平成23年3月11日(金)午後2時46分、東日本大震災が発生しました。あの時、わたしは小さなテレビ画面で、押し寄せる津波を目の当たりにしましたが、こころは、動じずに、来るべき時がついに来たかと感じ入っておりました。
平成22年の12月、地元神社で感じたこと、それが来年日本が大変な震災に見舞われるということでした。場所は分かりません。しかし大勢が亡くなる惨事だと感じ取っていたのです。だから . . . 本文を読む
震災から2年目を向かえる昨夜、親族からの依頼で、白羽の矢が立った。食事の席で取り交わされた約束の一つであるオール巨人さんの寄付金に伴うビデオレターの撮影だった。
話は数十日前に遡る。親族が親しくさせて頂いている吉本興業の漫才師であるオール阪神・巨人の巨人さんと食事をした際、被災地復興支援活動の話で盛り上がったそうだ。巨人さんは、これまで阪神さんと共に被災地へ訪れ、漫才や歌など施設などへ慰問をし . . . 本文を読む
食糧不足により配給される食糧はきわめて乏しく、成人一人あたりの米の配給量は2合1勺(約300グラム)しかなかった。それでもおかずが一杯あれば、主食はこの程度でも足りるが、当時はおかずといえば、漬物がせいぜい。動物蛋白として、貧弱な干し物を一週間に一回か二回食べられれば、恵まれた方だった。
また、2合1勺の米も、ほかにイモとかカボチャなどの配給があれば減らされ、さらに一週間から一ヶ月におよぶ遅配 . . . 本文を読む
原発事故が起きた平成23年3月11日から、1年3ヶ月と16日が経ち、今日、実質的に東電が国有化となった。
そして今日、何の前触れもなく、関西電力から1通の葉書が届く。万が一計画停電を実施した場合、細かな日程と実施エリアを示す番号が書かれていた。なんだか、脅迫されているかのような不快感を感じずにはいられなかった。
皮肉にも、今日こんな話しも耳にした。それは、著名な方のオフレコ発言の一部だが、 . . . 本文を読む
【捨てる】という行為に至るまでには、【戴く】という起点の始まりがある。
今、賛否両論されているのは【捨てる】という行為のみだろう。
道義には始まりがあり、結末がある。
進呈された物には、手渡す人から受取る人へ、物に込められた【こころ】がある。
その事は、受取る側も承知の事実だろう。
まず見るべきは、最初の起点である【戴く】という場面ではないだろうか。
もし、【捨てる】または【捨て . . . 本文を読む
自衛隊へ入隊する際、誓約書を書き、入隊します。
『強い責任感をもって専心職務の遂行にあたり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め、もって国民の負託にこたえる事を誓います』
以上がその誓約書です。
まさに、戦後最大の震災に見舞われ、被災地各県に10万人もの自衛隊員を派遣され、任務を遂行されましたが、この誓約書を完全に遵守し、生き残られた被災者、またお亡くなりになられた犠牲 . . . 本文を読む
『さいたさいたセシウムがさいた』というキャッチコピーが問題となり削除されたそうだが、削除前のポスターがどういう内容かをまず知る必要があるだろうと想い、検索するとすぐに見つける事が出来た。内容は以下の通り。
・・・・・・
2012年国際女性デー埼玉集会
憲法をいかし、いのちとくらしを守る社会を!震災復興、原発ゼロへ
ジェンダー平等実現へ 人間らしい雇用と社会保障を 核兵器のない平和な世 . . . 本文を読む
昨日、福島県での震災直後の話を聞いた。
それは津波に飲まれた病院に、勤務されていた医師の話だった。
その医師は、幸いにも命を繋ぎ、この話しを語っている。
震災直後、病院内には、医師、看護士、患者がいたが、
津波が押し寄せ、多くの人や物を飲み込んで行った。
その医師の目の前を津波に飲まれそうになったベットの上で、
一人の患者さんが、医師に向って、
「先生、ありがとうーー。」と一言 . . . 本文を読む
車は、川俣町の入り組んだ抜け道に入って行った。どうやら、商店街のようである。あちこちにノボリが立ててあった。
「風評被害に負けないで!がんばろう福島」
色彩のデザインは、日の丸を用いたものであり、わたしはこのノボリを作られた商店街の店主たちの壮絶な目に見えない世論との戦いを想像し、このノボリによって、互いに励まし結束しようとされる想いが垣間見られてならなかった。
放射能は数値とし . . . 本文を読む
南相馬市で感じたお亡くなりになられた人々の想いに触れ、衝撃的事実に向き合うためには、やはり時間がかかった。なんたる潔さだ。環境がもたらす人間の精神に感嘆としていた。
人々は助け合いながら、それでも自立心を持って生きていたのだろう。それは、どこか公のための生きるという部分を胸に秘めた人々の死のように感じていた。わたしは改めて、震災時における福島県民の生き残った人々の冷静さ、気丈さ、情の深さ . . . 本文を読む
6号線沿いでは、大きなトラックが数台、今も流され壊れてしまった家屋の廃材を分別し、運んでいる。太平洋側に最も近づいたところで、Y秘書は車を道路脇に停車し、車両から降りられた。わたしもカメラを抱え、津波で飲み込まれた場所に、初めて立った。
ニュースで想像していたのは、現地に行けばおそらく、亡き人々の想いや魂に触れ、重たい気持ちになるだろうと思い込んでいた。大勢の人が一度に亡くなられた場所、 . . . 本文を読む
飯館村を後にしながら、通過していく道中の両脇の田畑を指し、Y秘書はこう告げた。
「田んぼはね、2年耕さなかったら、一度死ぬんですよ。もし、この田んぼに田植えをしようと思えば、2年以内にしないと、お米が出来ないんです。」
避難区域であったため、所有者もなかなか立ち入る事が出来ずにいた昨年の夏は、この一帯雑草で大変な風景だったと言う。今、その雑草が枯れ、一部の所有者が一時的に村に戻り、雑 . . . 本文を読む
園長先生や保育士の皆様と玄関でお別れをし、園長先生はお寒い中駐車場まで出てきて下さった。最後、車の窓を開け、互いに会釈し、聖心三育保育園を後にした。1歳未満の幼児の表情が脳裏から離れず、わたしは重たい気持ちを引きずったまま、後部座席に座った。
車はこれから、飯館村へと向かう。
飯館村は、相馬郡の中で唯一太平洋に面していない内陸部の人口6000人ほどの村だ。東日本大震災の時、震 . . . 本文を読む
御礼を読み上げた園児の後ろには、同じ背丈の男の子が手作りのメダルを持っていた。小さな男の子は、親族に手作りのメダルを首にかけた。園児達から大きな拍手が重ねて送られた。わたしも募金活動を数回手伝った立場として、この瞬間に立ち会えた事は本当に喜ばしかった。
募金活動中、わたしは嬉しくて泣いた事があった。それは、駅の改札口の傍で募金をしている時だった。この時、大勢の大人が先を急ぎ見ないよう行き . . . 本文を読む