心人-KOKOROBITO-

亡き先人と今を生きる人に想いを馳せて
慰霊活動や神社参拝で感じ取った事を書き綴った日記と日々の雑感コラム

不可解な神社

2014年02月18日 | 雑感


日本全国に神社は津々浦々あるが、つい先日不思議な神社の写真を見つけた。埼玉県日高市新堀に所在する『高麗神社』。上記の写真は神社に併設している駐車場内に設置された『将軍標チャンスン』と言い、朝鮮半島の古い風習で村の入口に魔よけとして建立されているそうだ。上記の写真の建立主は、大韓民国民団埼玉県地方本部。彼らによって奉納されている。

神社には、その神社を参拝されている方々の信仰心の熱さによって、神社に纏わる代物が奉献されている。主には、奉献の代物はご浄財寄付によって作られ、寄贈された方の氏名が記載される。

例えば、昨年式年遷宮のあった伊勢神宮。こちらはさすがに寄贈者名の記載はないが、20年近くの歳月を掛け、参拝者の法人から個人までご浄財寄付を頂いたものは全て名簿で残し、20年かけて寄せられた浄財であれだけの規模の伝統を地域ぐるみで守っている。

何も伊勢神宮だけではなく、出雲大社もしかり、地元の八幡宮等もしかり、通常であれば、神社側が新設したい、また新調したい代物があり、信仰者へご浄財を募るケースがほとんどだ。奉納品の代物はあくまでも神社側に主導権があり、神社の形成を保ちながら伝統が守られている。

一件不可解なこの『将軍標チャンスン』の魔よけの像から、この『高麗神社』について調べてみることにした。一番興味深かったのがこの神社の祭神だった。神社には、祭神と言って、さまざまな神様が祀られている。ここの神社では、高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)が主祭神で、残りは、猿田彦命(さるたひこのみこと)、そして、武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)だった。

猿田彦命(さるたひこのみこと)は、わたしが伊勢参拝する際必ず参拝する猿田彦神社の主祭神である猿田彦大神様。ものごとの最初に御出現になり万事最も善い方へ”おみちびき”になる大神と言われ、信仰されている。この猿田彦大神様は、古事記での名称と日本書記での名称が異なり、『高麗神社』では、後者の日本書記での呼び方で祭神としている。この猿田彦大神様は、神話に出てくる神様であるため、人間として実在はしていない。

そして、もう一つの武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)。Wikipediaによれば、第13代成務天皇と同年同日の生まれといわれ、第12代景行天皇の時に北陸・東国を視察して、蝦夷の征討を進言した。成務天皇3年に大臣となる。神功皇后の朝鮮出兵を決定づけ、忍熊皇子らの反乱鎮圧にも功があった。第15代応神天皇の時、帰化人を率いて韓人池を造る。また、異母弟の甘美内宿禰から謀反の讒言を受けたが、探湯を行って濡れ衣を晴らしたとされており、天皇に仕えた人物ではあるが、生誕から死没までの年表の長さ、そして古墳の存在からも、実在・非実在論の両方があるようだ。

そして、最後の主祭神である高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)。こちらもWikipediaで調べたが、もっと不可解だった。

(1)【外国の王族の子孫を意味する姓である王(こきし)姓の賜与を受けており、高句麗王族と見られるが出自未詳。一説では高句麗王族の背奈福徳(肖奈福徳)と同一人物とする。一方、高麗姓の由来は高句麗ではないとして、高句麗王族との出自を疑問視する説もある。】

(2)【天智天皇5年(666年)高句麗からの使者の一員として来日、この際は玄武若光を名乗っている。その後、天智天皇7年(668年)唐と新羅の連合軍によって高句麗が滅ぼされたため、若光は高句麗への帰国の機会を失ったと考えられる。】

(3)【霊亀2年(716年)武蔵国に高麗郡が設置された際、朝廷は東海道七ヶ国から1799人の高句麗人を高麗郡に移住させているが、若光もその一員として移住したものと推定されている。】


この(1)~(3)の中で出てくる【高句麗】(こうくり)とは、今の中国東北部南部から朝鮮北中部にあった国家であり、最盛期は満洲南部から朝鮮半島の大部分を領土とされ、隋、唐を始めとする中国からの侵攻を度々撃退したが、最終的には唐・新羅の遠征軍により滅ぼされた国家。

4世紀末から5世紀にかけて、高句麗は倭(日本)と敵対関係にあったので、当時の高句麗人が自発的に移住してきたのか戦争捕虜であったのかは不明だそうだ。

6世紀になって百済と高句麗の関係が改善するにつれて倭と高句麗との関係も友好的なものとなり、相互の通好も行われた。570年に北陸に漂流した高句麗人が「烏羽之表」を携えており、これが正式な国書であると王辰爾によって解読され、初めて国交が開かれたと伝えられる。

7世紀前半までの高句麗と倭との国交は文化的な交流に限定されており、特に仏僧の活躍が目立つ。595年に来朝し、後に聖徳太子の師となった恵慈、610年に来朝した碾磑(みずうす)を製法を伝えたとされる曇徴は有名である。7世紀後半には文化交流に留まらず、伊梨柯須弥(イリ・カスミ、通常淵蓋蘇文と表記)のクーデターを伝えるなど、政治的な関わりをもつようになった。

668年に高句麗が滅亡すると倭に亡命してきた高句麗人もあり、716年には武蔵国に高麗郡が建郡された。高麗郡大領となる高麗若光には705年に王(こきし)の姓が贈られており、高句麗王族であろうとされる。高麗郡高麗郷の地である埼玉県日高市にはこの高麗王若光を祭る高麗神社が今も鎮座する。ほかにも『新撰姓氏録』には以下のような高句麗系氏族が見られる。と、Wikipediaには書かれていた。


つまり、高句麗(こうくり)と倭(日本)敵対関係であった時期から抜け出し、6世紀になって朝鮮半島を経由し渡ってきた実在人物で、当時の倭(日本)では、”玄武若光”と日本名を名乗り、霊亀2年(716年)武蔵国に高麗郡が設置された際、朝廷は東海道七ヶ国から1799人の高句麗人を高麗郡に移住させているが、若光もその一員として移住したものと推定されているとある。

この高麗王若光、通名玄武若光の謎めいた功績を下に、主祭神として祀られている経緯は、やはり【高麗神社】のホームページで紹介しているだろうと思い、サイトを見てみた。


神社側の説明での【高句麗】は以下の通り。


高麗神社の主祭神は、かつて朝鮮半島北部に栄えた高句麗からの渡来人高麗王若光(こまのこきしじゃっこう・「王」は 他に「こしき」「こにしき」「こにきし」などとも読む)です。
最盛期は5世紀の「広開土王(こうかいどおう)」、「長寿王(ちょうじゅおう)」治世の100年間で、中華人民共和国吉林省集安県にある「広開土王碑」から、そのころの高句麗の強勢ぶりをうかがうことができます。

若光が渡来した年代についての社伝はありませんが『日本書紀』天智天皇称制5年(666年)10月高句麗から派遣された使節の中に「若光」の名があります。

『続日本紀』文武天皇大宝3年(703年)に「従五位下高麗若光に王の姓を賜う」と記されており、高句麗が668年に唐と新羅によって滅ぼされてしまったことを考えると、『日本書紀』にある「若光」と当社の御祭神である「高麗王若光」は同一人物と思われます。


そして、【高麗郡健郡と高麗神社】は以下のように説明されていた。

若光は元正天皇霊亀2年(716年)武蔵国に新設された高麗郡の首長として当地に赴任してきました。当時の高麗郡は未開の原野であったといわれ、若光は、駿河(静岡)甲斐(山梨)相模(神奈川)上総・下総(千葉)常陸(茨城)下野(栃木)の各地から移り住んだ高麗人(高句麗人)1799人とともに当地の開拓に当たりました。若光が当地で没した後、高麗郡民はその徳を偲び、御霊を「高麗明神」として祀りました。これが当社創建の経緯です。

高麗神社は、若光の子孫が代々宮司を務め、現宮司は60代目になります。
高麗郡は明治29年(1896年)入間郡に合併されましたが、当社はその後も広く崇敬を受けてまいりました。特に浜口雄幸、若槻禮次郎、斉藤実、小磯国昭、幣原喜重郎、鳩山一郎らが当社参拝後相次いで総理大臣となったことから「出世明神」と広く知られるようにもなりました。現在は年間約40万人の参拝があります。

第1駐車場内の将軍標(しょうぐんひょう・チャンスン)チャンスンは朝鮮半島の古い風習で、村の入り口に魔除けのために建てられました。将軍標は平成4年に大韓民国民団埼玉県地方本部によって奉納されたものです。



以上が、高麗神社の由来と歴史だそうだ。

神話では実在する人神のように描かれているが、それは人に説明する際、分かりやすく説くために用いられた特徴的な表現であって、神話の神様は人間ではない。もちろん日本全国にある神社には『人神』として、歴史上実在している方を祀っているケースもある。神話の神と、実在人物の神、この狭間で論じられ、存在しているかのような表現でもある。

この高麗神社の主祭神への説明を読んでも、『日本書記の若光と、高麗王若光が同一人物と思われる』と言う表現から、やはり確証はなく、不明というのが神社側の本音ではないだろうか。この曖昧さが妙にひっかかるものがあった。

神社側が説明している中身を読み返し精査すれば、倭(日本)に渡ってきた高麗人(朝鮮人)の移り渡ってきた場所を開拓した一人であり、生前の功績を讃え、高麗郡民はその徳を偲び、御霊を神として祀ったことになり、つまりこの神社の主祭神は神道に則って、朝鮮人の一人を神様として崇めたという話に至る。

ここで2つ考察してしまうのが、一つは起点。朝鮮半島とは古来、敵対関係にありながらも日本は受け入れ移住にも寛容だったという事実。彼らはその懐の深き倭の国の日本で、そして郷に入れば郷に従えという精神で溶け込みながら、自分達の居住地を求め、永住するために土地を開拓し、信仰も神仏習合の時代ながら、神道を選び『高麗王若光』を神様として祀った時代背景が存在していた事。

そしてもう一つは、このような時代背景がありながら尊重し伝統を守ることをしなかった現在の神社の在り方。大韓民国民団埼玉県支部が建立された『将軍標チャンスン』を建立させてしまったことが最も象徴的だろう。ここに、過去の起点と現在の至点が、線で結ぶことが出来る。

この神社の主祭神が生まれた時代は7世紀。当然ながら、倭の国へ移り住んだ人々は、現在の法に則った在日という国籍管理も出来ない時代であって、倭の国に溶け込みながら子々孫々と命を繋いできたのだろうと推察している。この時代の史実の曖昧さからも、子々孫々と受け継がれていく過程の中で、朝鮮民族を主張する必要性のない時代ではなかっただろうか。

また、一方で婚姻による同化という側面もあるように思う。高句麗とは言え、倭の国の人々と共存共栄をしており、当然ながら人の口の言い伝えはあっても、神仏習合の時代故に、生活の中で、和を持って尊しを実践していたと推察も出来る。今の時代よりも人々は助け合いの精神で、もっと友好的であったと思えてならない。

故に現在の日本国と7世紀の日本国。長い歳月をかけて育んできた今日ではあるが、民族意識の差、断片的な史実に触れながら、ここから紐解けば、7世紀という時代は生きる事が土着的であり、民族を主張せねばならない理由もあまり多く感じる事は出来ず、脈々と続く命の継承の中で、日本人と朝鮮人は生計を共にし同化していったように思うのだ。

今とは全く異なる生活の中で、地域に根付き人々が暮らしていたからこそ、名称こそ変わったが、この高麗神社が存在し継承して来たのではないだろうか。

こうした、信仰を通じ神道という形式を相互が理解し共有してきた史実の過程があったと強く感じられる。よって、今日突如建立された『将軍標チャンスン』の二つの像は、相互理解の上で伝統を重んじた神社神道に対する分断的破壊行為の印象を抱かせるものだろう。

もし、仮に彼ら大韓民国民団が、日本の神道への信仰に理解する心が純粋であるならば、高麗王若光の御霊を祀った先人の心情を尊重し、日本人と同じように神社側の要望を見聞きし、浄財を寄付し、神社側の選択でその寄付をどのような奉献物をするのか、何にするのかが選ばれていたはずだ。

南朝鮮半島の風習である魔よけの代物を、いくら駐車場敷地内とはいえ、建立する事は神社境内と同等とみなされるものであり、その行為からも、先人の信仰心を重んじず、また奉献の主旨を理解出来なかった象徴的代物になっている。

この地域に住まわれる人にとっては親しみのある神社なのかもしれないが、他府県民からすれば、御祭神が何を祀られているのか、というのを問題視しているわけではない。日本神道の伝統にない代物を奉納される行為を赦し、建立させてしまった神社側の伝統を守れなかった心根と姿勢に疑義が募るのだ。

高句麗から、倭へ渡ってきた人だとしても、その時代には、日本に溶け込み、日本の神道式に則り主祭神として祀った。この大切な心、祈りの根幹を無視し、大韓民国民団埼玉県支部は、日本神道を重んじず、自国の慣習文化をこの神社へ持ち込み、自尊心の誇示として象徴的モニュメントの建立に至ったと見られても致し方がない。自己主張の激しさから、神道神社への破壊のようにもさえも見える。

7世紀にあった高句麗と倭の友好、神社建立を赦した日本神道。ここへの本質を重んじず軽視し、彼らは自ら先人を否定しているようなものではないだろうか。自身のルーツを誇張するしか出来なかった大韓民国民団埼玉県支部の野望には、信仰心の深さは感じられず、まるでこの神社の背のりの一つの行為すら感じさせてくれた。

この奉献行為を赦す神社側。それに疑問を呈さない地域住民。このような動向が、日本各地でこれから起こってくるのかもしれない。神社庁には申し訳ないが、いささか不可解な神社すぎる。


人間は、寛容するこころが大切だ。
しかし、その寛容とは、道義を重んじ判断し分別の上で、赦すべきではないだろうか。
やみくもに赦すのは、寛容のこころとは言い難いと個人的には強く思っている。



高麗神社正式ホームページ:http://www.komajinja.or.jp/index.html

(参考資料~Wikipedia)
高麗若光
高麗神社
高句麗

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