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坂本龍馬の血判発見

2013-07-27 | ヒストリ:オール

坂本龍馬 誓いの血判 高知で発見 記念館で展示へ (毎日新聞 2013/7/25)
龍馬が血判押した誓約書発見 高知の記念館、展示へ (朝日新聞 2013/7/25)

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/fc/d289e11c51ffa3824fc4cea41241ac3e.jpg?random=

上の写真は7月25日の産経新聞(夕刊)。
ちなみに龍馬の後ろの記事は前島密の書簡20点が見つかったというニュース。

龍馬の事を書いたら翌日に龍馬の記事が出た(笑)
ビッグネームだけに恐らくどの新聞にも記事は載ったのではないかと思われます。詳しい話は上記URLや適当にググってどうぞ。
適当に見た中では毎日新聞のが長文、朝日新聞は写真が多かった。
朝日新聞には武市半平太や岡田以蔵の署名と血判も出ていました。興味がある方は消える前に早めにどうぞ。

***

坂本龍馬が25歳の時、、安政6(1859)年9月20日の署名だそうです。
13.4mの巻物、『高島流砲術入門誓書一巻』(gooニュースより)と箱書きされた木箱に納められており、土佐藩で高島流砲術を教えていた徳弘孝蔵が入門時に書かせた起請文(署名血判)らしい。
署名者数は216人、坂本龍馬の他に龍馬の兄権平や武市半平太や岡田以蔵といった人物の名前もある。
龍馬は196人目ですって。

高島流砲術かー。
久々に聞きました。高島秋帆の西洋流砲術ですな。
高島はアヘン戦争後に砲術の近代化、要するに西洋の軍事技術を取り入れろと幕府に上申しています。
それならいっぺんやってみなという事で徳丸ヶ原(東京の板橋)でその公開演習をした所、それが衝撃的過ぎて地名が変わってしまいました(今の高島平)。
  

(高島秋帆は長崎の人。丸山遊廓跡の近く、ちょっと坂を上った辺りに屋敷跡があった)

時の老中水野忠邦がこの軍事演習を大絶賛。
水野の腹心である江川太郎左衛門(開明派、伊豆韮山のお代官様)なんかも盛んにバックアップするのですが、これまた腹心であった鳥居耀藏が高島を無実の罪に陥れています。
またお前か鳥居…(※町奉行鳥居耀藏は蛮社の獄をでっち上げた人物)
危うい所で水野と鳥居が失脚したので、死ぬ事だけは免れた。

坂本龍馬が剣術修行をしたのは北辰一刀流の玄武館(千葉周作)。
このほかに有名であったのが、神道無念流の練兵館(斎藤弥九郎)、鏡新明智流の士学館(桃井春蔵)。
武市半平太と岡田以蔵は士学館ですな。
練兵館は桂小五郎、高杉晋作、伊藤博文や井上馨といった長州人が多く通っていた印象がある。

この練兵館の斎藤が江川太郎左衛門と剣術の同門で、更に江川の部下でした(代官所手代)。
斎藤の道場を作る費用の一切を江川が出したらしい。
領内の視察をするためにふたりで商人の格好して忍び旅してたり、これぞリアル水戸黄門。
確か高島の演習の時は斎藤も江川について見学してたんだよね。
ペリー来航後(1回目)、江戸湾防備の必要から台場を作ることになりその責任者になったのが江川で、斎藤もその実地調査から一緒に働いている。
築造の時は現場監督なんかもしてたみたい。(ちなみに現お台場)
幕末期、江戸では名の知れた道場の道場主がこういう経歴を持っているのが面白いように思います。
ちょっと変わり種だよね。
 
ちなみに品川台場の調査築造の際、斎藤に頼んで中間だか人足だかに身を窶してついて来ていたのが桂小五郎です。
多分江川、この時は桂の身分を知らなかった。
桂はこの後江川塾に入塾して西洋の兵学などを学ぶのだけれど、それが斎藤との縁からになります。
どんどん繋がっていくっていうのが面白いよねー^^  



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