★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

鬼への諂いと勇気

2023-03-30 23:24:23 | 思想


子曰、非其鬼而祭之、諂也。見義不爲、無勇也。

鬼は別に先祖や神に限らない。ここでは鬼と言いながら、孔子はほんとは権力や君子と言いたいところなんだと思う。自分と直接「道」でつながっていない者に諂う奴はだめだと。これをあやまると、人は「信仰」に走る。「信仰」とは、道でもなく、友情でもなく、もちろん対象化でも批判でもない、ある種の無為なのである。その意味で、天皇制というのは完全なる信仰の対象である。日本の人々は、これが案外強力な力を権力に対しても自分に対しても、それに天皇みずからにも及ぼすことを知りつつあり、――完全な妄想であるが、天皇が死者の葬送を儀式として行える存在として祭り上げていることすらも、一種のその無為であると、はやくから自覚されていた可能性があるとおもう。しかもそれは儒教への内心からの反発なのかも知れなかった。

「見義不爲、無勇也」、正しいと分かっていながら実行しないのは勇気が無いのだ、というこれが前の部分の後についていることが、我々の心を揺さぶる。マルクス主義でもフェミニズムでも国粋主義でもなんでもいいんだが、自分の処世絡んでいるときや親分がおっかないときには黙っていて、攻撃可能とみるや正義をふりかざすようなやからを子分に持たざるを得ないところが、いつも苦しいところだ。本当は、勇気の問題かどうか怪しいとわたくしはおもっているが、勇気の問題であることも多い。だから、逆に、勇気を持った場合には、行為自体が目的化して、行為はテロみたく行われることになる。それが不可能な場合には、自死という手段に出る者まで現れる。

論語の孝というのは、親子の絆みたいなものではなく、

親父は職人、祖父は四角な字をば讀んだ人でござんす、つまりは私のやうな氣違ひで、世に益のない反古紙をこしらへしに、版をばお上から止められたとやら、ゆるされぬとかに斷食して死んださうに御座んす(「にごりえ」)

と吐き捨てる人間の行く末みたいなものを言うべきである。お力はたぶん心中してしまった。それはそれで一種の孝行であって、――しかも、それは後の我々にまで世直しへの強迫を続けている。昨日書いたように、孝弟とは、君子の根本である。そして君子とは世の中をどうにかすることを宿命づけられた人である。

そういえば、黒豹シリーズの作者、門田泰明をはじめて読んだのだが、彼は純文学志望だったので、師匠は多田裕計なのである。師弟関係で遡ってみると、上田敏→菊池寛→横光利一→多田裕計→門田泰明という系譜ができあがる。確かに、あんまり違和感ない「道」がそこにある気もするのだ。