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言葉を「文脈」で考えることができない、頭の悪い「自称知識人」たち-仙谷の「暴力装置」発言 1

2010-12-08 04:15:44 | Weblog

仙谷官房長官が「自衛隊は暴力装置」発言を行ったのは、早いものでもう先月、11月18日の参議院予算委員会でのことだ。発言直後から、仙谷自らが撤回し、その時の質問者であった世耕弘成(自民党)議員の要求により、改めて撤回と謝罪を行った。

この仙谷発言に対しては、テレビやラジオではほとんどが批判的論調であったが、対照的に、ネットではさまざまな「自称知識人」が、

(1)>「暴力装置」という言葉はマックス・ヴェーバーが使い始めた言葉で、学術用語であり、政治的に中立な言葉である。

(2)>「暴力装置」という言葉を批判することは「言葉狩り」である。言葉狩りはやめろ!

(3)>「暴力装置」という言葉が学術用語であることも知らずに仙谷を叩いている世耕や佐藤ゆかり、丸川珠代などの自民党議員やネトウヨ(右翼)ってバカだよね~

というアジテーションに必死であった。

例えば(1)の立場としてはこの記事。

木語:暴力装置? 実際正しい=金子秀敏(毎日 10.11.25)

(前略)

さて、国会だ。仙谷由人官房長官の「自衛隊は暴力装置」発言で、野党が辞任を求めている。マスコミも失言を批判している。仙谷氏本人も「適切を欠いた」と謝罪した。

奇妙な議論である。自衛隊は、国家を支える武力組織である。一朝ことあれば、中国軍やロシア軍と戦うかもしれないのだ。中国軍やロシア軍は暴力装置である。非暴力では対抗できない。強力な暴力行使の能力こそ、自衛隊の存在意義ではないか。

(中略)

ウェーバーによれば、近代国家とは「ある特定の領域において」「正当な暴力行使を独占する」人間共同体である。

国家にとって暴力は善悪ではなく、正当か不当かが問題になる。国家の行使する暴力のみが「正当」である。国家以外の団体や個人には国家の許す範囲でしか暴力行使は認められない。自衛隊が暴力の「装置(国家機関)」であるというのは「正当」ということであって、悪口ではない。

「職業としての政治」の講演は、1919年1月。ドイツは第一次大戦に敗れ、ベルサイユ講和会議が始まった。当時、ドイツ各地では暴力革命の機運が高まっていた。

ウェーバーは「革命熱に浮かされた学生たちに」「思いとどまるのに必要な判断基準を提供しよう」として演壇に立った。だが、左右の過激派学生たちは抗議の声を上げて退場した。(クリスタ・クリューガー著「マックス・ウェーバーと妻マリアンネ」新曜社)

秩序維持のための国家の暴力を正当とする論理は、革命派に対抗する論理だ。「暴力装置」と聞いて、官房長官が左翼過激派だったと騒ぐメディアがあるが、これも的外れだ。

「暴力と実力を言い間違えた」という仙谷氏の釈明も変だ。実力とは結局、暴力の実力のことなのだから。みんなよくわからずに無駄な議論をしている。(専門編集委員)(ここまで)

 

また、一般人ではあるが現職の弁護士のブログにはこうあった。

軍隊は暴力装置って、なぜ問題発言?(夜明け前の独り言 弁護士 水口洋介)

■仙谷官房長発言のどこが不適切発言

自衛隊が「暴力装置」って、当たり前の話しですよね。警察、軍隊などはすべて暴力装置であって、「非暴力装置」だったら役に立ちません。

■暴力装置=暴力団?

それとも、「暴力」装置っていうと、「暴力団」を連想するからいけないのかね?

これって、完全に言葉狩りですね。社会学や政治学では、当たり前の術語だって、突っぱねれば良いのに。

■「暴力」を扱う組織だからこそ生まれる自制

また、自衛隊がまさに「暴力」を扱う組織だからこそ、その権力行使には慎重さと自制が求められるし、また自覚が生じるものだと思います。(ここまで)

(2)の立場としては、最近ブレが激しい小林よしのりが代表的だ。

「自衛隊は暴力装置」だと思っていたが?(ゴー宣ネット道場 10.11.19)

仙石官房長官が

「自衛隊は暴力装置」

と言ったらしい。

それを産経新聞や
保守派が糾弾している。

自衛隊への冒涜だと。
士気が下がると。

困ったことだ。

言葉狩りではないのか?

 

「暴力装置」という言葉は
マックス・ウェーバーが使った学術用語で、
わしも『戦争論』の中で使っているし、
かつて自衛隊の前で
講演した時も使ったと思う。

「左翼は自衛隊と警察が嫌いだが、
国家を成り立たせる
その二つの暴力装置を失ったら、
日本国は、暴力団か、オウム真理教が
支配する無秩序状態に陥りますよ。」

といった文脈で。

 

マックス・ウェーバーは、
軍隊と警察は国家が独占する
正当な物理的暴力だと
『職業としての政治』
で述べている。

確かそうあったと思うので
また読み直してみるつもりだが。

わしはそれを
『戦争論』の中で応用した。

 

わしが使っても
批判されなかった言葉を、
仙石が使ったら大批判され、
謝罪に追い込まれる。

単に
仙石が左翼だから
という偏見からだ。

わしも
仙石は左翼気味だと思うし、
嫌いだが、

「言葉狩り」することによって
議論を封じるのは、
まさに左翼の常套手段だ!

日本の保守派も
左翼的性質があるということの
証明ではないか。

日本の民主主義は
常にこういう調子で、
公論に結びつかない。

仙石の前に、
「暴力装置」という言葉を
とっくの昔に使っていた
小林よしのりを、
まず批判しておくべき
だったのではないか?

とにかく
もう一度原典を
読み直してみるために
本を探す。(ここまで)

 

小林は、11月24日に、その続きとなる記事を掲載。

北朝鮮の砲撃から自衛隊を見る(ゴー宣ネット道場 10.11.24)

産経新聞は、

自衛隊は「暴力装置」

という言い方を、
左翼用語であり、
侮蔑語だと
決めつけたようである。

産経抄でも

「官房長官が『暴力装置』と
ののしった自衛隊」

などと書いている。

例え団塊の左翼世代が
レーニンの言葉として
使用していたとしても、
「暴力装置」を言葉狩りする
神経は解せない。

 

「実力装置」
ならいいらしいが、
わしにはこの方が
さっぱりわからない。

「何の実力?」と尋ねたい。

" 国家とは、ある一定の領域の内部で
正当な物理的暴力行使の独占を
(実効的に)要求する人間共同体である。

国家以外のすべての団体や個人に対しては、
国家の側で許容した範囲でしか、
物理的暴力行使の権利が認められない。 "

これが
マックス・ウェーバーの
国家の定義である。

正当な物理的暴力とは、
軍隊と警察に他ならない。

 

北朝鮮の砲撃を見たら、
軍隊が「暴力装置」だとよくわかる。

『北朝鮮軍は韓国の民間人の家を
砲撃し「実力」を示した』

などと報じたマスコミはない。

「何の実力?」と尋ねたい。

 

厳密に言えば、

実は自衛隊は
「暴力装置」としては
未完成である。

憲法を改正して
完璧な「暴力装置」に変えなければ、
国家・国民を護ることはできない
(ここまで)

 

(3)方向の発言としては、ネットでは有名な池田信夫がいる。頭の弱いかわいそうなネトサヨは、例えば上の小林や、この池田の文章を切り貼りし、2chなどで必死に「ネトウヨざまあ」などの発言を連呼していた。論理的根拠を大切にするのではなく、ある「結論」をただ「連呼」するだけのそういう輩はただの「ことばの街宣車、言論蛆虫」に過ぎないのだが、とにかくこの「権威」にすがろうとする「ウジ虫」が実に多かった。

アナーキー・国家・ユートピア(池田信夫ブログ 10.11.19)

軍隊が暴力装置であり、国家の本質は暴力の独占だというのは、マキャベリ以来の政治学の常識である。それを「更迭に値する自衛隊否定」と騒ぐ産経新聞は、日本の右翼のお粗末な知的水準を露呈してしまった。

(中略)

左翼に存在意義があるとすれば、こうした暴力装置としての国家の凶暴性を認識し、それを抑制する必要を理解していたことだ。しかしすべての暴力装置を否定すればアナーキズムになり、それに対して新たな暴力によって国家を転覆するレーニンの方法論は、歯止めのない暴力の独占をもたらした。

マルクス主義の限界は、暴力装置を誰がコントロールするのかという国家論が欠けていることだ。このため日弁連に典型的にみられるように、刑事事件で国家と闘うときは「権力=悪」という図式で議論するのに、過払い訴訟で消費者金融を壊滅させるときは、国家は財産を悪者から弱者に再分配する慈愛に満ちた福祉国家になる。

このようなダブル・スタンダードは、官僚機構を批判しながら政府の「景気対策」を求めるメディアから、「派遣村」で政府を批判しながら厚労省に生活保護を求めるボランティアまで広く分布している。それは「平和憲法」が暴力装置としての国家の本質を曖昧にしてきたからだ。しかし尖閣諸島や普天間基地の問題は、このような脳天気なご都合主義が、そういつまでも続けられないことを示している。(ここまで)

 

また、さらに

(4)>自民党の石破茂政調会長も、著作やシンポジウムで「暴力装置」という言葉を使ってるのに、なぜネトウヨはこちらを批判しないの?仙谷を批判するのなら石破も批判しなきゃだめだよね?(以下さまざまな罵詈雑言(笑))

こんな「ことばの街宣車」を乗り回し連呼する、頭の悪いネトサヨ諸君も実に多かった。いわゆる、「ネトサヨ怪獣イシバモー」の大軍団というべきか(笑)。

石破もこう発言しているのだからと、話を「ケンカ両成敗!」という方向に持って行こうとしていた自称知識人としては、あの朝日さんの有料情報サイトで気を吐いている清谷信一がいる。

「暴力装置」は「差別用語」か?(web論座 10.11.19)清谷信一

最近、国会答弁で与党の失言がたびたび問題になっているが、仙谷官房長官が自衛隊を「暴力装置」と表現した。これを野党が追及し、後に仙谷官房長官は陳謝し、「実力組織」と言い換えた。また菅首相も同様に謝罪した。

しかし、「暴力装置」という言葉自体に問題はない。むしろこの言葉に脊髄反射して問題視する野党の偏狭さの方が問題である。

自衛隊の行事において来賓が与党を批判する内容のスピーチを行ったことに対して、北沢防衛大臣が「そのような人物を来賓として呼ぶな」という通達を出した。これが批判され、この件に関する答弁の中で仙谷官房長官の「暴力装置でもある自衛隊、ある種の軍事組織だから政治的中立を守らなければならない」という発言が出た。

北沢大臣の通達は行き過ぎである。このような通達は自衛隊の現状を憂うような発言ですら禁じることになりかねない。また来賓のスピーチ原稿を事前に当局がチェックするなら事前検閲にあたり、憲法に抵触する恐れがある。これでは共産国である。来賓が原稿にないことを喋った場合、明治時代の政治講演会のように「弁士中止」と、邏卒(警官)よろしく警務隊が取り押さえろというのだろうか。せいせい口頭で不快の念を示すぐらいで良かったはずだ。筆者は北沢大臣の措置は異常だと思うし、彼に防衛大臣の資格はないと考える。

だが、「暴力装置」という言葉が不適切だったとは思わない。こんなことを国会で問題にするほうが異常である。

市民が武装を禁じられている国家においては軍隊(我が国では自衛隊)、警察、海上保安庁など武装した公的な組織が、暴力を独占し、いざという時は実力を行使するからこそ、治安と体制が保たれている。好き嫌いは別として、これは厳然たる事実である。

これが暴力装置でなくて何なのだろうか。ボーイスカウト的組織とでも言い換えれば野党は満足するだろうか。

極めて強大な暴力を行使できるこれらの組織を、慎重に制御・管理するのは政治の務めである。それを「これらの組織に危険は全くないのだ、彼らの忠誠を疑うのか」と、煽るのは無政府主義者によるアジテーターのたぐいでしかない。その方がよほど危険だ。少なくともそのようなポピュリズムに走る人間は国会にいるべきではない。

恐らく野党が攻撃した理由は「暴力装置」という言葉は学生運動華やかなりし頃、左翼がよく使っていたから気にくわない、仙谷氏もかつては左翼だったから、自衛隊は嫌悪すべき暴力集団であるとの本音が出たのだ、ケシカラン、というものだろう。だがそれは感情論に過ぎない。感情論を国会に持ち込むべきではない。それではかつての社会党だ。

「暴力装置」とは社会学者のマックス・ウェーバーが使い始めた言葉で、左翼に限らず政治学や社会学を囓った人間なら今でもよく使う言葉だし、「差別用語」ではない。左翼から見れば「右派」「保守派」である筆者も「暴力装置」という言葉はよく使っている。

また自民党政調会長の石破茂氏も、筆者との共著「軍事を知らずして平和を語るな」(KKベストセラーズ)において次のように述べている。

「国家という存在は、国の独立や社会の秩序を守るために、暴力装置を合法的に独占・所有しています。それが国家のひとつの定義だろうと。暴力装置というのは、すなわち軍隊と警察です。日本では自衛隊と警察、それに海上保安庁も含まれます」

この件で与党を攻撃していた野党、特に自民党の諸氏は仙谷氏の「暴力装置」は許せないが、石破政調会長の「暴力装置」はOKとでも言うのだろうか。

(後略)

 

と、ここまで引用したところで、もう字数が9000字近くになってしまったので、その2に移ることにする。




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