柳沢峠からの富士山
神足は、宮内省入る前に地質調査所で全国調査に従事していました。しかし、『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築く-』(日本林業調査会調査会(J-FIC))では、ページ数を考慮して、その部分を割愛し、代わりに『回顧録』から抜粋して入れました。
いずれかの日にこの部分も公刊したいと思いますが、今日は、解題に書いた山梨県巡回の第1回、それも柳沢峠付近について紹介します。できれば、地図を見てください。
まず神足は、明治13年9月17日出発、11月16日帰宅しますが、その行程は次のようなものでした。
東京板橋発・中山道を通過ー碓氷峠越えー軽井沢ー浅間山登頂ー群馬県に入り妙義山西側通過ー下仁田から西へー長野県臼田から南へー海ノ口から東へー十文字峠越えるー埼玉県三峰神社・武甲山登頂ー名栗を通過ー東京・青梅の二俣尾に出るー青梅街道西へー氷川(奥多摩)を経て丹波山通過ー柳沢峠を越えて山梨県に入るー塩山・山梨・甲府を通過ー鰍沢から船で富士川を下るー松岡に上陸ー東海道を東へー沼津・国府・伊勢原・八王子ー甲州街道を通り帰宅。
私が『神足日記』の元のものを見た限りでは、出発後の予定変更はありません。この行程は出発前に決められていたままと見られます。ということは、地質調査所の事業として「この行程」がどういう決まったのかも重要な研究課題となると思われますが、研究も、問題意識も、有無自体がまだわかっていません。
これを私の研究関心(の一つである皇室財産形成)の方に引き付けて言いますと、具体的には、山容と分水嶺をを見るという観点でいえば、浅間山登頂からあとはすべてその範囲に入ってきます。
尾崎行雄水源林踏査記念碑(丹波山と柳沢峠の途中の道路沿い)
とくに、多摩川の流域に関していいますと、名栗から峠越えした青梅・丹波山・柳沢峠までは、今日は東京都の水源林地帯です。『多摩川誌』712ページに拠れば、東京は大正・昭和期に奥多摩湖周辺の私有林を買収しますが、これより前、丹波山村の南北の稜線部一帯を明治34年に御料局より譲り受け、丹波山から奥の柳沢峠までを明治43年に帝室林野管理局から譲り受けています。
私は、ここを2013年12月に歩きました。青梅線で奥多摩まで行き、バスに乗り換えて丹波山まで行き、ミニサイクルを押して歩き、途中で遊んだ時間も入れて、柳沢峠まで約5時間で着きました。峠からは、ミニサイクルで塩山までほぼ下りです。
神足がここ(このあたり)を歩いたことは確かですから、昔の道が少しでも見えないものかと期待して葉のない冬期を選んだのですが、ホンの何ヶ所かそれらしいところに気が付いた程度でした。
いいところですよ。
車ではもったいない。大変でも歩く方がよいです。
なお、5月ころには、塩山から柳沢峠を越えて、東京側の鶏冠山・黒川山登山口の落合まで、日に朝晩2本バス便があります。(季節バスに付、要確認)
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