桃おやじの歴史散歩

我が町は 記紀に記載の七代孝霊天皇黒田廬戸宮の比定地。
古代史を中心に、奈良の観光や地域情報を気ままに書いています。

「矢部」 奈良県田原本町矢部

2017-08-25 23:10:37 | 地域
「矢部(やべ)」
 
多の北、薬王寺、新木から南、飛鳥川の西岸、田原本駅から丁度南西に戸数110軒余りの矢部の環濠集落が有ります。

ここの矢部は古来の矢作り部からの説もありますが、、藤原家の荘園の頃、東大寺尼仏妙領の夜部との領地交換に寄り東大寺領の夜部に成り、その後興福寺領となり変遷する内に何時か夜部から矢部に成ったのが本当の理由です。
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集落のほぼ中央に少し広い敷地の杵都伎神社(祭神須狭廼男尊、大名持尊)が有り、奥に寛永十二年創建と伝えられる願立寺が顔をのぞかせます。

更に境内の北側に観音堂と毘沙門堂が並び立ち、一つの景観を呈して居ます。
観音堂には、平安時代中期高さ168㎝の十一面観音立像が納められ、隣りの毘沙門堂には、41センチ、江戸後期の毘沙門さん。
江戸時代まではここに大和33箇所霊場9番札所の観音寺が有ったとされます。

この杵都伎神社から少し西に融通念仏宗の安楽寺が有ります。
本尊の阿弥陀如来座像は江戸時代初期ですが、室町時代前期の良忍上人像と、南北朝時代の国重文絹本着色融通念仏絵図が残って居ます。

「新木(にき)」  奈良県田原本町新木

2017-08-25 09:03:17 | 地域
「新木(にき)」

多、宮森の北、田原本旧町に近い所、飛鳥川を挟んで矢部の東側。
田原本の市街地の南西 直ぐ近くに新木(にき)という町民でさえ余り知らない入り込んだ所に100軒に満たない集落が有ります。

しかし、由緒は古く、多が飦富と表した頃、飦富を饒と表し、饒をニギ→ニキ→新木と表示する様に成ったとされます。

又、伊勢遷宮の際の元伊勢、笠縫邑にも批定され集落の西の端、飛鳥川畔に笠縫さん(姫大神)の石碑だけが今も残ります。

太子道(筋交い道)の後や条里制の後なども見受けられ、多神社の東西南北四つ鳥居の一つ北の大鳥居あとが残って、古代の様子を良く残す地域です。