かいうの飼い葉桶

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年末帰省☆南相馬~相馬

2013-01-12 | 地元、福島
南相馬の実家は、今両親の住んでいる仮設住宅です。

夫の実家から南相馬に向かう途中に、やはり自分の目で確かめたくて相馬港から浜街道を南下しました。

変わり果てた地元の様子には、いわき市の被災地域を見た時よりもさらに大きな衝撃が走りました。
浜街道から見える景色は、は冬枯れの茅とブタクサが生い茂る更地と、防波堤さえもない海岸線。田んぼも二年間耕作されていないから、枯茅の荒野に見えてしまいます。


相馬市から南相馬市まで走り、私の実家に到着した時には、もうとっくにキャパオーバーになっていた感情から、頭痛と吐き気がするほどでした。
家も馬屋もなくなった敷地には、一部の植栽帯だけが残っていました。シンボルツリーだった木蓮や門被りの松など、主な樹木は既にありません。

私はクルマから降りる気になれませんでした。これ以上の現実を受け止めるキャパがなかった。


仮設住宅に住む両親に会ってから、親戚へのご挨拶に伺いました。

実家近くの叔母ちゃんの家は、地区で一番海寄りの家になっていました。西側は今まで通りの住宅地、東側の窓からは海まで2キロ続く更地と水平線が見えます。この家の東側にあった百戸以上の家は全て片付けが終わっていて、遠く海岸線付近に瓦礫を積んで防波堤を作っている工事車両が見えました。
叔母ちゃんは、「きれいになったでしょ。瓦礫が片付いて、だいぶ心穏やかになれたんだよ。」と話してくださいました。

今自分の目で見ている光景は、既にたくさんの過程を乗り越えていることを再認識しました。

私の家族もそうだけど、本当に辛いことや酷かったことは ひとつも話さず、前向きな気持ちだけを言葉に選んでいるようです。



南相馬市は、被災、原発事故、屋内待避指示、陸路の孤立化、風評による孤立化を経て復旧作業が始まりました。
震災後、南相馬市内にはF1からの距離20キロの旧警戒区域と、30キロの旧屋内待避区域、さらに30キロ以上の避難対象外区域の線が引かれました。
いわき市とは異なる経過を辿っています。



震災直後の混乱の中で、私の祖母は寝たきり避難をしていました。
屋内待避指示や陸路の孤立化など様々な要因で、市内の病院が入院患者を受け入れることができなくなりました。祖母のいた病院の患者さん達は、警察車両で北関東の病院に移送されました。
寝たきりで数年間入院していた祖母は、避難から2週間後に亡くなりました。寝たきりの患者を移送するのだから、かなりの負担がかかったのでしょう。祖母の様に、避難からまもなく亡くなった方がたくさんいらっしゃるようです。

私はようやく、祖母の仏前に線香を手向けることが出来ました。
祖母に「今まで来れなくてごめんなさい」と謝りたかったので。

今回の帰省の大事な目的でした。



地元の被災地域を見るのは、やっぱり辛かった。時が過ぎてからちょこっと来ただけの私でもこんなに辛いのに…
生活の全てや家族を失った人達だって、ずっとここで生きてる。
どんな言葉で表せばいいのか、わからない。

だけど前向きに生きてる姿を見て、東北人は強い、福島人は強いと思いました。








(続く)

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