入社すると新聞棚には、日本経済新聞や業界紙などの
日刊紙が5、6部あり、ジャパンタイムスも置かれて
いました。
1年目の終わりころには、アラスカにある米軍基地の
改修工事現場への配属の話が出て、マイナス数十度と
いう記録的な寒波のため、死者も出ているところには
行きたくないと思っていたら、英語も仕事もまともに
できない社員を行かせても役に立たないと思われたの
か、立ち消えになりました。
2年目になると、オーストラリアの開発案件への派遣
の話がありましたが、これも1年目と同様の理由によ
るのか立ち消えになりました。
3年目の終わり頃になると英語と直接関係のないアフ
リカ勤務が決まり、スワヒリ語を母語とする国に1年
間赴任し、その後アラビア語を母語とするイスラム圏
の国へ2年、そして1年目に赴任した国に再度赴任し
発展途上国に対する日本の無償援助工事に携わりまし
た。
学生時代ゼミの指導教官だったY教授が、英語以外に
もう1つ語学が出来なければならないと言われました
が、まさにその通りでした。
学生時代に、第二語学の授業で少し勉強したドイツ語
であればまだしも、スワヒリ語、アラビア語まで話せ
なければならないとは思ってもみませんでした。
日刊紙が5、6部あり、ジャパンタイムスも置かれて
いました。
1年目の終わりころには、アラスカにある米軍基地の
改修工事現場への配属の話が出て、マイナス数十度と
いう記録的な寒波のため、死者も出ているところには
行きたくないと思っていたら、英語も仕事もまともに
できない社員を行かせても役に立たないと思われたの
か、立ち消えになりました。
2年目になると、オーストラリアの開発案件への派遣
の話がありましたが、これも1年目と同様の理由によ
るのか立ち消えになりました。
3年目の終わり頃になると英語と直接関係のないアフ
リカ勤務が決まり、スワヒリ語を母語とする国に1年
間赴任し、その後アラビア語を母語とするイスラム圏
の国へ2年、そして1年目に赴任した国に再度赴任し
発展途上国に対する日本の無償援助工事に携わりまし
た。
学生時代ゼミの指導教官だったY教授が、英語以外に
もう1つ語学が出来なければならないと言われました
が、まさにその通りでした。
学生時代に、第二語学の授業で少し勉強したドイツ語
であればまだしも、スワヒリ語、アラビア語まで話せ
なければならないとは思ってもみませんでした。