暇なざれごと

ごくごく日常の話とか色々ありのノージャンルの戯言(?)日記です。

生命の境界線。

2009年06月23日 23時29分29秒 | Weblog
先日、臓器移植法の改正案が衆議院で可決されました。

・脳死を人の死としてみなすこと
・15歳以下の移植提供の禁止撤廃

この二つがメインとなります。
今回の背景には、WHOによる移植による渡航をほぼ禁止するという
話があるからというのがあるのでしょう。
今現状の状況では、幼い子達の国内での移植は場所によっては、
不可能です。

このことにより、この話を喜ぶ人も多いと思います。
また反対の人がいるのも真理。

私の考えでは、「これが正解」というのがないと考えです。
お互いの立場になって考えれば、双方の考えを持つと思うからです。

ただ、私は以前あるドキュメントを見ました。
移植手術のために渡航する女性のものでした。
女性が移植手術する為の色々な葛藤などが、映し出されていたの
です。
このケースは成人していて「自分の意思」の元にすべてを承知で
行動しているというのが、子供におけるケースと違うのですが。
ここでは移植におけるリスクについても触れられていました。

この時私は初めて、「移植=自由」ではないという現実を知りました。

まず好きなものは、自由に食べれないということ。
刺身などの生ものは、免疫などが下がるので食べれなくなるそうです。
その方は刺身が好きでしたが、手術後は食べれないというので、
その前にまぐろ丼を食べていました。

もちろん場合によっては激しい運動はムリでしょうし、「移植」なので
その臓器は「異物」として拒絶反応を起こします。
そのために「免疫抑制剤」を飲み続けなければなりません。
免疫抑制剤って言うのが、さらに厄介者でして。
これを飲むと本来では防げれる病原菌ですら、大事になる可能性が・・・・・・。
しかも、これをずっと飲まないといけません。
副作用もあるし、癌の率も上がりやすくなるというのも聞いた事あります。

さらにいただいた臓器にも「寿命」があり、それがいつ尽きるか判らないのです。
(5年~10年ぐらいらしいです。)
そして、また運良くすぐに移植手術ができるものではなのです。

僅かながらの自由のために、色々な犠牲を払わないといけなくなるのです。

私の認識では、移植とは「自由がある長期の闘病生活」です。
成人なら納得して行なうので良いかも知れません。

しかし、子供はどうなんでしょう?

リスクを理解できないまま、移植手術を行なうのです。
無事に大きくなって、自分のしていることが生きるためにすることとはいえ、普通の子と違うことにはそのうち気づくでしょうし、その時親は上手く説得できるかにかかります。
また赤ちゃんのうちに行なわれる場合、また同じように移植手術を待つことになると思うのです。

それが本当にその子にとって「幸せ」なのでしょうか?
本人で無いとわからないでしょうけど、すべてがそうでないはず。
生かすことが場合によって、親のエゴになるのではないのかって思います。

私はまだ結婚していないし、子供いません。
だから、このような考えをしてしまうのかも知れません。

以前、私もドナーカードで考えたとき母から反対されました。
母は自分の父親(私でいう祖父)を亡くなったとき、病理解剖されて、その後の姿を葬式で見ているので。
「自分の娘がああなるのは嫌だ」と言われました。
それもあり、今現在いまだにドナーカードは持っていません。

今回の脳死はあくまで法律上であり、「すべてにおける死はその個人」であると考えます。
なので、「脳死を人の死」という言葉に変に過敏になり過ぎないことも大切であります。

自分おける「死」とはなんぞやの考えをもつことが一番大切だと思います。