桃おやじの歴史散歩

我が町は 記紀に記載の七代孝霊天皇黒田廬戸宮の比定地。
古代史を中心に、奈良の観光や地域情報を気ままに書いています。

「三笠」 奈良県田原本町三笠

2017-08-26 22:21:45 | 地域
「三笠」 

田原本の旧町と南西に隣接して、新興の商店や住宅が立ち並ぶ住宅街が「三笠」地域に成ります。

田原本町三笠は昔は「下の庄」と呼ばれた地域で、下之庄を流れる梅川(鳥米川)は、東の九品寺の井堰からきているが、新ノ口村の中兵衛の宅へ、大坂の芸妓「梅川」が人目を忍んで通った堤だと伝えられています。

秦庄や多、平野、やっこうじ等への道が入り組んだ交通の要所に当り、近年は住宅開発が進んで以前の下の庄の面影はほとんど見れません。


地域の東、近鉄橿原線に近い方に有る春日神社や浄教寺周辺にわずかにその面影を残して居ます。

「矢部」 奈良県田原本町矢部

2017-08-25 23:10:37 | 地域
「矢部(やべ)」
 
多の北、薬王寺、新木から南、飛鳥川の西岸、田原本駅から丁度南西に戸数110軒余りの矢部の環濠集落が有ります。

ここの矢部は古来の矢作り部からの説もありますが、、藤原家の荘園の頃、東大寺尼仏妙領の夜部との領地交換に寄り東大寺領の夜部に成り、その後興福寺領となり変遷する内に何時か夜部から矢部に成ったのが本当の理由です。
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集落のほぼ中央に少し広い敷地の杵都伎神社(祭神須狭廼男尊、大名持尊)が有り、奥に寛永十二年創建と伝えられる願立寺が顔をのぞかせます。

更に境内の北側に観音堂と毘沙門堂が並び立ち、一つの景観を呈して居ます。
観音堂には、平安時代中期高さ168㎝の十一面観音立像が納められ、隣りの毘沙門堂には、41センチ、江戸後期の毘沙門さん。
江戸時代まではここに大和33箇所霊場9番札所の観音寺が有ったとされます。

この杵都伎神社から少し西に融通念仏宗の安楽寺が有ります。
本尊の阿弥陀如来座像は江戸時代初期ですが、室町時代前期の良忍上人像と、南北朝時代の国重文絹本着色融通念仏絵図が残って居ます。

「新木(にき)」  奈良県田原本町新木

2017-08-25 09:03:17 | 地域
「新木(にき)」

多、宮森の北、田原本旧町に近い所、飛鳥川を挟んで矢部の東側。
田原本の市街地の南西 直ぐ近くに新木(にき)という町民でさえ余り知らない入り込んだ所に100軒に満たない集落が有ります。

しかし、由緒は古く、多が飦富と表した頃、飦富を饒と表し、饒をニギ→ニキ→新木と表示する様に成ったとされます。

又、伊勢遷宮の際の元伊勢、笠縫邑にも批定され集落の西の端、飛鳥川畔に笠縫さん(姫大神)の石碑だけが今も残ります。

太子道(筋交い道)の後や条里制の後なども見受けられ、多神社の東西南北四つ鳥居の一つ北の大鳥居あとが残って、古代の様子を良く残す地域です。

「宮森」 磯城郡田原本町宮森

2017-08-21 22:51:33 | 地域
「宮森(みやのもり)」
 
田原本町の南西部、多の集落の北、秦楽寺のある秦の庄の南、近鉄笠縫駅から西に広がる寺川と飛鳥川に挟まれた穀倉地帯です。
秦庄とは隣接し入り組んで区別が付かないほど。

当然ながらこの地域も下ッ道が通り、太子道が通っていたとされます。

縄文時代の遺構も発掘され、竪穴式の住居跡も見つかるなど、古代から人が住み着いて居たものと推察されて居ます。

宮森は宮守、宮部造の祖神天壁立尊の子、天背男尊を祭祀していた事に寄るとか。

集落に有る天神社は、祭神は少彦名命ですが、宮部造(みやべのみやつこ)の祖神「天背男尊」を祀るとされて居ます。

秦楽寺     (真言律宗)高日山浄土院 秦楽寺 奈良県磯城郡田原本町大字秦庄

2017-08-07 14:09:02 | 地域
(真言律宗)高日山浄土院 秦楽寺

 近鉄笠縫駅北西300m、田原本と多の集落の丁度中間位、寺川と今ははっきりとは残って居ませんが筋交い道との間に位置し、古代から中世と歴史の交錯する位置にあります。
 
表門は東向きで、唐風造りの珍しい土蔵門。

門を潜ると右手に鐘楼と本堂、更に庫裡へと続きます。

本堂の前、正面に弘法大師が作ったとされる梵字池(阿字池)が広がり、門の左手、本堂と直角になる形で春日神社と笠縫神社が其々の鳥居を持って立っています。
本堂は護摩堂様式(護摩堂を其の侭本堂に転用したものと思われます)
本尊;千手観音像(平安時代作)  脇侍に聖徳太子像、秦河勝像
 
当寺は秦河勝、弘法大師ゆかりの古寺として、また、金春流とう能に関わる事や、中世の秦楽寺城の所在地として長い歴史を持ちます。
 
秦河勝
秦河勝は秦始皇帝の末裔とも言われ、約3千人の武人、楽人、工人の集団を率いて渡来したと伝えられます。
当初、厩戸皇子(聖徳太子)ブレーン、スポンサーとして活躍、
『日本書紀』では三カ所しか記されていませんが近隣では様々な伝承が残っています。
推古天皇11(603)年11月、厩戸皇子は「われは尊像を有するが、誰かこの像を恭拝するものはないか」聞いたところ秦河勝が「臣が拝みまつらん」と答えこの仏像を受けて蜂岡寺(広隆寺の前身)を造った。
「推古天皇18年(610)10月、新羅・任那の使節が揃って入京したとき、河勝は土部連莵(はじのむらじ・うさぎ)とともに、新羅の導者(みちびきびと)に命じられた。
 皇極天皇3年(644)7月、東国の不尽(ふじ)河畔の人・大生部多(おおうべのおお)が虫を祭ることを村里の人に勧め、これは常世(とこよ)の神であり、祭るものは富みと寿を致すと称した。河勝は民が惑わされるのを憎み、大生部多を討った。」
と記されています。
 
『上宮聖徳太子伝補闕記』には、
用明天皇2年(587)に起きた丁未(ていび)の乱(蘇我x物部戦争)では、秦河勝は軍.政人として厩戸皇子を守護し、軍の敗色が濃くなると、ヌリデの木を刻み、四天王像をつくり、みずから四天王の屋を放って物部守屋を倒し、進んでその頭を切った。
そして玉造の東に四天王寺を営み、官位十二階が制定されたとき、第3位の大仁位に叙せられたと記されている。
 
秦楽寺の創建年代は647年、秦河勝となっていますが、丁未の乱から60年、実際は河勝の孫だといわれます。
(因に、法隆寺の創建は607年、或いは601年、同町法貴寺の創建は615年、広隆寺の前身蜂岡寺は603年となっていますので、蜂岡寺の創建年代には疑問が生じます(創建は630年との説も))
ただ、古代、中世は父、祖父など支族の有力者の名前をそのまま使うことも多かったようです。
 
金春禅竹が『明宿集』の中で、「秦河勝ノ御子三人、一人ニワ武ヲ伝エ、一人ニワ伶人ヲ伝エ、一人ニワ猿楽ヲ伝フ。武芸ヲ伝エ給フ子孫、今ノ大和ノ長谷川党コレナリ。」と記している事から。
河勝が、三人の子供にそれぞれ武、楽、猿楽の集団を作らせたのが事実であれば、此処は筋交い道(太子道)の要所の一つ、楽人集団を住まわせ、要人の饗応に充てたとしてもおかしくは有りません。

法貴寺周辺の長谷川党が武人集団の後継であり、その近くに舞の庄の地が有ったことも確認されています。
 
梵字(ぼんじ)の池
秦楽寺に残る弘法大師伝説
『むかし、弘法大師が高野山から京都の東寺へ通われたとき、田原本町秦庄(はたのしょう)の秦楽寺(じんらくじ)に泊まられて、池のほとりの部屋で『三教指帰(さんごうしいき)』という本をお書きになりました。そのときカエルの声がやかましくて邪魔になるので、大師はおしかりになりました。それ以来カエルは池の中で鳴かなくなりました。
そこで大師は、池をア字の梵字形でつくらせ、池の中に「三教島」をつくりました。バンの梵字池は百済寺(くだらじ)の境内に掘らせました。ウンの梵字池は与楽寺(よらくじ)の境内に掘らせました。百済寺と与楽寺はいまの広陵町にあります。これらの池はア・バン・ウンの三池といって有名で、ともに三教指帰を説き述べられています。
ところが二百年ほど前に百済寺の住職が、この寺の領主多武峰(とうのみね)寺の三坊にお願いして百済寺の梵字池のバンの字は、頭に「、」が抜けていたので「、」を付けて誤りを正すことをゆるされたといいます。「弘法も筆の誤り」とか。
アは胎蔵界(たいぞうかい)、バンは金剛界(こんごうかい)、ウンは蘇悉地(そしつち)のことです。

弘法大師はいまの田原本町千代(ちしろ)の勝楽寺(しょうらくじ)(現在は本光明寺(ほんこうみょうじ)に自分で四十二体の像を刻み、寺を建て、境内に梵字池をつくり、秦楽寺のア字池、与楽寺のウン池とともに大和の三楽の池と言っています。』
 
本堂の前にある阿字池は、以前は水も澄み、「中国蓮」の花が一斉に咲き誇って居ましたが、ミドリガメの食害にあったのか、今はよどんだ水面を見せています。
 
弘法大師が『三教指帰』を執筆中にカエルの鳴き声がけたたましかったので、これを叱ったことから、それ以来この地ではカエルの声は聞かれないという伝説も、今は周りの田圃でうるさい位だそうです。
 
少し矛盾した話ですが、『三教指帰』が書かれたのは延暦16年(797年)12月1日。
しかし、寺伝では大同2年(807年)に唐から帰国した空海がこの寺で『三教指帰』(さんごうしいき)を著したと伝えられています。

 
秦楽寺城
戦国時代、秦楽寺を中心に秦楽寺城が築かれ、周辺一帯は戦火の坩堝と化しました。元亀元年(1570)松永久秀が十市郡に進出して大和を平定したとき、秦楽寺も兵火で焼かれてしまい、宝暦9年(1759)恵海和尚が堂宇を再建、寺では恵海和尚を中興の祖としています。
秦楽寺城は、大和の平野部に数多く残る環濠集落の城砦化されたもので、秦楽寺境内を中心とする環濠集落の一つです。
 現在、城郭の形跡は殆どありませんが、境内の北側に一部分だけ僅かにその形跡をとどめています。
 
秦楽寺本堂


本堂正面中央に厨子が置かれ、その中に本尊の千手観音像を安置。
本尊の前面左右に聖徳太子像と秦河勝像が置かれています。
厨子の左手に、弘法大師の座像と中興の祖とされる恵海和尚像の像。
厨子の右手に、地蔵菩薩像と大日如来像。
 

 
 
阿字池の横に、道路に面して春日神社の石碑と鳥居が立っている。もともと神仏習合の頃はこの神社も秦楽寺の境内の一部だったはずだ。
秦楽寺が秦河勝の創建に関わる寺院なら、同じ境内に祭る神社は、古代豪族・秦氏の守り神である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)を祭る稲荷社であって然るべきだが、そうはなっていない。春日神社は天児屋根命(あめのこやねのみこと)、すなわち中臣氏の藤原氏の祖先神を祭っている。奈良市にある春日大社が有名だが、春日神社は全国に3100社あるという。

この神社の興味深いのは、拝殿の前に立つと目の前に二つの鳥居がある。左の朱塗りの鳥居は春日神社のもの、右の石の鳥居は笠縫神社のものであるという。春日神社の中央の社殿は春日神社と厳島神社が相殿となっている。向かって右には小さな祠の八阪神社が、左には稲荷神社がそれぞれ建っている。

一方、笠縫神社は驚くほど小さい祠だが、天照大神を祭っている。『日本書紀』の崇神記に有名な話が記載されている。第10代崇神天皇の6年、皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託して天照大神を宮中から大和の笠縫邑(かさぬいむら)に遷し、その場所に堅固な石の神籬を造り祀ったという。第11代垂仁天皇の25年になって、天照大神を豊鍬入姫命から離して倭姫命(やまとひめのみこと)に託すことになった。倭姫命は天照大神を鎮座させる場所をあちこち探したが、最終的に大御神の希望を入れて、伊勢国の度会宮に遷したという。
最初に天照大神を遷座した大和の笠縫邑は、現在桧原神社が鎮座する「三輪の檜原」あたりに比定されているが、その他にもさまざまな説があるようだ。秦楽寺の境内に笠縫神社があることは、あるいはこの付近にも笠つくりを専業とした笠縫氏が居住していた時代があったのだろうか。大阪市東成区深江南にある深江稲荷神社には、付近の深江は笠縫氏の居住地で、大和の笠縫邑から移住してきた、との伝承があるという。
 秦氏の居住地が寺のある秦庄で、猿楽大和四座の金春屋敷が秦楽寺門前にあったとか。 また、金春氏が秦河勝の末裔と称している。 
 
 
二つの鳥居
境内の東南の隅に少し大きな石の鳥居が建ち、鳥居から北を向いては居ると右手、阿字池の東側、唐門から本堂と直角に交わる形で、境内外の道路に背面して春日神社と笠縫神社の石と朱塗りの二つの鳥居が建っています。
左の朱塗りの鳥居は春日神社のもの、右の石の鳥居は笠縫神社のものです。
 
 
春日神社
春日神社の中央の社殿は春日神社(天児屋根命(あめのこやねのみこと)藤原氏の祖先神)と厳島神社が相殿、右には小さな祠の八阪神社、左には稲荷神社(古代豪族・秦氏の守り神である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ))が配されています。
 
笠縫神社
春日神社の横に並び立つのが石の鳥居の笠縫神社。
『日本書紀』の崇神記に記載されている、第10代崇神天皇の6年、皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託して天照大神を宮中から大和の笠縫邑(かさぬいむら)に遷し、その場所に堅固な石の神籬を造り祀ったという場所に批定されます。
 
元伊勢と言われる所は沢山有りますが、此処もその候補地の一つです。
 
「第10代崇神天皇の6年、皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託して天照大神を宮中から大和の笠縫邑(かさぬいむら)に遷し、その場所に堅固な石の神籬を造り祀ったという。第11代垂仁天皇の25年になって、天照大神を豊鍬入姫命から離して倭姫命(やまとひめのみこと)に託すことになった。倭姫命は天照大神を鎮座させる場所をあちこち探したが、最終的に大御神の希望を入れて、伊勢国の度会宮に遷したという。」

池の反対側に「歯竜王神」を祀る館が有りますが、竜王は八大竜王以外にも1千前後あるとか、当然「歯」に関わる神様でしょうが、その由緒のほどは詳らかでは有りません。