日本祖国戦線

愛国社会主義(National Socialism)による日本及び世界の再建を模索する研究会です。

ベトナム戦争終結記念~ベトナムは侵略に負けない国

2015年05月01日 23時14分54秒 | 歴史
ベトナム戦争終結から40周年、ホーチミン市で記念式典

 ベトナムでは4月30日、ベトナム戦争が終結し、南北ベトナムが統一してから40周年を迎えた。ホーチミン市(当時のサイゴン)では記念式典が開かれ、軍事パレードなどに加え、民族衣装を身に着けたダンサーが華やかさを添えた。



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良いですね民族衣装

(ベトナムの民族衣装 アオザイ)

日本でも軍事パレードに加えて和装のダンサーの行進をしたら良いと思います。



ベトナム戦争終結40年、越首相「新時代築いた」と国威発揚 専門家「汚職が成長の重し」と指摘

産経新聞 2015年5月1日(金)11:24

【シンガポール=吉村英輝】ベトナム南部ホーチミンで30日、1975年4月のサイゴン(現ホーチミン)陥落によるベトナム戦争終結40周年を記念する式典が行われた。グエン・タン・ズン首相は演説で「独立と南北統一の新時代を築いた」と、戦争の勝利を歴史的な偉業と称賛。国家の主権と利益を断固として守っていく姿勢を示した。

 旧南ベトナム大統領官邸前の式典会場には、最高指導者のグエン・フー・チョン共産党書記長ら指導部が列席し、共産党一党支配による現体制の正当性を国内外にアピール。退役軍人や市民らを交えた約6000人による軍事パレードや、民族衣装姿の女性らによる歌やダンスで国威を発揚した。

 ベトナム戦争は、1954年に南北に分断されたベトナムの人々が戦い、サイゴン陥落で北ベトナムが勝利。南ベトナムを支援して大量の軍を投入した米軍は、撤退に追い込まれた。

 戦争終結後のベトナムは78年のカンボジア侵攻、79年の中国との戦争などで国内経済が疲弊。86年に社会主義に市場経済システムを取り入れた「ドイモイ」(刷新)政策を採択し、改革・解放路線に転じた。



 東南アジア研究所(シンガポール)ハ・ホアン・ホップ客員上級研究員の話

 「ベトナム経済は、改革を掲げたドイモイ(刷新)政策を採択した1986年から約10年間、平均9%の成長を遂げた。だが、汚職が成長の重しとなり、2012年以降は、5%台に低迷している。中央銀行の独立性と専門性を強化し、財政政策との健全な協調体制を築き、経済政策を改革すべきだ。

 政治改革で、厳格な法による支配を確立することが、汚職への取り組みのカギとなる。低い透明性やモラル低下が改善し、教育や職業訓練、公務員サービスの効率化につながる。

 安全保障では、南シナ海で根拠のない領有権を主張する中国の覇権と進出が最大の課題だ。ベトナム共産党の改革で、多国間協調や法の支配を重視する外交政策への転換が望める」


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ベトナムは共産党国家とは言え、支那や北鮮、かつての旧ソ連・東欧に比べ汚職の割合は少ない国です。(国民性の影響もあると思います。)
一部の汚職官僚を排除して清廉な政治を目指して頂きたいと思います。

そして、支那の東・南シナ海、太平洋進出を阻止するために日越共同が重要になってくると思います。

ベトナム戦争:終結40年「過去水に流し未来見据える」

毎日新聞 2015年04月30日 19時40分(最終更新 04月30日 20時01分)


(ベトナム戦争10+件終結から40年の記念式典で、旗を掲げ行進する人たち=ベトナム南部ホーチミンで2015年4月30日、AP)

【バンコク岩佐淳士】ベトナム戦争10+件終結から40年を迎えた30日、南部ホーチミンで記念式典が行われた。国営メディアによると、グエン・タン・ズン首相は式典で「アメリカ帝国主義」に対する勝利をたたえつつ「(ベトナムは)過去を水に流し未来を見据えている」と演説した。

 式典は当時、親米の南ベトナムの大統領官邸だった統一会堂で開かれ、市街地では軍のパレードも実施された。

 ベトナム戦争10+件は1950年代に始まった。米ソ冷戦時代、国内は南北に分裂。米国は南ベトナムを支援し、60年代半ばから戦争に本格介入した。しかし、75年4月30日、ホー・チ・ミン率いる北ベトナムが南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン)を攻め落とし、ベトナムを統一した。犠牲者数は米軍約5万8000人、ベトナム側約300万人。戦争中、米軍による村民の虐殺などが明らかになり、世界的に反戦運動が広がった。

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意図的なのかどうかまでは分かりませんが、韓国軍の残虐な戦争犯罪やライタイハンなどの問題には触れていない毎日新聞です。



さて、ベトナムは本当に強い国です。

侵略を受けても、その度に起ち上がってきたのがベトナムです。

赤字:侵略 青字:反撃

紀元前2880:伝説上のフン・ヴォン(雄王)が現在の北部紅河デルタ地帯にヴァンラン(文郎)国家を設立。 金属器文化が広まる。
紀元前2000~1400年:高地と紅河デルタ地帯で青銅製装飾品が多数出土:ゲィンフ省フングェン遺跡
紀元前1400~1100年:ビィンフック省ドンダウ遺跡
紀元前1100~800年:紅河デルタ地帯、ゴムン遺跡
紀元前800~300年:ハノイ郊外,ドンソン遺跡。銅鼓と呼ばれる青銅器太鼓が出土。中部ではチャム文化が芽生える。
紀元前400年:紅河上流域で鉄の製錬技術の出現。中部地方でも鉄の文化がみられる。
紀元前257年:アン・ズオン・ヴォン(安陽王)に、ヴァンラン(文郎)国が滅ぼされる。コ-ロア(古螺)に築城。 アウラック(甌駱)国建国
紀元前207年:チョウ・タ(趙陀)が中国広東にナム・ビエット(南越)国を建国、アンズオン・ヴォンを滅ぼし、北部ベトナムまで支配。
紀元前111年:漢の武帝が南越国を滅ぼす。ベトナム北・中部に交趾、九真、日南の三郡を置き、漢が統治する 。
西暦40~43年:チュン・チャック(徴側)、チュン・ニ(徴弐)の姉妹(ハイ・バー・チュン)が後漢に対して反乱。自立して65の城を支配。
43年:後漢の伏汲将軍;馬援がハイ・バー・チュンを攻撃し、殺害。後漢による直接支配が確立。
137年:中部の日南象林でク・リエン(区憐)が後漢に反乱
144年:後漢と和睦しラムアップ(林邑)国を樹立。後のチャンパ国となる。

157年:九真で反乱。(鎮圧される)
178年:交趾で梁龍が反乱。ベトナム人のリ・ティエンが勅史に任命される。(鎮圧される)
248年:チュウ・アウ(趙嫗;チュウ夫人)の反乱
399年:チャンパ国の氾胡達が日南、九真を攻撃

413年:勅史、杜憲度が侵略してきた苑胡達を殺害
415年:杜憲度がチャンパに反撃
5世紀頃:カンボジア人がブナム(扶南)を攻略

542年 北部の交州でリ・ビ(李賁)が反乱。544年中国より独立しベトナム初の帝を称し、リー・ナム・デ(李南帝)とし、ヴァン・スアン(萬春)国を名乗る。
545年:リー・ナム・デ(李南帝)は梁の反撃に合い敗退、全権をチュウ・クアン・フック(趨光復)に譲る。
602年:隋が攻撃し、リ・ファト・トウ(李仏子)を捕虜として後に殺害。再び支那の領土となる。
605年:隋がチャンパを攻撃
679年:唐が交州を安南都護府とし、広州を分離して12州を統括する。

687年:リ・トク・ティエン(李嗣先)、ディン・キエン(丁建)の農民反乱
722年:マイ・トゥック・ロアン(梅叔鴬)の反乱。マイ・ハック・デ(梅黒帝)と呼ばれた。唐の反撃に合い山岳に逃れるも病死。
766~791年:フゥン・フン(馮興)の反乱。

860年:支那雲南に興った南詔王国が交州を襲い府城を攻略。866年敗退。
907年:唐が滅び劉製が広州で南漢を名乗る。クック・トゥア・ヅ(曲承祐)が中国の後梁に願い節度使となる。
   ※後梁:唐末に出来た支那の王朝
923年:後梁が滅び、南漢が交州を攻撃し、曲承祐の孫クック・トゥア・ミイ(曲承美)を捕虜にして殺害する。

931年:クック・トゥア・ミイ軍の将軍ズオン・ディエン・ゲ(楊廷芸)が南漢軍を破り、自ら節度使となる。
937年:ズオン・ディエン・ゲが軍の武将、キュウ・コン・ティエン(矯公羨)に殺される。
938年:ズオン・ディエン・ゲの婿の武将ゴ・クエン(呉権)が決起し、キュウ・コン・ティエンの依頼で南漢が大船団を派遣したがバクダン(自藤)江でゴ・クエンの計略にかかり全滅する。
939年:ゴ・クエンが王を名乗り、首都をコ・ロア(古螺:現在のハノイ)に置き、支那の支配から独立。
944年:呉王死後内紛が続き、紅河デルタ地区の土豪が群雄割拠し、十二使君(12人の土豪)時代となる。 十二使君時代
967年:十二使君j時代を経てディン・ボ・リン(丁部領)が主導権を握る。支那から実質的な独立。(大越国の成立) 968年:ディン・ボ・リン(丁部領)が帝王となり、都をホアウルとし、国号をダイ・コ・ヴィェト(大瞿越=大越国の意味)とした。       ※丁朝:968~979年
970年:はじめて元号を建てタイ・ピン(太平)とする。
979年:ディン・ボ・リンが後継者争いで殺される。大将のレ・ホアン(黎桓)が実権を握り副王となる。
980年:宋が侵攻するとの知らせで、レ・ホアンが帝王に推挙される。 黎大行皇帝
981年:宋が海陸2方面から侵攻。レ・ホアンはバクダン江で宋の水軍を全滅させ、チ・ラン(支稜)関で宋の陸軍を破る。
   ※前黎朝:980~1010年

982年:レ・ホアンがチャンパの王都インドラプラを占領、破壊し、チャンパの中心が南方のヴィジャヤに移る。チャンバはベトナムに朝貢。ベトナム統一。
986年:宋はレ・ホアンを安南都護とする。
1009年:リ・コン・ウァン(李公蘊)が李朝を樹立。
    ※李朝:1009~1225年ベトナム初の長期王朝。
1010年:リ・コン・ウァンが帝位(李太祖:リ・タイ・ト)につく。都をタン・ロン(昇龍;現在のハノイ)に遷都する。トア・ティエン(順天)と改元。
1075年:科挙制度を導入。宋の侵攻の情報を聞き、リ・トン・キェト(李常傑)将軍が10万の軍を率いて宋に侵攻
1076年:宋はチャンパ、真臘(カンボジア)を率いて侵攻。リ・トン・キェトは如月江(カウ河)と富良江(紅河)で宋の水軍を撃破。

1145年:カンボジアがチャンパを占拠
1164年:宋が6代のリ・アイン・トン(李英宗)に安南国王の称号を与え、交趾国を改め、安南国とする。

1225年:チャン・トゥ・ド(陳守度)が8歳の甥;チャン・タイ・トン(陳太帝)を皇帝につけ、自らを太師と称し、国尚父として君臨する。首都は引続きタンロンとした。
    ※陳朝:1225~1400年
1257年:モンゴルのフビライ・ハンが南宋攻略の為にベトナムを通過させるよう要求したが、これを拒否。元は陳を攻撃しタンロンを占拠するも暑さと食糧不足で撤退する。
1276年:元が中国南部を平定し、ベトナムに対しても国王が来朝し、租税を納めるよう要求してくる。
1283年:元が50万の軍勢で侵攻することを聞き、チャン・フン・ダオ(陳興道)を国公として総指揮官に任ずる。元のトアドがチャンを攻撃する。
1284年:12月に元軍50万の侵攻始まる。

1285年:元軍のトアドの50万の兵がチャンパから侵攻し、タンロンを占領し、住民を虐殺する。チャン・ニヤン・トン(陳仁宗)らはタインホア(清化)に逃れる。元軍は紅河デルタ地帯を占拠するが、チャン軍はゲリラ戦を展開し、トアドは殺され、5万人が捕虜となる。
1287年:12月に元軍30万が陸海から侵攻。チャン廷は再びタンロンを離れる。民衆が食糧を隠し、元軍は食糧不足からタンロンを放火し撤退。 元による第三次侵攻
1288年:ヴァンドル(雲屯)で元の補給艦隊を撃滅。4月にチャン・フン・ダオがバクダン江で元軍を壊滅し、ウマルを捕虜とする。
1293年:元は再度ベトナム侵攻を計画するも、1994年にフビライ・ハンの死去により中止する。
1306年:チャン・アイン・トン(陳英宗:4代)の皇女グエン・チャン・コン・チェア(玄珍公主)をチャンパの王チェマンに嫁がせる。
1307年:陳朝がチャンパの2州を併合する。
1348年:ジャワの商船が雲屯海庄(現在のクアンニン省)に来航 1352年頃シャム軍がアンコール都城占領
1376年:チャン・ズェ・トン(陳叡宗:9代)がチャンパを攻撃 1367年中国で元が滅び明朝となる。
1377年:チャンパの王チェ・ボン・ガは陳軍を全滅させチャン・ズェ・トンも死亡。
1389年:レ・クイ・リ(黎季犂)が長女をチャン・トアン・トン(陳順宗:11代)の皇后とする。
1390年:陳軍がチャンパを襲い、チェ・ボン・ガを殺害する。
1397年:陳朝の実権を握ったレ・クイ・リが首都をタインホア(清化)に移す。四書五経をチュノム(字喃)に翻訳をさせる。
1400年:レ・クイ・リが自ら帝と称し、国号をダイ・グゥ(大虞)とし、ホ・クイ・リ(胡季犂)と名乗る。皇帝の位を子のホ・ハン・トゥオン(胡漢蒼)に譲る。
    ※胡朝樹立:1400~1406年
1402年:ホ・ハン・トゥオンがチャンバに侵攻。
1406年:支那の明軍が侵攻。ホ軍は敗退し明軍は首都に入る。翌年ホ軍は壊滅する。
          ※属明期:1404~1428年
1407年:陳朝のゲ・トン(芸宗)の次子がジャン・ディン(簡定)帝を名乗り軍を集める。
    ※後陳朝:1407~1413年

1409年:チュン・クァン(重光)帝が立つ。明軍はジャン・ディン帝を捕虜とし南京へ護送し殺害。
1413年:チュン・クァン帝はラオに逃げるが捕まり、護送中に死去。後陳朝滅ぶ。

1417年:明は安南国を改め交趾国とする。
1418年:レ・ロイ(黎利)が清華梁江ラムソン(藍山)で反明軍の義兵を挙げる。
1426年:レ・ロイが明軍の王通の大軍を破り首都に迫る。
1427年:明の援軍が侵攻するが、レ・ロイがこれを破る。明の王通が和睦を願い帰還する。

1428年:陳氏の後裔として安南国王になっていたチャン・カオ(陳嵩)が逃亡し死亡。
1428年:レ・ロイが即位し、レ・タイ・ト(黎太祖)となる。首都をトン・キン(東京)とし、国号をダイ・ヴィェト(大越)とする。
     ※後黎朝:1428~1527年
1455年:ファン・フウ・ティエン(藩孚先)が「大越史記続編」を編纂(陳朝から明の撤退まで)
1470年:チャンパのチャ・トアン国王が侵攻。
1471年:レ・タイン・トンがチャンパを侵攻。首都ヴィジャヤを占領。
1477年:土地改革
1479年:京牢、盆蛮、老槌へ侵攻。盆蛮に鏡寧府を置く。ゴ・シ・リエン(呉士連)が「大越史記全集」を完成(建国から黎太祖まで)
1482年:戸籍を作成
1483年:洪徳律例を公布(18世紀末まで使われる)
1511年:ヴ・クエン(武現)が「大越通鑑通考」を編纂
1514年:レ・カオ(黎嵩)が「大越通鑑総論」を編纂
1521年:マック・ダン・ズン(莫登庸)が実権を握る。
1526年:マック・ダン・ズンが光紹帝を殺害。
1527年:マック・ダン・ズンが皇帝と称する。黎朝の旧臣が各地で反乱。
    ※莫朝:1527~1667年
1532年:グェン・キム(阮淦)が哀牢で黎朝子孫を帝、レ・チャン・トン(黎荘宗)とし、元和と改元した。(黎朝の復興。莫氏との対立。)
1540年:マック・ダン・ズンが明に対し恭順を表すがグェン・キムが兵を起こす。中国人、日本人、ポルトガル人が中部のホイ・アン(会安)に商港を開く。
    ※後期黎朝:1532~1789年
1545年:グェン・キムが降伏してきたマックの将軍に毒を盛られて死亡。チン・キエム(鄭検)が実権を握る。
    ※鄭氏政権:1545~1786年
1557年:グェン・ホアン(阮漬)がチン・キエムとの関係悪化を察知し、フエ(順化)に駐留を願い赴任する。
チン・トゥン(鄭松)がタンロン城を攻撃。マック軍城を放棄。マック・マウ・ホップ(莫茂冷)が殺される。 阮氏政権:1558~1777年
1593年:マック・キン・チ(莫敬止)が殺される。黎氏がタンロン城に戻る。
1599年:チン・トゥンが国事を総て裁決する。
1611年:グェン・ホアンがチャンパを攻撃。フゥイ・エン(富安)府を置く。
1615年:コーチシナ(交趾支那)にキリスト教会が設立。(西洋との接触)
1626年:トン・キン(東京)にキリスト教会が設立。
1627年:チン氏がグエン氏に租税納付を迫るが、グェン・フック・グェン(阮福源)が拒否する。鄭軍が攻撃し阮軍と交戦。
1627年:宣教師アレクサンドル・ド・ロードが来る。ベトナム語のローマ字化を行い、QUOC NGU(国語)の起源となった。
1692年:キリスト教を禁じ、教会、聖書を焼く。
1698年:グェン氏がメコン河にいたるまでのコーチシナを併合。
1771年:ビンディンのタイソン(西山)でグェン3兄弟が圧制、物価高騰の不満から反乱。 タイソンの乱
1774年:チン軍がフエに侵入。グェン・フック・トン(阮福淳)はクアン・ナム(広南)に逃げる。
1775年:西山3兄弟の1人、グェン・ヴァン・ニャック(阮文岳)はチンに従うこと誓い、クアン・ナムに侵攻。
1778年:グェン・ヴァン・ニャックは王を名乗り、首都をビンディンのドパンに定める。
1783年:グェン・フック・アイン(阮福映)がアドラン司教の援助を受ける。
1785年:西山3兄弟の1人、グェン・ヴァン・フエ(阮文恵)がミトでグェン・フック・アインとシャム軍を破る。
1786年:グェン・ヴァン・フエ軍が北上、チャン氏を破りフゥスアンを占領する。更に紅河デルタに進撃する。
1787年:グェン・ヴァン・ニャックは皇帝を名乗りクィニヨンに、グェン・ヴァン・フエは北平王としてフエに、もう1人の兄弟グェン・ヴァン・ルゥ(阮文侶)南定王としてジャディンに分かれて支配を確立する。
アドラン司教がグェン・フック・アインの代理としてフランスの軍事援助を定めたヴェルサイユ条約に調印。

   ※ヴェルサイユ条約
    阮福映がフランスの宣教師アドランの仲介でルイ16世と交わした条約で、ダナン、プロ・コンドールをフランスに譲渡する代わりに、ベトナムに軍事援助を得る。

1788年:黎氏が清国に救援を求め、清国軍20万人がタンロンに侵攻する。
1789年:グェン・ヴァン・フエ軍が清国軍を掃討する。レ・チュウ・トン(黎昭統)帝も後を追って清国に逃げる。
アドラン司教の依頼したフランス人私兵が到着。グェン・フック・アインはポルトガル、イギリス、タイ、カンボジアの兵、武器弾薬の補給で反撃を開始し、サイゴンを奮回する

1802年:グェン・フック・アインがフエで即位。年号をジャ・ロン(嘉隆)と定める。タンロンにてタイソンを滅ぼし入城。
    ※阮朝:1802~1945年
1804年:清国よりヴィェトナム(越南)の国号を与えられる。
1806年:グェン・フック・アインが皇帝を名乗る。全土を統一。
1824年:フランスとの貿易条約締結を拒否する。
1833年:キリスト教の禁止。
    ヌン属のノン・ヴァン・ヴァン(農文筆)が反乱(1835年平定)
1836年:宣教師を死刑にするとの布告が出る。
1847年:トゥ・ドゥック(嗣徳)帝即位。
    フランス軍がダナン港でベトナムの軍艦5隻を撃沈する。
    キリスト教弾圧強化。
1851~1852年:トゥドゥック帝がフランス人宣教師2人を斬首。
1857年:スペイン人宣教師2人を斬首。

1858年 フランス、スペイン連合軍がダナン上陸、占領。(仏越戦争)
1859年:フランス軍がサイゴンを占領。
1861年:フランス軍がジャディン、ミトを占領。
1862年:フランス軍がコンロン島、ビエンホア、バリア、ヴィンロンを占領。
フランスとベトナムが協定に調印(第1次サイゴン条約)。コーチシナ3省を割譲し、フランスのために3港を開港する。キリスト教の布教を認める。
1864年:南部抵抗志士チュオン・コン・ディンがフランス軍に殺される。
1867年:フランスがコーチシナ全域を併合。経略大臣ファン・タイン・ジャン(播清簡)が毒を飲み自殺。
1868年:南部抵抗志士グェン・チェン・チュックが処刑される。

1873年:フランス商人ジャン・デェビュイの雲南交易をベトナムが禁止
    フランス軍がハノイ城を占拠。欽命大臣グェン・チ・フォン(阮知方)が断食で憤死する。
    清の黒旗軍が来援しフランス軍を破る。
1874年:フランスとベトナム条約(第2次サイゴン条約)を結ぶ。コーチシナ6省を割譲。
1875年:南部抵抗志士グェン・フク・フアが処刑される。
1882年:フランス軍がハノイ城を占拠。総督ホアン・リュ(黄耀)が戦死。

1883年:清の黒旗軍が来援しフランス軍を破る
    フランスとベトナムが条約を結ぶ(第1次フエ条約)。アンナム、トンキンの保護領を認める。
1884年:フランスとベトナムが条約を結ぶ(第2次フエ条約:パトノートル条約)。ベトナムはフランスの保護国となり、フランス総督は外交でベトナムを代表し、ベトナム官吏はフランス指揮下に入る。(植民地化)
1885年:ハムギ(咸宜)帝の摂政グェン・ヴァン・トゥォン(阮文祥)とトン・タト・テュエット(尊重説)が軍事クーデターを企図するも失敗。グェン・ヴァン・トゥォンは逮捕されタヒチに流される。フランスと清国が条約を結ぶ(天津条約)。清国がフランスのベトナム保護領化を承認。清国のベトナムに対する主権は消滅。
1887年:フランスがインドシナ総督府を設置。
1888年:ハムギ帝はフランス軍に逮捕されアルジェリアに護送。トン・タト・テュエットは支那・広西に逃れる。

1895年:中部抵抗志士ファン・ディン・フン(藩廷逢)がジャングルで死亡。
1897年:総督にボウル・ドウメ。植民地からの吸い上げとして、人頭税、土地税を増額。アルコール、塩、アヘンの専売収益を奪う。
1898年:フランス極東学院(当初インドシナ考古調査団)が設立。
1899年:フランスがラオスを連邦内に入れ、仏領インドシナ連邦が設立。
1904年:ファン・ポイ・チャウ(藩佩珠)が革命運動を組織を設立。クオン・デ侯が会長になる。 後のズイ・タン・ホイ(維新会)の始まり
1905年:ファン・ポイ・チャウが来日し、大隈重信、犬養毅などと面会。人材育成の重要性を知り、ベトナム青年の日本留学運動を始める。また、「ベトナム亡国史」を出版。
1906年:クオンデ侯、ファン・チャウ・チン(津周禎)が来日。ファン・チャウ・チンがインドシナ総督に書簡を送り、植民地制度の根本的改革と、伝統的な試験制度の廃止を提言。
1907~1908年:ベトナム青年の日本留学であるドン・ズン(東遊)運動始まる。 浅羽佐喜太郎が支援。

1907年:ハノイで「東京義塾」創設。
    フランスは閉鎖を命令し関係者を逮捕。1908年に閉鎖される。
1909年:フランスが日本政府に対し日仏条約に基づきベトナム人留学生の国外退去を要求。
1911年:グェン・タッ・タン(後の阮愛国)がヨーロッパへ出発。
1912年:ファン・ポイ・チャウらが広東で「ベトナム光復会」を結成。

1913年:北部抵抗志士ホアン・ホア・タム(黄花深)が暗殺される。
1916年:ズイ・タン(維新)帝がフランスに抵抗したとして父タイン・クイ(成奉)帝とともにフランス軍に逮捕され、レユニオン島に流刑。
1919年:グエン・アイ・クォック(阮愛国)、ファン・チャウ・チンらが「ベトナム愛国者グループによるベトナム人民の諸要求」の請願書をベルサイユ講和会議に提出。 阮愛国=後のホ・チ・ミン
1920年:グエン・アイ・クオックがフランスで開催されたフランス社会党18回大会でインドシナ代表としてベトナム支配を糾弾する発表を行う。
1922年:ファン・チャウ・チンがカイ・ディン(啓定)帝のマルセイユ殖民博覧会出席に際し、辛辣な公開書簡を送り、フエ朝廷を非難。
1924年:フナム・ホン・タイが広東でメルラン総督の暗殺を謀るが失敗し、自殺する。
1924年:グエン・アイ・クォックがコミンテルンから工作員として広東に派遣される。
1925年:グエン・アイ・クォックによりベトナム青年革命同志会が広東に設立。
ファン・ポイ・チャウが上海で逮捕され、ハノイの軍事法廷で終身懲役刑を宣告される。その後恩赦により自宅監禁。1940年自宅にて死去。
1926年:ファン・チャウ・チン死去。サイゴンの葬儀に数千人が集まる。
1927年:ベトナム国民党創設。

1930年:グエン・アイ・クォックが主宰し、香港の九龍にてベトナム共産党創立。(10月にインドシナ共産党と改称)
    イエンパイでベトナム国民党のグェン・タイ・ホック(阮太学)が蜂起しフランス軍を攻撃するも失敗し処刑される。
1930~1931年:中部ゲティンで農民が蜂起、各地に生活向上のデモが発生。フランスは徹底的に弾圧。
1935年:1930年のインドシナ共産党創立を受け、第1回党大会をマカオで開催。

1940年:日本軍が北部インドシナ・ハイフォンに進駐。(北部仏印進駐)
1941年:グエン・アイ・クォックが支那経由で帰国。パクポに根拠地を作る。ベトナム独立同盟(ベトミン)設立。
    南部仏印進駐
1942年:グエン・アイ・クォックが支那領内で国民党に逮捕される。国民党の蒋介石は「ベトナム革命同志会」(ドンミンホイ)を結成させる。
1943年:米国の介入でグエン・アイ・クォックにドンミンホイの主席要請。蒋介石は改名を条件にグエン・アイ・クォックを釈放する。
グエン・アイ・クォックからホ・チ・ミン(胡志明)に改名。
1944年:ヴォ・グェン・ザップ(武元甲)が「ベトナム武装解放宣伝隊」結成。年末から1945年にかけて北部中心に餓死者が多発。
1945年:日本軍、明号作戦(仏印軍の制圧)
    バオ・ダイ(保大)帝がベトナムの独立宣言
    日本降伏後、ホ・チ・ミンベトナム民主共和国建国宣言
1946年:フランスがベトナム南部にコーチシナ共和国を樹立。フランス軍とベトミンがハイフォンで武力衝突。更にハノイで全面衝突が起こりインドシナ戦争が始まる。インドシナ共産党が対仏抗戦指令。ホ・チ・ミンが全国抗戦アピール声明。
1948年:フランス軍は優位に展開、フエ、ハノイを攻略しホ・チ・ミン軍を山間部に追い払う。

1949年:フランス、傀儡政権ベトナム国建国
1950年:中共、ソ連がベトナム民主共和国を正統政権と認め、武器支援を開始。
    米国、英国がベトナム国を承認
米軍事援助顧問団(MAAG)サイゴンに設置。
1951年:ベトナム共産党第2回党大会を抗仏戦争中に北部山地で開催。インドシナ共産党がベトナム、ラオス、カンボジアの3党に分離。ベトナム労働党と改名。クオン・デ候東京にて死亡。
1953年:フランスがディエンビエンフーに要塞化する。
    ベトナム労働党が土地改革綱領発表。
1954年:ディェンビェンフーでフランス軍降伏。
    ジュネーブでインドシナ休戦協定調印。北緯17度線を暫定軍事境界線とする。
   「ベトナム労働党南部委員会」が極秘裏に設置される。

1955年:バオダイ帝廃位。ゴ・ディン・ジェム国家主席に就任。
    ベトナム共和国宣言し、ゴ・ディン・ジェム初代大統領に任命。
1959年:第15回党拡大中央委員会で南ベトナムの武力解放を決定。抗米救国戦争の開始。ホーチミンルートの建設
1960年:北ベトナム、新憲法公布
    第3回党大会で南部武力開放決定。第1次5カ年計画を策定。
    レ・ズ・アン第1書記選出。
   「南ベトナム解放民族戦線」がタイニン省で発足。
1962年:米軍、枯葉剤散布開始
    米軍が「南ベトナム援助軍指令部」(MACV)を設置。

1963年:南ベトナム都市部で仏教徒の反政府運動が激化。
    アプバクの戦いで南政府軍敗退。ケネディの直接軍事介入決断。
    反ゴ・ディン・ジェムの軍事クーデター。ゴ・ディン・ジェム兄弟暗殺される。
1964年:南解放勢力が米軍宿舎を攻撃。
    米軍の北爆が開始される。米軍海兵隊ダナン上陸。
「国際軍事指令機構設置」(IMCO)。韓国、オーストラリア、ニュージーランドタイ、フィリピンが参戦。

米軍が南ベトナムでも爆撃開始。
トンキン湾事件で北ベトナム対南ベトナムの構図から北ベトナム対米国の構図に大きく変化

1965年:北爆が再開される。
1966年:ホ・チ・ミンが徹底抗戦を宣言。「独立と自由ほど尊いものはない」の交戦アピール。
    北ベトナムが動員計画発表。

1969年:解放軍が「南ベトナム共和国臨時革命政府」樹立。
   米軍第1陣撤退。
ホ・チ・ミン主席死去。
ソンミ村虐殺事件発覚。
1970年:カンボジアでロンノル将軍がクーデターを起こし、シアヌーク元首追放される。南政府軍と米軍がカンボジア侵攻。
米国での反戦運動が全国に拡大。
1972年:南政府軍と米軍がラオス侵攻。
ニクソン米大統領が訪中し、上海コミュニケ発表。これを北ベトナム強硬非難する。
北爆再開されるが国際世論に押され短期間で中止。
1973年:米国、北ベトナム、南ベトナム、臨時革命政府がベトナム和平協定(パリ和平協定)調印。ベトナム停戦発効。
    3/29米軍撤退完了。米司令部解散。
   日本と北ベトナム外交関係樹立。
1975年:南革命軍がドンソアイ攻撃、陥落。
北正規軍バンメトウト攻撃(タイグエン作戦)。南政府軍崩壊。
ダナン陥落。
北正規軍サイゴンに入る(サイゴン陥落)。ミン大統領無条件降伏。ベトナム共和国消滅。

1976年:ベトナム南北統一総選挙。
    ベトナム社会主義共和国樹立。国連加盟。
    ベトナム労働党第4回党大会開催。ベトナム共産党と改名。レ・ズアン書記長選出。支那批判。
1977年:ベトナム軍カンボジア侵攻。カンボジアとの国交断絶。(民主カンプチア=ポルポト政権との戦い)
1978年:カンボジアから撤退。
    ベトナム在住の華人が大量帰国。
    支那、ベトナム紛争表面化。支那はベトナム援助打切り通告し、技術者総引き揚げ。
ベトナム=ソ連友好協力条約調印。
ベトナム再度カンボジア侵攻。
~79年にかけ、南部を中心に難民の大量流出
1979年:支那軍がベトナム国境に侵攻(中越戦争)。ベトナム軍の猛反撃により1ヶ月で撤退。


とても長くなりましたが、ベトナムは支那歴代政権、モンゴル帝国、フランス、アメリカ、ポルポト政権という強敵を跳ね除けてきたことがお分かり頂けると思います。

自分から進んで朝貢をしていた某半島の方たちにも見習って頂きたい精神力です。

そして、もちろん私達日本人もベトナムを見習わなければいけません。

次回は、実はベトナム戦争の勝敗に日本が影響を与えていたという話をしていきたいと思います。

最後までご覧頂きありがとうございました。






















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