「矢部(やべ)」
多の北、薬王寺、新木から南、飛鳥川の西岸、田原本駅から丁度南西に戸数110軒余りの矢部の環濠集落が有ります。
ここの矢部は古来の矢作り部からの説もありますが、、藤原家の荘園の頃、東大寺尼仏妙領の夜部との領地交換に寄り東大寺領の夜部に成り、その後興福寺領となり変遷する内に何時か夜部から矢部に成ったのが本当の理由です。
href="http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/9b/8c738474ef7799b00f16b39123db92ce.jpg">
集落のほぼ中央に少し広い敷地の杵都伎神社(祭神須狭廼男尊、大名持尊)が有り、奥に寛永十二年創建と伝えられる願立寺が顔をのぞかせます。
更に境内の北側に観音堂と毘沙門堂が並び立ち、一つの景観を呈して居ます。
観音堂には、平安時代中期高さ168㎝の十一面観音立像が納められ、隣りの毘沙門堂には、41センチ、江戸後期の毘沙門さん。
江戸時代まではここに大和33箇所霊場9番札所の観音寺が有ったとされます。
この杵都伎神社から少し西に融通念仏宗の安楽寺が有ります。
本尊の阿弥陀如来座像は江戸時代初期ですが、室町時代前期の良忍上人像と、南北朝時代の国重文絹本着色融通念仏絵図が残って居ます。
多の北、薬王寺、新木から南、飛鳥川の西岸、田原本駅から丁度南西に戸数110軒余りの矢部の環濠集落が有ります。
ここの矢部は古来の矢作り部からの説もありますが、、藤原家の荘園の頃、東大寺尼仏妙領の夜部との領地交換に寄り東大寺領の夜部に成り、その後興福寺領となり変遷する内に何時か夜部から矢部に成ったのが本当の理由です。
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集落のほぼ中央に少し広い敷地の杵都伎神社(祭神須狭廼男尊、大名持尊)が有り、奥に寛永十二年創建と伝えられる願立寺が顔をのぞかせます。
更に境内の北側に観音堂と毘沙門堂が並び立ち、一つの景観を呈して居ます。
観音堂には、平安時代中期高さ168㎝の十一面観音立像が納められ、隣りの毘沙門堂には、41センチ、江戸後期の毘沙門さん。
江戸時代まではここに大和33箇所霊場9番札所の観音寺が有ったとされます。
この杵都伎神社から少し西に融通念仏宗の安楽寺が有ります。
本尊の阿弥陀如来座像は江戸時代初期ですが、室町時代前期の良忍上人像と、南北朝時代の国重文絹本着色融通念仏絵図が残って居ます。