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神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.158 棚の本 5

2024-05-03 04:49:39 | 追憶
(1)みなさんは日記をつけていますか。
 神足勝記は明治6年から書き始めて、没年の昭和12年までほとんど続けて書いていました。
 刊行した『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築くー』日本林業調査会(J-FIC)は、このタイトル(標題)のところに限ってまとめたものですが、割愛した私事の部分や『回顧録』・関係文書などを入れると、3~4倍を超える量になります。それらについては、なんとかご覧いただけるよう、目下、公開の方向で鋭意努力中です。
 人の一生は、短いといえば短いですが、その内容は様々ですし、どの人の一生もそれ相当の長さと価値を持っています。ぜひ、メモ程度でも残してほしいとおもっています。
 なお、私の日記はおそらく中学生くらいからあるはずです。これはまたいつかのこととします。

    
     OK,きれいきれい!

(2)さて、世の中には「日記文学」などというものもあります。その中には発表することを予定して書いたり、あとから脚色したりしたものもありで、あてにならないものもあるようですが、それはおいて、数ある日記の中で私が興味を持って読んだものに、物理学者の朝永振一郎さんの「滞独日記(1938年4月7日~1940年9月8日)」があります。これは、『朝永振一郎著作集 別巻2』(みすず書房 1985年)で読むことができます。

   

 朝永さんはノーベル物理学賞を受賞されましたが、私が興味を持ったのはそのことではなく、最初は、1969年に東京教育大学の露文科を受験したいと思った頃の学長だったからです。実際には私は受験できませんでしたし、そのころ学長は朝永さんから同じ物理学者の宮島龍興さんに交代になっていたと思いますが、その後も、自分とは異なる分野の研究者としてずっと関心を持ち続けてきました。
 
(3)朝永さんの日記は短いもので、事実上日中戦争中の、ドイツのライプツィヒでの滞在日記です。これを読むと、30歳代の朝永さんの生活のようすや研究上の悩みなどがわかりますし、古いライプツィヒのようすがわかります。関連するものとして、森鴎外『独逸日記』もありますが、こちらは「文学」で、いくらか脚色があるようです。
 わたしは、朝永さんの滞在の40年後に約1年をライプツイヒで過ごしましたから、上のことを知って、親近感も一入で、著作集はほとんど読みました。なかでも、随想集「鳥獣戯画」(『朝永振一郎著作集1』)は興味深く、またこの中にも「日記抄」として「滞独日記・帰船日記・目白日記」が収められていますから、ずいぶん読みました。また『回想の朝永振一郎』は、なんと英語版まで買っています。
 朝永さんのものは、著作集だけでなく、編者として名前が付いている『物理学読本』、お父さんの文学者朝永三十郎氏のもの〔目下所在不明〕まで読みました。
 できれば、死ぬまでに朝永さんの『量子物理学』を読みたいと思ってきましたが、だんだん実現が難しくなっているのを感じます。

  

(4)まだ、20代の若いころ、友人を訪ねて中央線の武蔵境駅で降りて、南の方へ向かって住宅街を尋ね尋ね歩いて行ってふと旧家の背の低い門柱を見ると、そこに「朝永振一郎」の表札があり、驚いたことがあります。

(5)「滞独日記」11月22日の項(『鳥獣戯画』272ページ所収)には、先生である仁科芳雄さんから返事のことが書かれていますが、これは、皆さんにも直にお読みいただきたいと思います。私の「座右の銘」でもあります。
 これについては、思うことがありすぎて、なかなか書けません。
 今日はここで。

  
   キンギョソウ

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