竹田城・生野銀山の旅 2016.05.05
竹田城築城、太田垣氏の時代
竹田城の始まりは、嘉吉年間(1443年頃)に当時の但馬守護山名宗全が配下の太田垣氏に命じて築かせたのが始まりとされます(口碑)。
その後、山名氏の重臣である太田垣氏が初代・光景(誠朝という説あり)以下7代に渡って城主を務めました。
しかしながら、天正8年(1580年)羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)による但馬攻めにより、竹田城は落城、太田垣氏も没落したと考えられています。
赤松広秀の治世
その後、羽柴秀長(城代)、桑山重晴と城主が続き、天正13年(1585年)播磨龍野城主であった赤松広秀(斎村政広)が朝来郡2万石(その後2万2千石)で入城します。
現在に残る石垣遺構は、広秀が城主の頃に整備されたと考えられます。また、広秀は「仁政の主君」として領民から慕われていたとされます。
養蚕業や漆器産業を奨励し、現在に繋がる地場産業の礎を築きました(漆器作りは、竹田の地場産業である家具製造業の元になったと伝えられています)。
他にも、近世儒学の祖とされる藤原惺窩を援助したり、文禄・慶長の役により日本に来た朝鮮の儒学者姜沆に教えを乞うなど、儒学の普及振興にも大きく寄与しました。
関ヶ原の戦い、廃城
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いが起こると、当初広秀は西軍に与し丹後田辺城攻めに加わりました。
その後、西軍の敗戦を知り竹田城に撤退したところ、東軍として鳥取城を攻めていた因幡鹿野城主亀井玆矩から来援要請を受け出陣、功を挙げたとされます。
しかし、鳥取城攻めの際に城下町を放火したとの罪で自刃させられ、竹田城も廃城となったのです。
竹田城旅行 2016.05.05 「272」
立雲峡→竹田城→竹田駅前商店街
→よふど温泉→生野銀山→生野町町並み・志村喬記念館
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