鈴木博美、志水見千子、五十嵐美紀など日本代表クラスの選手をずらりと揃えていたリクルートチームで駅伝メンバー入りすることが最初の目標であったが、入社1年目から駅伝メンバー入りすることができた。

1997年1月26日の大阪国際女子マラソンを初マラソンの舞台とする。この時、小出は各種メディアに「有森二世」とイチオシの選手として紹介していた。しかし中間点を過ぎた後、先頭争いから脱落してペースダウンとなり、初マラソンは2時間31分32秒の記録で7位に終わる。

1997年4月、小出がリクルートを離れ積水化学へと移籍する。これにともないチームメンバーとともに積水化学へと移籍することになった。

積水化学時代

1997年8月の世界陸上選手権アテネ大会の女子5000mの代表に選出され出場。予選レースを通過するも、決勝レースの順位は13位だった。また、この世界陸上選手権アテネ大会で、高橋が練習パートナーを務めていた先輩の鈴木博美が女子マラソンで優勝した。 これを沿道で応援していた高橋は鈴木の優勝を喜び感激し、この大会をきっかけとして本格的にマラソンランナーへの道を歩んでいくことになる。

翌年の1998年3月8日の名古屋国際女子マラソンでは、30km地点まではスローペースの先頭集団に目立たない位置でついていた。その後30kmを過ぎてから、小出の「ここからいけ!」の合図に猛烈なスパートを開始。30〜40kmを32分27秒、残り2.195kmを7分10秒で走り、ゴールタイムは2時間25分48秒の日本最高記録(当時)をマークしてマラソン初優勝を果たした。

同年5月のIAAFグランプリ大阪大会の女子5000mで優勝。IAAF国際グランプリシリーズでの優勝は日本女子選手では初めてのことであった。

同年12月6日のバンコクアジア大会女子マラソンは、最高気温30度を超す高温多湿のレースとなったが、スタート直後から独り飛び出した高橋は、5kmラップを16分台のスプリットで刻むハイペースで突っ走り、中間点を1時間9分15秒[3] で通過、30kmまでは世界記録を更新するペースで進んでいた。30km以降は17分台のスプリットに落ちたものの、独走状態で2位とは13分以上の差をつけ、ゴール時気温32度、湿度90%の最悪な条件のなか、2時間21分47秒のアジア最高記録(当時)で優勝。自身の持つ日本最高記録を4分以上も更新して世界最高記録(当時)まで1分というところまで縮めた。また、女子マラソンがアジア大会で初めの開催種目だったので、その後の日本選手の士気を高めて金メダルを量産する原動力となった(当大会で男子100mの日本記録を更新した伊東浩司はそのように取材で述べていた)。そして、高橋は一躍シドニーオリンピック女子マラソンの金メダル最有力候補として、世界から注目を集めることとなる。

1999年8月29日のセビリア世界陸上の女子マラソン代表に選ばれていたが、レース直前に左膝を痛めたため欠場。その後も10月に左腕を骨折したり、翌2月には食あたりによる腹痛を起こして入院するなどアクシデントが続いた。

2000年3月12日、五輪最終選考会となった名古屋国際女子マラソンに出場。体調は万全といえる状態では無かったが、前半1時間12分40秒とやや遅いペースで中間点を通過すると、まもなくして22.5km過ぎで先頭集団から自ら抜け出して一気にペースアップ、後半1時間9分39秒[4] で駆け抜け、2時間22分19秒の大会新記録で優勝。これにより、シドニー五輪代表の切符を獲得となった。

同年7月2日、シドニー五輪女子マラソンへ向けて調整の一環として札幌国際ハーフマラソンに出場、女子の部において1時間9分10秒で優勝した(同ハーフマラソンでは、のちに2004年8月のアテネオリンピック女子マラソン金メダリスト・2005年9月のベルリンマラソンで日本女子新記録達成の野口みずきも出走、1時間10分36秒の3位に入っている)。

五輪優勝・世界記録達成

同年9月24日のシドニー五輪女子マラソンでは、18km付近で先頭集団を抜け出しスパート、一気に集団がばらける。その後26km辺りからリディア・シモン(ルーマニア)と激しくデッドヒートを演じるが、34km過ぎでかけていたサングラスを沿道の父親に投げ飛ばしたと同時に、スパートをかけてシモンを突き放した。スタジアムのトラックでシモンに追い上げを受けるも、そのまま逃げ切り日本陸上界悲願の優勝ゴールテープをきった。高橋の18kmから常にレースを引っ張る走りは、ゴール後の笑顔とともに、世界のマラソンファンに強い印象を与えた。五輪での金メダル獲得は、日本陸上界64年ぶり(戦後初)であるとともに、日本女子陸上界においては史上初であった。またゴールタイムの2時間23分14秒は、ジョーン・ベノイトがロサンゼルス五輪でマークしたタイムを16年ぶりに更新する五輪最高記録(当時)である。これらの功績により同年10月30日に国民栄誉賞を授与された。

2001年9月30日のベルリンマラソンでは、女子初の2時間20分突破となる2時間19分46秒の世界新記録(当時)で優勝。前世界記録保持者はテグラ・ロルーペ(ケニア)の2時間20分43秒で、1分近くの更新であった。高橋の世界記録樹立での優勝は、女子初のサブ20達成での歴史的事象であるとともに、日本女子マラソンが初めて世界記録を更新した瞬間でもあった。高橋は女子マラソン世界記録を更新した、ただ一人の日本人選手である。また、女子マラソン世界記録保持者が五輪金メダルを獲得した選手としてはアメリカのジョーン・ベノイトのみいるが、五輪金メダリストとして女子マラソンの世界記録を更新した選手は高橋のみである。

翌2002年9月29日のベルリンマラソンにも出場。このレースは通常より1ヵ月間短いマラソン練習で臨み、レース途中に足の肉刺を潰すアクシデントもあったが、2時間21分49秒の記録で2年連続優勝を果たし、フルマラソン6連覇を達成した。この試みはベルリン出走からわずか1か月半後の2002年11月17日の東京国際女子マラソンへの出場も睨んでいたためであった。しかし、東京のレース数日前に胸の激痛が引かないため診断した結果、肋骨の疲労骨折を起こしていることが判明し欠場。このため、連覇を狙う五輪代表最短切符になる2003年パリ世界陸上は断念することになった。

2002年12月に小出が積水化学を退社。今までと同じ小出指導体制を継続するには諸々の事情で退社するしかなく、2003年2月に積水化学を退社することになった。

スカイネットアジア航空(佐倉アスリート倶楽部)時代

2003年6月、スカイネットアジア航空と2005年5月までの2年間の所属契約を結んだ。佐倉アスリート倶楽部で引き続き小出の指導を受ける。

2003年11月16日の東京国際女子マラソンで、翌2004年8月のアテネオリンピック・女子マラソン日本代表選出を目指して出走。この時期の平均気温より約10度高い、季節はずれの気温24〜25度の高温と風速3〜6mの風の舞う中、スタート直後から高橋自らが飛び出しハイペースでレースを展開、中間点を過ぎてからスパート、独走状態となり完全に勝負はついたと思われたが、30km手前からスタミナ切れを起こしたのか急激に失速する。39km地点でエルフェネッシュ・アレム(エチオピア)に抜かれて、日本人トップの座は死守したもののゴールタイムは2時間27分21秒で2位。6年10ヶ月ぶりに敗れ、マラソンの連勝記録も6でストップとなった。

その後、代表選考は選考基準が不明瞭であるため難航することになる。代表は2004年3月15日、午後3時に正式発表。テレビでは午後2時に高橋落選を速報テロップで流し、ある新聞の夕刊の一面では「Qちゃん五輪代表へ」と結果的に誤報を伝えたほど混迷していた。選考はコース・気象条件なども異なる東京・大阪・名古屋の3レースの上位選手から2名を選ばなければならず(3名枠のうち、前年8月の世界陸上選手権で2位になった野口みずきは内定済)、結局高橋は優勝できなかったこと、ゴールタイムやレース内容も悪かったことなどの理由で落選(日本陸連が選出した他選手は土佐礼子・坂本直子。補欠は千葉真子)。五輪連覇の夢は潰えた。しかし、高橋はシドニー五輪以降も世界記録を樹立するなど、毎年高いレベルの記録で優勝している実績があり、この結果は賛否両論で大きな騒動となった。NHKや民放各局は高橋と小出監督の会見を生放送で伝え、翌日の一般紙・スポーツ紙の各新聞社は高橋落選を一面トップで伝えた。

2004年5月に秋のマラソンで自己記録更新を目指しアメリカ・ボルダーに合宿のため渡米したが、6月の練習中に転倒して胸を強打する。その後も度重なる怪我により秋のマラソン出場は断念。さらに同年10月には練習中に足首を捻り右足首を骨折した。

2005年5月9日、小出監督指導体制から独立することを発表。高橋と小出が二人揃っての記者会見を行なった。高橋はこのとき33歳であった。

ファイテン(チームQ)~現役引退 

2005年6月、ファイテンと2009年5月までの4年間の所属契約を結んだ。なお同社陸上部とは別に「チームQ」として活動。

2005年11月20日、東京国際女子マラソンに出場。アメリカ・ボルダーから帰国後、ポイント練習で右足に痛みがはしり一時全く走れない状態になったため、順天堂大学で診断した結果、軽い肉離れが3か所あることが判明し全治1か月の診断が下された。医師やチームのメンバーは欠場を検討したが、高橋は何が何でも出場すると主張し、医師とチームのメンバーは痛みが悪化したらすぐ棄権するのを条件に出場を決断した。当日はテーピングをしての出走となり、終盤35km過ぎまでは様子をみながら自重していたが、35.7km過ぎにスパート、2年前まさかの失速で優勝をさらわれたエルフェネッシュ・アレムなどを置き去りにして独走となり2時間24分39秒でゴール。2年ぶりのマラソン復帰レースを優勝で飾った。

2006年11月19日、2年連続で東京国際女子マラソンに出場。31km付近で優勝した土佐礼子から遅れ、39km地点では尾崎朱美にもかわされ3位でのゴールとなり、翌2007年8月開催の世界陸上大阪大会女子マラソン日本代表選出は絶望的に。同年8月1日、アメリカのボルダーで、右膝関節の半月板を半分切除する内視鏡手術を受ける。

2008年3月9日の名古屋国際女子マラソンへ、2008年北京オリンピック女子マラソン代表選出を目指して出場。しかしレース序盤の9Km手前で、早々スローペースの先頭集団から脱落してしまい結局27位、ゴールタイムも2時間44分台の自己ワーストの記録となり、北京五輪代表の座を逃した。

2008年3月24日に東京、大阪、名古屋の国内3大国際女子マラソンに連続で出場する意向を表明して、同年5月にアメリカ・ボルダーに合宿のため渡米。小さな大会ながらも優勝をかさねていて合宿は順調との報道もされていた[5]。しかし、練習を積み重ねていく中で、それまでと違い大きな大会で優勝を狙う練習メニューがこなせなくなり、プロ高橋の走りができなくなったことなどを大きな理由として、2008年10月28日夕方の記者会見で現役からの引退を表明[6]。各テレビ局は引退会見を生放送で伝えた。1時間近くにわたる引退会見での高橋は終始笑顔を見せていたが、会見の終了直後に報道陣から大きな拍手が送られると、目に涙を浮かべていた。

2009年3月8日の名古屋国際女子マラソンに、これまで応援してくれたファンや関係者に感謝する意味を込めて「ありがとうラン」として一般参加で出場。沿道の観客に笑顔を浮かべ手を振りながら走り続け、2時間52分23秒のタイムで完走した。ゴール後、かつてのライバルだったリディア・シモンが近づいてきて抱擁しあい、日本の現役選手からは花束を贈られ、長年の功績へのねぎらいを受けた。また大会組織委員会からは特別功労者表彰され感謝状が贈られた。

1.巨人対西武戦【東京ドーム】18:00
5対4で西武勝利。
先発、
【巨人】大竹 寛右腕、6回高木京介左腕、7回戸根千明左腕、8回香月良太右腕、
【西武】野上亮磨右腕、7回武隈祥太左腕、8回増田達到右腕、9回高橋朋巳左腕、
【西武】
1番 中 秋山翔吾2番 左 栗山巧3番 二 浅村栄斗
4番 三 中村剛也 5番 右 森友哉6番 一 セラテリ
7番 捕 炭谷銀仁朗8番 投 野上亮磨 ,武隈祥太、増田達到、高橋朋巳
9番 遊 金子侑司
【巨人】
1番 中 長野久義 投高木京介、戸根千明代打矢野謙次、投香月良太
2番 二 片岡治大3番 右 亀井善行4番 遊 坂本勇人5番 一 アンダーソン
代走吉川大幾、6番 左 高橋由伸7番 三 井端弘和代打阿部慎之助8番 捕 相川亮二
代走鈴木尚広、9番 投 大竹寛代打中橋本 到代打中太田泰示、

1回表1番1.0.1.1.1.2.2.2.3.2.右ホームラン1点2番、0.1.1.1.2.1.3ゴロ3番、0.1.1.1.1.2.2.2.空振り三振4番、1.0.1.1.2.1.2.2.空振り三振。20球。 1対0。
1回裏、1番、0.1.1.1.2.1.3.1.3.2.8フライ2番、0.2.2.2.、3.2.空振り三振3番、1.0.1.1.2.1.2.2.3.2..四球4番、0.1.1.1.2.1.2.2.盗塁失敗。
2回表、5番、0.2.1.2.空振り三振6番、1.0.1.1.1.2.、空振り三振7番、0.1.1.1.1.2.2.2.3.2.8ヒット8番、0.1.1ゴロ。37球。
2回裏、4番、1.0.6ゴロ5番、0.2.2.2.7フライ7番、3.0.3.1.3.2.見逃し三振。37球。
3回表、9番、1.0.1.2.2.2.、、、内野安打1番、1.0.1.1.2.1.2.2.、、3.2.盗塁2塁四球2番、1.0.バント2.3塁3番、1ゴロ内角低めのシュート141キロ4番、2.0.3.0.四球?満塁?
5番、0.1.1.1.2.1.2.2.、3.2.、四球1点6番、9ヒット2点1.3塁7番、1.0.1.1.1.2.
空振り三振。                             4対0。
1番四球?中村敬遠?5番森3.2.からストレート❓?リード間違え??
3回裏、7番、1.0.1.1.1.2.見逃し三振8番、0.1.8ヒット9番、0.1.バント失敗併殺?
4回表、8番、0.1.0.2.空振り三振9番、0.1.0.2.8フライ1番、1.0.9ヒット2番、0.1.
 1.1.1.2.2.2.、、6ゴロ。1.2.点返したい!!。
4回裏、1番、0.1.0.2.1.2.5ゴロフォーク、ボール?2番、0.1.1.1.6フライ3番、1.0.1.1.6フライ。
5回表、3番、8フライ4番、0.1.1.1.6ゴロ5番、0.1.1.1.2.1.6フライ。96球。
5回裏、4番、0.1.1.1.1.2.2.2.6ゴロ内野安打5番、0.1.0.2.8ヒット6番高橋、0.1.1.1.中ホームラン1号外角高めのストレート3点貴重7番、1.0.4ゴロ8番、0.1.1.1.2.1.3.1.7ヒット9番代打橋本、8フライ1番、1.0.8フライ。  4対3。
代打橋本❓高木京が結果は???
6回表、【高木京】重要6番、3.0.四球7番、バント失敗8番、1.0.1.1.バント2塁9番、
  1.0.2.0.3.0.3.1.4ゴロ。先頭打者に3.0.四球助かった❓結果オーライ?
6回で追いつきたい!!。
6回裏、2番片岡、0.1.7フライ3番亀井、7フライ4番坂本、3.0.3.2.四球5番、1.0.
  1.1.2.1.9ヒット外角低めのスライダー好打1.3塁6番高橋、3ゴロ。引掛け??
7回表、【戸根】1番、1.0.2.0.2.1.2.2.3.2.右ホームラン内角高めのカーブ?1点2番、0.1.1.1.1.2.6ライナー3番、0.1.1.1.2.1.2.2.8フライ4番、0.1.0.2.空振り三振。5対3。
7回裏、【武隈】7番、1.0.1.1.1.2.、、2.2.、6ゴロ8番、1.0.1.1.2.2.5ライナー9番太田、1.0.2.0.3.0.四球【増田】1番打矢野、0.1.1.1.1.2.空振り三振ボール?。
8回表、【香月】最重要5番、0.2.1.2.空振り三振6番、6フライ7番、0.2.1.2.6フライナイス!。
8回裏、2番、0.1.1.1.9ヒット策は?3番亀井、4ゴロダブルプレー?4番、0.1.8フライ。
9回表、【香月】8番打メヒア、1.0.1.1.2.1.6ゴロ9番、1.0.8フライ1番、1.0.7フライ。
9回裏、【高橋】5番、0.1.1.1.1.2.、7ヒット代走吉川6番、0.1.1.1.1.2.空振り三振7番打安部、2.0.3ゴロ3塁8番、1.0.1.1.2.1.2.2.、9ヒット代走鈴木1点9番太田、0.2.1.2.空振り三振。真ん中高めのストレート、ボール球??。

総評。
1. 巨人対阪神戦【郡山】
5対4で西武勝利。
先発、
【巨人】大竹 寛右腕、
【西武】野上亮磨右腕、

戦評
5月27日(水)巨人 vs. 西武 2回戦

西武は初回、秋山の先頭打者本塁打で1点を先制する。その後は3回表にセラテリの適時打などで3点を挙げると、7回には秋山が再びソロを放ちリードを広げた。投げては、先発・野上が6回途中3失点で今季5勝目。敗れた巨人は、最終回に追い上げを見せるも及ばなかった。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ 西武 ] 野上(5勝3敗0S)

敗戦投手、[ 巨人 ] 大竹(1勝3敗0S)

セーブ、[ 西武 ] 高橋朋(0勝0敗15S)

本塁打、[ 西武 ] 秋山 4号(1回表ソロ) 、秋山 5号(7回表ソロ)
        [ 巨人 ] 高橋由 1号(5回裏3ラン)

西武バッテリー
野上 、武隈 、増田 、高橋朋 - 炭谷。
000
 巨人バッテリー
大竹 、高木京 、戸根 、香月 - 相川。
2.ヤクルト対日本ハム戦。【神宮】18:00
延長120回5対5で引き分け。
先発、
【ヤクルト】新垣 渚右腕、
【日本ハム】浦野博司右腕、

戦評
5月27日(水)ヤクルト vs. 日本ハム 2回戦

ヤクルトは2点を追う6回裏、山田の適時二塁打で1点差に迫る。そのまま迎えた9回に2死二塁の好機をつくると、デニングの適時打が飛び出し同点とした。試合はそのまま延長戦に突入するも、両軍ともに決め手を欠き、4時間を超える熱戦は規定により引き分けに終わった。

責任投手/本塁打

勝利投手

敗戦投手

セーブ

本塁打、[ 日本ハム ] 近藤 1号(2回表ソロ)
        [ ヤクルト ]

日本ハムバッテリー
浦野 、ガラテ 、谷元 、石井 、宮西 、鍵谷 、増井 、白村 - 近藤 、大野 。

 ヤクルトバッテリー
新垣 、ロマン 、オンドルセク 、松岡 、バーネット 、秋吉 - 西田。
2.中日対ソフトバンク戦。【ナゴヤドーム】
8対1でソフトバンク勝利18:00
先発、
【中日】八木智哉左腕、
【広島】中田賢一右腕、

戦評
5月27日(水)中日 vs. ソフトバンク 2回戦

ソフトバンクが快勝。ソフトバンクは初回、柳田の適時打で幸先良く先制する。続く2回表には、中田と内川の適時打などで一挙5点を奪い、リードを広げた。投げては、先発・中田が9回1失点完投で今季4勝目。敗れた中日は、先発・八木が6失点と試合をつくれなかった。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ ソフトバンク ] 中田(4勝2敗0S)

敗戦投手、[ 中日 ] 八木(1勝5敗0S)

セーブ

本塁打、[ ソフトバンク ]
        [ 中日 ]

ソフトバンクバッテリー
中田 - 高谷。

 中日バッテリー
八木 、若松 、岡田 - 松井雅。
4.ÐeℕA対オリックス戦。【横浜】18:00
4対2でÐeℕA勝利。
先発、
【ÐeℕA】三浦大輔右腕、
【オリックス】東明大貴右腕、

戦評
5月27日(水)DeNA vs. オリックス 2回戦

DeNAは1点を追う7回裏、バルディリスのソロと石川の適時打が飛び出し、この回逆転に成功する。続く8回には、ロペスのソロで加点した。投げては、先発・三浦が7回2失点で今季3勝目。敗れたオリックスは、先発・東明が試合をつくるも、3番手・塚原が誤算だった。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ DeNA ] 三浦(3勝0敗0S)

敗戦投手、[ オリックス ] 塚原(0勝2敗0S)

セーブ、[ DeNA ] 山崎康(1勝1敗18S)

本塁打、[ オリックス ]
     [ DeNA ] バルディリス 6号(7回裏ソロ) 、ロペス 8号(8回裏ソロ)

オリックスバッテリー
東明 、岸田 、塚原 、海田 、白仁田 - 伊藤。

DeNAバッテリー
三浦 、エレラ 、山崎康 - 黒羽根。
5.阪神対楽天戦。【甲子園】18:00
延長11回2対0で阪神サヨナラ勝利。
先発、
【阪神】藤波晋太郎右腕、
【楽天】美馬 学右腕、

  戦評
5月27日(水)阪神 vs. 楽天 2回戦

阪神が劇的なサヨナラ勝ち。阪神は0-0で迎えた延長11回裏、2死一塁から福留が2ランを放ち、試合を決めた。投げては、先発・藤浪が10回4安打無失点13奪三振の熱投。2番手の呉昇桓が今季初勝利を挙げた。敗れた楽天は、5番手・戸村が痛恨の一発を浴びた。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ 阪神 ] 呉昇桓(1勝0敗13S)

敗戦投手、[ 楽天 ] 戸村(2勝4敗0S)

セーブ

本塁打、[ 楽天 ]
          [ 阪神 ] 福留 6号(11回裏2ラン)

楽天バッテリー
美馬 、福山 、青山 、松井裕 、戸村 - 嶋。

  阪神バッテリー
藤浪 、呉昇桓 - 鶴岡。
6広島対ロッテ戦。【マツダスタジアム】
8対4でロッテ勝利。18:00
先発
【広島】大瀬良大地右腕、
【ロッテ】、イ・デウン右腕、

戦評
5月27日(水)広島 vs. ロッテ 2回戦

ロッテが逆転勝利。ロッテは1点ビハインドで迎えた6回表、今江の2点適時二塁打が飛び出し、逆転に成功する。9回には、根元の走者一掃となる適時三塁打で試合を決めた。投げては、先発・イ・デウンが今季6勝目。敗れた広島は、先発・大瀬良がリードを守りきれなかった。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ ロッテ ] イ・デウン(6勝1敗0S)

敗戦投手、[ 広島 ] 大瀬良(1勝5敗0S)

セーブ

本塁打、[ ロッテ ] デスパイネ 8号(2回表ソロ)
        [ 広島 ] エルドレッド 3号(2回裏ソロ) 、丸 5号(4回裏ソロ)

ロッテバッテリー
イ・デウン 、大谷 、カルロス・ロサ 、西野 - 田村。

 広島バッテリー
大瀬良 、戸田 、ザガースキー - 會澤。

スポーツ、

1. 原監督900勝 3発祝砲「久々にプロ中のプロみたいな打球」
スポニチアネックス 5月27日(水)5時33分配信

原監督900勝 3発祝砲「久々にプロ中のプロみたいな打球」

<巨・西>3回1死一塁、左越えに3号2ランを放つ巨人・坂本

 ◇交流戦 巨人11-1西武(2015年5月26日 郡山)

 プロ野球の日本生命セ・パ交流戦が26日、開幕し、巨人は13安打11得点で西武に快勝し、最高のスタートを切った。4番の坂本勇人内野手(26)が2戦連発の3号2ランを放つなど4安打5打点の活躍。長野久義外野手(30)、阿部慎之助内野手(36)も続き、今季初の1試合3発で、球団史上3人目となる原辰徳監督(56)の監督通算900勝に花を添えた。チームは4連勝で貯金を今季最多の7とし、首位DeNAに1ゲーム差に迫った。

【写真】通算900勝を達成し花束を掲げる原監督

 指揮官のメモリアル勝利を祝うような3本のアーチが郡山の夜空にかかった。4安打5打点で、その中心となった主将・坂本は、お立ち台で会心のガッツポーズをした。

 「風と郡山のファンの声援が後押ししてくれた。4本出て良いプレーを見せられて良かった」

 1―0の3回1死一塁。2ボール2ストライクから2球続いた十亀の外角低めのカーブをすくい上げた。高々と舞い上がった打球は左翼席へ着弾。「前で捉えることができたし、良い風にも乗ってくれた。少し崩されましたが、その中で良い打ち方ができたと思います」と胸を張った。

 対戦経験が少ないパ・リーグの投手と相対する交流戦。試合前にはロッカーで十亀の映像を見て特徴を頭にインプットした。「カーブは十亀さんの武器でもある」。周到な準備が2試合連続アーチに結びついた。6回は2点右前打、7回にもダメ押しの左前適時打を放ち、2年ぶりの4安打。5打点は、12年4月26日のDeNA戦(鹿児島)に並ぶ自己最多だ。

 左ふくらはぎの張りから復帰した13日の広島戦(東京ドーム)から12試合連続で4番に座る。復帰直後は打撃不振に苦しんだが、15日のヤクルト戦(同)の試合前に室内練習場で原監督から「密室指導」を受け、上体が突っ込む悪癖をなくすために下半身の動きを修正。すると、この日までの10試合は打率・389、3本塁打、13打点。「体が開かず打ちにいけている」とうなずいた。

 指揮官は交流戦のキーマンに坂本と長野を指名した。その長野も4回に左翼席へ弾丸ライナーで3号2ラン。5回には阿部も右翼席上段へ自身交流戦通算50号となる2号2ランを放った。阿部、長野、坂本のアーチ競演は13年7月24日の広島戦(同)以来、4度目。開幕から貧打に苦しんだだけに、原監督は「打つべき人が打った。久々にプロ中のプロみたいな打球が多く出た」と称えた。

 「枢軸」による3発の花火に彩られ、原監督は通算900勝を達成し、花束を受け取った。先日、昨年5月29日に心不全のため死去した父・貢氏(享年78)の一周忌法要を営んだ。夏の甲子園を2度制覇した父のように、監督として偉大な記録を打ち立て「選手たち、皆さんに900という数字を積み重ねさせていただいた」と感謝した。

 指揮官が信頼を置く4番・坂本が打点を挙げれば12戦12勝と不敗神話も継続。交流戦最高のスタートに、主将は「交流戦は大事。もっと打って貢献したい」と力強く宣言した。
.
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2. 照ノ富士、大関昇進!「心技体の充実につとめ、さらに上を目指して精進」
スポーツ報知 5月27日(水)10時26分配信

 日本相撲協会は27日午前、東京・両国国技館で開いた大相撲名古屋場所(7月12日初日・愛知県体育館)の番付編成会議と臨時理事会で、夏場所で初優勝を果たした関脇・照ノ富士(23)=伊勢ケ浜=の大関昇進を満場一致で決めた。

 伝達式の口上では「今後も心技体の充実につとめ、さらに上を目指して精進いたします」と述べた。北の湖理事長は「横綱になるという気概を持って頑張ってほしい」と期待を込めた。三役2場所での通過は年6場所制となった1958年以降では初の快挙となった。

 また3月の春場所に幕下10枚目格付け出しでデビューした御嶽海(22)=出羽海=と、高木改め高立(たかりゅう、23)=木瀬=の新十両昇進も発表された。御嶽海は逸ノ城、遠藤らと並び昭和以降最速となる初土俵から所要2場所での新十両。再十両は徳真鵬(31)=木瀬=のみだった。

 照ノ富士「今までで一番うれしい。支えてくれた人がいるからこそ、今の地位がある。この上を目指して頑張りたい。横綱は神様が選ぶもの。選ばれるように努力していきたい」

 照ノ富士の師匠・伊勢ケ浜親方(元横綱・旭富士)「優勝を目指すのが大関。まだ覚えることがたくさんある中での昇進なので、先々が楽しみ。(指導は)もっと厳しくなるだろう」
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2. 故障、不調……想定外の事態をどう乗り切れるか? 今季問われるベイスターズの”地力”   
ベースボールチャンネル 5月27日(水)11時0分配信

主力が抜けても、誰かがカバーをする

 そのニュースはベイスターズファンを落胆させたに違いない。
 打の三冠王の主砲・筒香嘉智が、24日の阪神戦で太ももを負傷、途中交代した。
 軽度の筋損傷だったのは不幸中の幸いだが、完治するまでは先発を外れ、代打での起用が予想される。

 それにしても、だ。
 なぜ、こうも、今年のベイスターズは、不運に見舞われてしまうのだろう。
 一つ目は、開幕直後に明らかになったグリエルの契約解除問題だ。選手たちがどこまで彼に期待していたかはともかくとして、ファンにとっては一大事だった。

 二つ目はもう一人の打の中心・梶谷隆幸の離脱(5月24日に先発復帰)
 筒香と並んで、チームになくてはならない存在であった梶谷の離脱は、痛手だったはずだ。

 しかし、この二つの“一大事”を思い返すと、その後の落ち込みがなかったことが、今のベイスターズの快進撃を支えているとも受け取れる。
 グリエルが入るポジションだったセカンドを守っていた石川雄洋は、グリエルの件から成績を徐々に上げた、今は打率.293をマークし、1番打者としてチームを引っ張っている。レギュラー然とした立居振舞いは、勇ましくさえある。

 梶谷離脱の間は、代役の井出正太郎がその穴を埋めた。
 さらには、筒香の調子が段階を経て上がっていき、梶谷の不在を感じさせなかった。

 ある日の、バルディリスが残した言葉が耳に残る。
 その言葉とは、ベイスターズの公式から発表されたものだが、今季のベイスターズの強さを物語っている。

「ヒーローインタビューに毎日違う選手が出てくることが大切。野球は一人でするスポーツではないし、それぞれの役割を果たすことが大事なんだから」
.
故障、不調……想定外の事態をどう乗り切れるか? 今季問われるベイスターズの”地力”

首位で交流戦に突入したが、故障や、主力選手の不調や離脱が絶えず、ベイスターズの地力が問われ続けている

不測の事態のときにこそ問われるもの

 想定外のことが起きるというのがペナントレースの戦いというものだ。怪我に限ったことではなく、各チーム、シーズン前に描いていたように進んでいないということは起きる。ただ、そうなったときに、どう戦っていけるかが、非常に重要なファクターなのだ。

 もちろん、ベイスターズにも、故障以外にも想定外はあった。
 そのうちの一つが、正捕手の不調だった。

 ベイスターズの正捕手は、開幕当初は黒羽根利規が務めていた。昨年はキャリアハイとなる109試合に出場。セリーグの盗塁阻止率ではナンバーワンだった捕手だ。昨季、27歳にしてチーム最年長捕手になった黒羽根は、今のチームを支えてきた選手だった。
 しかし、開幕してから不調が続くと、その座を後輩たちに譲った。それが高城俊人や嶺井博希で、彼らは黒羽根の不調を補うかのように、活躍しているのである。

 一般的な見方をすれば、高城や嶺井が黒羽根をベンチに追いやったような形だが、その裏には、今のベイスターズの強さを物語る捕手の一体感がある。

 シーズン前、黒羽根がこんな話をしていた。

「(高城や嶺井は)普段はライバルですけど、キャッチャーというポジションは全体で底上げしていかなければいけないと思うんです。みんな個々でやっているんですけど、最終的には集結してチームとして戦う必要がある。一番は勝たないといけないんです。そのためには、僕が試合に出ているときは、ジョーや嶺井に『ココを見といてくれ』とか試合中に頼んだりしていますし『外から見ててどうだった』?と聞いています。逆に、ジョーとか嶺井が試合に出ているときは、あいつらからも、「どう見えましたか?」と聞いてきたりもします。だから、試合に出ている選手がいたとして、あとの控えのキャッチャーはその選手を全力でサポートしなくちゃいけない。その気持ちが大事だと思います」

 つまり、彼らは一人では戦っていないということなのだ。

 レギュラーとして試合に出ているのは、黒羽根や高城、嶺井という名ではあるけれども、キャッチャーとして戦っている。もちろん、調子の善し悪しがある分、個人の差はあるのだが、シーズン中にこれだけ捕手が変わってもチームの成績を落とさず戦えているのは、ベイスターズの、「捕手総合力」にあるといってほかならない。

 黒羽根は言う。

「試合に出ても出なくても、キャッチャー全員が一つの情報に対して共有できていると思います。例えば、ジョーの意見に対して、嶺井が「こう思いました」とか、僕が気づいたら「こう思ったんだけどどう?」というような感じで情報共有はできている。昨年以上にみんなが観ているレベルは上がっている感じがしていますし、みんなそれぞれ自分が出たいと思っているんですけど、その中でも、勝つことの方が重要だと分かっている。でも、これは、キャッチャーに限らず、今のチームは役割分担がしっかりできているということなのかなと思います」

 嶺井も続ける。

「自分は1軍では長く戦ったことがなく、対戦のない相手ばかりなので、最初はみんなの意見を聞いてばかりいました。今は全員でやれている実感はあります。それぞれ見方が違いますし、アドバイスを信じるか信じないかはその時々にあるとして、違う方向性、違う目線から見てもらえるというのはありがたいです。チームとして勝とうとしてやっているので、いい方向に動いていると思います」

 グリエルの契約解除問題、梶谷や筒香の故障、正捕手の不調など、様々な想定外が起こっている今のベイスターズ。それを乗り越えてきたから今の成績がある。

 だが、同時に交流戦以降も続いていくということを忘れてはいけない。主砲が先発に戻るまでの期間、どこまで打線として機能するのか。あるいは、24日の試合で危険球退場してしまった若き守護神の心の傷も危惧されるところだ。

 ただ、それらもすべての示すところは「ベイスターズの地力」が問われているということなのだ。

 ベイスターズの地力――。
 今も、そして、これからも非常に重要なポイントになる。
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ベースボールチャンネル編集部

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4. 錦織がベルッチを倒して2年ぶり2度目の3回戦進出 [全仏テニス]
THE TENNIS DAILY 5月27日(水)22時20分配信

錦織がベルッチを倒して2年ぶり2度目の3回戦進出 [全仏テニス]

「全仏オープン」(フランス・パリ)でトーマス・ベルッチをストレートで下して2年ぶり2度目の3回戦進出を決めた錦織圭 (C)GettyImages

 フランス・パリで開催されている「全仏オープン」(本戦5月24日~6月7日/クレーコート)の男子シングルス2回戦で、第5シードの錦織圭(日清食品)がトーマス・ベルッチ(ブラジル)を7-5 6-4 6-4で倒して2年ぶり2度目の3回戦進出を決めた。試合時間は2時間22分。

【W流】全仏オープンテニス2015 大会3日目の動画集(ナダル、ジョコビッチ、セレナ、ムラデノビッチ対ブシャール、ディミトロフ対ソックなど)

 錦織とベルッチは2007年7月にボゴタのチャレンジャー大会(5万ドル/クレーコート)で1度顔を合わせており、そのときはベルッチが6-3 3-6 6-3で勝っていた。

 錦織は全仏オープンには3年連続5度目の出場で、2013年の4回戦進出がこれまでの最高成績となる。昨年の大会では1回戦で、マルティン・クーリザン(スロバキア)に6-7(4) 1-6 2-6で敗れている。

 27歳のベルッチは前週のジュネーブ(ATP250/クレーコート)でATPツアー通算4勝目を飾ったばかり。2週間前のローマ(ATP1000/クレーコート)の3回戦では世界ナンバーワンのノバク・ジョコビッチ(セルビア)に敗れたものの、第1セットを奪っていた。全仏では2010年にベスト16入りを果たしている。

 錦織は3回戦で、ベンジャミン・ベッカー(ドイツ)と対戦する。ベッカーは2回戦で、第32シードのフェルナンド・ベルダスコ(スペイン)を6-4 0-6 1-6 7-5 10-8、最終セットは71分の戦いを制しての勝ち上がり。

(テニスマガジン/Tennis Magazine)

Photo:PARIS, FRANCE - MAY 27: Kei Nishikori of Japan returns a shot during his Men's Singles match against Thomaz Bellucci of Brazil during day four of the 2015 French Open at Roland Garros on May 27, 2015 in Paris, France. (Photo by Julian Finney/Getty Images)
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ニュース、

1.松方弘樹 自己最高361キロ特大マグロ釣った! 落札値段にも注目
デイリースポーツ 5月27日(水)15時22分配信

松方弘樹 自己最高361キロ特大マグロ釣った! 落札値段にも注目

361キロのマグロを釣り上げた松方弘樹=石垣島漁港

 俳優・松方弘樹(72)が26日深夜、沖縄県石垣島周辺で361キロの特大マグロを釣り上げた。08、09年に山口県で開催された「萩クロマグロトーナメント」で2年連続で優勝している松方だが、361キロは自己最高記録となった。

【写真】落札価格は?特大マグロのドアップ

 所属事務所によると、松方は26日からプライベートで友人と趣味のマグロ釣りに出かけていた。釣りの腕はプロ顔負けとして知られるが、今回は3年ぶりの釣り。その初日に超大物をゲットした。午後7時ごろ、波照間の西でヒットし、約6時間半のファイトの末、27日午前1時半ごろ見事、釣り上げた。

 獲物は現在、漁港で冷蔵保存中。数日中には東京・築地市場に到着予定。

 事務所によると、松方は「今朝(27日)、石垣島漁港に戻ってきて、疲れて寝ています。大変喜んでいました」。不眠不休で巨大マグロと格闘し、帰港後、眠りについたという。

 松方は08、09年の「萩クロマグロ-」で連覇。08年は351キロ(内臓抜き306キロ)、09年は325キロ(内臓抜き282キロ)の特大マグロだった。今回の361キロは自己新記録。09年のマグロは1キロあたり1万5500円で、しめて437万円の値をつけており、今年の落札価格にも注目が集まりそうだ。
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2015年5月26日巨人対西武戦。11対1で巨人快勝。菅野、坂本阿部、長野

2015-05-26 22:41:22 | Weblog
      2015年5月26日
#、為替、121.08円。121.72円。122.57円。ユーロ、133.36円。133.22円。133.55円。
#ダウ、休みドル。ドル。ナスダック、休み。。
#前場、20416.25円+2.48円。。後場、20487.48円。+23.71円。
国民栄誉賞受賞者
大鵬幸喜5/26済
大鵬 幸喜(たいほう こうき、1940年(昭和15年)5月29日 - 2013年(平成25年)1月19日)は、北海道川上郡弟子屈町川湯温泉(出生地は樺太敷香郡敷香町)出身の元大相撲力士。第48代横綱。本名は納谷 幸喜(なや こうき)であるが、一時期は母親の再婚によって住吉 幸喜(すみよし こうき)と名乗っていたこともあった。

4 主な成績 4.1 通算成績 4.1.1 連勝記録

来歴[編集]

誕生から入門[編集]

1940年(昭和15年)に、ロシア革命後に樺太へ亡命したウクライナ人のコサック騎兵隊将校、マルキャン・ボリシコ[1]の三男として、樺太の敷香町(現・ロシアサハリン州ポロナイスク)に生まれた。敷香町は当時日本領だった南樺太に位置するため、外国出身横綱には数えない。出生の直後に激化した太平洋戦争によってソ連軍が南樺太へ侵攻してきたのに伴い、母親と共に最後の引き揚げ船だった小笠原丸で北海道へ引き揚げることとなった。最初は小樽に向かう予定だったが、母親が船酔いと疲労による体調不良によって稚内で途中下船した[2]。小笠原丸はその後、留萌沖で国籍不明の潜水艦(ソ連の潜水艦との説がある)から魚雷攻撃を受けて沈没したが、大鵬親子はその前に下船していたため辛くも難を逃れた(三船殉難事件)。

北海道での生活は母子家庭だったことから大変貧しく、母親の再婚によって住吉姓に改姓した。その再婚相手の職業が教師だったことから学校を毎年異動していたこともあり、しばらくは北海道各地を転々としていた。あまりの貧しさから大鵬自身が家計を助けるために納豆を売り歩いていた話は有名である。再婚相手とは大鵬が10歳の時に離婚したため、大鵬は納谷姓に戻った。 中学校卒業後は一般の同世代の若者と同じ中卒金の卵として北海道弟子屈高等学校の定時制に通いながら林野庁関係の仕事をしていたが、1956年(昭和31年)に二所ノ関一行が訓子府町へ巡業に来た時に紹介され、高校を中途退学して入門した。入門時に母親から反対されたが、親子で相撲部屋を見学した時に所属力士の礼儀正しさを見た叔父が母親を説得した。後年、巡業で振る舞われたちゃんこに感銘を受けていたことも入門の動機として明らかになっている。[3]

初土俵から三役へ[編集]

1956年9月場所にて初土俵を踏んだ。同期には後の大関・清國や小結・沢光、前頭の大心、玉嵐らがいる。入門当初より柏戸と共に横綱確実の大器と評されており「ニ所ノ関部屋のプリンス」「ゴールデンボーイ」などの愛称を与えられた。[4] 序ノ口時代から大幅な勝ち越しで順調に番付を上げていき1958年3月場所では三段目で優勝、十両目前の西幕下2枚目まで番付を上げていた同年9月場所では3勝5敗で負け越してたものの、取的時代の負け越しはこの1場所のみでそれ以外は全て6勝以上挙げている。東幕下筆頭となった1959年3月場所で6勝2敗と勝ち越して十両昇進を決めた。初土俵から幕下時代までは本名の納谷で土俵に上がっていた。

1959年(昭和34年)に新十両昇進が決まると、四股名を付けてもらえることが決まった。その四股名は故郷・北海道に因んだ物を付けるのかと思っていたところ、二所ノ関から「もっといい名前がある。『タイホウ』だ」と言われた。「どんな字を書くんですか?撃つ大砲ですか?」と質問すると、「それは『オオヅツ』と読むんだ」と言われ、同時に大砲万右エ門の話をされたという[5]。そしてこの時に「大鵬」の字とその意味も教わっている。大鵬の意味は、中国の古典「荘子 逍遥遊」にある「鯤之大不知其千里也、化而為鳥、其名為大鵬(鯤(コン、伝説上の巨大な魚)は大いに之(ゆ)き、その千里を知らずや、而して鳥に化けすと、その名は大鵬と」とあり「翼を広げると三千里、ひと飛びで九万里の天空へ飛翔する)」と言われる伝説上の巨大な鳥に由来する。漢書好きな二所ノ関にとって最も有望な弟子に付けるべく温存していたもので、その点では二所ノ関の期待以上によく育ったと言える。

1960年(昭和35年)1月場所で新入幕を果たすと、初日から11連勝。新入幕初日から11連勝は千代の山雅信の13連勝に次ぐ昭和以降2位、一場所でのものとしては昭和以降で最多となる。12日目には小結柏戸剛が「止め男」として当てられ、早晩角界を背負って立つライバルとなるだろうと目されていた両者の対戦が早くも実現することになった。この一番で柏戸の出し投げに屈し、幕内での初黒星。その後14日目千秋楽と連敗したものの、12勝3敗の好成績を挙げた(敢闘賞)。

同年3月場所で東前頭4枚目まで番付をあげるが、序盤から横綱・三役陣に連敗を喫する。2日目の朝汐戦は横綱初挑戦となったが、朝汐が立ち遅れたのを待ったかと思い一瞬力を抜いたところをつけ込まれる形で寄り切られ、物言いがついたものの行司軍配通り。4日目には前場所優勝の栃錦にいいところなく押し出され、栃錦とはこれが唯一の取組になった(栃錦は翌場所引退)。後半の平幕戦で盛り返したものの13日目福田山戦できわどい相撲を落として負け越し、最終的に7勝8敗でこの場所が生涯で唯一となる皆勤負け越しとなった(それ以外は引退まで皆勤した場所はすべて2桁の勝ち星である)。またこの場所は柏鵬がともに幕内で皆勤して取組が組まれなかった唯一の場所でもある。

続く5月場所は前頭6枚目に下がって出直しとなったが、初日朝汐を破って横綱挑戦3戦目で初勝利、生涯唯一の金星を挙げるなど11勝4敗で二度目の敢闘賞。7月場所で新小結に昇進すると、この場所でも11勝4敗、9月場所では20歳3ヶ月の史上最年少(当時)で新関脇となる。11月場所では13勝2敗の成績を挙げ、これも当時の史上最年少となる20歳5ヶ月で幕内最高優勝を達成し、場所後やはり史上最年少で大関へ昇進した[6]。入幕した年に大関昇進を果たした力士は2012年現在でも大鵬のみ(入幕から6場所での大関昇進も、年6場所制後最短である)で、同じく入幕した1960年に年間最多勝を獲得という、賞の発足後史上唯一の記録を立てた。小結・関脇では36勝9敗という圧倒的な強さを誇り、合計3場所で通過となった。また、新入幕から6場所目での初優勝は年6場所制以降では当時の最速記録[7]だった。この場所でTBSアナウンサーの小坂秀二が「柏鵬時代」という言葉を発したことをきっかけに、それが一気に定着するに至った。[4]

新大関となった1961年1月場所は10勝5敗に終わり、13勝2敗で初優勝の柏戸に主役を譲って綱取りの面でも一歩を先んじられる形になった。しかし翌3月場所からほぼ毎場所優勝争いにからみ、7月場所では柏戸と朝潮(もと朝汐)の難敵ふたりを連破して13勝2敗、大関としての初優勝を果たした。なお朝潮とはこれで対戦成績を4勝4敗と五分にし、これが最後の取組となった。9月場所では12勝3敗、柏戸と平幕の明武谷との優勝決定戦を制して連続優勝、場所後柏戸とともに横綱に同時昇進を果たす。大鵬21歳3ヶ月、柏戸22歳9ヶ月での横綱昇進は、ともにそれまでの最年少記録だった照國萬藏の23歳3ヶ月を更新するものだった[8]。

横綱時代[編集]

新入幕で初めて敗れた柏戸と競い合い、終戦直後の復興から高度経済成長期の相撲黄金時代を支え、1961年(昭和36年)に揃って横綱に推挙、「柏鵬(はくほう)時代」と言われる黄金時代を築いた。横綱白鵬翔の四股名は、この両横綱に由来する。新横綱の場所である1961年(昭和36年)11月場所、1962年(昭和37年)1月場所と連続優勝を果たすと、同年7月場所から1963年(昭和38年)5月場所まで最初の6連覇を達成した。ところが、「型のある相撲」と評されていた柏戸が休場を繰り返していたことで、「型のない相撲」の大鵬が一人勝ちしている状況から観客が減少気味となり、大鵬の全盛期は相撲の人気低迷期と一致した。この連覇直後から神風正一などから「(大鵬の相撲には)型がない」と盛んに批判されたが、二所ノ関は「型がないのが大鵬の型」と反論していた。大鵬自身は当時の時津風理事長が言った「『これは大鵬しかできるものがいなかった』という相撲の内容を示せばいい。後世に至ってもどの力士も真似のできないもの、それが大鵬の型である。」という言葉で自分の相撲に確信を持てるようになったという[9]。

その柏戸が再起をかけた同年9月場所では千秋楽で14勝同士の相星決戦が組まれたが、柏戸に敗れた。1964年3月場所でも同じ14勝同士による相星決戦が組まれたが、こちらは大鵬が勝利している。下記に、柏鵬両雄の主な千秋楽対戦を記す。
セパ交流戦!。
1.巨人対西武戦【郡山】18:00
11対1で巨人勝利。
先発、
【巨人】菅野智之右腕、
【西武】十亀 剣右腕、6回岩尾利弘右腕、8回岡本篤史右腕、
【西武】
1番 中 秋山 翔吾2番 左 栗山 巧3番 二 浅村 栄斗
4番 三 中村 剛也、渡辺直人 5番 一 メヒア6番 右 森 友哉
7番捕 炭谷 銀仁朗 代打捕岡田雅利代走斎藤彰8番 投 十亀 剣代打セラテリ投岩尾利弘代打大崎雄太朗投岡本篤志9 遊 金子侑司
【巨人】
1番中 長野 久義 2番 三 立岡 宗一郎3番 右 亀井 善行代走鈴木尚広、
4番 遊 坂本 勇人 5番ン 一 アンダーソン代走吉川大幾 6番 捕 阿部 慎之助
7番 左 高橋 由伸、太田康示 8番 二 片岡 治大9番 投 菅野 智之
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1回表1番、1.0.1.1.2.1.7フライ2番、1.0.1.1.1.2.7ヒット3番、0.1.1.1.6ゴロダブルプレー。11球。
1回裏、1番、4フライボール?2番、1.0.1.1.1.2.4ゴロボール3番、0.1.1.1.1.2.空振り三振ボール?。9球?。
2回表、4番、0.2.1.2.、2.2.空振り三振フォーク5番、0.1.1.1.1.2.空振り三振フォーク6番、0.1.1.1.1.2.振り三振カーブ。25球。
2回裏、4番、0.1.8ヒット5番、1.0.1.1.1.2.6ゴロホースアウト6番、9ヒット7番、1.0.1.1.2.1.3.1.3.2.四球満塁8番片岡、1.0.4ゴロエラー1点9番、0.2.空振り三振。
1番長野、0.1.6ゴロ。                      0対1。
3回表、7番、0.2.2.2.、、、、、、空振り三振フォーク8番、0.2.空振り三振スライダー9番、0.1.1.1.1.2.4ゴロ内野安打1番、2.0.盗塁アウト。
3回裏、2番、0.1.0.2..空振り三振ボール??3番、0.1.8ヒット4番、1.0.1.1.1.2.2.2.、、左ホームラン3号2点貴重真ん中低めのカーブ5番、1.0.1.1.2.1.2.2.、3.2.、四球
 6番阿部、0.1.8フライ7番高橋、1.0.1.1.1.2.2.2.見逃し三振。   0対3。
4回表、重要1番、8フライ2番、1.0.1ゴロストレート内角低目146キロ3番、0.2.1.2.、9ヒット4番、0.1.0.2.1.2.2.2.3.2.9フライ。59球。
4回裏、8番、0.1.1強襲ヒット9番、1.0.バント1番長野、0.1.1.1.2.1.3.1.3.2.、左ホームラン3号2点真ん中高めのストレート2番、6ゴロ3番、0.2.1.2.7フライボール。
菅野で負けるわけにはいかない                   0対5。
5回表、5番、0.2.6ゴロ6番森、2.0.2.1.2.2.空振り三振フォーク7番、0.1.9フライ。ナイス!。69球.後2点追加“
5回裏、4番、2.0.2.1.3.1.3.2.四球価値ある5番、1.0.1.1.1.2.2.2.6ゴロ2塁6番阿部、
3.0.右ホームラン2号外角低めのストレート146キロ好打2点7番、0.2.1.2.見逃し三振8番、3フライ。                      0対7。
6回表、重要8番打セラテリ、1.0.2.0.2.1.8フライ9番、1.0.1.1.1ゴロ1番、0.1.0.2.1.2.見逃し三振フォーク¡。ナイスピッチング。80球。
6回裏、【岩尾】9番、0.1.0.2.1.2..2.2.見逃し三振1番、3.0.四球価値ある
2番、1.0.8フライ3番亀井、0.1.左二塁打好打4番坂本、1.0.9ヒット2点5番、0.2.1.2.死球代走吉川6番阿部、0.1.1.1.2.1.3.1.四球満塁7番太田、6ゴロ、  0対9。
菅野完投してほしい!。
7回表、最重要2番、2.0.8ヒット好打3番、8フライ4番、0.1.1.1.1.2.5ゴロホースアウト5番、1.0.1.1.1.2.、9フライナイス!。93球。
7回裏、8番、1.0.ポテンヒット9番、バント2塁1番長野、2.0.2.2.3.2.1ゴロボール?2番、0.1.8ヒット1点3番亀井、0.1.1.1.1.2.2.2.、9ヒット代走鈴木1.3塁4番坂本、0.1.7ヒット1点坂本5打点5番吉川、0.1.3ゴロ。       0対11。
8回表、6番、0.1.1.1.2.1.2.2.3.2.空振り三振スライダー、ボール7番代打岡田、1.0.1.1.1.2.空振り三振8番打大崎、死球代走斎藤9番、8フライ。105球。
8回裏、【岡本】6番、3フライ7番、1.0.1.1.1.2.9フライ8番、1.0.1.1.6ゴロ。
9回表、1番、0.2.1.2.4ゴロカット2番、0.1.1.1.左二塁打カット真ん中3番、0.1.1.1.2.1.2.2.3.2.、8フライファンブル1点4番渡辺、0.1.8ヒット5番、ゴロダブルプレー。

総評。
菅野122球被安打7.1失点完投。坂本3号2ラン5打点、阿部2号2ラン。長野3号2ラン。
1. 巨人対西武戦【郡山】18:00
11対1で巨人勝利。
先発、
【巨人】菅野智之右腕、
【西武】十亀 剣右腕、

戦評
5月26日(火)巨人 vs. 西武 1回戦

巨人が4連勝。巨人は1点リードで迎えた3回裏、坂本の2ランで加点する。その後は4回に長野の2ラン、5回には阿部の2ランが飛び出すなど、終わってみれば13安打で11得点を挙げた。先発・菅野は1失点完投で今季6勝目。敗れた西武は、投打ともに振るわなかった。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ 巨人 ] 菅野(6勝4敗0S)

敗戦投手、[ 西武 ] 十亀(4勝2敗0S)

セーブ
   
本塁打、[ 西武 ]
         [ 巨人 ] 坂本 3号(3回裏2ラン) 、長野 3号(4回裏2ラン) 、阿部 2号(5回裏2ラン)

西武バッテリー
十亀 、岩尾 、岡本篤 - 炭谷 、岡田。

巨人バッテリー
菅野 - 阿部。
2.ヤクルト対日本ハム戦。【神宮】18:00
12対5で日本ハム勝利。
先発、
【ヤクルト】古野正人右腕、
【日本ハム】メンドーサ右腕、

戦評
5月26日(火)ヤクルト vs. 日本ハム 1回戦

日本ハムは2点を追う3回表、近藤の適時二塁打などで同点とする。その後は5回に岡の適時打などで2点を勝ち越すと、続く6回には中田の3ランなどで4点を加えた。投げては、先発・メンドーサが今季3勝目。敗れたヤクルトは、投手陣が12失点と崩壊した。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ 日本ハム ] メンドーサ(3勝4敗0S)

敗戦投手、[ ヤクルト ] 中澤(1勝2敗0S)

セーブ

本塁打、[ 日本ハム ] 中田 17号(6回表3ラン)
        [ ヤクルト ] 畠山 10号(7回裏ソロ)

日本ハムバッテリー
メンドーサ 、石井 、白村 、鍵谷 、宮西 - 近藤 、大野。

 ヤクルトバッテリー
古野 、中澤 、徳山 、久古 、秋吉 - 中村 、西田。
3.中日対ソフトバンク戦。【ナゴヤドーム】
4対3で中日勝利18:00
先発、
【中日】バルデス左腕、
【ソフトバンク】大隣憲司左腕、

   戦評。
5月26日(火)中日 vs. ソフトバンク 1回戦

中日は3回裏、4番・ルナの2点適時打で先制に成功する。1点リードで迎えた4回には、エルナンデスのソロなどで2点を追加した。投げては、先発・バルデスが5回2失点と試合をつくり今季2勝目。敗れたソフトバンクは、打線が14残塁と好機を生かしきれなかった。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ 中日 ] バルデス(2勝4敗0S)

敗戦投手、[ ソフトバンク ] 大隣(4勝4敗0S)

セーブ、[ 中日 ] 福谷(2勝2敗9S)

本塁打、[ ソフトバンク ]
         [ 中日 ] エルナンデス 4号(4回裏ソロ)
ソフトバンクバッテリー
大隣 、二保 、森 、五十嵐 - 高谷 、斐紹 。

  中日バッテリー
バルデス 、田島 、浅尾 、高橋聡 、又吉 、福谷 - 杉山。
4.ÐeℕA対オリックス戦。【横浜】18:00
10対3でオリックス勝利。
先発、
【ÐeℕA】久保康友右腕、
【オリックス】吉田一将右腕、

戦評
5月26日(火)DeNA vs. オリックス 1回戦

オリックスは初回、カラバイヨの犠飛などで一挙4点を先制する。その後は3回表に原拓のソロ、5回にはカラバイヨが今度はソロを放つなど、効果的に追加点を重ねた。投げては、2番手・松葉が今季3勝目。敗れたDeNAは、先発・久保が6失点と試合をつくれなかった。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ オリックス ] 松葉(3勝4敗0S)

敗戦投手、[ DeNA ] 久保(3勝4敗0S)

セーブ

本塁打、[ オリックス ] 原拓 2号(3回表ソロ) 、カラバイヨ 9号(5回表ソロ) 、カラバイヨ 10号(7回表ソロ)
         [ DeNA ] 井手 2号(2回裏ソロ)

オリックスバッテリー
吉田一 、松葉 、岸田 、塚原 、佐藤達 、白仁田 - 伊藤。

 DeNAバッテリー
久保 、東野 、大原 、林 、国吉 - 高城 。
5.阪神対楽天戦。【甲子園】18:00
3対0で阪神勝利。
先発、
【阪神】岩田 稔左腕、
【楽天】塩見貴洋左腕、

戦評
5月26日(火)阪神 vs. 楽天 1回戦

阪神は初回、福留の適時打で1点を先制する。そのまま迎えた5回裏には、主砲・ゴメスの2ランが飛び出し、リードを広げた。投げては、先発・岩田が9回10奪三振完封で今季4勝目。敗れた楽天は、打線が散発3安打と振るわず、先発・塩見を援護できなかった。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ 阪神 ] 岩田(4勝2敗0S)

敗戦投手、[ 楽天 ] 塩見(2勝2敗0S)

セーブ
 
本塁打、[ 楽天 ]
        [ 阪神 ] ゴメス 4号(5回裏2ラン)

楽天バッテリー
塩見 、武藤 - 嶋 。

 阪神バッテリー
岩田 - 鶴岡。
6広島対ロッテ戦。【尾道】18:00
7対4で広島勝利。
先発
【広島】前田健太右腕、
【ロッテ】、涌井秀章右腕、

戦評
5月26日(火)広島 vs. ロッテ 1回戦

広島は3回裏、エルドレッドの適時二塁打で先制に成功する。その後は1点リードで迎えた8回に、丸の満塁本塁打が飛び出し、相手を突き放した。投げては、先発・前田が7回1失点の好投で今季4勝目。敗れたロッテは、打線が中盤以降に追い上げを見せるも及ばなかった。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ 広島 ] 前田(4勝4敗0S)

敗戦投手、[ ロッテ ] 涌井(5勝5敗0S)

セーブ
 
本塁打、[ ロッテ ]
       [ 広島 ] 丸 4号(8回裏満塁)

ロッテバッテリー
涌井 、益田 、松永 、金森 - 田村 、吉田 。

 広島バッテリー
前田 、永川 、中崎 - 會澤 、石原。

スポーツ、

1. 青木 2号ソロ含む今季初4安打2打点、ジャイアンツ連敗止めた
スポニチアネックス 5月26日(火)6時28分配信

青木 2号ソロ含む今季初4安打2打点、ジャイアンツ連敗止めた

<ブルワーズ・ジャイアンツ>2回の第2打席で2号ソロ本塁打を放ったジャイアンツ青木(AP)

 ◇ナ・リーグ ジャイアンツ8―4ブルワーズ(2015年5月25日 ミルウォーキー)

 ジャイアンツの青木は25日(日本時間26日)、ミルウォーキーで行われたブルワーズ戦に「1番・左翼」で先発出場し、2号ソロ本塁打を含む4打数3安打2打点の活躍でチームの勝利に貢献した。試合はジャイアンツが8―4で勝ち、連敗を2で止めた。

 青木は初回の先頭打者で中前打すると、3回1死無走者からの第2打席で右越えの2号同点ソロを放った。

 5回の第3打席では2死無走者から四球を選び、7回の第4打席では1死二、三塁の好機に中前適時打を放ってリードを広げた。8回の先頭打者で迎えた第5打席でも遊撃手の内野安打で全打席出塁を果たす活躍、打率を再び3割に乗せた。

 チームは2回の青木の本塁打で追いついた後、再び3点リードされたが6回に一気7点を奪って逆転勝ちを収めた。
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ミルウォーキー 、 ナ・リーグ 、 ブルワーズ を調べ

2. 球宴ファン投票中間発表 西武・森が両リーグ最多得票
スポニチアネックス 5月25日(月)15時51分配信

球宴ファン投票中間発表 西武・森が両リーグ最多得票

西武・森

 マツダオールスターゲーム2015(第1戦=7月17日・東京D、第2戦=同18日・マツダ)のファン投票の第1回中間発表が25日に行われた。

【写真】NPB復帰の広島・黒田、球宴出場なるか

 西武の森友哉捕手(19)がDH部門で両リーグ最多得票となる3万2458票だった。注目の先発投手部門ではセ・リーグが広島・黒田博樹投手(40)、パ・リーグは日本ハムの大谷翔平投手(20)が1位だった。

 抑え投手部門では、DeNAのドラフト1位、山崎康晃投手(22)が新人で唯一となる1位に。パでは松井裕樹投手(19)が1位となった。

 各部門のトップと外野手部門の3位までを含め、球団別では、広島、DeNAの5人が最多となった。

 中間発表は土、日曜を除いて6月22日まで行われ、最終結果は同26日に発表される。
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3. 巨人が2ラン3発で11点圧勝 原監督900勝に花添えた
デイリースポーツ 5月26日(火)20時36分配信

 「交流戦、巨人11-1西武」(26日、郡山)

 3連勝中の巨人が2ラン3本を含む13長短打で大量11点を奪い、交流戦初戦に圧勝した。二回から七回まで毎回得点する猛攻で、原監督の通算900勝に花を添えた。西武は2連敗。

 巨人は二回に相手の失策絡みで先制すると、続く三回に坂本の左翼越え3号2ランで加点。四回に長野の左翼越え2ラン、五回にも阿部の右翼越え2ランで着々と得点を重ね、7-0と大きくリードした。

 後半に入っても猛攻は止まらず、六回には2死二、三塁から坂本の右前2点適時打。七回にも立岡、坂本の適時打で2点を加えた。坂本は4打数4安打5打点の大活躍だった。

 先発・菅野は九回に失点し、2試合連続完封は逃したものの、西武打線を7安打1失点に抑え、完投で6勝目(4敗)。ハーラートップの高木勇(巨人)に並んだ。

 西武は先発・十亀が5回を7安打7失点(自責6)と打ち込まれ、打線も九回、浅村の中前適時打で挙げた1得点にとどまった。DH制が採用されないため、「6番・右翼」で出場した森も3打席とも空振り三振に終わった。
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ニュース、

1. 野動物園、ニホンライチョウ人工飼育へ 絶滅から守る
朝日新聞デジタル 5月25日(月)22時58分配信


上野動物園、ニホンライチョウ人工飼育へ 絶滅から守る

人工飼育することになったライチョウ=環境省提供

 国の特別天然記念物ニホンライチョウを絶滅から守るため、東京・上野動物園は25日、人工飼育に取り組むと発表した。繁殖期の6月に北アルプス乗鞍岳で採取する卵を人工孵化(ふか)させる予定だ。飼育や繁殖の方法を確立させ、将来的には野生復帰を目指す。

 国のライチョウ保護増殖事業の一環。環境省は2月、日本動物園水族館協会と連携し、人工飼育の開始を決定。生態が似ている亜種スバールバルライチョウの飼育実績のある上野動物園と富山市ファミリーパークが選ばれた。

 上野動物園は2008年7月、国内で初めてスバールバルライチョウの飼育を始め、10年に人工繁殖に成功。現在は15羽を育てている。同園の金子美香子・教育普及課長は「今まで高めた飼育技術を生かし、希少種保全に貢献したい」と話した。

 環境省によると、ニホンライチョウは本州中部の標高2千メートル以上の高山帯に生息。1980年代には約3千羽いたとされるが、外敵の増加や環境の変化で、現在は推定で2千羽弱とみられる。(黒田壮吉)
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2. 炭素繊維を中国に不正輸出容疑、会社会長ら逮捕
読売新聞 5月26日(火)10時34分配信

 ミサイルなどの兵器製造に転用可能な炭素繊維を中国に不正輸出したとして、兵庫県警外事課は26日、同県芦屋市の貿易会社「ポリケミカルズリミテッド」会長・近藤正二容疑者(75)ら3人を外為法違反(無許可輸出)容疑で逮捕した。

 兵器転用の恐れがある機器や技術は、国際的な取り決めで貿易が制限されている。一定以上の強度がある炭素繊維は経済産業相の許可が必要な「リスト規制」の対象となっており、炭素繊維の不正輸出を巡る逮捕は初めてという。

 県警によると、近藤容疑者ら3人は、強度が高い国内メーカー製の炭素繊維数千キロを韓国・光州市の企業に販売すると偽って申請し、許可を不正に取得。2010年1月、大阪・南港から韓国・釜山経由で、中国に輸出した疑い。

 炭素繊維は中国・人民解放軍の関連先に渡った可能性があるといい、県警は、軍需物資の製造に転用された疑いもあるとみて調べる。
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3. 円安加速、123円台=約7年10カ月ぶり
時事通信 5月26日(火)21時55分配信

 【ロンドン時事】連休明け26日のロンドン外国為替市場では、4月の米耐久財受注を受けてドル買いが加速し、円相場は2007年7月以来約7年10カ月ぶりに1ドル=123円台に急落した。午後1時42分現在は123円00~10銭。 
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2015年5月25日。3. 巨人3連勝!坂本が先制2ラン 高木勇はハーラートップ6勝目

2015-05-25 18:06:56 | Weblog
     2015年5月25日
#、為替、121.73円。121.66円。121.60円。ユーロ、133.60円。133.62円。133.66円。
#ダウ、19232.02ドル。-53.72ドル。ナスダック5089.36。-1.43。
#、前場20407.02円。+142.61円。後場20413.77円。+149.36円。

国民栄誉賞受賞者
古賀政男5/25
古賀 政男(こが まさお、1904年11月18日 - 1978年7月25日)は、昭和期の代表的作曲家であり、ギタリスト。国民栄誉賞受賞者。栄典は従四位・勲三等・瑞宝章・紫綬褒章。明治大学(旧制)商学部卒業。本名、古賀正夫。

少年時代に弦楽器に目覚め、青年期はマンドリン・ギターのクラシック音楽を研鑽しつつ、大正琴を愛した。その後は、プレクトラム音楽家・「古賀正男」から流行歌王・「古賀政男」になり、国民的な作曲家としての地位を確立し多くの流行歌をヒットさせた。東京音楽学校(現東京芸術大学音楽部)首席卒業のクラシックの正統派・藤山一郎から、歌謡界の女王・美空ひばりまで、その作品は5000曲とも言われ、「古賀メロディー」として親しまれている。
目次 [非表示]
1 生涯 1.1 幼少期
1.2 青年期
1.3 作曲家としての誕生・活動
1.4 戦後の活動

幼少期[編集]

1904年(明治37年)に福岡県三潴郡田口村(現・大川市)に生まれる。近くには水の都柳川があり、その風景は後年の『誰か故郷を想わざる』のモチーフになった。7歳で父が死亡、田口村を離れ、朝鮮に渡り感情起伏の激しい少年時代をすごした。故郷喪失の悲しみは「人生の並木路」のモチーフとなったが、最初は仁川に、その後京城で暮らした。従兄弟から大正琴をもらったのもこの頃である。古賀政男が初めてマンドリンを手にしたのは中学三年(京城善隣商業学校)のときで、一番仲のよかった兄からマンドリンを送られた。また、この時期に朝鮮にいた事により、伝統音楽をきく機会も多く、後の「古賀メロディ」は朝鮮音楽の影響があったと主張する人物も一部いる[1][2]。

青年期[編集]

京城善隣商業学校を出て大阪の商店に勤めたのち、1923年(大正12年)に明治大学予科に入学し、明治大学マンドリン倶楽部の創設に参画した。当時の明大マンドリン倶楽部は、ボッタキアーリ、ラウダス、バッチなどのマンドリンの大曲が演奏されていたが、古賀も「幻想的狂想曲」(ロマーノ)の難曲を独奏するなどの活動が見られている。1928年(昭和3年)夏には自殺を図るが未遂に終わる。蔵王の夕暮れを見て「影を慕いて」の詩が浮かんだと言われている。その年の秋の定期演奏会は明治記念館講堂で開催されたが、このとき佐藤千夜子の知遇を得た。また、このとき「音楽は和也」の理念が生れた。1929年(昭和4年)6月、明大マンドリン倶楽部の定期演奏会で『影を慕いて』(ワルツ・ギター合奏)を発表。その年の暮れには、佐藤千夜子の歌唱とマンドリンオーケストラを率いて、「文のかおり」など自作品をビクターで吹込んだ。1930年(昭和5年)秋には『影を慕いて』をビクターで佐藤千夜子の歌唱によって吹込む。この時は、まだマンドリン・ギター演奏家「古賀正男」だった。また、この歌は宮城県川崎町の風景をモチーフにしたといわれている。当時、死の淵に追われた古賀が川崎町の森林を歩いているうちに我に返りこの歌を書いたという。1931年(昭和6年)1月、新譜でレコードは発売されたが、売れ行きは芳しくなかった。尚、『影を慕いて』の創作過程については、菊池清麿の『評伝古賀政男 青春よ永遠に』に詳細に記されている。

作曲家としての誕生・活動[編集]

明治大学(旧制)商学部卒業後の1931年、日本コロムビア専属となった。当初作曲に自信が無く文芸部の社員を希望したが、結局作曲家として契約した。この時、東京音楽学校在籍時の藤山一郎と出会ったことが古賀政男の人生を大きく変えることになった。藤山一郎の歌唱表現が古賀政男の才能を開花させたのである。『酒は涙か溜息か』、『丘を越えて』、『影を慕いて』の3曲がSPレコードで発売され、以降多くのヒット曲を世に出した。(なお、藤山は東京音楽学校卒業後、ビクター専属となる。)

1933年(昭和8年)には、松平晃が歌唱した『サーカスの唄』がヒットしたが、直後離婚騒動などもあり、体を壊し、1933年の晩秋から翌年にかけて伊東で静養した。翌1934年、コロムビアからテイチクに移籍したが、ビクターから迎えた藤山一郎、ディック・ミネ、楠木繁夫、美ち奴などを擁し、『緑の地平線』『二人は若い』『東京ラプソディ』『あゝそれなのに』『青い背広で』『人生の並木路』などの作品はヒット曲となった。

1938年(昭和13年)秋、外務省の音楽文化親善使節として渡米。渡米直前にコロムビアに復帰した。1939年(昭和14年)秋、アメリカNBC放送で古賀の作品が取り上げられた。帰国後は『誰か故郷を想わざる』『目ン無い千鳥』『新妻鏡』『なつかしの歌声』等がヒット曲となった。

戦後の活動[編集]

古賀政男(1948年頃)
戦後の1948年(昭和23年)に近江俊郎が吹込んだ『湯の町エレジー』がヒット。同年には「古賀ギター歌謡協会」(後の古賀ギター学院)を設立した。

1960年代には過去に自らの前で「悲しき竹笛」を歌った美空ひばりの歌の作曲を手がけた。1964年(昭和39年)発表の『柔』は190万枚を売り上げ、1965年(昭和40年)の第7回日本レコード大賞を受賞。翌1966年(昭和41年)発表の『悲しい酒』も145万枚を売り上げるミリオンセラーとなった。

作曲活動の傍らで1959年(昭和34年)には日本作曲家協会を創設。初代会長となった。晩年の1974年(昭和49年)には『広島平和音楽祭』を開催した。

1978年(昭和53年)7月25日に死去。直後の8月4日、前年の王貞治に次ぎ史上二人目となる国民栄誉賞を贈られた。

主な作品[編集]
丘を越えて(1931年) 歌:藤山一郎
酒は涙か溜息か(1931年) 歌:藤山一郎
私此頃憂鬱よ(1931年) 歌:淡谷のり子
影を慕いて(1932年) 歌:藤山一郎
強くなってね(1933年) 歌:渡辺光子
サーカスの唄(1933年) 歌:松平晃
ほんとにそうなら(1933年) 歌:赤坂小梅
夕べ仄かに(1935年) 歌:松島詩子
緑の地平線(1935年) 歌:楠木繁夫
東京ラプソディ(1936年) 歌:藤山一郎
男の純情(1936年) 歌:藤山一郎
女の階級(1936年) 歌:楠木繁夫
ああそれなのに(1936年) 歌:美ち奴
うちの女房にゃ髭がある(1936年) 歌:杉狂児・美ち奴
青い背広で(1937年) 歌:藤山一郎
人生の並木路(1937年) 歌:ディック・ミネ
のばせばのびる(1937年) 歌:楠木繁夫
青春日記(1937年) 歌:藤山一郎
人生劇場(1938年、1959年) 歌:楠木繁夫(1938年版)、村田英雄(1959年版)
誰か故郷を想わざる(1940年) 歌:霧島昇
なつかしの歌声(1940年) 歌:藤山一郎・二葉あき子
新妻鏡(1940年、1965年) 歌:霧島昇・二葉あき子(1940年)、島倉千代子(1965年)
紫紺の歌(明治大学第一応援歌)(1941年) 歌:霧島昇
紅い睡蓮 (東寶映画「熱砂の誓ひ」主題歌)(1941年) 詩:西條八十 歌:李香蘭
そうだその意気(国民総意の歌)(1941年) 歌:霧島昇・松原操・李香蘭
南の花嫁さん(1942年) 歌:高峰三枝子
月夜船(1944年、1949年) 歌:波平暁男(1944年)、近江俊郎(1949年)
旅役者の唄(1946年) 歌:霧島昇
麗人の歌(1946年) 歌:霧島昇
悲しき竹笛(1946年) 歌:近江俊郎・奈良光枝
恋の曼珠沙華(1948年) 歌:二葉あき子
湯の町エレジー(1948年) 歌:近江俊郎
雨の夜汽車(1948年) 歌:奈良光枝
シベリヤ・エレジー(1948年) 歌:伊藤久男
三百六十五夜(1948年) 歌:霧島昇・松原操
港の恋唄(1949年) 歌:鶴田六郎
希望に燃えて(1949年) 歌:伊藤久男・霧島昇・近江俊郎・二葉あき子・奈良光枝・高倉敏
赤い靴のタンゴ(1950年) 歌:奈良光枝
トンコ節(1951年) 歌:久保幸江・加藤雅夫
月が出た出た(1951年) 歌:霧島昇・久保幸江
ゲイシャ・ワルツ(1952年) 歌:神楽坂はん子
白虎隊(1952年) 歌:霧島昇
こんなベッピン見たことない(1953年) 歌:神楽坂はん子
見ないで頂戴お月さま(1953年) 歌:神楽坂はん子
りんどう峠(1955年) 歌:島倉千代子
江戸の闇太郎(1957年) 歌:美空ひばり
青春サイクリング(1957年) 歌:小坂一也
永遠に答えず(1957年) 歌:島倉千代子
無法松の一生(1958年) 歌:村田英雄
思い出さん今日は(1958年) 歌:島倉千代子
銀座地階の女(1959年) 歌:コロムビア・ローズ(初代)
花散る下田(1960年) 歌:島倉千代子
東京五輪音頭(1963年) 歌:三波春夫、他
柔(1964年) 歌:美空ひばり
ウソツキ鴎(1964年) 歌:小林幸子
お島千太郎(1965年) 歌:美空ひばり
柔の男(1965年) 歌:美空ひばり
悲しい酒(1966年) 歌:美空ひばり
世界平和音頭(1968年) 歌:都はるみ
浜昼顔(1974年) 歌:五木ひろし

映画音楽[編集]
からくり歌劇(1936年、大谷俊夫監督)
ジャズ忠臣蔵(1937年、伊賀山正徳監督)
銃後の赤誠(1937年、水ケ江竜一監督)
弥次喜多道中記(1938年、マキノ正博監督)
新妻鏡(1940年、渡辺邦男監督)
熱砂の誓ひ(1940年、渡辺邦男監督)
歌ふ狸御殿(1942年、木村恵吾監督)
サヨンの鐘(1943年、清水宏監督)
麗人(1946年、渡辺邦男監督)
七つの宝石(1950年、佐々木啓祐監督)

主な門下[編集]
アントニオ古賀
山本丈晴
鶴岡雅義
南郷達也
小林幸子

スポーツ、

1. 白鵬 7連覇ならず 照ノ富士初優勝!大関昇進へ 優勝決定戦なし本割で決まる
スポニチアネックス 5月24日(日)17時32分配信

白鵬 7連覇ならず 照ノ富士初優勝!大関昇進へ 優勝決定戦なし本割で決まる

優勝した照ノ富士

 大相撲夏場所千秋楽、史上最多の8人による優勝決定戦の可能性もあったが、3敗でトップの関脇照ノ富士が碧山を下し、同じく3敗の横綱白鵬が横綱日馬富士に敗れたため、優勝決定戦にもつれることなく照ノ富士が初優勝をつかんだ。

【写真】日馬富士に寄り切られる白鵬 7連覇とはならなかった

 横綱白鵬、関脇照ノ富士が3敗。横綱日馬富士、大関稀勢の里に平幕の嘉風、勢、魁聖、高安が4敗。全員が4敗で並べば8人のトーナメントによる優勝決定戦の可能性もあったが、本割で照ノ富士が碧山を寄り切りで下し、優勝の可能性は白鵬か照ノ富士に絞られた。

 勝てば優勝決定戦という取組で白鵬は寄り倒しで日馬富士に敗れ、自身2度目の7連覇を逃した。

 照ノ富士は当初大関昇進について「13勝以上」と高いハードルが掲げられていたが、14日目になって「12勝でも優勝なら」と可能性が復活。初優勝を挙げ、大関昇進が確実になった。
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2. 高木勇、地元で白星 お立ち台から「お父さ~ん!お母さ~ん!」
スポニチアネックス 5月24日(日)17時39分配信

高木勇、地元で白星 お立ち台から「お父さ~ん!お母さ~ん!」

<中・巨>ヒーローインタビューで笑顔の巨人・高木勇

 ◇セ・リーグ 巨人5―2中日(2015年5月24日 ナゴヤD)

 「お父さ~ん!お母さ~ん!」インタビューのマイクを通じて、そう呼びかけた巨人・高木勇はスタンドの方を向いてキョロキョロ。しばらくして「(どこにいるか)分かんないです」。ヒーローのまさかの行動に球場には敵地とは思えないほど明るい笑いが響いた。

 三重出身で社会人時代を名古屋で過ごしたドラフト3位右腕。7回途中で降板となったものの、初の地元登板を白星で飾り、お立ち台ではいつものように“天然系キャラ”全開だ。「あの~地元で、あの~すごくで楽しみにしていたマウンドです。両親、友達、お世話になった方々にいっぱい来てもらって、元気に投げる姿を見せられて、本当によかったなと思ってます」。

 開幕5連勝の後、2連敗を喫したが、初の地元凱旋は勢いを取り戻した。初回に2点の援護をもらうと、走者を背負いながらも得点を許さない粘りの投球で6回まで0を並べた。7回には無死一、二塁から自身の野選でピンチを広げる“若さ”も露呈したが、直後に代打の小笠原を遊ゴロ併殺に仕留める強心臓ぶりも発揮した。

 本人は「毎回、野手の方々に助けてもらっている。のびのび投げることができているので感謝しています」と謙遜したが、ハーラートップの6勝目を挙げたルーキー右腕を原監督も「安定感があるしね。コンディションを落とさず、必死にやっている」と称えた。
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3. 巨人3連勝!坂本が先制2ラン 高木勇はハーラートップ6勝目
スポニチアネックス 5月24日(日)16時50分配信

巨人3連勝!坂本が先制2ラン 高木勇はハーラートップ6勝目

<中・巨>1回2死二塁、坂本は先制となる左越え2ランを放つ

 ◇セ・リーグ 巨人5―2中日(2015年5月24日 ナゴヤD)

 巨人が中日を5―2で下して3連勝を飾った。ナゴヤドームでの同一カード3連戦3連勝は2013年7月26~28日以来。中日戦初先発のルーキー高木勇が6回2/3を6安打2失点でハーラー単独トップの6勝目(2敗)をマークした。

 前日までの2試合は終盤に粘りを発揮した巨人だが、この日は鮮やかな先制パンチを見舞った。初回2死二塁から前日のヒーロー坂本が左翼越えに先制の2号2ラン。これで主導権を握ると、3回には2死一、二塁から阿部の右前適時打で1点を追加。4回には四球に盗塁、犠打と敵失で1点を加えた。

 高木勇は初回、先頭の大島にいきなり二塁打を浴びたが、亀澤、平田を連続三振、ルナを二ゴロに打ち取って無失点で切り抜けると、2、4、6回も得点圏に走者を背負いながら中日に得点を許さない粘りの投球。7回に自らの野選でピンチを広げ、無死満塁から遊ゴロ併殺の間に1点を失い、三塁に走者を残して降板した。

 代った利根が大島に中前適時打を浴びたものの、打線が8回2死一、三塁から片岡の遊撃内野安打で1点を追加。その後はマシソン、沢村のリレーでリードを守り抜いた。高木勇は開幕5連勝の後に2連敗を喫したが、3試合ぶりの白星。

 中日は先発の小熊が3回6安打3失点と誤算。7回無死満塁で代打の切り札・小笠原が遊ゴロ併殺打に倒れ、反撃ムードがしぼんでしまった。
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4. 【DeNA戦後一問一答】阪神・和田監督「こっちは、いくつもぶつけられている」
サンケイスポーツ 5月24日(日)18時54分配信

【DeNA戦後一問一答】阪神・和田監督「こっちは、いくつもぶつけられている」

9回、上本への頭部死球をめぐってDeNA・嶺井につめよる阪神・和田監督=横浜スタジアム(撮影・彦野公太朗)(写真:サンケイスポーツ)

 (セ・リーグ、DeNA8-6阪神、8回戦、DeNA6勝2敗、24日、横浜)

 --最後につなぐ意識が出ていたが

 阪神・和田監督「そこまでの過程で防げる過程があった。2、3番手というところが止められなかった」

 --呉昇桓を使えない影響が継投に出たか

 「影響うんぬんよりもあそこで七回、八回の投手を三回でつぎ込むのはねえ。彼らには彼らの仕事があるから。同点、1点ビハインドぐらいは仕方がないというところで出している。想定外というか、それよりいってしまった。ただ、あそこは2点でも3-5の時点でも、まだまだ追いかけられる点数なんで」

 --岩貞の制球難が響いた

 「あれだけストライクが入らないと厳しいのは厳しいな」

 --乱闘のシーンは嶺井が何か言ったのか

 「いやいや、ぶつけて向こうから言ってくることはあり得ないからね。ただこっちは、いくつもぶつけられているからね」

 --一回の攻撃は交流戦につながる

 「確かに打線には動きが出てきたからね。ちょっとその分、点は取られているんだけど、ちょっとずつチームが動き出しているから。決して悪い状態で交流戦に入っていくわけじゃない。レギュラーシーズン、セ・リーグの戦いはひとまず置いておいて、明日から新鮮な気持ちで戦いたいと思う」

 --呉昇桓は週明けからいける

 「昨日より状態が悪かったんでね。明日の状態を見てということになる。それほど長いことどうのこうのはないにしても、2日空いたんで、1日、ちょっと1日様子みます」

 --症状は発熱か

 「昨日の状態とほとんど変わらないか、もしくは昨日より良くないかなという感じ。体調不良で。今のところ、それ以上のものではない」

 --梅野は2軍で

 「作り直すというかね。今まで自分で経験したことをプラスにして。ゲーム前は“修行”という言い方をしたけど、ここではできないことを下でしっかりと、一生懸命やって目の色が変わってまた上がってきたらいい」
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5. イチロー、不正投球左腕から中前打「あの球を捨てるわけにはいかない」
デイリースポーツ 5月25日(月)7時50分配信

イチロー、不正投球左腕から中前打「あの球を捨てるわけにはいかない」

試合前のフィールドでストレッチをするイチロー=マイアミ(撮影・小林信行

 「マーリンズ5-2オリオールズ」(24日、マイアミ)

 マーリンズのイチロー外野手(41)は5-2の八回に代打で途中出場し、中前打を放った。打率は・296。メジャー通算安打数を2876本とし、歴代41位のメル・オットの記録に並んだ。

 本拠地に大きな歓声と拍手が起こった。3点リードの八回、2死走者なし。「代打・イチロー」がアナウンスされた。観客の中には喜びのあまり立ち上がり、声援を送る者さえいた。

 マウンドには、前日の試合で右手首につけた異物を使う不正投球で退場処分を受けた中継ぎ左腕のマティス。左投手への左の代打となったが、イチローのメジャーでの対左腕打率・330を考えれば自然な起用だ。しかも、マティスとの過去の対戦成績は6打数3安打(プレーオフ含む)と相性もよく、本人も「(対戦の)数は少ないけどたくさん見てるからね、ダグアウトからもテレビでも。そんな少ないんだっていう印象ですね」と話すほど、熟知している投手だ。

 イチローのバットが快音を響かせたのはカウント1-2からの4球目だ。138キロの内寄り低めのスライダーを鋭くセンターへ弾き返した。縦に変化するスライダーはマティスの決め球。追い込まれた状況下の心理についてイチローは「あの球(スライダー)を捨てるわけにはいかない。追い込まれたらどっちを待つかって言ったらあのボールを待つ。真っ直ぐはファウルにするという考え方じゃないとね」と説明した。

 チームは5月1、2日以来となる2連勝。GMからの転身で話題になっているジェニングス新監督にとっても就任7戦目にして初の連勝となった。
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ニュース、
1. 5月17日に行われた住民投票で、大阪市を廃止して5つの特別区に分割する大阪都構想が僅差で否決され、橋下徹大阪市長は任期満了後の政界引退を表明しました。橋下氏の悲願だった大阪都構想は、なぜ住民の支持を得られなかったのでしょうか。(イメージ:アフロ)

都構想の敗因を探る
 都構想の敗因をめぐっては、橋下氏の政治手法によるとの見方や、世代間対立に着目する意見、大阪市内の南北格差であるとする意見などさまざまな分析がなされています。 橋下大阪市長:強引さ裏目 ふわっとした民意そっぽ - 毎日新聞(5月18日)
【大阪都否決】橋下市長はなぜ、敗れたのか - 木村正人(5月21日)
橋下痛恨の敗戦、「勝てる戦」を落とした命運は結局「女性問題」 - iRONNA
敗因はシルバーデモクラシー? 大阪都構想を拒否した高齢者は大阪の「安楽死」を選んだ - 池田信夫 エコノMIX異論正論 - ニューズウィーク日本版(5月21日)
高齢者が葬った「橋下氏の時代」~「若者が弱者ではない社会」に - 田中俊英(5月18日)
大阪都構想を葬ったのは「シルバーデモクラシー」ではない=若い世代の人口は70歳以上の2倍以上多い - 井上伸(5月18日)
辛坊治郎氏に贈る大阪市の住民投票結果の分析 - 渡辺輝人(5月21日)
「南北格差」の影響は 「大阪都構想住民投票」で浮き彫りになった大阪の「南北格差問題」 - 古谷経衡(5月18日)
大阪都構想、投票結果を分けたのは「南北分断」ではなかった? - ハフィントンポスト(5月18日)

ネットの声は
 Yahoo!ニュースの意識調査では、5月21日時点で約5万1千票が集まっており、敗因で大きかったのは「都構想の政策面」が50.7%、「橋下市長の言動・パーソナリティー」が49.3%と拮抗しています。

寄せられた意見
政策面でしょう。 支持率自体減少しているものの、ある程度のラインを保っていますし。 大阪在住ではないですが、大阪都にすることの意味が伝わってこなかったですね。 せっかくの、知名度と露出があるのに今回は生かしきれていなかった。 ということは、政策面で詰め切れていなかったことが敗因ではないでしょうか。 私自身は政策面でも反対だったけど、政策面の議論はほとんど盛り上がらず、賛成派も反対派もどんどんレベルの低い感情論に支配されていったのではないかと思います。 その原因の一つは、やはり市長のパーソナリティだと思うのです。質問に対しては丁寧に回答をするけれど、それはそうすることによって支持者になるから。真っ向からの反対意見に対してはまさに喧嘩。きちんと反証し丁寧に議論を積み重ねていったという感じは受けません。大阪市民も市長としては支持しても、これだけ敵を作り、これだけ攻撃し続けた人を「信じる」ことが出来なかったということもあると思います。 ゆえに、敗因を挙げるならば、政策以前に「パーソナリティ」だと思います。 改革は必要だが、冷静に考えてみると、 大阪府と市の財政再建は「大阪都構想」で 出来るのか、あいまい。 大阪の活性化策も今一つ説得力がない。 確信を持って投票した人が少なかっただろう。 メディアの責任が大きい。 賛成反対の中身をきちんと解説してほしかった。 討論の場をきちんと設定すべきだった。 だから、政策論でなく、橋下氏が好きか嫌いか の投票になってしまったのではないか。 残念だ。 二重行政による無駄について、橋下大阪市長と松井大阪府知事は市と府でどのような無駄をしてきたのか、それがどうして解消できなかったのか、キチンと説明がされていない。二重行政の解消は橋下市長と松井大阪府知事が話し合いばわざわざ大阪都にしなくても簡単にできることである。橋下大阪市長と松井大阪府知事が話し合ってできないことが大阪都になってできるはずがない。

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2. 雨不足でキャベツ高騰 初夏の味覚高値続く 店頭価格調査、平年の倍
ちばとぴ by 千葉日報 5月24日(日)10時26分配信

雨不足でキャベツ高騰 初夏の味覚高値続く 店頭価格調査、平年の倍

600軒を超す栽培農家が年間約600万ケースを出荷する全国有数のキャベツ産地の銚子市は現在、1日8万ケースを出荷する春キャベツの最盛期。出荷は6月いっぱいまで続く。「例年並みの出荷量」(JAちばみどり営農センター銚子)だという=22日、銚子市高神西町


 今月中旬以降、関東地方を中心に雨不足が続いている影響で、キャベツなどの野菜が高騰している。農林水産省が実施している全国470店舗のスーパーなどの店頭価格調査によると、キャベツは11~15日に1キロ当たり平均318円で、平年の約1・9倍の高値となった。

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 キャベツの店頭価格は農水省が調査を始めた2010年4月以来の最高値。ことし3月中には150円前後で推移していたが、その後、上昇傾向となっている。このほか、レタスが平年の1・3倍、キュウリ、トマトが1・2倍だった。

 春キャベツの主要産地である千葉県のJA全農ちばの担当者は「足元の生産量はまだ不安定で、今後の回復は天候次第。消費者も高値を敬遠し、ネギやホウレンソウなど、生産量が戻ってきた品目に人気が集まりつつある」と話す。

 農水省によると、4月までは全国的に雨天が続き、その後は逆に雨が降らず干ばつ傾向となり、露地物野菜を中心に生育不足で生産が落ち込んでいる。

 農水省は各地の農政局を通じ、全都道府県で10店舗ずつを対象にした店頭の価格調査を毎週発表している。価格は消費税込みで、特売品は含まない。
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3. 血で染まる入り江、過去の映像で「残酷」断定か
読売新聞 5月25日(月)10時5分配信

血で染まる入り江、過去の映像で「残酷」断定か

和歌山県太地町の「町立くじらの博物館」で飼育されているバンドウイルカ。追い込み漁で捕獲された(22日撮影)

 イルカの追い込み漁を「残酷だ」とする世界動物園水族館協会(WAZA)の警告に従い、加盟水族館に漁で捕獲されたイルカの入手を禁じることを決めた日本動物園水族館協会(JAZA)。

 だが、漁がなぜ残酷なのかという疑問や不満が、漁の地元やJAZA内部にくすぶっている。JAZAからの離脱を検討する水族館も出てきた。

 紀伊半島南東部の和歌山県太地町。切り立った岩場に囲まれた、「影浦」と呼ばれる入り江が漁の現場だ。

 「残酷との批判はあたらない」。JAZAの決定から2日後の今月22日、町を訪れると、「町立くじらの博物館」の桐畑哲雄副館長(55)が強い口調で訴えた。同館によると、この地でイルカやクジラの漁が始まったのは400年以上前。追い込み漁は、昭和初期には導入されていた。音に敏感な習性を利用し、漁師が複数の漁船から金づちで「カンカン」と金属音を出しながら入り江に追い込み、網で捕獲する。

 この漁を、WAZAは「残酷」と指摘。国内の多くの水族館がイルカの入手を漁に頼っていることから、JAZAに「改善しなければ除名する」と通告してきたが、桐畑副館長は「水族館で飼育するイルカを傷つけずに捕獲できる」と反論する。水産庁によると、2013年には1239頭を捕獲、172頭が国内外の水族館などに販売された。

 町役場には、「イルカがかわいそう」など、連日20件以上の抗議電話がある一方、「漁は文化なので続けるべきだ」など激励の電話もほぼ同数あるという。

 イルカは、町ではなじみ深い食材だ。食料品店には冷凍のイルカ肉が積まれていた。買い物に来ていた主婦(71)は「クジラやイルカを食べて育った。漁がなくなったら困る」と話した。

 「JAZAの決定は残念。ただ、WAZAを脱退すべきと意思表示した加盟施設も多数あったと聞き、うれしかった」。ベテラン漁師の男性はそう語り、「漁はやめない」と言い切った。

 ◆映画が影響か

 追い込み漁を「残酷」だとして、04年秋にWAZA総会で初めて日本側への非難決議が採択されて以降、JAZAはWAZAに対し、どこが残酷なのかと問い続けてきたが、現在まで明確な回答はない。

 なぜ、WAZAは「残酷」と断じたのか。JAZAによると、WAZAの討議資料では、イルカがもりで突き刺され、入り江が血で染まった様子が再三紹介されてきた。09年には、この場面を強調し、漁を批判的に描いた米映画「ザ・コーヴ」も公開された。実際には、数年前から大量出血を伴わない漁具が導入され、今ではこうした場面が見られることはない。JAZAでは、過去の映像が誤ったイメージを定着させたとみる。
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4. 衆院議員の資産公開 鳩山邦夫氏約30億円
日本テレビ系(NNN) 5月25日(月)10時29分配信

 去年12月の総選挙で当選した衆議院議員の資産が25日、公開された。資産が一番多かったのは自民党の鳩山邦夫元総務相で30億6000万円あまりとなっている。

 トップだった鳩山元総務相は約30億6520万円で、これには2013年2月に死去した母親からの土地の相続分も含まれている。また、現職大臣のトップは麻生財務相の4位で約4億5761万円だった。

 各党の党首別では、「生活の党と山本太郎となかまたち」の小沢一郎代表が約2億1491万円でトップだった。2位は自民党の安倍首相で約1億529万円だった。安倍首相は山梨県鳴沢村に別荘を所有しているほか、趣味のゴルフの会員権も所有している。

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5. 加古川7人殺害事件、最高裁が責任能力認め、被告の死刑確定
産経新聞 5月25日(月)15時46分配信

 兵庫県加古川市で平成16年、親族ら7人を刺殺したとして殺人罪などに問われ1、2審で死刑とされた無職、藤城康孝被告(58)の上告審判決で、最高裁第2小法廷(千葉勝美裁判長)は25日、責任能力を認めて被告の上告を棄却した。死刑が確定する。

 被告が犯行当時、妄想性障害による心神耗弱状態だったのかが裁判を通じた争点。弁護側は「親族間や近隣でのいじめトラブルにより、妄想性障害となり殺人者になった。完全責任能力は認められない」として死刑回避を主張。検察側は「1、2審の判断に誤りはない」として上告棄却を求めていた。

 1審神戸地裁では、弁護側請求の精神鑑定で、「妄想性障害」として完全責任能力を否定したが、検察側請求の鑑定は「情緒不安定性人格障害」として精神障害はなかったとした。地裁は、「情緒不安定の人格障害があったに過ぎない」として妄想性障害を認めず、死刑を言い渡した。

 2審大阪高裁が職権で実施した精神鑑定では、鑑定医が「被告は妄想性障害で、判断能力に著しく障害があった」と責任能力が限定的だったとの見解を示したが、同高裁は「著しい影響を及ぼしたとは認められない」と完全責任能力を認めた。

 判決によると、藤城被告は16年8月2日未明、自宅の両隣の民家に包丁と金鎚を持って侵入。親族を含む7人を刺殺、1人に重傷を負わせたほか自宅に放火して全焼させた。
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6. ネパール山間部で大規模地滑り 数千人が高台に避難
テレビ朝日系(ANN) 5月25日(月)11時57分配信
 ネパールの大地震から1カ月です。山間部では大規模な地滑りが起き、数千人が高台に避難しました。

 首都カトマンズから北西に約200kmの山間部で24日、地滑りが発生しました。地元の当局によりますと、崩れた土砂などで川がせき止められ、長さが2kmにも及ぶ湖ができたということです。この湖の下流では、決壊を警戒して数千人の住民が高台に避難しています。先月25日にネパールで発生した大地震では8648人が死亡しています。山間部では地震の影響で地盤が緩むなどして地滑りが多発していて、住民は今も不安を抱えています。.

22015年5月24日。中日対巨人戦。5対2で巨人3連勝、高木、坂本

2015-05-24 18:11:08 | Weblog
       2015年5月24日
国民栄誉受賞者
黒澤明5/24
黒澤 明(くろさわ あきら、新字体:黒沢明、1910年3月23日 - 1998年9月6日)は、日本の映画監督、脚本家、映画製作者。妻は元女優の矢口陽子。

映画史の中で最も重要かつ影響力のある映画監督の一人であり、ダイナミックな映像表現とヒューマニズムに徹した作風で、『羅生門』『生きる』『七人の侍』など30本の監督作品を生み出した。小津安二郎、溝口健二、成瀬巳喜男らと共に世界的にその名が知られており、作品もアカデミー賞と世界三大映画祭(ヴェネツィア、カンヌ、ベルリン)で受賞され、多大な評価を得ている。また、北野武、スティーブン・スピルバーグ、ジョージ・ルーカス、フランシス・フォード・コッポラなどの映画人にも大きな影響を与えており、「世界のクロサワ」と呼ばれた。

映画監督として初めて文化勲章と国民栄誉賞に選ばれている。ほかの栄典・称号に文化功労者、従三位、東京都名誉都民など。1990年に日本人初のアカデミー賞名誉賞を受賞。1999年には米週刊誌『タイム』アジア版の「今世紀最も影響力のあったアジアの20人」に選出されている。米国映画芸術科学アカデミー会員。



目次 [非表示]
1 経歴 1.1 生い立ち
1.2 映画界入り
1.3 監督デビュー
1.4 世界のクロサワに
1.5 ハリウッドへ進出
1.6 晩年
1.7 死去

2 作風 2.1 妥協を許さない演出
2.2 撮影
2.3 スタッフ
2.4 俳優

3 評価・影響 3.1 世界的な影響

4 その他
5 芸能界に関係する家族
6 受賞歴 6.1 監督個人 6.1.1 受賞
6.1.2 栄典・称号

6.2 作品の受賞

7 作品 7.1 監督作品
7.2 著作権問題
7.3 その他の映像作品
7.4 作詞
7.5 その他

8 関連文献 8.1 著書
8.2 回想・評伝・作品研究
8.3 ムック
8.4 絶版書籍・雑誌

9 黒澤明記念館
10 黒澤デジタルアーカイブ
11 脚注
12 関連項目
13 外部リンク


経歴[編集]

生い立ち[編集]

1910年(明治43年)、東京府荏原郡大井町(現在の東京都品川区東大井)の荏原中学校(現日体荏原高等学校)職員社宅に[1]、父・勇と母・シマの4男4女の末っ子として生まれる[2][注釈 1]。父・勇の生家は秋田県中仙町(現在の大仙市中仙町豊川)の士族の家で、先祖は安倍貞任の三男・黒澤尻三郎[要検証 – ノート]である[3][注釈 2]。勇は陸軍戸山学校の第一期体操学生から同校の体操教官となり、その後日本体育会(現在の日本体育大学)の理事となって、併設された荏原中学校の要職も歴任した。

1916年(大正5年)、森村学園附属幼稚園に入園。この頃、映画を観ることを「教育上に好ましい」と語る父に連れられてよく映画見物に出かけていた。黒澤はウィリアム・S・ハート(英語版)[注釈 3]主演の西部劇や連続活劇など、洋画をよく観ていたという[1]。翌1917年(大正6年)、同学園尋常小学校に入学。

1918年(大正7年)、勇が不正経理を追及され、理事の職を解かれた。そのため大井町から小石川区西江戸川町(現在の文京区水道一丁目)の借家に移り、黒田尋常小学校(文京区立第五中学校の前身)に転学した。

小学校低学年の頃、気の弱かった黒澤は、泣き虫でいじめられっ子だった。しかし3年生の時、図画の時間に描いた絵が個性的すぎてみんなに笑われる中、担任だった立川精治はこの絵を褒めた[4]。それ以来絵を描くことが好きになり、同時に学校の成績も伸び、やがて級長にもなった[1]。後に黒澤は立川を「生涯の恩師」と語っている[4]。さらに実兄の丙午(須田貞明)[注釈 4]から厳しい指導を受けたことや、終生の友となる級友の植草圭之助に出会ったこと[注釈 5]、父の名で剣道を始めたことなどで、心身ともにたくましくなり、卒業式では総代として答辞を呼んだ[1]。

卒業後、東京府立第四中学校(現・東京都立戸山高等学校)を受験するも失敗[5]し、京華中学校に入学。在学中に同舟舎洋画研究所に通う[1]。中学時代からドストエフスキー、トルストイ、ツルゲーネフなどのロシア文学を読みふけり、人生観、倫理観の形成に多大な影響を受けた。また、学友会誌に作文「蓮華の舞踏」と「或る手紙」を載せ、国語教師の小倉要逸に「創立以来の名文」と絶賛された。

1927年(昭和2年)、中学を卒業した黒澤は画家になることを志し、美術学校(現・東京藝術大学美術学部)を受験するが失敗。しかし画家の道は諦めず、川端画学校に通って洋画を勉強した[1][注釈 6]。1928年(昭和3年)、二科展に「静物」が入選。同年、造形美術研究所(のちのプロレタリア美術研究所)に入る。1929年(昭和4年)、日本プロレタリア美術家同盟に参加し、洋画家・岡本唐貴(白土三平の実父)に絵を教わる。当時黒澤は、ミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチなど、ルネッサンス美術の絵画や彫刻に心酔していたという。

同年12月、第2回プロレタリア美術大展覧会に「建築場に於ける集会」「帝国主義反対」「農民習作」「農民組合へ」「労働組合へ」の5つの政治色の強い作品を出品。1930年(昭和5年)に徴兵検査を受けるが、父が有力な軍人であったことや、兄が騎兵時代に負傷したこともあってか免除されている。この頃から一時期だけ非合法な政治活動に参加し、街頭連絡員として地下に潜っていた[1]。

映画界入り[編集]

1936年(昭和11年)、画業に見切りをつけた黒澤は、新聞広告で見たP.C.L.映画製作所(後に東宝と合併)の助監督募集に応募し、100倍の難関を突破して4月に入社した。

谷口千吉の推しによって、主に山本嘉次郎監督の下で助監督を務め、『藤十郎の恋』や『綴方教室』などを担当した。また、山本の助言でシナリオを書くようになり、1941年(昭和16年)に書いた『達磨寺のドイツ人』は、映画化はされなかったものの評論家の間では話題となり、伊丹万作からも絶賛された。翌1942年(昭和17年)に書いた『雪』は情報局国民映画脚本募集で情報局賞を受賞し、『静かなり』は日本映画雑誌協会の国策映画脚本募集で1位に入賞した。

山本監督の『馬』でB班監督を務めた際、主演した高峰秀子と一時期恋愛関係にあっていたが、山本嘉次郎が破談役となって、不実で終わっている[1][注釈 7]。

戦中、黒澤は初の監督作品として自らシナリオを書いた『敵中横断三百里』が予定されたが、新人監督としてはスケールが大きかったたため、実現しなかった。企画を見送った森田信義は後に「私の一生の最大のミステーク」と語っている[1]。

監督デビュー[編集]

1943年(昭和18年)、『姿三四郎』で監督デビュー。作品はヒットし、新人監督に贈られる山中貞雄賞を受賞[注釈 8]

終戦前の1945年(昭和20年)5月21日、監督第2作『一番美しく』に主演した矢口陽子と結婚。媒酌人は山本嘉次郎夫妻で、明治神宮で挙式を行った。同年、『虎の尾を踏む男たち』を敗戦をまたいで製作する。製作中に黒澤が敬愛するジョン・フォードが進駐軍の将官として見学に訪れていた。黒澤はこのことを後にフォードから聞いて驚いたという。一方、作品は検閲で公開を見送られ、1952年(昭和27年)にようやく公開された。

戦後第1作は、民主主義啓蒙映画の『わが青春に悔なし』で、翌1947年(昭和22年)に、焼跡の市井の人にスポットをあてた『素晴らしき日曜日』を発表し、毎日映画コンクール監督賞を受賞。東宝の看板監督の一人となった。

また1946年(昭和21年)、山本嘉次郎が審査委員長を務めた東宝ニューフェイスのオーディションにおいて、撮影助手志望だったが、何かの手違いで俳優オーディションの面接を受けていた三船敏郎を目撃。本来は落選となっていた三船だが、一目ぼれした黒澤は山本に直訴までして採用。三船のデビュー作『銀嶺の果て』では既に脚本を執筆(主演は志村喬)。1948年(昭和23年)、『醉いどれ天使』で三船を自作に起用し、以来黒澤作品の常連俳優となった。

同年3月、第三次東宝争議が発生、この影響で黒澤は山本、谷口、成瀬巳喜男、本木荘二郎、松山崇、田中友幸らと映画芸術協会を設立して組合を脱退。争議終結まで他社で映画製作を行うことになる。1949年(昭和24年)、大映で『静かなる決闘』を、新東宝で黒澤初のサスペンス映画となる『野良犬』を発表。

世界のクロサワに[編集]

1950年(昭和25年)、大映で『羅生門』を撮影。人間不信をテーマに描いたものの難解な作品であったため、国内での評価はあまり高くはなかった。しかし、海外では大きな反響を呼び、1951年(昭和26年)、ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞とアカデミー賞名誉賞を受賞。その映像感覚が国際的に注目され、「世界のクロサワ」と呼ばれるきっかけとなった。

1952年(昭和27年)、東宝復帰第1作として志村喬主演で『生きる』を発表。ヒューマンドラマの傑作との呼び声が高く、ベルリン国際映画祭上院特別賞を受賞した。

1954年(昭和29年)、1年以上の製作期間と大規模な製作費をかけた大型時代劇『七人の侍』を発表。作品は大ヒットし、ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞。現在に至るまで映画史上の名作として国内外で高く評価されている。

さらに、原爆の恐怖を描いた『生きものの記録』、シェイクスピアの『マクベス』を日本の戦国時代を舞台に翻案した『蜘蛛巣城』、ゴーリキーの同名戯曲を江戸時代を舞台に映画化した『どん底』、娯楽時代活劇で黒澤初のシネマスコープ作品の『隠し砦の三悪人』を撮影し、黒澤の名を国際的に高めていった。

1957年(昭和32年)、第1回ロンドン国際映画祭にジョン・フォードとともに招かれ、オープニング作品として『蜘蛛巣城』が上映された。また、1958年(昭和33年)にはベルリン国際映画祭銀熊賞 (監督賞)を受賞。

1959年(昭和34年)、黒澤プロダクションを設立した。黒澤プロの設立は、黒澤の意向によるものというより、『隠し砦の三悪人』の大幅な撮影予定期間オーバーによる予算超過に業を煮やした東宝側が、黒澤にリスク負担させることにより枷をはめようとしたものであった(収益の分配も東宝側に有利な契約になっていた)。その後も時代劇の傑作『用心棒』や社会派サスペンスの傑作『天国と地獄』などを発表し、大監督の名声を確定させる。

1965年(昭和40年)、ヒューマニズムの傑作と謳われる『赤ひげ』を発表。枠をはめられることを嫌っていた黒澤がその完全主義を徹底させ本作は、撮影期間約1年を要して大幅な予算超過となり、東宝との関係は悪化。東宝との専属契約は、解除された。

ハリウッドへ進出[編集]

ハリウッドからのオファーを受けるようになった黒澤は、『赤ひげ』の撮影後にアメリカで『暴走機関車』の製作を準備。主演にピーター・フォークとヘンリー・フォンダ、撮影監督にオスカー受賞者ハスケル・ウェクスラーが決定していた。しかし用意された脚本に黒澤側が納得しなかったことや、制作方針を巡りアメリカ側プロデューサーのジョーゼフ・E・レヴィーンと深刻な対立が生じたために頓挫(黒澤は65ミリカラーを希望したが、ハリウッド側は35ミリ白黒を提示した)。この企画は、後にアンドレイ・コンチャロフスキーが、黒澤の執筆した脚本を原案として映画化している。

1968年(昭和43年)、日米合作『トラ・トラ・トラ!』の製作に参加する。20世紀フォックス側のアメリカ公式発表では黒澤は日本側部分の演出担当、黒澤プロ側の公式発表および日本での報道では総監督[注釈 9]となっていた。しかし、黒澤の映画作りの方法とアメリカの映画作りの方法とがうまく合わなかったり(黒澤は事前に十分なリハーサルを行った上で、撮影に臨むのが通例であるが、米側に、この事前リハーサルの意味が理解されず拒否されるなど)、東京から来た黒澤に反感を持つ京都太秦撮影所スタッフとの間で摩擦が発生しスタッフがストに突入するなどして現場が崩壊したことなどを理由にスケジュールが大幅に遅延した。ついに製作遅延を無視できなくなった米側により事実上の解任をされ、表向きには健康問題を理由に監督を降板したという発表がなされた。[注釈 10]

1969年(昭和44年)10月、木下惠介、市川崑、小林正樹らと四騎の会を結成。翌1970年(昭和45年)に山本周五郎の『季節のない街』を原作に、四騎の会で製作した初のカラー作品『どですかでん』を撮影。黒澤個人の邸宅を抵当に入れて資金を確保して製作するが、商業的には失敗となる。

1971年(昭和46年)12月22日、自殺未遂事件を起こす。日本の映画産業の衰退の時期と重なったこともあり、この後は5年おきに撮るようになった。

1975年(昭和50年)、ソビエト連邦から招かれ[注釈 11]、ごく少数の日本人スタッフを連れてソ連に渡り『デルス・ウザーラ』を撮った。ソ連の官僚体制の中で思うように撮影が進まず、シベリアのタイガでのロケーション撮影は困難を極めた。完成した作品は、それまでの作風と異なり極めて静的なものであったために日本国内では評価が分かれたが、モスクワ映画祭金賞、アカデミー外国語映画賞を受賞。ソ連側の期待に十分に応え、日本国外では黒澤復活を印象づける作品となった。

晩年[編集]

1976年(昭和51年)11月、日本政府から文化功労者として顕彰される。

1980年(昭和55年)、ジョージ・ルーカス、フランシス・フォード・コッポラを外国版プロデューサーに配して『影武者』を発表し、カンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞。1985年(昭和60年)、フランスとの合作で『乱』を公開。1988年(昭和63年)から米ワーナー・ブラザーズの製作とスティーブン・スピルバーグの提供で『夢』の製作に取り掛かり、1990年(平成2年)に公開された。以上の3作はいずれも外国資本参加によって製作された。

1985年(昭和60年)11月、文化勲章を受章。映画業界の人物としては初の文化勲章受章者となった。

1986年(昭和61年)、第58回アカデミー賞に出席。『乱』で監督賞などにノミネートされたほか、衣裳デザイン賞でワダ・エミが受賞。黒澤はビリー・ワイルダー、ジョン・ヒューストンとともに作品賞のプレゼンターを務める。

1990年(平成2年)、アカデミー名誉賞を受賞。ルーカスとスピルバーグが、「現役の世界最高の監督です。“映画とは何か”に答えた数少ない映画人の彼にこの賞を送ります」と紹介した。

死去[編集]





鎌倉市の安養院にある黒澤の墓。
遺作となった『まあだだよ』公開後、山本周五郎の二つの短編作品を脚色した『海は見ていた』のシナリオを執筆。1995年(平成7年)から『雨あがる』の脚本執筆に取り掛かるが、3月に京都の旅館で転倒骨折。療養生活に入るが、1998年(平成10年)9月6日午後0時45分、脳卒中により死去。88歳没。

また、同年11月11日に友人である映画評論家・淀川長治が後を追うような形で死去。叙・従三位。同年10月1日、映画監督としては初の国民栄誉賞を受賞。没後、『雨あがる』が2001年(平成13年)に小泉堯史監督によって、『海は見ていた』が2004年(平成16年)に熊井啓監督によってそれぞれ映画化された。

作風[編集]

妥協を許さない演出[編集]

完璧主義とも呼ばれる黒澤は、妥協を許さない厳しい演出で知られる。

俳優の演技はごく自然に見えるまでリハーサルを何度も何度も行い、徹底的に役になりきらせている(当時の映画界ではリハーサルは重視されなかったが、黒澤はデビュー作からリハーサルを入念に行った)。また、本読みの段階から衣装を着させることもある。

黒澤作品の美術は細部まで綿密に作られ、巨大であるセットが特徴的である。長年黒澤作品で美術監督を務めた村木与四郎は、「(黒澤のセットの特長は)みんな大きなロケセットを一つデーンと建てちゃう点」と語っている[9]。『野良犬』では30杯ものセットを作ったといわれ[10]、『羅生門』では高さ20メートルに及ぶ巨大な門を大映京都撮影所前に建設した。カメラに写らないところにまで大道具小道具を作り込むのも特徴で、『赤ひげ』では薬棚の引き出しの中にまで漆が塗られ、『羅生門』では「延暦十七年」と彫られた門の瓦を4000枚も焼いている。

『蜘蛛巣城』のクライマックスとなる、三船演じる鷲津武時が城兵の裏切りにより、全身に矢を浴びせられてハリネズミのようになり最期を遂げるシーンでは、本物の矢が三船に射かけられるという命がけのスタントが行われ、三船は黒澤に「俺を殺す気か?」と怒鳴ったほどである。(蜘蛛巣城#撮影に関するエピソード参照)

『天国と地獄』では、特急こだまからの身代金受け渡しシーンで、本物のこだま用国鉄151系電車を一編成チャーターし、実際に東海道本線上を走らせて撮影を行った。(天国と地獄 (映画)#エピソード参照)

ほかにも、スタッフと役者を待機させながら演出意図に沿った天候を何日も待ち続けたり、撮影に使う馬はレンタルせず何十頭を丸ごと買い取って長期間調教し直してから使ったり、ロケ現場に立っていた民家の二階部分が妨げになる為、住民にお願いして撮影の時だけ二階部分を取りさり、撮影終了後にもとに戻したなど、様々な逸話がある。

撮影[編集]

黒澤は複数のカメラを同時に回し撮影するというマルチカム手法を頻繁に取り入れた。これは長い芝居を複数台のカメラで同時に回し、ワンシーン・ワンカットで撮影するという手法である。これにより役者、スタッフの緊張感を高めリアルで迫力ある映像に結びついていった。この技法は元々『七人の侍』で、雨中の合戦や水車小屋が焼けるシーンなど撮り直すことが難しいシーンを、何台かのカメラで一度に写すことから始まったもので、『生きものの記録』から本格的に導入した。

独特なパンフォーカス撮影もほとんどの作品で行っており、パンフォーカスには不向きな望遠レンズをあえて使用するため、絞りを極限まで絞って撮影しなければならなかった。そのためには強い照明をあてなければならず、黒澤の撮影日は電力不足で撮影所の他の仕事ができなかったという。また、あまりにも強い照明を当て続けたせいで役者のカツラが燃えだしたこともあった。志村喬は『悪い奴ほどよく眠る』の撮影で「髪は燃えそうなほど熱く、テーブルのフォークやスプーン(小道具)は熱くて持てなかった」と語っている[11]

スタッフ[編集]

監督作品は基本的にはすべて自らの企画・シナリオによる。大抵の作品では共同執筆者がいたが、自分の描きたいものを自分の言葉で語るということは譲らなかったという[11]。共同執筆する理由として黒澤は「僕一人が書いていると大変一面的になるおそれがある。二人(もしくは二人以上)でディスカッションしながらやっていく」[12]と語っている。そんな黒澤作品の主な共同執筆者として小国英雄(12本)、菊島隆三(9本)、橋本忍(8本)、久板栄二郎(4本)、井手雅人(3本)、植草圭之助(2本)がいる。

映画音楽は作曲家任せではなく、作曲家に自分の欲しいイメージを的確に伝えていた[9]。そのため注文の厳しい黒澤と作曲家との軋轢は常にあったという。『酔いどれ天使』から黒澤作品で音楽を担当した早坂文雄とは私生活でも無二の親友であった。『七人の侍』の「侍のテーマ」を作曲したのも早坂で、黒澤の黄金期の作品の音楽を作曲した。しかし、1955年に『生きものの記録』の音楽を最後に早坂が死去。代わって彼の愛弟子だった佐藤勝が『赤ひげ』までの音楽を担当した。武満徹も『どですかでん』と『乱』の2作を担当したが、黒澤と衝突して訣別している。晩年の作品では池辺晋一郎が担当した。

ほかのスタッフは、一貫して東宝で製作していたことも含め、「黒澤組」による固定スタッフで製作したことが多かった。撮影の中井朝一、斎藤孝雄、上田正治、美術の松山崇、村木与四郎、録音の矢野口文雄らが黒澤映画を支えていった。

俳優[編集]

黒澤は、1948年の『醉いどれ天使』から、1965年の『赤ひげ』まで、『生きる』を除く計16本の作品に三船敏郎を起用し、全作で主演として扱った。基本的に役者に惚れこむ事の無い事で知られる黒澤も、三船を手放さなかった。この時期の黒澤作品は「三船無くして黒澤は無く、黒澤無くして三船は無い」とでもいうべき、スター俳優とスター監督との幸福な関係に支えられているといってよい。黒澤は「三船君は特別の才能の持主で代わる人がいないんだ」と語っている。黒澤が「世界のクロサワ」と呼ばれると同時に三船も「世界のミフネ」として海外で広く知られる存在になっていった。『赤ひげ』を最後に黒澤は三船を使わなくなり、そのため2人の関係は様々に取り沙汰されることになる。

三船と共に志村喬も黒澤作品には不可欠な存在であり、処女作『姿三四郎』から『影武者』まで、『續姿三四郎』『素晴らしき日曜日』『どん底』『どですかでん』の4作を除くすべての黒澤作品に出演した。『醉いどれ天使』からは三船とW主演し(『生きる』はワンマン主演)、『蜘蛛巣城』以降は加齢を理由に脇役を演じた。

デビュー作『姿三四郎』で主演した藤田進は、『わが青春に悔いなし』まで『一番美しく』を除く作品に出演。1946年に藤田は東宝を退社したため、黒澤作品への露出はないが、『隠し砦の三悪人』で復帰。最後に窮地に遭った主人公を助ける仇敵を演じたが、それ以降に出演した『悪い奴ほどよく眠る』『用心棒』『天国と地獄』では端役を演じている。

仲代達矢は、『七人の侍』でのエキストラ出演が初の黒澤映画出演となり、『用心棒』『椿三十郎』『天国と地獄』では三船に次ぐ二番手の役どころで出演。それ以降の作品では、勝新太郎の降板事件で勝新の代わりに出た『影武者』と『乱』に主演した。

その他黒澤映画に出演した俳優として、主要な役では森雅之(5本)、大河内傳次郎(4本)、香川京子(4本)、山崎努(3本)、寺尾聰(3本)、山田五十鈴(3本)などが挙げられる。脇役では藤原釜足(12本)、千秋実(11本)、高堂国典(10本)、本間文子(10本)、清水将夫(9本)、土屋嘉男(9本)、加藤武(8本)、三好栄子(8本)、清水元(8本)、渡辺篤(8本)、千石規子(7本)、左卜全(7本)、東野英治郎(7本)などが常連出演した。

評価・影響[編集]

黒澤が日本映画史を代表する映画監督であることは、疑問の余地がない。初期の作品では骨太なヒューマニズムやストーリーテリングの巧みさ、鋭い映像感覚(助監督を務めたこともある野村芳太郎は「世界的レベルを超えている」と絶賛している)は映画のお手本として多くの後進映画監督たちに影響を与えた。ただし、『どですかでん』以後のカラー作品については評価が分かれ、娯楽性よりも芸術性を重視したそれらの作品に対しての否定的な見解も出されている。

世界的な影響[編集]

日本国外の映画作家らへの影響は計り知れず、直接作品の中で模倣されたものだけでも枚挙に暇が無い。

ジョージ・ルーカスは代表作『スター・ウォーズ』の登場キャラクターを『隠し砦の三悪人』から着想したと述べており(そもそも『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』のストーリー自体が『隠し砦の三悪人』に酷似しており、ファーストシーン・ラストシーンともそっくりである)、C-3POとR2-D2は同作の登場人物である太平(演千秋実)と又七(演藤原釜足)がモデルとなっている。

スティーヴン・スピルバーグの『未知との遭遇』において砂嵐の中からジープが現れる場面は『蜘蛛巣城』を、『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』で主人公が後ろ姿だけで顔を見せない冒頭は『用心棒』を、『シンドラーのリスト』のパートカラーは『天国と地獄』を、『プライベート・ライアン』のオマハビーチの戦闘シーンは『乱』をそれぞれ模したと言われる。

フランシス・フォード・コッポラの『ゴッドファーザー』のファーストシーンの結婚式の場面は、『悪い奴ほどよく眠る』の手法を模したと言われる。

マーティン・スコセッシは黒澤映画を名画座に通い続け鑑賞し、また実際にフィルムを手にしカットの構成を研究し尽くしたという。また、ジョン・ミリアス、ジョージ・ミラー、ロン・ハワードも黒澤映画の大ファンであり、自身の作品に大きく投影されている。

『七人の侍』が米映画『荒野の七人』(ジョン・スタージェス監督)、『用心棒』が米映画『ラストマン・スタンディング』(ウォルター・ヒル監督)などに翻案された。イタリア映画『荒野の用心棒』(セルジオ・レオーネ監督)のように、盗作問題に発展したケースもある。

技術的には、例えばサム・ペキンパー監督が得意として他のアクション映画でも多用されるアクションシーンのスローモーション撮影は、元を辿れば黒澤明の『姿三四郎』の手法であり、アクションシーンを望遠レンズで撮る技法も同様である。また、雨や風、水といった自然描写の巧みさはアンドレイ・タルコフスキーのような芸術映画監督を感嘆させて影響を与え、『羅生門』の映像美とストーリーテリングの巧みさはフェデリコ・フェリーニが深く共感した。この映画では、どしゃぶりの雨の質感を出すために墨汁を混ぜた水を放水車で降らせる、当時の技術的タブーを破って太陽に向かってカメラを向けさせる、森の中を走るシーンを移動撮影ではなくてパニングで撮るために俳優達をカメラの周りを円を描くように走らせる、といったように視覚効果を得るため様々な工夫を凝らしている。

『ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔』(ピーター・ジャクソン監督)の合戦シーンでは、『七人の侍』の雨の中で弓を引く勘兵衛のショットがそのまま引用されていたり、『ラストサムライ』(エドワード・ズウィック監督)では雨や風、馬や屍の使い方など、黒澤映画から引用されたショットが多数に渡っている。黒澤を尊敬しているとコメントした映画人は数知れないほどである。

クリント・イーストウッドは「クロサワは自分の映画人生の原点だ」と語っている。

北野武も黒澤映画の影響を受けた人物の一人である。また黒澤も北野映画のファンであることを公言していた。

黒澤との対談動画もある宮崎駿作品に対する影響には枚挙に暇もない。一例として『ハウルの動く城』冒頭の『蜘蛛巣城』の類似など。

その他[編集]
身長は183cmで、明治生まれの日本人としては長身だった。学生時代は水泳と剣道に打ち込んだ。晩年にアカデミー賞の名誉賞を受賞した際に、プレゼンターを務めたジョージ・ルーカスやスティーブン・スピルバーグよりも、頭一つほど大きかった。
作品『海は見ていた』は、黒澤が自分で監督するつもりで脚本を執筆していたが、ラストの嵐のシーンに広大なセットを必要とされていたゆえ、コストの面で折り合いがつかず、製作が実現しなかった。黒澤の死後に、熊井啓監督によって映画化されている。全編をラブストーリーで構成するという内容は、それまで黒澤の作品には珍しく、人生最後の作品には恋愛ドラマを撮りたかったという説もある。また仲代達矢は、黒澤が生前に『戦争と平和』(トルストイ)の映画化を考えていたと証している(黒澤はセルゲイ・ボンダルチュクが手掛けた映画版を「ボンダルチュクは本当に凡だな」と酷評していた「黒澤明 封印された十年」)。
大のヤクザ嫌いで知られ、その影響が作風にも出ており、『醉いどれ天使』、『生きる』、『用心棒』などの作品でも、ヤクザを否定するシーンやテーマがある。
私生活の黒澤はグルメで知られ、[13]この年代の日本人には珍しく肉料理が多かったと家族が著書に記している。対談した北野武も、その旺盛な食欲に感嘆したと述べている。本人は北野に「食事はバランス」だと語ったらしいが、交友を通じてその言葉を理解したところによると、肉と野菜などをバランス良く取ることではなく、牛肉、豚肉、鶏肉などのさまざまな種類の肉を食べることだと言った趣旨であったと苦笑している。黒澤の肉料理好きについては、後期作品の製作進行を務めた熊田雅彦も、スッポン、寒鰤など脂っこい料理が好きで「育ちは山の手だけど、ルーツは秋田なんだろうなあと思いました」と述べている[14]。妻や娘が腕によりを掛けた手料理を振舞ったが、一方で食費が余りに高くつくので税務署に疑われるという冗談のような出来事もあったという[15]。撮影がトラブル続きで機嫌が悪いときも、好物のスッポン料理を口にすると機嫌が直るほどであった。
また、酒も煙草も嗜んだ。特にウイスキーが大好物で、当時まだ珍しかったジョニーウォーカーやホワイトホースを愛飲していた。1993年にイランのアッバス・キアロスタミ監督が来日・対談した折りは「黒澤に飲みに行こうと誘われたけど、後ろにいたスタッフの方が『断って』と合図を出すのでやむ無く断った。後で理由を聞いてみると、黒澤には酒量を減らすようドクターストップが掛かっているとのことだったそうだ。是非行きたかったのでとても残念です」と後年述懐している[16]。大酒飲みであったので、三船敏郎や千秋実は打ち上げになると逃げてどこかへ行ってしまい、代わりに宝田明が呼ばれて、幹事の如く仕切らせられたという。
『七人の侍』の撮影期間中、5時にロケーションが終了し6時から広間でメインの俳優とスタッフが、黒澤を中心に車座になって食事をしていた。しかし、実態は黒澤の独演会で飲めば飲むほど話がはずみ、11時ぐらいまで話が延々と続いた。黒澤によると「みんなで一緒にご飯を食べるときが一番楽しいね。内々の話をしたりね。僕はよく、あそこで演出をしちゃってるんだよって言うんです。宴会で家族みたいになると、現場でもやりいいですよ。映画はみんなで創っているんですから」。
児玉清は若手時代に黒澤に徹底的にいじめ抜かれ、厳しい指導を受けた。児玉曰く「黒澤を殴ろう」と思ったが、結局殴らずじまいで出番を終える。その後、児玉は黒澤に評価されていたことを知り、腰が砕けたという。
佐原健二は、乗っていた車が黒澤のかわいがっていた俳優と同じだというだけの理由で説教をされそうになったが、佐原と関係の深かった本多猪四郎監督が黒澤と仲が良かったということで説教されずに済んだという。
山田洋次監督が黒澤宅を訪問した際に、黒澤は小津安二郎監督『東京物語』をビデオで鑑賞していたという。なお、黒澤は話題になった新作を含め、自宅でよく映画をビデオ、テレビ鑑賞しており、この話を伝聞で聞いた蓮實重彦が尾ひれを付けて語ったような「晩年の黒澤は小津映画ばかり繰り返し見ていた」というような事実はない。
作家の小林久三は、黒澤プロから松竹に転職した社員の話として、大学出たての彼の同プロ出勤初日に、来客中だった黒澤が立ち上がって「黒澤です。よろしくお願いします」と頭を下げたというエピソードを記し、その紳士ぶりを伝えている。
俳優の藤木悠によると、『蜘蛛巣城』の撮影中、藤木が「監督も(ゴジラ映画を)撮ったらどうですか」と聞いたところ、黒澤も「面白いね」と乗り気であったという。その話をそばで聞いていた東宝製作部の人間が藤木を呼び、「黒澤さんが本気になって(ゴジラ映画を)撮ったら会社が潰れる」と注意されたという。
所ジョージの出演する番組を、欠かさずチェックしていたという。そのために『まあだだよ』への出演が決まった。
松田優作がまだ六月劇場の研修生だったころ、黒澤の自宅を訪問し、3日間座り込んで弟子入りを迫ったが、結局会わずに追い返してしまう。その時の経験から後に松田は、「俺は一生かかっても必ず有名になってみせる。だが有名になっても黒澤監督の映画にだけは決して出んからな」と語り、その言葉通りに、逝去するまで黒澤映画に出演することはなかった。70年代後半に松田は世田谷区松原にあった当時の黒澤邸から通りをはさんで3軒先にある小劇場「宇宙舘」で自ら書き起こした作品を上演していた。
菅井きんは、映画出演時には黒澤には優しくしてもらい、自分の演技に落ち込んでいる時には慰めてくれたと語っている。赤ん坊を背負う母親役を演じた際は、雨のシーンの撮影時には「赤ちゃんはいらない。濡れたら可哀想だから」と気遣いをしたという。
カンヌ映画祭の時、マドンナと同じホテルであったが、マドンナ側から「一緒に食事を」との申し出に対して黒澤監督は付き添いの娘に、「嫌だ、どうしてもと言うなら窓から飛び降りて逃げる」と言った。マドンナをどう思うか?という質問に黒澤監督は、「面白いね、しかしね、なかなか。他の映画も観ましたけどね、マドンナが主演してるやつね。テレビですけどね。いろんな意味でね。何て言うのかなぁ勝手なことしてるでしょ?思い切ってこだわらずに。で、キャラクターとしてとてもおもしろいなぁと思いましたけどね」。
生前、自らがもし映画館を作るとしたら?という前提で百本の映画をチョイスしたが、そのうち最も絶賛したのがサタジット・レイ『大地のうた』であった[17]。
スタッフや俳優からは、「クロさん」と呼ばれた。演出中に俳優を罵倒する際の最大級の罵り言葉は、「このでこすけ!」であった。この「でこすけ」が出ると、もう収拾がつかなかったという[18][注釈 12]。
高倉健は「黒澤監督の晩年の作品には、良いものがないと思うんですよね。僕は、監督が(作品の常連だった)三船敏郎さんと別れたのが大きい気がする。志村喬さんもそうだったけれど、三船さんは(黒澤作品の)エンジンの大きな出力だったのでしょう。二人が抜けたことで、その出力がどーんと落ちた。怖いですよね。映画は絶対に一人ではできないんですよ」と評している[19]。高倉は『乱』の鉄修理(くろがね・しゅり)役で黒澤から直々にオファーされていたが、主演映画『居酒屋兆治』の準備に入っていたため、黒澤の直談判による説得も断っていた。黒澤に「あなたは難しい人」だと言われた高倉だが、その後偶然『乱』のロケ地を通ったことがあって、出演すれば良かったと後悔している[19]。

1.中日対巨人戦。【ナゴヤドーム】14:00
5対2で巨人勝利。3連勝!。
先発、
【中日】小熊 凌祐右腕、4回武藤祐太右腕、8回浅尾拓也右腕、
9回岡田俊哉左腕、
【巨人】高木勇人右腕、7回戸根千明左腕、8回マシソン右腕、
9回澤村拓一右腕、
【巨人】
1番、中 長野久義、橋本 到 2番、三 立岡宗一郎、井畑弘和
3番 右 亀井善行4番遊 坂本勇人5番 一 アンダーソン6番 捕 阿部慎之助
7番 左 高橋由伸 、太田康大8番 二 片岡治大9番投 高木勇人、戸根千明、
代打矢野謙次、投マシソン、澤村拓一
【中日】
1番 中 大島洋平2番二 亀澤恭平3番右 平田良介
4番 一 ルナ5番 左 ナニータ投岡田俊哉6番 遊 エルナンデス
7番三 高橋周平 8番 捕 松井雅人代打福田永将9番 投 小熊凌祐代打松井祐介、
投武藤祐太代打小笠原道大、投浅尾 拓也、左藤井淳志、
1回表,1番、0.2.1.2.見逃し三振2番、0.1.5ゴロ3番、0.1.3.1.3.2.四球4番、0.2.、1.2.左ホームラン2点5番2.0.2.2.8ヒット6番1.0.1.1.2.1.3.1.3.2.6ゴロ
                             2対0。
1回裏、1番、0.1.1.1.2.1.3.1.左二塁打高い?2番、0.2.1.2.空振り三振3番、
4番、0.1.4ゴロ。凌いだ!。
2回表、7番、左中間二塁打8番、1.0.1.1.9フライ9番、0.1.1.1.9ヒット1番、1.0.1.1.1.2.2.2.3.2.空振り三振。
2回裏、5番、0.1.4ゴロ6番、0.2.1.2.、2.2.左二塁打7番、1.0.6ゴロ8番、
0.1.3ゴロ
3回表、2番、4ゴロ内野安打3番、0.1.8フライ4番、7ヒット5番、1.0.1.1.
 2.1.2.2.空振り三振6番阿部、1.0.9ヒット1点1.3塁7番高橋、0.1.5フライ
                             3対0。
3回裏、9番代打松井、7フライ1番、1.0.1.1.8フライ2番、0.1.1.1.1.2.見逃し三振。ナイス!。
4回表、【武藤】8番、0.1.3.0.3.1.四球9番、0.1.1.1.2.1.盗塁成功バント1エラー1点1番6ゴロホースアウト2番立岡、0.1.3ゴロホースアウト3番、盗塁失敗。                             4.対0。
4回裏、要注意3番、0.2.1.2.、見逃し三振4番、1.0.1.1.2.1.2.2.5ゴロ内野安打5番、死球6番、1.0.1.1.1.2.、、4ゴロ外角低めのフォークダブルプレー。
5回表、3番、0.1.1.1.1.2.2.2.3.2.4ゴロ4番、8ヒット猛打賞5番、0.1.0.2.3ゴロダブルプレー?。
5回裏、7番、1.0.1.1.1.2.、空振り三振8番、0.2.1.2.2フライ9番、0.1.1.1.1.2.4ゴロ。ナイス!68球。
6回表、6番、0.1..0.2.1.2.、3ゴロ7番、1.0.2.0.4ゴロ8番、0.1.0.2.6ゴロ。
6回裏、要注意1番、0.1.1.1.1.2.6フライ好捕2番、6ライナー好捕3番、0.1.0.2.1.2.6ゴロ内野安打4番、8ヒットポテン5番、1.0.2.0.2.1.3ゴロ。
7回表、9番、0.1.0.2.1.2.見逃し三振1番、4ゴロ2番、0.1.3ゴロ内野安打早い3番亀井、2.0.5フライ。
7回裏、重要6番、0.1.0.2.4.強襲ヒット高い?7番、3.0.3.1.四球?8番、バント1ゴロ、フィルダースチョイス無死満塁9番打小笠原、6ゴロダブルプレー1点3塁【戸根】?1番、0.1.8ヒット1点2番、4フライ。 4対2。
追加点を!!。
8回表、【浅尾】4番坂本、0.1.7フライ5番、0.2.1.2.7ヒット代走?6番阿部、1.0.2.0.2.1.3.1.四球7番太田、1.0.1.1.2.1.2.2.6ゴロホースアウト1.3塁
8番片岡、1.0.6ゴロ内野安打1点貴重9番代打矢野、1.0.1ゴロ。5対2。
8回裏、【マシソン】3番、0.1.1.1.1.2.5ゴロ4番、0.2.1.2.1ゴロフォーク5番、
内角低目のストレート155キロ6ゴロ9球完璧!!。
9回表、【岡田】1番1.0.1.1.1.2.、2.2.、4ゴロ2番、6ゴロ3番、1.0.1.1.1.2.、2.2.空振り三振.
9回裏、【澤村】6番、2.0.2.1.2.2.空振り三振ストレート150キロ7番、0.2.1.2.、、、2.2.、、8フライ8番打福田、0.2.フライ。

戦評。
高木勇人が7回四球とエラーから2失点したが、好投した。特に1回無死2塁をしのいだのが、勝因!坂本が先制2号2ラン3安打!。3回は阿部タイムリー4日もバット1エラーで1得点8回は片岡内野安打でダメ押し点!。

戦評
5月24日(日)中日 vs. 巨人 9回戦

巨人が3連勝。巨人は初回、坂本の2ランで幸先良く先制する。その後は3回に阿部の適時打で加点すると、4回には敵失の間に1点を加えた。投げては先発・高木勇が7回途中2失点の好投でリーグトップとなる今季6勝目。敗れた中日は先発・小熊が試合をつくれなかった。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ 巨人 ] 高木勇(6勝2敗0S)

敗戦投手、[ 中日 ] 小熊(0勝1敗0S)

セーブ、[ 巨人 ] 澤村(3勝2敗17S)

本塁打、[ 巨人 ] 坂本 2号(1回表2ラン)
       [ 中日 ]
巨人バッテリー
高木勇 、戸根 、マシソン 、澤村 - 阿部

中日バッテリー
小熊 、武藤 、浅尾 、岡田 - 松井雅 。
.中日対巨人戦。【ナゴヤドーム】14:00
5対2で巨人勝利。
先発
【中日】小熊 凌祐右腕、
【巨人】高木 勇人右腕、
2.広島対ヤクルト戦。【マツダスタジアム】13:30
9対8でヤクルト勝利。
先発、
【広島】福井優也右腕、
【ヤクルト】石山康稚右腕、

戦評
5月24日(日)広島 vs. ヤクルト 10回戦

ヤクルトがシーソーゲームを制した。ヤクルトは1点を追う4回表、今浪の2ランなどで逆転する。その後リードを許すも、土壇場の9回に三輪が2点適時三塁打を放ち、再び逆転に成功した。4番手・ロマンが今季2勝目。敗れた広島は5番手・中崎が踏ん張れなかった。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ ヤクルト ] ロマン(2勝0敗0S)

敗戦投手、[ 広島 ] 中崎(0勝3敗3S)

セーブ、[ ヤクルト ] バーネット(1勝0敗11S)

本塁打、[ ヤクルト ] 今浪 1号(4回表2ラン)
        [ 広島 ] エルドレッド 1号(2回裏ソロ)
エルドレッド 2号(5回裏2ラン)

ヤクルトバッテリー
石山 、秋吉 、中澤 、ロマン 、バーネット - 中村 。

 広島バッテリー
福井 、戸田 、ザガースキー 、永川 、中崎 - 會澤 。

3.ÐeℕA対阪神戦。【横浜】13:00
8対6でÐeℕA勝利。
先発、
【ÐeℕA】須田 幸太右腕、
【阪神】岩貞 祐太左腕、

戦評
5月24日(日)DeNA vs. 阪神 8回戦

DeNAが逆転勝ち。DeNAは2点を追う3回裏、下園、井手の適時二塁打などで一挙4点を挙げ、逆転に成功する。5回には石川の適時三塁打などで2点を挙げ、貴重な追加点を挙げた。投げては先発・須田が7回途中5失点で今季初勝利。敗れた阪神は投手陣が序盤に崩れた。
責任投手/本塁打

勝利投手、[ DeNA ] 須田(1勝1敗0S)

敗戦投手、[ 阪神 ] 岩貞(0勝1敗0S)

セーブ、[ DeNA ] 国吉(2勝0敗1S)

本塁打、[ 阪神 ] 伊藤隼 2号(7回表2ラン)
       [ DeNA ]

阪神バッテリー
岩貞 、桑原 、榎田 、松田 - 藤井。

 DeNAバッテリー
須田 、長田 、山崎康 、田中 、国吉 - 嶺井 、高城 。
4.日本ハム対ソフトバンク戦。【札幌ドーム】13:00
12対0でソフトバンク勝利。
先発、
【日本ハム】有原 航平右腕、
【ソフトバンク】寺原 隼人右腕、

戦評
5月24日(日)日本ハム vs. ソフトバンク 7回戦

ソフトバンクが大勝。ソフトバンクは初回、松田の3ランで先制する。続く2回表にも川島、柳田の適時打で2点を追加するなど、終わってみれば15安打12得点の猛攻を見せた。投げては先発・寺原が7回無失点の好投で今季初勝利。敗れた日本ハムは投打に精彩を欠いた。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ ソフトバンク ] 寺原(1勝0敗0S)

敗戦投手、[ 日本ハム ] 有原(1勝1敗0S)

セーブ

本塁打、[ ソフトバンク ] 松田 11号(1回表3ラン) 、
内川 4号(4回表ソロ)
       [ 日本ハム ]



ソフトバンクバッテリー
寺原 、二保 - 高谷 。

 日本ハムバッテリー
有原 、屋宜 、大塚 - 大野 、石川亮。
5.西武対楽天戦。【西武プリンス】13:00
5対で勝利。
先発、
【西武】郭 俊麟右腕、
【楽天】則本 翔太右腕、

戦評
5月24日(日)西武 vs. 楽天 11回戦

楽天は1点を追う2回表、後藤の適時二塁打で同点とする。3回に松井稼の適時二塁打で勝ち越しに成功すると、なおも続く好機に枡田が適時打を放ち、リードを広げた。投げては先発・則本が7回3失点の力投で今季3勝目。敗れた西武は先発・郭俊麟が誤算だった。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ 楽天 ] 則本(3勝4敗0S)

敗戦投手、[ 西武 ] 郭俊麟(2勝5敗0S)

セーブ、[ 楽天 ] 松井裕(0勝0敗10S)

本塁打、[ 楽天 ]
      [ 西武 ]

楽天バッテリー
則本 、青山 、松井裕 - 嶋。

西武バッテリー
郭俊麟 、岩尾 、宮田 、大石 、岡本篤 - 炭谷。
6.オリックス対ロッテ戦。【ほっと神戸】13:00
7対0でオリックス勝利。
先発、
【オリックス】西 勇輝右腕、
【ロッテ】大嶺 祐太右腕、

戦評
5月24日(日)オリックス vs. ロッテ 8回戦

オリックスは初回、糸井の適時二塁打で1点を先制する。そのまま迎えた4回裏には、駿太と西野の連続適時打が飛び出すなど、打者一巡の攻撃で6点を挙げた。投げては、先発・西が9回無失点の快投で今季2勝目。敗れたロッテは、先発・大嶺祐が試合をつくれなかった。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ オリックス ] 西(2勝3敗0S)

敗戦投手、[ ロッテ ] 大嶺祐(2勝2敗0S)

セーブ

本塁打、[ ロッテ ]
       [ オリックス ]

ロッテバッテリー
大嶺祐 、矢地 、金森 、松永 - 田村 、吉田

 オリックスバッテリー
西 - 伊藤

スポーツ、

1. 阪神鳥谷V打 新井の同点犠飛で「すごく楽に」
   日刊スポーツ 5月21日(木)22時54分配信


2. 照ノ富士が初優勝!来場所大関昇進へ 白鵬は日馬富士に敗れる/夏場所
サンケイスポーツ 5月24日(日)17時40分配信



ニュース、

1. 山中に女性遺体=遺棄容疑で捜査―京都府警
時事通信 5月21日(木)19時52分配信

 

2015年5月23日中日対巨人戦。4対1で巨人勝利。杉内、坂本、マシソン、

2015-05-23 18:47:47 | Weblog
       2015年5月23日
国民栄誉受賞者
衣笠祥雄5/23済
衣笠 祥雄(きぬがさ さちお、1947年1月18日 - )は、日本の元プロ野球選手(内野手)。現在は野球解説者・野球評論家。所属事務所はキャスト・プラス。日本プロ野球名球会会員。広島東洋カープオーナー付スタッフ。京都府京都市東山区馬町出身[1][2]。愛称は鉄人(てつじん)。

連続試合出場記録日本記録・世界2位記録、連続フルイニング出場歴代3位、通算安打数歴代5位、通算本塁打数歴代7位の記録保持者。

国民栄誉賞受賞。野球殿堂入り。

赤ヘル打線の主砲として1970年代後半から80年代の広島カープ黄金時代を築き上げる原動力となった選手の一人である。

経歴[編集]

市内洛東中学校入学時には、柔道部に入りたかったが、中学に柔道部がなかったためやむなく野球部に入部した[3]。1964年の平安高等学校3年時、春の第36回選抜高等学校野球大会と夏の第46回全国高等学校野球選手権大会に捕手として出場し、いずれもベスト8の成績を残す。この時バッテリーを組んでいたのが、植木一智(後に阪神)であった。

翌1965年、広島カープに入団。白石勝巳監督の方針で内野手に転向。

1968年から一塁手として一軍レギュラーに定着。

1975年にはジョー・ルーツ監督によって「ウチには巨人の長嶋茂雄を越える三塁手がいるじゃないか」と励まされ、三塁手にコンバートされる(本当はゲイル・ホプキンスが「一塁手がいい」と言ったのがコンバートの原因だった)[4]。この年、5番打者として4番の山本浩二と共にクリーンナップの一翼を担い、球団初のセントラル・リーグ優勝に大きく貢献した。特に、オールスターゲームにおける山本との二打席連続アベック本塁打は、オールスター屈指の名場面として語り草になっている。

1976年に盗塁王のタイトルを獲得。

1974年までの背番号28から、鉄人(横山光輝の漫画『鉄人28号』より)の愛称で親しまれており、またその愛称が示す通り、野球選手の中でも飛び抜けて体が頑丈であった。負傷しても休まず試合に出場することも多く、大相撲の幕内力士青葉城とその頑丈さを並び称されたこともある。

1970年10月19日の対巨人戦から始まった連続試合出場記録であったが、1979年はシーズン序盤から極度の大不振に陥った。5月27日の時点で打率が.198と落ち込んだために古葉竹識監督が翌28日の試合に先発メンバーから外す決断に踏み切った。このために三宅秀史が保持していた700試合の連続フルイニング出場日本プロ野球記録はあと22試合というところで断念させられた。江夏豊の著書によると、この時スタメンを外されることが決定した衣笠の荒れようは凄まじいものがあり、手当たり次第に物を投げ飛ばしたという[5]。この年は代打、代走、守備固めによる途中からの試合出場が21試合もあった。8月1日の対巨人戦では西本聖から死球を受け、左の肩甲骨を骨折する重傷を負ってしまう。全治2週間と診断が下され、1122試合で連続試合出場記録がストップしてしまう危機が訪れたが、翌2日の試合で代打として姿を見せた[6]。江川卓の投球にフルスイングで挑んで三球三振という記録を残した。試合後には「1球目はファンのために、2球目は自分のために、3球目は西本君のためにスイングしました」「それにしても江川君の球は速かった」とコメントしている。衣笠が代打で打席に登場した瞬間、広島ファンのみならず、巨人ファン・ベンチからも大きな拍手が起こった。続く3日の試合では2番三塁手としてフル出場をして、その不死身ぶりで周囲を驚愕させた[6]。

1980年7月29日の対ヤクルト戦は飯田徳治の保持する1246試合の連続試合出場記録に並ぶはずの試合だったが、5回裏に降雨が激しくなり、ノーゲームが宣告された。もう1日雨で延びた後の31日に改めてタイ記録、8月2日の対巨人戦で飯田を抜く1247試合の連続試合出場の日本プロ野球記録が達成された[6]。

1982年も12年連続全試合出場を果たし、王貞治の皆勤11シーズンの記録を破った[6]。

1983年8月9日の対阪神戦で史上16人目となる通算2000本安打を達成する。

1984年には37歳にして自己最高の打率.329・31本塁打・102打点と自己最高ともいえる成績を残した。打点王を獲得し、同年のチームのリーグ優勝・日本シリーズ制覇に伴ってMVPにも輝いた。

1986年6月7日の対阪神戦で2000試合連続出場を達成したが、この時点で打率は.224と低迷。7月の月間打率は.188(64打数12安打)、8月の月間打率は.145(83打数12安打)。7月29日から8月3日までの無安打でついに打率は1割台に転落してしまい、チームもほぼ同時期に首位の座を巨人に譲った。ベンチは衣笠の打順を5番から6番、更には7番と下げながら、それでも使い続けた。終盤は盛り返して優勝したが、苦戦の一つの原因となってしまった[6]。

メジャーリーグベースボールのルー・ゲーリッグが保持する2130試合連続試合出場世界記録まであと45試合まで迫り、1987年の開幕を迎えることとなった。開幕戦は4打数3安打の猛打賞、2戦目は勝利打点を叩き出すなど好調な滑り出しとなった[6]。6月11日の対大洋戦でついにゲーリッグの記録に並んだ。6月13日の対中日戦で2131試合に到達。この試合で小松辰雄から左翼へ8号本塁打を放って記録に花を添え、広島市民球場を満員にした地元ファンの祝福に応えた[7]。6月22日に王貞治に次いでプロ野球選手として2人目の国民栄誉賞を授与された。9月21日には満足に守備が出来なくなった事を理由に現役引退を表明した。最終出場試合となった対大洋戦の10月22日に2215試合連続出場を果たした。この試合では2回に新浦寿夫から先制の17号2点本塁打を放ち、3回にも二塁打を叩き、ベンチへ退いた[6]。功績を讃え、1975年から衣笠のつけていた背番号「3」はカープの永久欠番となっている。

同時代のチームメイトに山本浩二という強打者がおり、引退後も鉄人のイメージが付きまとっているためか、今では連続試合出場記録以外の話題を採り上げられることは少ないが、長期に亘って安定した打撃成績を残し、通算安打2543本(歴代5位で福本豊と同数)、通算本塁打504本(歴代7位で張本勲と同数)、通算打点1448(歴代10位)、通算得点1372(歴代5位)を記録している。また、1976年に盗塁王を獲得するなど史上3人しかいない500本塁打、200盗塁(他は張本、山本)を記録し、ゴールデングラブ賞を3度受賞した屈指のオールラウンド・プレーヤーでもある。山本・衣笠のYK砲は球史に残る強力なコンビであった。2人のアベック本塁打は86本を数え、巨人の王貞治・長嶋茂雄(ON砲)の106本に次ぐ日本プロ野球史上2位である。

引退後は、1988年から東京放送(TBS。その後、企業再編によりTBSラジオ&コミュニケーションズとTBSテレビに分立)の野球解説者を務める[8]。一方で、朝日新聞嘱託で運動面のコラムを受け持つ他、日本テレビ系『午後は○○おもいッきりテレビ』のコメンテーターなどタレント活動も行う。ジャズにも造詣が深いほか、ソニーのPC・VAIOのユーザーであり、「VAIO OWNERS:達人の選択[リンク切れ]」でVAIO愛好家としても紹介されている。

現役時代から引退後にかけて、広島県呉市にある味噌メーカー「ますやみそ」のCMキャラクターを務めていた。

1996年、野球殿堂入り。

エピソード[編集]

この節に雑多な内容が羅列されています。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか整理・除去する必要があります。(2011年8月)





衣笠祥雄 連続試合出場記録 石碑(広島市中区・昔の広島市民球場跡地敷地内)父親がアフリカ系アメリカ人(在日米軍人であった)で母親が日本人のハーフ。長男は、俳優の衣笠友章[9]。
「野球選手になったら、でかい家を買って綺麗な女と結婚する」と夢見ていた衣笠少年は、入団時の契約金で自動車免許を取り、フルサイズのアメリカ車フォード・ギャラクシーを購入した。当時のカープは創立十数年の貧乏球団であり、長谷川良平監督やコーチ・主力選手が乗っているのは大半がマツダ車で、中には自転車通勤の者も珍しくなかった。そんなチーム状況を横目に気ままにアメリカ車を乗り回していたが、何度となく事故を起こし、最終的には免許を剥奪された。
1960年代後半、ベトナム戦争の泥沼化に伴い、米軍岩国基地は前線基地となっていた。基地周辺は兵隊で溢れ、飲み屋やゴーゴークラブなど飲食店が大いに賑わっていた。衣笠はよく車で約1時間かけて岩国基地まで遊びに行き、現地で仲良くなった兵隊達とよく飲み明かしていた。そんなある日、いつものように一緒に飲んでいた米兵の友人に「明日ベトナムへ行くんだ」と告げられる。衣笠はこの言葉に大きなショックを受け、好きな野球をやりながら遊び回る自身を恥じ、以後野球に真剣に打ち込むようになったという。
1970年、最大の恩師というべき関根潤三が打撃コーチとして広島に入団。根本陸夫監督は「衣笠をリーグを代表する打者にしてくれ」と頼み、それを受けて関根は、衣笠にマンツー・マンの過酷な練習を課した。朝・昼・夜の練習が終わり、他の選手が休んだり遊びに行ったりする時間に入っても、更に宿舎の屋上でバットを振らせていた。あまりにも厳しい練習に耐えかね、ある晩衣笠は、関根を無視して飲みに出かけた。そして夜中の3時過ぎ、もうそろそろいいだろうと宿舎に帰ってくると、なんと玄関で関根が待ち構えていた。関根は怒りもせずに「さあやるぞ」とバットを手渡し、観念した衣笠は、泣きながら朝まで素振りを続けた(但し関根は2008年9月27日のフジテレビ739『プロ野球ニュース』において「素振りさせたけど、最初は反抗的な目だったからこっちも意地になって朝まで付き合った」と語っている)。後年衣笠の野球殿堂入りが決まった時、関根は『プロ野球ニュース』に出演し、この時の出来事を思い出話として披露。「いやあ、あの頃はボクも若かった」と照れ笑いを浮かべていた。
1979年の「江夏の21球」で知られる日本シリーズ第7戦では、古葉竹識監督の投手起用に不満を抱きモチベーションが上がらない江夏を「お前がやめるなら俺も一緒にやめてやる」となだめた。チームメイトだった江夏豊とは無二の親友で、プライベートでは常に行動を共にしていた。
現役時代は「当てる」バッティングを全くせず、常にフルスイングで打席に臨んでいた。そのため本塁打や打点が多い反面三振や凡打も多く、これほどの通算成績を残しているにも関わらず、シーズンを通して打率が3割を超えたことがたった1度(1984年)しかない。通算三振数は1587個(当時日本記録)、通算併殺打は267(セ・リーグ記録)に上る。ただし、現在の三振数歴代1位(1955個)の清原和博が実働23年で9回100三振以上のシーズンがあったのに対し、衣笠は1回もなく(最多は80、82、83年の89個)、三振数がリーグ最多となったのも70年(81個)の1回しかない(清原は3回)。
シーズン打率3割到達経験なしの通算2000本安打達成者は柴田勲、田中幸雄の2名のみだが、2000本安打達成時点であれば衣笠も含まれる。唯一の3割到達シーズンが2000本安打達成後であるため。
打点王と盗塁王のタイトル獲得経験がある、数少ない選手である(他の該当者は飯田徳治とイチローの2人のみ)。
元阪神タイガースの江本孟紀は、現役時代の衣笠について「打者の目の高さに投げた明らかなボール球にもフルスイングする。当たれば確実に本塁打になるだけに、全く気が抜けなかった」と語っている。また江本は、衣笠から自身通算1000個目となる三振を奪っているが、偶然にもそれは、衣笠にとっても通算1000個目となる三振であった。
連続試合出場の世界記録を更新した時、「いつか、誰かにこの記録を破ってほしい。この記録の偉大さが本当にわかるのは、その人だけだろうから」との言葉を残した。衣笠の記録はアメリカでも非常に高く評価されており、現在でも「キヌガサ」は、アメリカで最も名前の知られている日本人野球選手の一人である。1996年6月14日にカル・リプケン・ジュニア(オリオールズ)が記録を更新した試合にも、来賓としてアメリカに招かれた。また、人間国宝の藤原雄と親しく、上記の試合のとき藤原が作った備前焼をリプケンに手渡している。
一方、衣笠の世界記録更新の前後には、「記録作りのために出場しているだけ」「監督・コーチの温情」と批判する野球ファンも少なからず存在した。1986年以降は思うように成績が振るわなかった(試合にフル出場せず、中盤で交代することも多かった)ことと、1979年当時、三宅秀史が持っていた700試合連続フルイニング出場の記録にあと22試合まで迫りながら、極度のスランプのためスタメンから外されたことがあるという前例が、そのような批判の根拠である。
広島市民球場の敷地内には、連続出場記録を記念した碑がある。
長崎県長崎市布巻町(旧・三和町)の元宮公園には、衣笠の業績を称えて名付けられた「衣笠球場」がある。
通算被死球161は日本プロ野球史上3位だが、非常に振る舞いが紳士的であった。どんなに危険で痛い死球を受けても怒るどころか、左手で「いいよ、大丈夫だから」と逆に相手投手を気遣いながら1塁へ向かっていた。上記の西本が死球を与えた際も、西本が衣笠の元へ謝りに近寄っていったら「危ないから下がっていろ」と言われ、衣笠の器の大きさを感じたと語っている。
NHK特集で放送された『17年間休まなかった男 衣笠祥雄の野球人生』で自宅で夫人と共にインタビューを受けた際、自宅では一般紙は読むがスポーツ紙を読まなかった(新聞販売店のスポーツ紙の勧誘も断っていた事を夫人が明かしていた)。理由はスポーツ新聞によって野球に追っかけられている気がするためである。また、一般紙だとスポーツ欄がわずかで政治・経済などを知ることが出来るから野球を連想させる事が無く考えずに済むからだという。
極度の偏食で肉しか食べられないが、下柳剛との酒の席では「野菜食べないで大丈夫なんですか?」と心配する下柳を「野菜は牛が食うとる」と一蹴したという。[10]

1.中日対巨人戦。【ナゴヤドーム】15:00
4対1で巨人勝利。
先発、
【中日】大野雄大左腕、8回祖父江大輔右腕、9回岡田俊哉左腕、
【巨人】杉内俊哉左腕、8回山口哲也左腕、マシソン右腕、9回澤村拓一右腕、
【巨人】
1番中 長野 久義 2 番二 寺内 崇幸代打片岡治大 3番 右 亀井 善行
4番 遊 坂本 勇人5番 一 アンダーソン代走中橋本 到6番 三 井端 弘和
7番 左 矢野 謙次投山哲也 、澤村拓一8番 捕 相川 亮二 代走左鈴木尚広
9番 投 杉内 俊哉、代打捕阿部慎之助、
【中日】
1番 中 大島 洋平2番 二 荒木 雅博3番 右 平田 良介
4番 三 ルナ5番 左 ナニータ代走藤井淳志6番一 福田 永将
7番 遊 エルナンデス 8番 捕 松井 雅人9番 投 大野 雄大、祖父江大輔
岡田俊哉、
1回表,1番、0.1.1.1.1.2.2.2.見逃し三振2番、8フライ3番、1.0.1.1.2.1.6フライ。
1回裏、1番、0.1.1ゴロ2番、0.1.4ゴロ3番、2.0.2.1.2.2.3.2.四球4番、0.1.1.1.
 1.2.2.2.3.2.盗塁2塁、四球5番、1.0.2.0.6フライ。20球。
 
2回表、4番、0.1.1.1.8フライ5番、1.0.1.1.1.2.2.2.3.2.四球6番、0.1.0.2.空振り三振真ん中?7番矢野、1.0.2.0.2.1.3.1.3.2.4ゴロ。
2回裏、6番、8ヒット7番、0.1.5フライ8番、0.1.1.1.5ゴロ9番、1.0.8ヒット1番、0.1.1.1.5フライ。
3回表、8番、1.0.8フライ9番、1.0.1.1.2.1.2.2.空振り三振1番、0.1.0.2.1.2.2空振り三振、ボール?
3回裏、2番、0.1.0.2.見逃し三振内角低めのストレート137キロ3番、フライ4番、1.0.1.1.2.1.2.2.6ゴロ低目¡ナイス¡援護点!!。
4.回表、2番、0.1.1.1.1.2.、ダイダ片岡、1.1.見逃し三振3番、2.0.2.1.3.1.
1ゴロ真ん中?4番、1.0.1.1..フライボール?2割の4番打者??。
4回裏、5番、1.0.1.1.1.2.空振り三振スライダー低目6番、2.0.2.1.2.2.3.2.、四球7番、0.1.0.2.6ゴロホースアウト8番、2.0.、2.1.盗塁2塁2.2.空振り三振。
 60球。少し多い?援護点!!。
5回表、5番、0.1.5フライ6番、0.1.1.1.2.1.9フライ7番、0.1.1.1.1.2.2.2.7フライ。ボール❓66球。
5回裏、9番、0.1.0.2.空振り三振1番、1.0.3ゴロ2番、1.0.1.1.2.1.6ライナー。
6回表、8番、1.0.1.1.1.2.2.2.空振り三振ボール?9番、0.1.0.2.8フライ1番、0.1.1.1.7ヒット2番、1.0.1.1.2.1.8外角引く目のフォーク?フライ。
6回裏、最重要3番、3.0.3.1.フライ4番、0.1.1.1.1.2.2.2.左ホームラン1点
5番、9ヒット代走藤井6番、6ゴロダブルプレー。    0対1。
打たれた球は高めのストレート??81球。
7回表、重要3番、1.0.1.1.1.2.4ゴロ内野安打策は?4番坂本、1.0.1.1.2.1.6フライ真ん中??5番、1.0.1.1.9ヒット代走橋本1.3塁6番井畑、0.1.0.2.、1ゴロ挟まれる二死2.3塁7番、0.1.1.1.1.2.、2.2.フライ。
無死1塁坂本はバントするべきでアンダーソンヒットも無得点?。原愚策?
7回裏、7番、0.2.2.2.空振り三振8番、0.1.1.1.1.2.空振り三振9番、1.0.0.2.空振り三振。ナイス!93球。
8回表、8番相川、0.1.1.1.9ヒット価値ある代走鈴木9番代打阿部、1.0.1.1.真ん中のストレート?9ヒット1.2.塁策は?1番長野、1.0.1.1.2.1.3.1.3.2.四球満塁無死2番片岡、初球から打て!6ゴロ内野安打1点3番亀井、6フライ?
4番、0.1.1.1.中二塁打貴重2点5番橋本、0.2.8フライ1点大きい【祖父江】
6番井畑、2.0.2.1.3.1.3.2.四球7番矢野、0.1.6ライナー。  4対1。

8回裏、【山口】最重要1番、2.2.7フライ2番、0.1.1.1.1.2.8ヒット【マシソン】3番、フライ外角低めのスライダー4番、0.1.1.1.1.2.空振り三振。5球。ナイス!。
9回表、【岡田】8番鈴木、9フライ9番阿部、死球1番、4ライナー2番、死球?
3番亀井、0.1.1.1.2.1.2.2.3.2.空振り三振。
9回裏、【澤村】5番、7フライ6番、0.1.0.2.空振り三振外角低めのスライダー、ボール7番、1.0.ゴロフォーク、ボール球6球完璧。

戦評。
杉内が6回1点を許すも7回5被安打の狙利の投球が8回8番相川9ヒット9番代打阿部7ヒット1番長野四球で満塁2番片岡6ゴロ内野安打で1点3番亀井フライも4番坂本が二塁打で2点5番、代打橋本犠飛で1点を加え快勝。
1.中日対巨人戦。【ナゴヤドーム】15:00
4対1で巨人勝利。
先発
【中日】大野雄大左腕、
【巨人】杉内俊哉左腕、

戦評
5月23日(土)中日 vs. 巨人 8回戦

巨人は1点ビハインドで迎えた8回表、片岡の適時打で同点とする。さらに1死満塁の好機から坂本の2点適時打で勝ち越すと、続く橋本の犠飛でリードを広げた。投げては、先発・杉内が7回1失点で今季5勝目。敗れた中日は、好投を見せていた先発・大野が8回に崩れた。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ 巨人 ] 杉内(5勝1敗0S)

敗戦投手、[ 中日 ] 大野(5勝2敗0S)

セーブ、[ 巨人 ] 澤村(3勝2敗16S)

本塁打、[ 巨人 ]
       [ 中日 ] ルナ 2号(6回裏ソロ)

巨人バッテリー
杉内 、山口 、マシソン 、澤村 - 相川 、阿部。

中日バッテリー
大野 、祖父江 、岡田 - 松井雅 。
2.広島対ヤクルト戦。【マツダスタジアム】14:00
12対8でヤクルト勝利。
先発、
【広島】ジョンソン左腕、
【ヤクルト】石川雅規左腕、

戦評
5月23日(土)広島 vs. ヤクルト 9回戦

ヤクルトが乱打戦を制した。ヤクルトは1点を追う2回表、中村の適時打などで4点を挙げて逆転する。その後リードを許して迎えた6回には、打者一巡の猛攻で8点を挙げて再逆転に成功した。投げては、先発・石川が今季3勝目。敗れた広島は、先発・ジョンソンが誤算だった。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ ヤクルト ] 石川(3勝5敗0S)

敗戦投手、[ 広島 ] ジョンソン(4勝2敗0S)

セーブ

本塁打、[ ヤクルト ]
       [ 広島 ]

ヤクルトバッテリー
石川 、秋吉 - 中村。

 広島バッテリー
ジョンソン 、今村 、飯田 、今井 、戸田 - 石原。
3.ÐeℕA対阪神戦。【横浜】14:00
延長10回4対2で阪神勝利。
先発、
【ÐeℕA】井納翔一右腕、
【阪神】能見篤史左腕、

戦評
5月23日(土)DeNA vs. 阪神 7回戦

阪神は1-1で迎えた9回表、福留の犠飛で勝ち越しに成功する。その後同点を許すも、延長10回に福留が今度は2点適時打を放ちリードを奪った。先発・能見は今季3勝目。敗れたDeNAは、打線が2度追いつく粘りを見せたが、最後は4番手・安部がつかまった。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ 阪神 ] 能見(3勝5敗0S)

敗戦投手、[ DeNA ] 安部(0勝1敗0S)

セーブ、[ 阪神 ] 福原(2勝1敗1S)

本塁打、[ 阪神 ]
      [ DeNA ]

阪神バッテリー
能見 、福原 - 藤井。

 DeNAバッテリー
井納 、田中 、長田 、安部 、小杉 - 高城 、黒羽根。
4.日本ハム対ソフトバンク戦。【札幌ドーム】
9対2で日本ハム勝利。14:00
先発、
【日本ハム】吉川光夫左腕、
【ソフトバンク】スタンリッジ右腕、

戦評
5月23日(土)日本ハム vs. ソフトバンク 6回戦

日本ハムが4連勝。日本ハムは2回裏、杉谷の適時打と西川の満塁弾が飛び出し、一挙5点を先制する。その後は3点リードで迎えた7回に、主砲・中田の3ランなどで4点を加えた。投げては、3番手・ガラテが今季3勝目。敗れたソフトバンクは、投手陣が振るわなかった。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ 日本ハム ] ガラテ(3勝1敗0S)

敗戦投手、[ ソフトバンク ] スタンリッジ(5勝3敗0S)

セーブ

本塁打、【 ソフトバンク ] 柳田 8号(5回表ソロ)
      [ 日本ハム ] 西川 3号(2回裏満塁) 、中田 16号(7回裏3ラン)

ソフトバンクバッテリー
スタンリッジ 、飯田 - 高谷。

 日本ハムバッテリー
吉川 、鍵谷 、ガラテ 、谷元 、石井 、大塚 - 近藤 、石川亮。

5.西武対楽天戦。【西武プリンス】14:00
4対2で西武勝利。
先発、
【西武】菊池雄星左腕、
【楽天】レイ右腕、

戦評
5月23日(土)西武 vs. 楽天 10回戦

西武が連敗を3で止めた。西武は1点を追う3回裏、栗山と浅村の連続ソロで逆転する。その後は同点を許すも、7回に浅村の2点適時二塁打で勝ち越した。投げては、2番手・武隈が今季4勝目。敗れた楽天は、先発・レイが試合をつくるも、打線が好機を生かせなかった。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ 西武 ] 武隈(4勝0敗0S)

敗戦投手、[ 楽天 ] 金刃(2勝2敗0S)

セーブ、[ 西武 ] 高橋朋(0勝0敗14S)

本塁打、[ 楽天 ] 枡田 1号(2回表ソロ)
        [ 西武 ] 栗山 2号(3回裏ソロ) 、浅村 6号(3回裏ソロ)

楽天バッテリー
レイ 、金刃 、福山 、戸村 - 嶋。

 西武バッテリー
菊池 、武隈 、増田 、高橋朋 - 炭谷 。
6.オリックス対ロッテ戦。【ほっと神戸】14:00
6対5でロッテ勝利。
先発、
【オリックス】金子千尋右腕、
【ロッテ】石川 歩右腕、

戦評
5月23日(土)オリックス vs. ロッテ 7回戦

ロッテが4連勝。ロッテは2回表、福浦の適時打と清田の満塁弾で一挙5点を先制する。続く3回には、再び福浦が適時打を放ち追加点を挙げた。先発・石川は7回3失点の好投で今季4勝目。敗れたオリックスは、打線が最終回に追い上げを見せるも、あと一歩及ばなかった。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ ロッテ ] 石川(4勝2敗0S)

敗戦投手、[ オリックス ] 金子千尋(0勝1敗0S)

セーブ、[ ロッテ ] 西野(0勝2敗10S)

本塁打、[ ロッテ ] 清田 7号(2回表満塁)
       [ オリックス ]

ロッテバッテリー
石川 、カルロス・ロサ 、西野 - 田村。

 オリックスバッテリー
金子千尋 、松葉 、岸田 、白仁田 、高木 、海田 - 伊藤 。

スポーツ、

1.【MLB】イチローの“神様超え”を米主要メディアも次々と速報 「ルースを抜いた」
Full-Count 5月23日(土)11時14分配信

【MLB】イチローの“神様超え”を米主要メディアも次々と速報 「ルースを抜いた」

マーリンズ・イチロー【写真:田口有史】

4試合ぶり先発出場で1打席目に左前打、歴代単独42位に浮上

 マーリンズのイチロー外野手は22日(日本時間22日)、本拠地でのオリオールズ戦に「7番・レフト」で4試合ぶりに先発出場。2回の第1打席でレフト前ヒットを放った。メジャー通算2874安打とし、並んでいた“野球の神様”ベーブ・ルースを上回り歴代単独42位となったが、この偉業を米メディアも速報で伝えた。

 地元テレビ局「FOXスポーツ」は「イチローはベーブ・ルースの歴代安打記録をヒットを放ち、抜いた」と報じている。

 記事では、イチローが先発右腕ウバルド・ヒメネスの86マイル(約138キロ)のファストボールをレフト前にはじき返し、通算2874安打でメジャー歴代単独42位となったことをレポートした。イチローが、この試合前の前まで17打席で5安打だったことに言及。さらに、メジャー15年目ながら今季41試合出場で30安打という成績、メジャー通算3000本安打の金字塔まで126本と近づいていることも紹介している。
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MLB公式サイトも動画付きで速報、「2得点の攻撃に火をつけた」

 一方、MLB公式サイトは「イチローは歴代安打記録でベーブ・ルースを抜く」という特集を動画とともに紹介した。

「イチローは第1打席に歴代安打記録でベーブ・ルースを抜いた。2回に先頭打者で3ボール2ストライクからレフトにヒットを放った。このヒットで41歳のスズキは2874安打とし、1900年以降では歴代38位に上昇。これが2得点の攻撃に火をつけ、マーリンズは3-0でリードした」

 記事では、このように報告。レジェンドの新たな偉業をたたえていた。

 また、米スポーツ誌の「スポーツ・イラステレーテッド」や「ESPN Stats & Info」もツイッターでイチローのルース超えを伝えている。“野球の神様”を抜く快挙に、米国内でも大きな注目が集まった。
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フルカウント編集部●文 text by Full-Count
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2. 球児 自由契約に 日米全球団との交渉が可能に
スポニチアネックス 5月23日(土)5時33分配信
球児 自由契約に 日米全球団との交渉が可能に

レンジャーズから自由契約となった藤川(AP)

 レンジャーズは22日、戦力外の藤川球児投手(34)を自由契約にしたと発表した。

 17日に藤川を40人枠から外し戦力外にしたと発表していた。ウエーバーにかけられたが、獲得を希望する球団がなかった。マイナー行きの選択肢もあったが、自由契約になることを選んだ。藤川はフリーエージェント(FA)となり、日米全球団との交渉が可能になる。

【写真】新天地ではダルビッシュ(左)とチームメートになった藤川だったが…

 古巣・阪神が獲得に興味を示すなど、12年以来3年ぶりに日本球界へ復帰する可能性も出てきた。

 藤川は13年にカブス入りしたが、6月に右肘のじん帯再建手術(通称トミー・ジョン手術)を受けた。今季、1年契約でレンジャーズ入りしたが、オープン戦終盤に右脚付け根の張りを訴えてDL入り。14日のロイヤルズ戦で復帰して1回を3者凡退に抑えていたが、連投した翌15日のインディアンス戦では2/3回を3失点。2試合に投げただけで戦力外となった。メジャー通算成績は29試合で1勝1敗2セーブ、防御率5・74。
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3.DeNA独走の理由。他の5球団と決定的に違う「ひとつのデータ」

2015.05.23、スポルティーバ●文 text by Sportiva 小池義弘●写真 photo by Koike Yoshihiro

 5月19日から行なわれたヤクルト3連戦で1勝2敗と負け越し、球団初の8カード連続勝ち越しはならなかったDeNA。それでもここまで46試合を消化して28勝18敗の成績を残し、2位・巨人に3ゲーム差をつけて首位を快走している。
※今季の成績はすべて5月22日現在のもの

DeNAの監督に就任して4年目を迎えた中畑清監督
拡大する

DeNAの監督に就任して4年目を迎えた中畑清監督

 4番・筒香嘉智の覚醒やセットアッパーの田中健二朗からクローザー山崎康晃へとつなぐ”勝利の方程式”の確立。さらに41歳・三浦大輔の”奮投”など、好調の要因はいくつか挙げられる。そして進藤達哉ヘッドコーチにここまでの戦いを振り返ってもらうと、次のような答えが返ってきた。

「ピッチャーがなんとか最少失点に抑えて、打者は少ないチャンスを確実にものにする。そういう戦いができているのが大きいですね。あと、今年はホームでしっかり勝てている印象があります。ただ、他のチームも今年はホームで強いんだよね」

 そこで、今季ここまでのセ・リーグ各チームのホームとビジターの成績を見てみたい。

DeNA
ホーム:16勝6敗(勝率.727)
ビジター:12勝12敗(勝率.500)

巨人
ホーム:16勝6敗(勝率.727)
ビジター:9勝15敗(勝率.375)

中日
ホーム:17勝7敗(勝率.708)
ビジター:6勝16敗(勝率.273)

阪神
ホーム:12勝11敗(勝率.522)
ビジター:8勝13敗(勝率.380)

ヤクルト
ホーム:14勝9敗(勝率.609)
ビジター:6勝16敗(勝率.273)

広島
ホーム:13勝8敗(勝率.619)
ビジター:6勝16敗(勝率.273)
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進藤コーチが言うように、どのチームもホームで勝ち越しているのがわかる。ところがビジターでの成績を見ると、5割を死守しているはDeNAだけで、他の5球団はすべて負け越し。それも5球団合計で35勝76敗(勝率.315)と大きく負け越しているのだ。このビジターでの奮闘こそが、DeNAを首位に押し上げている最大の要因といえる。

 ちなみにパ・リーグを見てみると、ビジターで勝ち越しているのはソフトバンク(9勝8敗1分)と日本ハム(13勝9敗)の2チーム。5割が西武(11勝11敗2分)とロッテ(11勝11敗)の2チーム。そして負け越しているのが楽天(9勝13敗)とオリックス(6勝16敗1分)の2チーム。

 野球というスポーツは本来、ビジターチームが圧倒的不利を負うことはなく、2割、3割台の勝率に低迷する必然はない。そういう意味では、セ・リーグ5球団の低い勝率こそが普通ではないのだが、なぜDeNAだけが勝率5割をキープできているのだろうか。解説者の与田剛氏に聞いた。

「正直、理由はわかりません(笑)。ただひとつ言えることは、今年のDeNAには、劣勢であってもワンチャンスをものにして勝ち切れる強さがあります。ホーム、ビジターに限らず、自分たちの野球をしっかりしている。それがこの結果につながっているのではないでしょうか」
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そして与田氏が印象的に残っている試合として挙げたのが、4月28日からの広島、中日のビジター6連戦だ。この6連戦をDeNAは4勝2敗で勝ち越したのだが、勝った試合はすべて接戦で、5月2日の中日戦などは9回二死走者なしからの5連打で勝利をものにしていた。

「その前にDeNAは7連敗していて、あそこでまた連敗していたら、間違いなく今の結果はなかったと思います。あのビジター6連戦を勝ち越したことで、チームとして自信をつけたような気がします。それに、長いシーズンを戦う上で“苦手意識”だけは持ちたくない。そういう意味で、ここまで大きく負け越しているチームもないですし、ビジターを苦手にしているわけでもない。そこは大きいと思います」(与田氏)

 他の5球団が“内弁慶”ぶりを露呈する中、「たかが5割」ではあるが、DeNAの戦いぶりは賞賛されるべきであろう。決して勢いだけではないたくましさが、今のDeNAには確かにある。
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4. 坂本が4番の仕事!巨人5回まで無安打も2戦連続鮮やか逆転勝ち
スポニチアネックス 5月23日(土)18時0分配信

坂本が4番の仕事!巨人5回まで無安打も2戦連続鮮やか逆転勝ち

<中・巨>8回1死満塁、坂本は勝ち越しとなる中越え2点適時二塁打を放ち、二塁上でガッツポーズ

 ◇セ・リーグ 巨人4―1中日(2015年5月23日 ナゴヤD)

 巨人が終盤に粘りを発揮して2戦連続で中日に逆転勝ちした。中日の先発左腕・大野に対し、5回まで走者を出したのは四球の1人だけ。6回に長野が左前打でノーヒットノーランを逃れると、0―1の8回に4長短打を集中して一挙4点を奪い、試合をひっくり返した。

 先発の杉内は初回に2四球を与えるなど立ち上がりは不安定だったが、尻上がりに調子を上げた。6回1死からルナに左越えソロを浴びて先制を許したが、7回には3者連続の空振り三振を奪う力投を見せ、味方の援護を待った。

 その力投に打線がすぐに応えた。8回に無死満塁と大野を攻め、片岡の遊撃内野安打で同点。1死後、4番・坂本の中越え2点適時二塁打で勝ち越すと、なお1死二、三塁から橋本の中犠飛で1点を追加。そのリードを山口、マシソン、沢村のリレーで守り抜いた。杉内は7回を4安打1失点7奪三振で今季5勝目(1敗)。

 中日の先発・大野は5回まで1四球のみと好投していたが、終盤につかまって自身の連勝は3でストップ。今季2敗目(5勝)を喫した。
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ニュース、

1. 山中に女性遺体=遺棄容疑で捜査―京都府警
時事通信 5月21日(木)19時52分配信

 京都市左京区大原大見町の山中で、人の頭蓋骨や片腕などが見つかり、京都府警捜査1課などは21日、死体遺棄容疑で捜査を始めた。司法解剖の結果、20~30代の女性とみられるという。
 同課によると、16日午前10時半ごろ、山菜採りをしていた同区の夫婦が頭蓋骨を発見。府警が周辺を捜索したところ、深さ数十センチの地中から身体の部分が、数十メートル離れた場所から片腕などが見つかった。
 遺体は黒のワンピースとハイヒールを身に着け、目立った外傷などはなかった。同課は、何者かが埋めた可能性があるとみている。 
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2.
70年談話に「謝罪不要」=有識者会議座長

時事通信 5月22日(金)21時29分配信





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 安倍晋三首相が今夏に発表する戦後70年談話に関する有識者会議「21世紀構想懇談会」は22日、首相官邸で5回目の会合を開き、中国や韓国、東南アジア諸国との戦後和解をめぐり、意見交換した。会合後、西室泰三座長は記者団に、「いたずらに謝罪することを基調にするのではなく、これから先を考えて、未来志向を決して崩さない」と述べ、70年談話に謝罪の表現を盛り込む必要はないとの認識を示した。
 首相は、米議会上下両院合同会議の演説などで、先の大戦について、「痛切な反省」を表明する一方、「謝罪」には触れていない。西室座長の発言は、こうした首相の姿勢に沿ったものだ。 
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3. 張本氏 DeNA首位は「春の珍事じゃない」 球児には「早く帰ってこい」

<広・D>完投勝利の井納を迎える中畑監督(左)
Photo By スポニチ

 野球評論家の張本勲氏(74)が17日、TBS系の情報番組「サンデーモーニング」(日曜前8:00)に出演。首位を走るDeNAについて「春の珍事じゃないね」と強さを認めた。

 中畑監督率いるDeNAは16日も広島を2―1で下し、今季3度目の5連勝。大洋時代の1964年以来、球団史上51年ぶりの7カード連続勝ち越しを決めた。現在、貯金は11に積み上がり、2位巨人とのゲーム差は3。まさに“絶好調”のDeNAについて、張本氏は「春の珍事じゃないね。41試合で12回も1点差で勝つのはチームの状態がいい」と話し、快進撃の理由について「新人の山崎を押さえに回したのは中畑監督の快挙だね」と指揮官を手放しでほめた。

 ゲスト出演したベイスターズOBの仁志敏久氏(43)も「抑えが決まっているというのはチームの編成上凄くいい。セ・リーグの中では打線の好調ぶりが目立つ」と同調した。

 話題がメジャーリーグに及ぶと、張本氏はレンジャーズの藤川に「まだいたんだね、アメリカに。早く帰ってくればいいのにね」と厳しい一言。藤川は開幕前に右脚付け根の張りを訴えてDL入りし、14日に移籍後初登板。復帰2戦目の15日のインディアンス戦ではソロ本塁打をを浴びるなど2/3回を2安打3失点と不甲斐ない結果に終わった。張本氏は「もう35歳だからね。帰ってきて阪神にね」と話し、「環境で合う人と合わない人がいる。例えばイチローは合うんですよ。合わない人もいるから、合わないなら早く帰ってこないと」と日本復帰を勧めた。仁志氏は「ケガが多かったので。やっと復活したのでこれからですよ」と苦笑いでフォローしていた。
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4. 東大ついに勝った!94連敗でストップ 決勝点は野選
スポニチアネックス 5月23日(土)17時10分配信

東大ついに勝った!94連敗でストップ 決勝点は野選

<東大・法大>5回2死二、三塁、飯田のとき相手バッテリーミスからの勝ち越しに沸く東大ベンチ

 ◇東京六大学野球春季リーグ第7週  東大6―4法大(2015年5月23日 神宮)

 東大が10年秋の早大1回戦以来の勝利を挙げ、連敗を94で止めた。2点を追う8回に山田の右中間適時三塁打などで同点。4―4の延長10回1死二、三塁から内野ゴロの間に勝ち越しに成功した。

 1点を追う5回1死二、三塁から暴投で2者が生還して逆転。7回に3点を失って再び追う展開となったが、8回に楠田の犠飛と山田の適時三塁打で同点に追いついた。

 そして4―4で迎えた10回表に2度の野選で2点勝ち越し。投手陣は山本俊、三木、宮台、柴田とつなぎ、逃げ切った。10年秋の早大2回戦から始まった東京六大学野球リーグ史上最長の連敗記録に終止符を打った。法大から勝利するのは08年秋以来7年ぶりとなった。

 一方、敗れた法大は今季4敗目を喫し、優勝の可能性が消滅した。
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2015-05-22 22:21:12 | Weblog
       2015年5月22日
#為替,121.07円。120.92円。120.78円。ユーロ、134.52円。134.62円。134.77円。
#ダウ,18285.74ドル。+19.05ドル。ナスダック、5090.79。+19.05。
#前場,20172.15円。-30.72円。後場、20264.41円。+61.54円。
国民栄誉受賞者
王貞治
王 貞治(おう さだはる、中国語拼音:Wáng Zhēnzhì、1940年5月20日 - )は、日本生まれ、中華民国籍の元プロ野球選手・監督。

通算本塁打868を記録し、巨人のV9に貢献。1977年、初めて国民栄誉賞を受賞した人物であり、2010年には文化功労者として顕彰された。
のボールを叩いて左翼最上段に決勝26号ソロで勝ち越し (午後2時21分) 、さらに河埜和正、加藤初、柴田勲の3連打で加点する逆転劇、守備では加藤初 (5イニングを6安打3失点) - 小林繁 (4イニングを1安打無失点) のリレーでスコア5-3で逃げ切り、長嶋巨人は前年最下位から優勝を果たし、王は14回目の本塁打王を獲emplate:国民栄誉賞
王 貞治(おう さだはる、中国語拼音:Wáng Zhēnzhì、1940年5月20日 - )は、日本生まれ、中華民国籍の元プロ野球選手・監督。

通算本塁打868を記録し、巨人のV9に貢献。1977年、初めて国民栄誉賞を受賞した人物であり、2010年には文化功労者と

概要[編集]

一本足打法と呼ばれる独特の打法で通算本塁打数、当時のシーズン本塁打数の日本記録を打ち立てるなど、ON砲として並び称された長嶋茂雄とともに、巨人の「V9」時代の顔として国民的人気を誇った。王の記録したシーズン公式戦通算本塁打868本は日本プロ野球記録であり、ハンク・アーロンが保持していたメジャーリーグ通算本塁打記録の755本塁打を抜いた事で知られるほか[1]、数々の日本プロ野球記録を保持する (記録の詳細については参照) 。

現役引退後は巨人、ダイエー・ソフトバンクで監督を歴任した。2008年シーズン終了と同時にソフトバンクの監督を退任し、同球団取締役最高顧問に就任。2009年1月1日より取締役会長に昇進。第1回ワールド・ベースボール・クラシック日本代表の優勝監督であり、第2回大会では監督相談役を務めた。

現在は福岡ソフトバンクホークス球団取締役会長、日本プロ野球組織 (NPB) コミッショナー特別顧問、読売巨人軍OB会前会長、日本プロ野球名球会顧問、(ハンク・アーロンともに提唱された世界少年野球大会を主催する)世界少年野球推進財団理事長、外務省より委嘱の野球特別大使、「ふるさと清掃運動会」実行委員長を務める。

中華民国二等景星勲章授与[2][3]。東京都名誉都民[4]、墨田区名誉区民[5]、目黒区名誉区民[6]、福岡市名誉市民[7]、宮崎市名誉市民[8]。

経歴[編集]

少年時代[編集]

東京府東京市本所区(現・東京都墨田区)で中華民国籍(浙江省青田県出身。1922年来日)の父・王仕福、日本人(富山県氷見市出身)の母・登美(旧姓: 當住)の二男として生まれる。

5月10日に二卵性双生児の弟として出生したが、戸籍上の出生日は5月20日である。実際の出生日と戸籍上の出生日が異なる理由は諸説あり、取り上げられても泣かない程の未熟児であったため両親が出生届の提出を躊躇したという説と、家業の中華料理ラーメン店「五十番」が多忙のため出生届の提出が遅れたなどの説がある。命名についても、実家近くの寺院の僧侶が名付けたという説や、母・登美の愛読書の作中人物の名を採用したという説がある。なお、双子の姉・廣子 (ひろこ) は1歳3か月で死亡した。一方の貞治は「3つの歳まで立つことすらおぼつかなかった」と本人が述べている。

太平洋戦争中の一時期、王一家は母親の旧姓「當住」を名乗っていたこともあったという。

後に師匠となる荒川博との出逢いは、区立本所中学時代、当時毎日オリオンズの現役選手だった荒川が、犬の散歩をしている際通りがかった隅田公園今戸グラウンドで王が出ていた野球の試合を眺めていたというものである。試合を観ていた荒川は、当時右打ちだった王に対して「なぜ君は左で投げるのに右で打つんだ?」と質問すると、王は「それは、オヤジから箸と鉛筆と算盤は右でやれと言われているので、バットも右で持たないと親父に文句言われると思って…」と答えた。荒川は「今の野球は左利きの選手に希少価値があるのに、君はわざわざ右で打つなんてもったいない話だ…」と言った (荒川自身も左打者だった) 。それを聞いた王はすぐに左打ちを実践したところ、二塁打を打ち、以後は左で打つようになった。荒川はその時の王の印象を「なんて素直な少年なんだと思った。普通は試合中に右打ちから左打ちに変えるなんて人に言われたってしない。それをスパッとやってしまうのはすごい」と語っている。

また、この出逢いの時から王は身長176cmと当時の若者としては長身だった。王の素質を認めた荒川は「君は今何年生だ?」と聞き、王が「2年生です」と答えたのを受けて、荒川は高校生と勘違いし、「そうか、じゃあ早稲田大学 (荒川の出身校) はどうかな?」と勧めた。すると王が「はい、そうなるといいのですが、その前に高校に行かないと」と答えたため、荒川は「2年生というのは中学生なのか」と驚いたという。

小学生の頃、当時の横綱・吉葉山から「相撲取りになりなさい」と勧められるほど相撲が強かった。そして本所中学校では陸上部と卓球部に在籍したことがある。野球部にも在籍していたが、グラウンドが使えなかったために休部同然の状態であった。

父・仕福は自分の出身地が医師と電気が全くなかったことから長男・鐵城を医師に、二男・貞治を電気技師にして、兄弟ともに母国に戻り働いてもらいたいと考えていた。だが第一志望だった進学校の都立墨田川高校に落ち、荒川の母校である早稲田実業学校高等部商業科に進学することになった。当時、墨田川高校には硬式野球部がなく、後に王はこの受験失敗を「人生の大きな分岐点の1つ」と振り返っている[9]。 また、荒川との出会いがなければ、都立墨田川高校受験失敗後、野球をやろうと思って早稲田実業高校に行くことも無く、巨人への入団も無かったと述べている[10]。

早実高等部時代[編集]

早実高等部時代は、1年生の時に外野手兼控え投手としてチームの夏の甲子園出場。2回戦では1年生ながら先発登板を果たしたが、強豪・県立岐阜商業高校相手に1-8と敗れている。

1年生の秋よりエースとなる。久保田高行総監督・宮井勝成監督の指導のもと、ノーワインドアップ投法を身に付け、投球に安定感が増した。春の甲子園で準決勝まで3試合連続完封。高知商業高校と対戦した決勝戦では、8回に3点を奪われて4試合連続完封を逃したものの、5対3で完投勝利し、優勝を果たす。関東に初めて選抜優勝旗をもたらし、人気を集めた。2年夏の甲子園では2回戦の寝屋川高校戦で延長11回を完投し、ノーヒットノーランを達成。延長戦でのノーヒットノーラン達成は、甲子園では春夏を通じて唯一の記録である。後年、王は「高校2年の頃が投手としてピークだったと思う。この後バッティングは良くなっていったけど、ピッチングはどことはいえないが、どこかおかしくなっていった」と語っている。

2年生の年、早実は国体の硬式野球高校部門に選出されたが、王は当時の国籍規定 (王は中華民国 (台湾) 国籍) のため出場できなかった (なお、現在はこの国籍規定は撤廃されている) 。王は自著「回想」では「生涯最も悔しかったこと」と語っているが、後年のインタビューでは「高校球児は甲子園こそ目標で、国体にはそこまでのモチベーションはなかった。今振り返ってもそういうこともあったな、程度。甲子園大会でそういう規定があったら悔やんでも悔やみきれなかっただろうけど」と語っている[9]。

3年生時の選抜大会では打者としても活躍し、30年ぶりとなる2試合連続本塁打を放った (なお、当時の甲子園球場はラッキーゾーンはあったが、高校野球も木製バットを使用していた。金属バットの使用が認められるのは1974年からである) 。3年生の夏は、東京都大会の決勝戦で明治高校と対戦、1対1で迎えた延長12回表に4点を奪いながらその裏に5点を奪われて逆転サヨナラ負けを喫し、5季連続の甲子園出場は果たせなかった。この時、早実の野球部長の音頭により、甲子園本大会に向けて大阪に出発する明治高校ナインを早実野球部員全員で東京駅にて見送った。もともと王は父の意向もあって大学進学を考えており、高校2年生の夏にはすでに読売ジャイアンツより誘いがあったが、大学進学を考えていたため断っている[9]。王は「もし5季連続出場を果たしていたら野球にけじめをつけて大学にいっていたと思う。最後に出られなかったことで気持ちが宙ぶらりんになった」と語っている[9]。

プロ野球の各チームが熱心に誘ったが、特に熱心だったのが王に縁の深い甲子園を本拠地とする大阪タイガース (阪神) であった。新聞は「王、阪神へ」と大きく報道。親も高卒選手の多い阪神を薦めていたため、当初は前述の事情もあってスカウトに参戦していなかった巨人が急きょ「大学に行くと聞いていたので獲得に乗り出さなかったが、プロに行くならぜひうちへ」と獲得参戦してきた。もともと東京で生まれ育った王は「プロに行くなら巨人」と考えており、気持ちは非常に揺れ動いたという。しかし、最後は自分の気持ちを貫き、巨人入団を決めた。兄・鉄城が同意してくれたことも心強かったという[9]。

現役時代[編集]

低迷期[編集]

1959年に契約金1,800万円[11]、年俸144万円、背番号「1」という高卒新人としては破格の条件で巨人に入団。背番号1については、中国語で「王」を「ワン」と発音することから、英語のoneにかけてつけられたという説もあるが、背番号そのものは、南村侑広の引退によって1が空いていたため、それを付けることになったというのが実情である。プロ入りの同期には村山実、板東英二、河村保彦、江藤愼一、田中俊幸、張本勲、足立光宏らがいる。

当初は投手として入団したが、監督の水原茂に「王、お前はピッチャーとして大成しない」と言われ、すぐに一塁手に転向した。

当時エースの藤田元司は王の印象として、「甲子園で活躍するなど高校時代に頑張りすぎたのか、僕が見る限り投手としての王君はくたびれていましたね」と述べている。また、前年に引退して同年からコーチになった川上哲治は、「何というか、球筋がやさしいんですね。"おおっ"っていうのがない。しかしバッティングはすごかった」と語っている。川上によれば、王のバッティングは構えからスイングまで全く顔が動かず、新人ながら基本が完成していたという。当時二軍監督だった千葉茂は練習後に王と入浴した際、「王の体格には驚いた、非常にいい筋肉をしておる。ただし、いかり肩で大成した投手はいないだけに、投手としては厳しいだろう」と感じ、水原に「ピッチャーとしてはあきまへん。でもバッターなら川上の半分は打ちます」と野手起用を進言した。

王自身は「 (自分が投手として通用しないことは) 薄々感づいてはいた。だけど、やはり野球をやる者なら誰でも投手に憧れるもので、『おまえ、明日からは野手だ』と言われた時は正直に言えば寂しかった」と語っているが、川上の引退直後であり、その後継一塁手としての期待は大きかった。ライバルはこれも既に峠を過ぎていた与那嶺要くらいで、その与那嶺もキャンプでの王の打撃練習を見て「ボク、 (一塁のポジション争いではかなわないので) 外野手に戻るよ」と言ったという。

オープン戦で5本塁打を放つなど順調にシーズンを迎え、4月11日に国鉄スワローズとの開幕戦では高卒新人ながら7番・一塁で先発出場を果たした[12]。しかし、この試合で金田正一と対戦し、3打席で2三振1四球に終わった。同結果は長嶋茂雄の初試合4打席連続三振とよく比較される。これをきっかけにオープン戦と一転して当たりが止まってしまい、26打席無安打が続き、バットを956グラムから938グラムに軽くしていた。

4月26日後楽園球場での宇野光雄率いる国鉄との6回戦 (ダブルヘッダー第2試合) スコア0対0で迎えた7回表二死、敵失で出塁した坂崎一彦を一塁に置いて王に第3打席が巡ってきた。水原は代打策も考えたが、当時チームは開幕戦こそ金田の前に敗れたがその後8連勝するなど開幕ダッシュに成功、国鉄戦もこの日の第1試合を含め4連勝中と余裕があり、また、走者が得点圏ではなく一塁で、この日の王の打順は8番で次打者が投手だったため代打を温存したかった事情もあり、王をそのまま打席に送った。王は国鉄の村田元一が2ストライク1ボールからの4球目に投じた内角低めのカーブをすくい上げ、打球はライトスタンド最前列に落ちた。守備では伊藤芳明が4安打完封して、試合は巨人が2対0で勝利した。公式戦初安打が決勝2ランホームラン (出場11試合目) 。これが王の記念すべき1号本塁打となった。

同年6月25日の天覧試合では、7回に2対4と2点ビハインドの場面で小山正明から4号同点2ランを放った。これが長嶋茂雄とのONコンビ・アベック本塁打の第1号である。

しかしそれ以外はほとんど目立った活躍もなく、1年目は打率.161・7本塁打と当初の期待からすれば物足りない結果に終わった。特に目立ったのが72を数えた三振の多さで (2.7打数に1三振に相当) 、「王は王でも三振王」などと野次られる始末だった。ただし、主力選手でも遠慮していた水原監督の隣の座をいつも占め、「監督、今の一塁手のプレーにはどういう意味があるのでしょうか?」と堂々と質問したり、記者から「 (不振の) 重圧はありませんか?」と尋ねられても、「別に。使っているのは監督さんですから」と答え、新人としては異例の姿勢だった。また、期待はずれの成績にもかかわらず、2年目の年俸は推定140万円から160万円にアップした。これは練習の球拾い時に自腹で専用の糸を購入し丁寧にボールの破れを修繕していたことを球団代表が評価したため。なお、この球団の評価に感銘した王は、以後現役引退するまで1度も契約更改でもめることはなかった。1974年の更改は2年連続三冠王にもかかわらず現状維持であったが、それでも文句を言わずサインしている。

プロの水に慣れた2年目は打率.270・17本塁打 (このシーズンのチーム最多) と主軸として恥ずかしくない成績を残し、オールスターゲームにもファン投票選出された。これは、東京六大学野球の大型一塁手・木次文夫の入団で危機感を抱いたことも好影響を及ぼしたといわれる。しかし三振も101個と依然として多かった。

3年目の1961年、川上が水原の後を継いで監督に就任。川上は王に長嶋に次ぐ中心打者としての活躍を期待したが、打率.253・13本塁打と2年目より成績を落とし、期待に応えることはできなかった。この年中日に入団し、ルーキーながらエースとして活躍した権藤博は王について「速球はある程度対応してくるけど、カーブを投げておけば簡単に空振りして尻餅をついていた。かわいいもんだと思った」と語っている。高卒3年目としてはそれなりの成績だったが、契約金の額や首脳陣の期待からすれば物足りない数字だった。

大きな期待がかかりながら伸び悩む王には、阪急ブレーブスのエース・米田哲也との交換トレードの話も持ち上がっていた (結果的に阪急が断ったため、このトレードは行われなかった) 。

転機・一本足打法[編集]

1961年シーズンオフ、荒川博が巨人の打撃コーチに就任する。荒川就任は、読売新聞の関係者が広岡達朗を介して、川上に荒川を推薦したもの[13] であり、川上は榎本喜八を育てた荒川の打撃コーチとしての手腕に王を託した。川上は、王について「3割、25本塁打は十分打てる素質がある」と見込んでおり、その見込みに対して成績が思うように伸びない理由は、練習をちゃんとしないために結果が出ず、そのために自信を持てず、更に練習に身が入らない、という悪循環のためだと考えた。川上が荒川に最も強く期待したのは、王に練習に身を入れるように意識改革をさせることだった。61年の秋季キャンプで久々に王を見た荒川は「なんだ、こんなスイングではドッジボールにも当たらんぞ。遊びは上手くなったかもしれんが、野球は下手になったな」と言い放った。王は内心カッとなったが、言い返せなかった。しかし、荒川は同時に「これだけ(打ちにいく際に、手足の動きがバラバラで不安定・一定でないため、簡単にスイングを崩される)悪い打ち方 でも、.270打ったこともあるのだから、やはり素質は素晴らしい」と感じたという。

荒川は、王はプロの速球に対応しようとするあまり、ボールを前に迎えに行ってしまうためにグリップポジションが安定しないことが欠点であると判断し、それを修正するためにさまざまなフォームを試した。そのうちのひとつが「一本足打法」だったが、この時はいくつか試した打法のひとつに過ぎず、ほんの2・3日練習しただけだった。

1962年シーズンが開幕。川上は王への期待を込め、開幕戦 (4月7日、対阪神) で公式戦では初めて王を4番で起用した (公式戦以外では、前年の日本シリーズ第1戦、第2戦にて王を4番で起用していた) 。シーズン3ヶ月経った時点では9本塁打という成績で、6月後半は極度の不振に陥っていた。自信を持てない王は荒川との練習にも身が入らなかったという。チームもなかなか波に乗れず、2位と3位を往復するばかりの状態だった。シーズン半ばの7月1日、試合前の監督コーチ会議にて、別所毅彦ヘッドコーチが八つ当たりぎみに「王が打てないから勝てないんだ」と荒川に言い、荒川も頭に血が上り、思わず「私は王に三冠王を取らせようと思って指導しているんだ、ホームランだけならいつでも打たせてやる」と返してしまった (荒川は後年『三冠王を取らせる』というのは咄嗟にホラを吹いてしまったものだったと語っている) 。しかし別所は揚げ足を取るように「そのホームランだけでもいいから打たせろ」と怒鳴った。困り果てて頭に血が上った荒川は、血相を変えて部屋を飛び出し、王をつかまえて「今日から一本足で打て。三振を怖がるな」と凄まじい形相で命じた[14][15]。

なお、王本人によれば「一本足を始めた経緯は記憶が定かでない。 (中略) 僕自身は普通の打ち方で打ってるつもりだった。でも、4年目のシーズン中にどうしても食い込まれることが多くて、それならいっそのこと右足を上げて打ってみろと。その打席で大爆発した」とインタビューで答えている[16]。

1962年7月1日の対三原脩率いる大洋ホエールズ戦ダブルヘッダー (15・16回戦、川崎球場) は、前日夜半から当日昼までの降雨の影響等により試合開始が30分遅れた。前夜の試合 (14回戦) では22歳の王を3番打者に起用したが2打数2三振1四球に終わり、チームも中2日の左腕鈴木隆に抑えられて安打は須藤豊のテキサスヒット1本のみ、四球は2つで完封され、6安打完投の藤田元司を援護できず、9回裏の先頭打者森徹の本塁打により0対1でサヨナラ負けを喫していた。そのため、同日の巨人は試合前の打撃練習を10分間延長。更に第1試合で王を1番に起用し、王は一本足打法を敢行した。

王は先発のルーキー右腕稲川誠から第1打席2ストライク0ボールからの3球目外角カーブを右前単打、3回表の第2打席初球内角低めのストレートを右翼席へ先制の10号ソロ本塁打 (通算第47号、16試合68打席ぶり) 、3番手の左腕権藤正利から6回表の第4打席二死満塁2ストライク3ボールでカーブを中堅左に単打して走者一掃の活躍を見せ、結果は5打数3安打4打点だった。試合は王 (3回表ソロ) ・森祇晶 (4回表ソロ) ・塩原明 (5回表ソロ) ・藤本伸 (8回表3ラン) の計4本塁打を含む13安打の猛攻と中村稔投手の2塁を踏ませぬ3安打完封とで、巨人が10対0で勝利した。

第2試合でも王は1番に起用されて結果は4打数無安打であったが、2回に遊撃手・8番打者の藤本が1死満塁の場面で島田源太郎から右前へ先制2点適時打を放ち、7回に宮本敏雄が秋山登から左翼へソロ本塁打を放った。投手陣は宮田征典 (3イニング) から堀内庄 (6イニング) の継投で、フランシス・アグウィリーの3安打のみ・7回右翼へのソロ本塁打での失点のみに抑えて守りきり、チームは3対1で連勝した。

後に荒川は「あの日ヒットが出なかったら一本足打法は止めさせていた」と語っており、たった1日で王の運命が左右されたことになる。ただし、この頃の王はフォームを変えることが珍しくなく、7月1日の試合におけるフォームの変化については、翌日の新聞は巨人の親会社である読売新聞をはじめほとんど報じていない。7月に入り王が立て続けに2本、3本と本塁打ペースが上がってきたところで「そういえば変な打ち方しているぞ」と騒ぎ始めたという[9]。開幕の4月から6月まで9本塁打だった王は、7月の1ヶ月だけで10本塁打を放ち、一気に本塁打の量産ペースを上げた。

王自身も結果が出てきたことで、一本足打法に本気で取り組む気持ちになり、練習に打ち込むようになった。この時の練習の過酷さ、練習量を表すエピソードとして「練習に使った部屋の畳が擦れて減り、ささくれ立った」「練習の翌朝、顔を洗おうと、腕を動かそうとしたが動かなかった」という話がある。また、剣道家・羽賀準一のもとに弟子入りして居合を習うと共に、日本刀による素振りの指導を受けた[17]。

特に有名なエピソードとして、「天井から吊り下げた糸の先に付けた紙を、日本刀で切る」という練習があった。これは一本足打法の弱点を克服させるためであった。一本足打法は、投球のタイミングをずらされると通用しなくなるという弱点があった。7月1日に一本足打法を披露したものの、その後に国鉄の金田正一に同弱点を見破られ、早くも壁にぶつかることになった。例えば、金田は速球を投げる素振りをして、スローボールを投げる等で打つタイミングをずらす投法に出たのである。荒川も弱点は把握しており、弱点が見破られるのは想定内と考えていた。そこで一本足で立って、巧妙な投球であっても対応できる訓練を王に課した。これは、技術として日本刀で紙を切るほど打撃を研ぎ澄ませる、という以上に、打席内での集中力を高めることで余計なことを考えないでいいように、という精神鍛錬の目的もあった。

このような王の練習がどれ程のものだったかは、当時チームメイトであった広岡達朗、藤田元司がこれを見学していたことを思い出しながら「あまりに緊迫感のある練習だったので、それまでは後輩の練習がどれほどのものか、と胡坐をかいてのんびり見学してやろう、と思っていたのに、いつの間にか見学していた人間全員が正座して観ていたよ。まさにすさまじい練習だった。あんな命がけの練習をする選手は今いない(広岡) 」、「部屋の中は王くんの素振りの音と荒川コーチの声が聞こえるだけでしたね。王くんが少しでも悪い素振りをしたら『気を抜くな! そんなことなら、さっさと帰れ!』と荒川コーチに叱られ、王くんも『すみません、もう一回お願いします』と言って練習が再開される。あんな場に居合わせたら、みている自分たちまで叱られているような気がしてきて、胡坐をかいたり、寝そべって見られませんよ (藤田) 」と語っている。

南海時代の野村克也も自身の著書『巨人軍論』の中で、王の練習の凄まじさを振り返っている。ある日、王と野村がそれぞれ友人を連れ銀座の飲食店で呑んでいた際、夜10時になったところで王が「ノムさん (野村の愛称) 、悪いけど荒川さんとの練習があるので、僕はここで失礼します」と言い、野村が引き止めても、王は練習に向かった。その時、野村は「ああ…、俺はいつかこいつに抜かれるなあ…」 (この逸話の段階では、野村のほうが王より通算本塁打数が上だった) と感じたという。その後、野村が荒川コーチに頼んで王の練習を見学させてもらったところ、ただ「すごい」と感じるのみで、とても王に話しかけることのできる雰囲気ではなく、「王の素振りに比べれば私のそれなんて、遊びみたいなものだった」「あれだけ練習した王だから、世界記録を作っても不思議ではない」と記している。更に「実績ある選手は周囲が意見できないことをいい事に、何かと言い訳をして手を抜きたがるものだが、王は一切妥協せず自分に厳しかった。中心選手はチームの鑑でなければならず、王はまさにそうだった」と評価している。

この年38本塁打・85打点で初めて本塁打王と打点王を獲得。以後、王は引退まで一本足打法を貫いて、この打法で822本塁打を記録した。1977年の梶原一騎との対談[18] では「二本足でなら打率4割は狙える」と言う梶原に対し、「一本足がダメになったら引退」という趣旨の発言をしている。

前述のとおりルーキーシーズンは王をカモにしていた権藤博も、一本足打法になった王の変化に驚いた一人である。「隙のないバッターになった。こちらの思うところに完璧に投げられなければ抑えられない。球1個分外れればボールになるし、球1個分中に入ればホームランという感じだった」と語っている。

後にこの打法で本塁打記録が達成され、アメリカのメディアからは「フラミンゴ打法」とも言われるようになった。メジャーリーガーには「フラミンゴ・サダハル・オー」と呼ぶ者がおり、これに由来するものである。1981年から1987年までは後楽園球場、1998年から現在は東京ドームの1番ゲートは「王ゲート」と称されており、そのモニュメントで再現されている。また2002年には王の現役時代のバッティングを再現した「王貞治スーパーリアルフィギュア」 (868体限定) が販売され、一本足打法が再現されている。

翌1963年、初めて打率3割・40本塁打を記録し、2年連続で本塁打王を獲得。長嶋とのコンビを「ON砲」と呼ぶ呼称も定着し、巨人の二枚看板を背負うようになった。

シーズン55本塁打[編集]

1964年3月20日の林義一率いる国鉄との開幕戦 (後楽園球場) では、プロ15年目で10度目の開幕投手を務める金田正一投手と小雨の中対決した。23歳、6年目の王は開幕戦では15打席ヒットがなかったが、16打席目の3回裏二死で1塁に柴田勲を置いて1ストライク3ボールからの5球目真ん中やや低めの直球をライト場外へ2ラン本塁打 (通算116号) を放つ。打球はライトスタンド場外に設置されていたローラースケート場の隣のコーヒーショップの屋根まで飛び、推定飛距離151mとされている。金田からすると本塁打を打たれた球は「見逃せばボール球で、王から三振を奪える絶対的な球」と語っている。守備では初めて開幕投手を任された高橋明が6安打完投して、試合は3対1で巨人が勝利した。

この本塁打は金田を驚嘆させたが、金田は一本足打法転向後も王をカモにしていたこともあり、打たれた球種・コースを投げ続けたが、同年の王にはことごとく打たれたという。これにより金田は「長嶋は対戦する前からに研究をしたが、王は打たれてから研究した」と語っている (別のTV番組では、「ワシはバッターの研究なんてしたことがない。研究したのは王貞治が初めてだったね」と語っている) 。この年、王は金田から1試合2本塁打2回を含む7本塁打を奪い、同一投手に対するシーズン本塁打数のタイ記録となっている。

5月3日の対藤本定義率いる阪神タイガース戦 (7回戦、後楽園球場) では史上初の1試合4打席連続本塁打を記録した。1回1塁に国松彰を置いて先発の左腕太田紘一からフルカウントで6球目の真ん中高めのカーブを右翼場外の富坂署球場派出所を越えてアイスパレスとローラースケート場の中間に届く約150mの14号2ラン、4回再び太田の初球の真ん中高めの直球を15号ソロ、6回3番手の若生智男から1ストライク2ボールで4球目の真ん中高めのカーブを16号ソロ、さらに7回2塁に柴田を置いて4番手の本間勝から1ストライク2ボールで4球目の外角低めの直球を17号2ラン、すべて130m超級の本塁打で4打数4安打6打点、守りは高橋明投手が完封して9対0で巨人が勝利した。この時点で打点39、打率.405の三冠。手のつけられない打棒対策として、2日後の5月5日広島とのダブルヘッダー第2試合 (8回戦、後楽園球場) で白石勝巳監督が7回裏一死の場面で「王シフト (白石シフト) 」と呼ばれる守備体系を開始したことで話題になった。「最後の4割打者」テッド・ウィリアムズに対して考案したブードローシフトと同様で、王の打球がフィールドの右半分に集中することを考慮に入れて野手の内6人をライト側に守らせたが、王は王シフトにも動じることはなく、その打席でプルヒッティングも流し打ちもせず鵜狩道夫投手が投じたカウント1ストライク2ボールからの4球目内角高めの球をバックスクリーンのわずか右へ18号本塁打 (通算133号) を放った。7月19日後楽園球場での対国鉄21回戦では、7回無死1塁に遊撃右への内野安打で出塁した塩原明を置いて (塩原はこの日2本目の安打) 、半沢士郎がカウント1ストライクで投じた2球目やや外角寄りの低めの速球をすくい上げると、高さ9mのバックスクリーンを越え、スコアボードとの間のスタンドに届く150m級の37号2ランとなった (通算152号) 。後楽園球場のバックスクリーン越えの本塁打は史上初。

9月6日129試合目の三原監督率いる大洋とのダブルヘッダー第1試合 (24回戦、川崎球場) で1回の第一打席に鈴木隆投手の1ストライク1ボールからの3球目内角低め膝元に落ちるカーブを52号ソロ、6回の第三打席は交代したばかりの峰国安投手の初球の真ん中高めの直球を逆風の中53号の本塁打を放ち、前年に野村克也が作ったシーズン本塁打記録52本を一気に抜き去った。15日後、9試合後の9月21日には広島での28回戦で七森由康が最後の勝利を唯一の完封 (被安打は3回にカーブを打った田中尊と三遊間を破った大和田明による2本のみ、広島に3塁踏ませず) で飾ったが、この試合では四回に安仁屋宗八の1ボールでの2球目真ん中高めの直球を坂崎一彦がバックスクリーンへ先制5号ソロ本塁打を放った後、六回一死一塁に中前打の長嶋茂雄を置いて、安仁屋のカウント1-1での内角膝元のスライダーを王が叩くと、打球は逆風をついて右翼フェンスをぎりぎり越えて、53号から37打席ぶりの54号2ランとなった。この日の広島は、王の安打を約15本防いで、王の首位打者 (三冠王) 獲得を阻止したと評価されている王シフトを解除しており (理由は非公表) 、54号の飛球を追った広島の右翼手は小坂佳隆であった。9月23日最終戦の対大洋ダブルヘッダー第2試合 (28回戦、後楽園球場) で雨中の5回裏に佐々木吉郎投手からシーズン55号 (通算170号) 本塁打を24歳で記録した。これは2013年にヤクルトのウラディミール・バレンティンに破られるまで長年プロ野球記録であった。55本塁打のうち24本は飛距離400フィート (約122m) 以上という大リーグの球場でも十分にスタンド中段に届く大型ホームランであり、決して球場の狭さに助けられた記録ではない、と宇佐美徹也は評価している。参考に、この年のセ・リーグにおいて第2位の本塁打数はM・クレス(当時は大洋所属)の36本で、両リーグ合わせて第2位の本塁打数は野村克也(当時は南海所属)の41本であり、両者を10本以上も突き放しての数字である。また、55本塁打のうち17本は左投手から奪った本塁打であり、金田正一からは7本塁打を記録した (前述) 。

この年、巨人は優勝しなかった (優勝は阪神) にもかかわらず、王はシーズンMVPに選ばれた。

それまで、王と荒川コーチは一本足打法に必ずしも強い執着を持っていたわけではなく、実際このシーズンのキャンプでは二本足に戻すことを検討していたほどだった。しかし「シーズン55本塁打」という偉業達成を機に、王は一本足打法こそ自身のバッティングスタイルであると確信した。 この年のオフからオープン戦の途中まで2本足に戻した3ヶ月の間に、自分には一本足打法が一番あってることを再確認でき、それがその年の55本塁打につながったと述べている[19]。

また、王は「自分は打率を気にするバッターではない」と語っているが、相手バッテリーが警戒して四球・敬遠が増えた関連で打率が残り始め、1964年は江藤愼一と最後まで首位打者を争い続けた。この年は2度目の打点王も獲得したが、首位打者争いは3厘差で江藤に及ばず、三冠王は逃した。

翌1965年はシーズン中の怪我の影響で本塁打は42本に減少したが、4年連続の本塁打王、109打点で2年連続3度目の打点王。打率は再び江藤に及ばず2位だったが、2年連続のMVPに選ばれた。

1966年、1967年はともに97試合で40号に到達するハイペースの本塁打量産を見せたが (1985年にランディ・バースがタイ記録を作ったが、現在も40号到達最速記録) 、いずれもシーズン終盤にペースが落ち、記録更新には届かなかった。

後に、1992年プロ野球ドラフト会議における目玉選手の一人となった松井秀喜が読売ジャイアンツに入団することとなった。巨人監督に復帰したばかりの長嶋茂雄はその際、松井の背番号を55とするがそのきっかけとなった記録でもある[20]。

ライバル対決[編集]

1968年9月17日の対阪神戦 (阪神甲子園球場) にて、プロ2年目の江夏豊に稲尾和久と並ぶシーズン353奪三振目を喫する。江夏はそこからわざと8人から三振を奪わず、再び王から新記録となる354個目の三振を奪って見せた。王はわざと三振を取らずに一巡させたことについては「俺はこれ (眉に唾をつける動作をしながら) だと思う」と懐疑的だが、江夏との対戦については「三振を恐れるようなスイングだけは絶対にしたくなかった。それに中途半端なスイングじゃ江夏の球は打てないしね」と常に全力で対決に臨んだことを証言している。王が最も三振を奪われた投手は最大のライバル江夏からであるが、その江夏が最も本塁打を打たれた打者は王である。そして約250回の対戦で死球は只の1回だけであり、関係者から指摘されるまで、お互いに死球はゼロだと思っていた。王は江夏について「『こいつは絶対に抑えてやる』『こいつから絶対に打ってやる』とお互いに強い意識を持った相手という意味で最高のライバルだったんじゃないかな」と語っている。

翌9月18日の対阪神戦では、ジーン・バッキーから危険球を投げつけられ、バットを持ってバッキーの元に詰め寄った。この時、王は第1打席でバッキーから死球を受けていた。第2打席は三振に倒れていたが、4回バッキーが巨人打線に捕まり、失策や3連打などを浴びており、長嶋も「バッキー、やばいぞ」とささやいてたところで迎えた第3打席、初球が頭付近への危ない投球となり、捕手の辻佳紀に「今度 (危険球が) 来たらもう我慢できんぞ」と言っていたところに2球目も腰の付近に来たというものであった (ただし王自身はバッキーとは仲は良く、「おいおい」とたしなめる程度のつもりであったという)




1.中日対巨人戦【ナゴヤドーム】
4対2で巨人勝利。


先発、
【中日】吉見一起右腕、8回浅尾拓也右腕、8.9回高橋聡文左腕、田島慎二右腕、

【巨人】ポレダ左腕、9回澤村拓一右腕、
【巨人】
1番 中 長野 久義投澤村拓一2 番二 片岡 治大3番 右 亀井 善行
4番 遊 坂本 勇人5番 一 アンダーソン6番 捕 阿部 慎之助代走中鈴木尚広、
7番 左 堂上 剛裕代打右橋本 到8番 三 寺内 崇幸 9番 投 ポレダ代打矢野謙次、打高橋由伸、保相川亮二、

【中日】
1番 中 大島 洋平2番 二 亀澤 恭平3 番右 平田 良介
4番 三 ルナ5番 左 ナニータ6番 一 福田 永将
7番 遊 エルナンデス8 番捕 谷繁 元信代打小笠原道大9番 投 吉見 一起代打松井祐介、
投浅尾拓也、高橋聡文 、田島慎二

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1回表,1番、2.0.2.1.6ゴロ2番、1.0.1.1.6ゴロ3番、1.0.8フライ好捕。
1回裏、1番、1.0.1.1.1.2.、2.2.空振り三振外角低めのストレート152キロ
2番、フライ3番、0.1.1.1.1.2.空振り三振。11球。
2回表、4番、0.1.8フライボール?5番、1.0.1.1.2.1.7ヒット6番、0.1.1.1.3ゴロダブルプレー。フォーク引掛け??。
2回裏、4番、0.2.、1.2.8ヒットスライダー高い?5番、0.1.1.1.1.2.死球6番、0.2.2.2.9ヒット満塁無死7番、6ゴロダブルプレー1点8番、1.0.2.0.2.1.2.2.
 3.2.、見逃し三振。33球。                 0対1。
3回表、7番、0.1.1.1.3ゴロ8番、1.0.2.0.2.1.2.2.8ヒット9番、1.0.2.0.3.0.盗塁成功2塁四球策は?1番、1.0.8ヒット1点2番、0.1.1.1.1.2.、、、見逃し三振
3番亀井、2.0.8フライ。                 1対1。
3回裏、重要9番、0.2.2.2.、、3.2.空振り三振1番、0.2.1.2.空振り三振2番、0.1.0.2.1.2.1ゴロ内野安打3番、1.0.1.1.4ゴロ。スライダー。
ÐeℕAに追い込むため、今日は大事な試合!。2割の坂本から?
4回表、4番、4ゴロ内角のシュート?5番、0.1.0.2.1.2.、、2.2.、空振り三振フォーク、ボール?6番、8フライ。52球。
4回裏、4番、0.1.9ヒット5番、8フライ6番、0.1.1.1.1.2.2.2.空振り三振
 7番、9フライ。ナイス!!。
5回表、7番堂上、4ゴロ8番、1.0.8フライ9番、0.2.、4ライナー。
5回裏、8番、0.1.1ゴロ9番、0.1.1.1.2.1.2.2.3.2.4ゴロ1番、2.0.2.1.6ゴロ真ん中ストレート147キロ。74球。67回の攻防!!?
6回表、1番、8フライ2番、2.0.2.1.1ゴロ3番、0.1.1.1.中二塁打4番坂本、1.0.7ヒット内角低めのストレート好打1点5番、0.1.1.1.2.1.2塁3.1.四球
 6番阿部、0.1.0.2.1.2.2.2.、フライ。          2対1。
6回裏、最重要2番、6ゴロ好捕3番、0.1.0.2.4ゴロ好捕4番、0.1.8ヒット高い?5番、7フライ。ナイス!。81球。1点追加点が欲しい。
7回表、7番、0.1.0.2.1.2.2.2.空振り三振8番、0.2.1.2.9フライ9番、0.1.0.2.、見逃し三振。7回は3人で終わらしたい!。
7回裏、要注意6番、2.0.7フライ7番、1.0.右ホームラン外角のストレート高い?1点8番、0.1.1.1.9ゴロ9番代打松井、5ゴロ。   2対2。
8回表、【浅尾】1番長野、0.1.1.1.1.2.5ゴロ内野安打2番、1.0.1.1.バント2
3番亀井、1.0.1.1.2.1.3.1.四球4番坂本、0.1.1.1.1.2.、5ゴロ1.3塁【高橋】
5番、0.1.1.1.2.1.2.2.4ゴロフォーク、ボール?。
8回裏、最重要1番、0.1.8ヒット2番、バント2塁3番、0.1.1.1.6フライストレートボール?4番、敬遠5番、1.0.2.0.2.1.7フライ。良く凌いだ。104球。
9回表、6番阿部、0.1.1.1.1.2.2.2.3.2.9ヒット価値ある代走鈴木7番打橋本、バント2塁8番寺内、1.0.1.1.1.2.、7ヒット外角のフォーク好打1.3塁9番打、矢野【田島】打高橋由1.0.ワイルドピッチ2.3塁1.1.2.1.3.1.9ヒット1点貴重一死1.3塁1番長野、0.1.1.1.2.1.2.2.ランエンドヒット4ゴロ1点大きい2塁2番片岡、0.1.1.1.4ゴロ。                     4対2。
9回裏、【澤村】6番、0.1.0.2.見逃し三振7番、9ヒット8番打小笠原、0.1.0.2二死?.1.2.2.2.空振り三振。

戦評。
ポレダが8回2失点に抑えたのが勝因。9回6番阿部9ヒット7番バントで送って8番寺内7ヒットでつないで9番代打矢野代打高橋由伸、9ヒットで勝ち越し1番長野ランエンドヒット4ゴロさらに1点を追加した。
1.中日対巨人戦。【ナゴヤドーム】
4対2で巨人勝利。大きな一勝。
先発
【中日】吉見一起右腕、
【巨人】ポレダ左腕、

戦評
5月22日(金)中日 vs. 巨人 7回戦

巨人が接戦を制した。巨人は同点で迎えた9回表、代打・高橋由の適時打で勝ち越しに成功する。さらに1死一三塁の好機から、長野の内野ゴロの間に三塁走者が生還し、リードを広げた。先発・ポレダは8回2失点の好投で今季5勝目。敗れた中日は、救援陣が誤算だった。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ 巨人 ] ポレダ(5勝1敗0S)

敗戦投手、[ 中日 ] 高橋聡(2勝2敗0S)

セーブ、[ 巨人 ] 澤村(3勝2敗15S)

本塁打、[ 巨人 ]
        [ 中日 ] エルナンデス 3号(7回裏ソロ)

巨人バッテリー
ポレダ 、澤村 - 阿部 、相川。

 中日バッテリー
吉見 、浅尾 、高橋聡 、田島 - 谷繁 。

2.広島対ヤクルト戦。【マツダスタジアム】18:00
延長10回2対1で広島サヨナラ勝利。
先発、
【広島】黒田博樹右腕、
【ヤクルト】小川康弘右腕、

戦評
5月22日(金)広島 vs. ヤクルト 8回戦

広島は4回裏、4番・新井のソロで先制する。その後同点を許すも、延長10回に菊池がサヨナラ本塁打を放った。投げては、先発・黒田が7回1失点の好投。4番手・今村が今季初勝利を挙げた。敗れたヤクルトは、打線が相手を上回る10安打を放つも、つながりを欠いた。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ 広島 ] 今村(1勝1敗0S)

敗戦投手、[ ヤクルト ] 徳山(1勝1敗0S)

セーブ

本塁打、[ ヤクルト ]
        [ 広島 ] 新井 2号(4回裏ソロ) 、菊池 3号(10回裏ソロ)

ヤクルトバッテリー
小川 、ロマン 、オンドルセク 、徳山 - 中村 。

 広島バッテリー
黒田 、永川 、中崎 、今村 - 石原。


3.ÐeℕA対阪神戦。【横浜】
6対5でÐeℕAサヨナラ勝利。
先発、
【ÐeℕA】山口 俊右腕、
【阪神】サンディアゴ右腕、

戦評
5月22日(金)DeNA vs. 阪神 6回戦

DeNAがサヨナラ勝ち。DeNAは5点を追う5回裏、筒香の3ランなどで4点を返し、1点差に迫る。その後は7回に同点とすると、9回に井手が適時打を放ち、試合を決めた。投げては、5番手・山崎康がプロ初勝利。敗れた阪神は、投手陣が序盤のリードを守れなかった。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ DeNA ] 山崎康(1勝1敗17S)

敗戦投手、[ 阪神 ] 福原(2勝1敗0S)

セーブ

本塁打、[ 阪神 ] 鳥谷 2号(2回表2ラン) 、福留 5号(3回表ソロ)
       [ DeNA ] 筒香 11号(5回裏3ラン)

阪神バッテリー
サンティアゴ 、松田 、高宮 、安藤 、福原 - 鶴岡 、藤井。
 DeNAバッテリー
山口 、国吉 、小杉 、エレラ 、山崎康 - 嶺井 、黒羽根。

4.日本ハム対ソフトバンク戦。【札幌ドーム】
6対5で日本ハムサヨナラ勝利。18:00
先発、
【日本ハム】大谷翔平右腕、
【ソフトバンク】摂津 正右腕、

戦評
5月22日(金)日本ハム vs. ソフトバンク 5回戦

日本ハムがサヨナラで3連勝。日本ハムは2点を追う8回裏、中田の2ランで同点とする。続く9回には、西川の適時二塁打が飛び出し、試合を決めた。投げては、3番手・屋宜が今季初勝利。敗れたソフトバンクは、打線が終盤に逆転に成功するも、救援陣が誤算だった。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ 日本ハム ] 屋宜(1勝0敗0S)

敗戦投手、[ ソフトバンク ] 森福(0勝1敗0S)
   セーブ

本塁打、[ ソフトバンク ]
       [ 日本ハム ] 中田 15号(8回裏2ラン)

ソフトバンクバッテリー
攝津 、五十嵐 、バリオス 、森福 - 高谷 、斐紹 。

 日本ハムバッテリー
大谷 、谷元 、屋宜 - 近藤。

5.西武対楽天戦。【西武プリンス】18:00
6対1で楽天勝利。
先発、
【西武】牧田和久右腕、
【楽天】辛島 航左椀、

 戦評
5月22日(金)西武 vs. 楽天 9回戦

楽天は同点で迎えた5回表、銀次の適時打が飛び出し、勝ち越しに成功する。9回には1死満塁の好機から、藤田がグランドスラムを放ち、試合を決めた。投げては、今季初先発の辛島が8回1失点の快投で初勝利。敗れた西武は、打線が2安打1得点と沈黙し、3連敗を喫した。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ 楽天 ] 辛島(1勝0敗0S)

敗戦投手、[ 西武 ] 牧田(4勝2敗0S)

セーブ

本塁打、[ 楽天 ] 藤田 2号(9回表満塁)
        [ 西武 ] 中村 11号(2回裏ソロ)

楽天バッテリー
辛島 、金刃 、青山 - 嶋。

西武バッテリー
牧田 、武隈 、ミゲル・メヒア 、宮田 - 炭谷。

6.オリックス対ロッテ戦。【ほっと神戸】
2対0でロッテ勝利。
先発、
【オリックス】ディクソン右腕、
【ロッテ】古谷拓哉左腕、

戦評
5月22日(金)オリックス vs. ロッテ 6回戦

ロッテが3連勝。ロッテは0-0のまま迎えた8回表、デスパイネが2ランを放ち、待望の先制点を挙げた。投げては、先発・古谷が7回途中無失点の好投。2番手のカルロス・ロサが今季初勝利を手にした。敗れたオリックスは、打線が3安打無得点と振るわなかった。

責任投手/本塁打

勝利投手、[ ロッテ ] カルロス・ロサ(1勝1敗0S)

敗戦投手、[ オリックス ] 佐藤達(1勝4敗0S)

セーブ、[ ロッテ ] 西野(0勝2敗9S)

本塁打、[ ロッテ ] デスパイネ 7号(8回表2ラン)
       [ オリックス ]

ロッテバッテリー
古谷 、カルロス・ロサ 、大谷 、西野 - 田村 。

 オリックスバッテリー
ディクソン 、佐藤達 、塚原 、岸田 -