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帝国憲法下の天皇の役割と、長州藩における藩主と藩士の関係は類似したものである

2018-08-16 19:17:18 | 近現代史関連
これは、アメリカの歴史学者であるデイビッド・タイタスが『日本の天皇政治 宮中の役割の研究』(サイマル出版会)の中で述べていることです。

>天皇はその役割をはたすにあたって、助言者たる「側近」によって補佐されていた。長州の大名が重臣たちから補佐されていたのとまことによく似ている。
この場合にも、助言者の性質上の相違があるとはいえ、そのはたした役割はおどろくほど似ているのである。
長州の重臣たちは、大名の家臣の中で最も位の高い人たちであり、家柄によってその地位を保持する人間である。
しかしながら、1968年から1945年にかけて王座に近似した人たちのほとんどすべては、「勲功」-宮廷外の官界における指導者としての成功-の結果、その地位を保持した人間なのである。すでにみたごとく、右の点は、天皇の栽可機能を守護すること、そして、政治における聖意の基盤となるべきコンセンサスの形成プロセスの中で、触媒として働くことを、集団としての第一義的役割とした例の四人の指導的宮中役職者についても当てはまる。

(上掲書P342)

>長州の大名と同様、天皇も、主として助言者たちの集団としての「世論」によって「影響」された。その助言者たちは、長州の重臣同様、自分たちの主君の行動を、その行動が実際になされる前に承認した。1930年代になると、首相任命のような基本的な政治任命、国家間条約といった基本的な政策決定に関して、天皇への助言機能をはたすのは、元老(西園寺公)、重臣(かつて首相をつとめた人たち)、枢密院議長、それに内大臣というグループになっていた。天皇による栽可プロセスの中で、筆頭的調整交渉者だったのがこの人たちである。

(上掲書P342~P343)

>しかし西園寺も残りの側近たち(四人の宮中要職者も含まれる)も、天皇の超越的役割を危険におとしいれると判断されるような政策には固執しようとはしなかったのである。
これが本質的に何を意味していたかといえば、調整交渉者とはその時々の「情勢の処理」に最も秀でた人物を首相に任命するよう天皇に助言し、あるいはその時点での「時流に即した」最良の政策を栽可するよう助言する存在だったということである。助言にあたっての彼らは、個人的な政策上の好みのほかにも、彼らなりの「世論」評価によって影響されていた。天皇の助言者たちは、長州の重臣たち同様「もっと広い範囲の意見に感応」してもいたのである。


(上掲書P343)

→さて、帝国憲法下の天皇は形式上は、確かに大権を持っているかのように書かれています。

Yahoo!知恵袋あたりだと、こんな意見も見られます。

net********さん2018/5/2220:23:43回答より

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11190723406


>明治憲法上、天皇です。総理大臣も陸海軍の軍令部も各師団長も最高裁判官も天皇に任命権,罷免権があります。

また、天皇は国会の頭越しに勅令で法律を布告できます。つまり行政・司法・立法・軍事の大権を握っているのです。

御前会議は天皇の裁可で開かれ、議事決定されます。

→が、当時における実際の天皇陛下の権力なるものは、そのような絶対的なものではなかったということは、まさにデイビッド・タイタスが長州藩主になぞらえながら指摘した通り

長州の大名と同様、天皇も、主として助言者たちの集団としての「世論」によって「影響」された。


というのが本当のところです。

実際にも天皇が、これらの「助言者」を無視して、独断専行で決定をくだすことは事実上できませんでした。

なぜなら、これは明治維新によって徳川政権に代わって「天下をとった」長州閥の人たちが、自らの出身である長州藩を真似て作り上げたシステムだったからです。

そのエッセンスは

形式上の「天皇大権」のもと、自分たちが(長州藩のように)実質的な権限を掌握し、政治を動かしていこう。

そこに至るまでに薩摩閥などとの暗闘などもあり、それが西南戦争などにもあらわれていますが、それはおきます。

また長州出身者だけが、この「システム」を利用したわけでもありません。

というより、維新の元勲たちが次第に世を去るなどして長州閥が影響力を失った後も、そのシステム自体は、ほとんどそのままの状態で残りました。

賛否は別として、例えば久野収氏は、それが「天皇制」というシステムの「顕教」と「密教」だったと述べています。
http://vergil.hateblo.jp/entry/2018/02/23/231611

>注目すべきは、天皇の権威と権力が、「顕教」と「密教」、通俗的と高等的の二様に解釈され、この二様の解釈の微妙な運営的調和の上に、伊藤(注:伊藤博文)の作った明治日本の国家がなりたっていたことである。顕教とは、天皇を無限の権威と権力を持つ絶対君主とみる解釈のシステム、密教とは、天皇の権威と権力を憲法その他によって限界づけられた制限君主とみる解釈のシステムである。はっきりいえば、国民全体には、天皇を絶対君主として信奉させ、この国民のエネルギーを国政に動員した上で、国政を運用する秘訣としては、立憲君主説、すなわち天皇国家最高機関説を採用するという仕方である。
 天皇は、国民にたいする「たてまえ」では、あくまで絶対君主、支配層間の「申しあわせ」としては、立憲君主、すなわち国政の最高機関であった。小・中学および軍隊では、「たてまえ」としての天皇が徹底的に教えこまれ、大学および高等文官試験にいたって、「申しあわせ」としての天皇がはじめて明らかにされ、「たてまえ」で教育された国民大衆が、「申しあわせ」に熟達した帝国大学卒業生たる官僚に指導されるシステムがあみ出された。

→そして、皮肉なことに

このシステムにより育った次世代の人々が、このシステムを自ら動かすようになったことで

政当時の我が国は破局に向かって突き進むことになっていったということです。