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神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.56 阿仁鉱山行 4.比立内

2024-01-21 18:51:11 | 勝記日記
 最初に、備忘として、昨日の阿仁鉱山への行程について一言。
 それは、大曲まで来てから、山道とはいえ北上して直に阿仁鉱山へ向かう方が近いのに、舟で雄物川を下って、秋田・能代経由で迂回するように辿ったのはなぜかということです。
 いまのところは、秋田県庁への挨拶訪問と加護山精錬所視察のためだろうと見ています。神足が、5月2日のところで加護山精錬所の視察の模様を詳しく書いていますし、これは「明治14年9月の明治天皇御巡幸に合わせて、鉱山改革のために来日した、器械師長のメッゲル」(「秋田古銭物語」秋田大学大学院工学資源学研究科付属鉱業博物館、H24年)にとっては欠かせない当然の対応だったはずですから、重要な視点なのだと思われます。
 ちなみに、元の『神足勝記日記』には、新庄の辺りのところに「舟形より・・・警察官監視又送迎す。蓋し、山形にて丹羽氏より県官に依頼せしによるならん。12時発。一等巡査先導す」という記載もありますから、注意しておくことにしましょう。
 なお、私も阿仁合へ行き周辺や異人館など見てきましたが、今回は先を急ぐことにします。

 さて、神足は帰京します。しかし、来た道をたどるのでもなく、大曲から来た道を戻るのでもなく、比立内ー大覚野峠ー田沢湖ー仙巌峠―盛岡と峠越えをします。神足がこの道をどうして知っていたのかよくわかりませんが、今日は、比立内ー大覚野峠―田沢湖のところを少し紹介することにします。

 24日午前5時に阿仁鉱山を出発し、9時に比立内に着きます。
 この間、「道幅2尺(60~70cm)に 足らす」、「一村より他村に通するの小径」を4里許歩いたと書いています。
 私はここを秋田縦貫鉄道に乗って移動しました。写真は乗ってきたジーゼル車が比立内から角館に向かって出発したところです。

 
   秋田縦貫鉄道:比立内駅(大覚野峠は写真の右山方向です)
 
 神足はここで食事し、10時に出発。
 「渓谷の小流を徒渡すること数十回」、3里歩いて大覚野峠。原野を1里歩いて、3時上桧木内(かみひのきない)着。この間、1件も家がなく、通行する人がまれで、「誘因者なくんば路を失する必せり」と書いています。それもあって、神足は、早い時間に上桧内に着き、まだ先を急ぐ予定だったようですが、荷物運びの「人夫」が見つからず。この日はここに逗留しています。

 私は、この付近がどんなところか興味深く思い、歩いてみました。
 比立内の「道の駅」で老婦人に旧道を訪ねると、自分にはわからないといって居合わせた人4~5人に次々聞いてくれましたが、一人も知る人はなく、結局「もうわからない。わかっても熊が出る」と止められ、「車道なら、ときどき車が通過するから、まあ大丈夫だろう」ということになり、そうすることにしました。

 神足の記述を思いながら、深い谷筋に道がないかと探し、対岸に続く山を見渡しながら行きました。途中で、景色を見ながら道の駅で買った弁当を食べていると、熊が出たとでも思ったのでしょうか、行きかう車中の人が驚いているのが見えました。
 しばらく行くと「大覚橋」の看板が見えました。おそらくこの付近のどこかにに大覚野峠があるのでしょう。地形を十分に把握できていませんでしたからよくわかりませんでしたが、絶えず沢は深く、山が迫り、神足はさぞ難儀して通過したことだろうと偲ばれました。
 しばらく前に紹介した野イチゴの写真はこの付近で撮ったものでした。



 ここを渡ってさらに歩くと、開けたところに車を止めて何かを探している夫婦がいました。話しかけると「ワラビ採り」というので、自分も便乗して20分ほどワラビ採りを楽しむと、二握りほども採れ、よい土産となりました。
 この間、林道や旧道と思われるところも見え、ときどき車も通り、神足の苦労はよそにほとんど心配はありませんでした。
 
 しばらく行くと「戸沢駅」が近いことを示す標識が見えました。ここが神足が「上桧内」といったところです。
 近くで「駅はどこですか」と聴くと、「停車場ですか?そこです。その通路を入ったとこです。」というので入って行くと、ひっそりとありました。

 神足は「人夫」調達の都合でこの付近に1泊しましたが、折よく次の角館方面行が来ることがわかったので、自分はその日のうちに田沢湖まで歩くことにしました。

 「戸沢停車場」から乗り「松葉停車場」で下車すると、「田んぼアート」を見てきたという多くの観光客も下車しました。松葉付近が「下桧木内」です。
 降りると、「松葉停車場」前は観光バスの待機場所になっていて、皆バスの方へ行くので、「田沢湖行きですか」と聞くと「そうです」といいます。そこで、車掌に「田沢湖へ行くにはどれに乗るとよいか」と聞くと、「これは全部ツアー客なので乗せられません」といいます。そこで、「立っているのでかまわないから乗せてくれませんか」と交渉しましたが、ラチが明かないので、予定通り歩くことになりました。

 松葉から田沢湖までは、距離としては4~5kmですから、大したことはありませんが、次第に曇り始め、途中、小雨が降ってきました。

 そういう時に人というものがわかります。
 傘を差して歩いていると、後ろからバンに乗ったご家族が来て、「乗りませんか」と声をかけてくれました。それで、
 「田沢湖まで行きますけど、まだ距離がありますか」と聴くと、 
 「あと1kmくらいです」と。そこで私は、
 「雷でも鳴っていれば、恐いからお願いしたいですけど、この様子なら・・・まだ大丈夫です。歩けます」と返答し、
 「困ってそうな人が見えたら、また声をかけてあげてください」
と礼を言い、先に行ってもらいました。
 
 間もなく田沢湖に着きました。
 約40年ぶりの田沢湖は、雲に覆われて重々しい姿をしていました。

 
 
 神足は、翌25日朝4時に上桧木内を出発し、4里(16km)歩いてここに辿り着きました。「頗る広大の湖なり」と感動を記しています。
 
 続きはまた明日。

  





 


 



 
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No.55  阿仁鉱山行 3.阿仁へ

2024-01-20 22:54:37 | 勝記日記
 神足たち一行はさらに進みます。
 院内から雄物川に沿い歩いて落合に行き、そこから秋田まで舟航します。
 秋田で県庁に寄った後、能代まで人力あるいは歩いて、能代から能代川を舟航して遡り、五味堀から歩いて阿仁鉱山に到着します。

 日記から拾うと次のようになります。
 12年
 4月27日 院内発ー横堀ー湯沢泊。
 4月28日 湯沢発ー8時半落合から雄物川を下る―1時角間川着。
       4時角間川発。夜通し走行。
 4月29日 5時秋田着。県庁で県令に面会。県博物館観覧。市内散策。
 4月30日 秋田滞在。3時人力で出発。土崎―大久保泊。
 5月 1日 大久保発ー虻川ー大川ー一日市(ひといち)ー鹿渡(かど)ー
       豊岡ー能代泊。
 5月 2日 能代発(舟)ー切石ー加護山精鉱所ー八幡台〔岱〕泊。
 5月 3日 八幡岱(舟)発ー五味村堀より陸路ー水無ー真木沢鉱山着。


 『道が支えた阿仁鉱山』(秋田大学秋田鉱業史研究所 H27.3)P.3の一部。 

 こうして神足は阿仁鉱山に到着しました。これでメッゲルを阿仁鉱山に通訳として案内する役割を果たしたことになります。

 そして、5月4日から23日までの20日間阿仁鉱山に滞在します。
 この間に、神足はメッゲルに同行して、4日に真木沢鉱山(写真中央下)、5日・16日に萱草山(写真右)、19日に一ノ又鉱山、二ノ又鉱山(写真中央)などに入ります。そのあたりは、着任間もないからか、神足が鉱山についての知識を持ち合わせていなかったのか、さほど詳しいことは書いてありません。
 
 その中で、私がやや異様に思ったのは、院内に着いたあたりから、次第に、望郷の念というか、母・姉のいる留守宅のことを次第に追想する記述が増えることです。
 たとえば、雄物川から鳥海山が見えると、それが墨田川側から富士山を遠望した様に見え帰情を催すとか、能代で花が満開な様を見ると、東叡山で見た桜を想起して帰情甚しくといい、「南方を臨んて家親の安否を顧思するのみ」などということが出てきます。
 また、5日・7日・9日・15日と「宿許へ書を認め」、風邪気味になると「独り臥床して郷地を追思するのみ」といい、下痢をすると、イオウが鉱山に充満していてそれを呼吸したためだろう心配します。

 ブログなので、あまりたくさんは書けないために、誤解される心配がありますが、品川の推挙でメッゲルの通訳として工部省に入ったものの、また鉱業修練ということがあったにせよ、やはり神足にとっては、気が進まなかったのではないかと思われます。
 その理由は、やはり自分の希望する全国踏破や測量事業でなかったこと、不本意に家を明けなければならないこと、があったのだろうと思われます。
 ですから、23日に「慈母御病気」との電報が入ると、矢も楯もたまらずに東京に帰るべく決断した・・・というより、「帰りたい」と言う理由が欲しかったところへ電報が来たのだと思います。(そういうふうに創作した証拠はありません。)

 『御料局測量課長 神足勝記日記 ―林野地籍の礎を築く―』日本林業調査会(J-FIC)で勝記がどう書いているかも確認してみてください。
 神足は「看護帰省」のためといって阿仁鉱山を24日に出発しますが、それはもう帰りたくて仕方なかったからだというのが私の見方です。
 また明日続けます。  
 
 
  
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No.54 阿仁鉱山行 2.院内にて

2024-01-19 22:50:01 | 勝記日記
 
 「350年の歴史と人の営みを刻む銀山史跡」(院内で収集)より。
 1~4番坑は記載がありますが、神足たちが入った5番坑は不明。

 神足たち一行は、院内鉱山に24日~26日の間滞在しました。
 今日は、神足日記から院内での様子を少し紹介します。

 まず、4月24日、鉱山を歩いて銀の製法を聞きました。
 「・・・二時過よりライヘル、プファイフェルと坑口を一見し、製銀の法を
 問ふ。初めに坑中より鉱石を運ひ出し、之を小分し、上下の鉱を分ち、一は 
 直に之を精錬所に送る。或は之を粉にするあり。再〔両か〕なから精錬所に
 て鉛及木炭と混し熔解す。其得たる銀鉛を再ひ熔解して銀を得る。上鉱は百
 斤に付三斤。次は二斤、次は一斤を含有す。」

 つぎは、こうして得る鉱石の所有権限〔採掘と買上げ〕についてです。  
 「坑中より鉱を掘り、純金を得るに至る迄は土人の所有にして、其権内にあ
 り。此純金を政府にて買上く。価、正銀30目に付9銭5厘と云ふ。万事旧 
 慣法を以てするか故、純金を失ふ少からす。誠に惜むへし。」
 
 そして、この分離のために鉱石の取り扱いに齟齬が生じているといいます。
 「其他、坑中に巨多の鉱石を捨てをき、坑より持出せし者と雖へとも、千分
 の9銀を含有するは捨てヽ顧みす。是蓋し政府と共有するの姿あるを以て深く損益を看みさるの致す所ならん。」

 さらに、捨ててしまう「千分の9の銀含有量」を持つ鉱石について、フライブルク〔フライベルクか〕鉱山では「最上の鉱なり」といい、それによる損失について「其徒費に属する幾千なるを知らす。其弊矯めさる可らす」と述べています。

 4月25日は雨でした。このため院内に滞留し、午後2時よりライヘル・プファイフェルと5番坑中に入りました。つぎのように書いています。(なお、上の地図のほか、院内を紹介した書籍にもありませんでした。)
 「衣服を借用。蒿〔わら〕靴を穿ち、恰も印土人の如し。行く凡十八丁、屈
 曲、安兵衛砒〔ひ=切羽を表すと見られる〕に至る。進むに従て、坑中益々
 狭隘。終に匍伏して掘鉤〔くっこう〕の場に達す。温気猛烈。空気亦甚悪
 し。温熱の為汗背をひたす。夫より諸砒を巡見。或は頭をうち、或
 は水中を歩し、五時頃出坑す。気佳ならす。」

 そして、坑夫の状況について「此悪気を吸ふか為に、齢30に至れは皆黄泉の客となる。愍然〔びんぜん=あわれなさま〕の極なり」と同情しています。

 26日はメッゲルと精錬所に行き、案内人に従って巡検しました。ほかの人の行動はわかりませんが、丹羽維孝〔これたか〕は先を急いだようで、12時過に阿仁鉱山に出発します。
 神足たちは、27日に別コースで阿仁鉱山へ向かいます。そこは明日にしましょう。

 なお、昨日の写真にあるように、上の地図にあるものが今日ではほとんど何もなくなっています。石でできたものや説明板など、意識して保存措置が取られたもののほかは、ほとんど自然に帰ってしまっています。

 
 
 




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No.53 阿仁鉱山行 1.院内まで

2024-01-18 22:48:52 | 勝記日記
 『御料局測量課長 神足勝記日記 -林野地籍の礎を築く―』日本林業調査会(JF-IC)の「第1章 御料局入局前」は、神足が明治12年に工部省に入省して阿仁鉱山出張したところから始まります。ここも、御料局入局前史としてばかりでなく、神足の足跡として関心を持たれてきたところです。

 元の日記を、A4判の用紙に1行40字×40行で入力すると、13ページ分あります。それをここに再現することはできませんが、その一端を3回に分けて簡単に紹介することにします。

 まず、東京を出発して院内銀山町への行程を挙げておきます。
 明治12年
 4月5日 工部省に採用。品川〔弥二郎〕内務大書記官を問ひ要話*。
    *この「要話」ということと、『回顧録』に「メッゲルの通訳とし、
     傍ら鉱業修練の為め」とあることから、神足は院内到着後の適当な
     時期に工部省辞職を了解されていたのではないかとみています。
 
 4月 7日 工部省鉱山局でアドルフ・メッゲルと対面。
 4月14日 11時過、上野公園発ー千住―草加―粕壁泊。同行者:メッゲ
       ル・ライヘル・プファイヘル・丹羽維孝・宍戸〔不明〕
 4月15日 粕壁―越谷―幸手―栗橋―古河―小山ー小金井―石橋伯。
 4月16日 石橋―宇都宮ー鬼怒川―氏家―荒川―喜連川泊。
 4月17日 喜連川―佐久山ー大田原―那珂川―芦野ー白坂―白河泊。
 4月18日 白河―矢吹―鏡田ー須賀川―郡山―朝香山―本宮―二本松泊。
 4月19日 二本松―松川―清水―福島泊。
 4月20日 福島ー庭坂―舟越―李平ー板屋—大沢泊。
 4月21日 大沢ー米沢―赤湯ー上ノ山泊。
 4月22日 上ノ山ー山形―天童ー六田村―楯岡―尾花沢―芦沢泊。
 4月23日 芦沢ー舟形ー新庄―金山―及位〔のぞき〕
 4月24日 及位ー院内峠ー10時頃上院内着。

 14日昼に出発して24日着ですから、11日を要したことになります。
 この間の行程・距離・町の様子・景色なども日記には記されていますが、どう辿ったかだけにします。

 さて院内に着きました。
 この当時の院内銀山は明治天皇も立ち寄るほどの盛況を示していましたから、神足たちも27日に出発するまで、24日・25日・26日と約3日間滞在して鉱山・精錬所・坑道・鉱石などを調べています。
 当時の盛況を知るために、入手してきた冊子から次の写真を紹介します。
 写真に説明がついていますが、上半分が明治中期、下半分が現在の様子です。
 かつては立錐の余地がないほど建て込んでいましたが、私が訪れたコロナ前も、少々曇っていたせいもあり、一人では薄気味悪いくらいの雰囲気でした。
 
 現在のJR院内駅がそのまま「院内銀山異人館」になっていますから、そこを巡覧して、自転車を借りて約4km南下した林の中が写真の場所になります。
 何人かで行くのがおすすめです。一人なら、晴れている日がよいでしょう。
 ちなみに、駅を出て、正面の通りにある餃子店の中国式餃子が大きくて美味です。オット。

 
   『歴史を刻む 銀山と関所の町 院内』(2015年)52ページ

 ちょっと信じられないかと思われますが、本当です。細かい説明を省きます。ともかく、神足たちもここに立ち寄ってあちこち見ました。
 ネット検索か、『日本庶民生活資料修正第10巻』所収の「院内銀山記」をご覧ください。

とりあえずここまで。


 


 
 
 



 
 



 

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No.52  先生からの手紙

2024-01-18 01:52:17 | 勝記日記
 
  尖り石縄文考古館で

 1995年6月に『戦前期皇室財政統計』を法政大学日本統計研究所から刊行しました。〔この統計書は市販されていません。すでに絶版です。〕

 この統計書をある研究会で知り合ったK先生に差し上げました。
 K先生とは専門分野が全く異なっていて、なにか直接に教えを乞うというような関係はありませんでしたが、お贈りしたわけです。
 するとK先生は丁寧にご覧になり、手紙をくださいました。
 私は、通常の挨拶かなと思いながらおもむろに開けました。すると、なんと「前人未踏」と書かれていて、驚き、感動しました。
 
 「私淑」という言葉があります。
 上にも書いたように、K 先生とは専門分野が異なるので、直接何かの教えを乞う関係ではありません。しかし、この時以降、「私淑」するようになりました。
 同じ専門分野でなら多くの尊敬すべき方々がおられますが、異なる分野でありながら、自分の作業を高く評価してくださりました。これ以降、平たく言えば、なんとか納得できる成果を生み出して、K先生の評価をお願いしたいということが、作業に際して心がけることの一つとなりました。

 それが叶って、今回『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築くー』を12月15日に日本林業調査会(J-FIC)より刊行していただいてお送りしたところ、26日に次のお手紙をいただくことができました。

 「・・・老生、・・・高著を粗々拝見して、その生涯にわたる足跡を具に理
 解することができると確信致しました。
  それにしても、日記の詳細な読記、関連資料、人名録など、日記を読むに
 当って参考になる厖大な作業を完成されたことに心から敬意を表します。」

 私はこれを読んで嬉しく思いました。
 それは、褒められたところではなく、私が本書の冒頭に書いた「本書をお読みくださるみなさまへ」のことを的確に理解されたことがわかったからです。私は次のように書きました。

 「この日記は60年に及ぶ長大なものです。これは、日記の範囲を御料局測
 量課長の時代に狭めず、神足の全生涯や人となりを知っていただきたいとい 
 う思いで取捨したほか、その理解に役立つことを願って注記や関連資料も多
 く入れた結果です。」

 ご覧になるとわかりますが、『神足勝記日記』には膨大な記録や資料が入っています。どう利用するかは、みなさんまちまちといってよいでしょう。私の思いは「神足を知っていただきたい」ということですが、利用は無限でしょう。

 刊行して1ヶ月が経過しました。年末年始のほか、今年は年頭から大災害や大事件が続きましたから、新刊書どころではないのかもしれません。それもあってか、まだ大学や各図書館でも本書の意義に気が付いていないようです。
 必要とされる方に気がついてもらえればと願うばかりです。
 
 
 
 



 
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