心人-KOKOROBITO-

亡き先人と今を生きる人に想いを馳せて
慰霊活動や神社参拝で感じ取った事を書き綴った日記と日々の雑感コラム

渥美清的な死

2011年02月09日 | 雑感
フーテンの寅さん。
正月の日本映画の定番でしたが、寅さんこと渥美清さんがお亡くなりになられてから、どれぐらい経ったでしょうか。

過去に数本テレビの放映で、見たことはありましたが、渥美清さんが別の作品に出演されていても、あれ?寅さんが出てる、と思えるほど彼と寅さんが同化されている印象が、当時からとても強いものでした。

さて、この寅さんこと渥美清さんですが、個人的には映画よりも彼の死の方がとても印象的でした。ご自身のご病気を一切映画スタッフ、友人、知人には漏らさず、親族だけでその情報を共有し、家族に渡した遺言を、また家族も一途に守り、家族に看取られながらその死を迎え、家族による密葬もすべて終わり、遺灰になった時点で、世に公表されました。

ここまで頑なに、自身の病気の姿、そして自身の屍を親族以外に知らしめなかった背景は、こころに刺さるものがあります。スタッフや友人知人からすれば、それはせつな過ぎる行いだったかもしれません。

この世からまもなく自身が旅立つ場面に直面した際、ここまで凛とした姿勢で臨めるでしょうか。役者と個人の2つの顔を持つ立場ではありますが、皆が知らない個人の顔に対し、亡くなられた当時は、とても意志の強さを感じました。

人は亡くなる時、未練がたくさん募るでしょう。個人差によってその強弱はあると思いますが、未練を感じぬよう、生ききる事に意識を傾注すれば、きっと自力で回避出来るのだろうと彼の死から教えて頂いたようにも思えます。

人は、時間に限りがあると漠然と思いながら生きていますが、死に直面する段階で、未練を持たない、未練を残さないためには、日々捨てなければならないものは潔く捨てる、この意識を持たねばなかなか出来ません。

後悔と未練の狭間には、差異があるでしょう。後悔は要点的に、未練は全体として。後悔を無くすのは簡単なことです。自尊心の一部を消せばよいだけです。しかし、未練にはさまざまなものが付随し、全体として個だけでなくその周りも含まれる事があります。周りにも、未練をもたれぬよう、気遣うのが死生観の伝達なのでしょう。

渥美清的に黙って去るか、はたまた死生観を伝達し告知して去るか、死に触れた周りの感受は、大きな差異が時に生まれることでしょう。しかし、当事者にとっては、どちらも死生観に基づく一つの行いなのだと思います。

黙って去ることが出来ぬなら、死生観の話は平素からしておくと良いかもしれません。そうすれば、自身も周りも未練を出来るだけ残さずに済む事でしょう。出会いがあれば、別れがある。だから、死を語る事はタブーではないのです。旅立つ方も、残される方も、それぞれに、どのように生きるかの裏返しと言えるでしょう。

人生折り返しを過ぎ、振り返りますと、自分の軌跡の意味も理解できるようになりました。この意味を自覚した上で、先々を見据えねばなりません。未練を残さぬよう、日々、淡々と。

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