「来年」を失わないために。

……来年があるってことは、ものすごく幸せなことやねんで。

【あの9月(4)】野球のない週末

2005年09月19日 | あの9月
9月の泣き言シリーズです。

スト決行。
スト2日目。

プロ野球初の選手によるストライキ。
ストライキを決行することによって勝ち得たものはなんだったんでしょう。


ゼロかヒャクか、ならば私にとってはゼロでした。

なぜなら、このストを決行すると決めた時にはすでに、選手会側は
「合併を覆すことはもう不可能だ」
と判断していたからです。

ご紹介した記事にも書きましたが
「これはゲームセットのコールに等しい」
と思いました。

この時点で、もうすでに「選手会しか頼れるものがない」という気持ちになっていたせいだと思います。
その選手会が、球団合併そのものは凍結させることはできなかったと言ってしまっては、もう他に頼るものがない。
例えば、元凶の偉いさんたちが自分達の利益に関することで内輪もめでもしてくれて白紙に戻るなどという形でしかもうこの決定を覆すことはできないのだろう、そんな気がしました。

それでも、古田はじめ選手会を責める気にはなりませんでした。

彼らと私では目指すものは全然違っていたとは思います。
でも、少なくとも目標は同じところにあったはずでした。
そして、選手として戦うほかに会議などに出て戦っていたこと、それは、多分、他の誰よりもファンに近いところでいてくれたからだということを私は今でも信じたいと思います。


もっともらしい理論を並べる評論家や、訳知り顔の球界関係者の人たち。
その誰よりも、「この合併でBuとBWが消滅すること、それを心から苦しむファンがいること」を思いやった発言をしていてくれたのが選手会(というか古田…)でした。

人気がない、球場に人がこない、だから経営が成り立たなくなる……

その少なくても必死でそのチームを愛して応援しているファンが、まるで価値のないもののように言われてきました。
むしろ、少ないこと自体をその少ないファンが批難されるという理不尽な目にもあってきました。

でも古田は、数は少なくても、愛する球団を失うファンの痛みについて、きちんと言葉にしてくれていたんですよね。

だから、スト決定の内容には絶望もしたけれど、選手会支持の看板だけは下ろすまいと思っていました。


あの日、「すぽると」出演中に古田が流した涙。
それを見て、私が共に流した涙は別の意味を持っていたけれど。



野球のない休日。

報道は無責任に、これが「野球人気」に与える悪い影響を懸念すると垂れ流していたあの日。


藤井寺球場で選手たちにサインをしてもらってまわったあの日。



もう「最後」なのかもしれないという絶望と必死に戦っていた私がいました。