風のよーにすぎてく毎日

病気と不健康のはざまで実益ゼロ道楽趣味生活。

認知症予防

2010-04-13 | 病気と健康


工事中の秋葉原駅前

父が、逝って2カ月になる。
フロイトは「喪の仕事」で、対象喪失の悲哀は、3カ月すぎからじょじょに回復していくと言ったが、
あたり!!

父の介護がはじまったときには、私を信用しない父のこと嫌悪し大嫌いだったが、自分が知っていた老いてなかった頃の父は、そうではなかった。

私は、老いてから変化した父の性癖は、ほんとの姿で、今まで自分がしらなかっただけだとおもったのだが、逆だった。

高齢のせいで、変わった父を、気づいてやれなかった。
今さら気づくなんて、とりかえしつかない。

ホームに入居後は、元の穏やかでやさしい父にもどり、疑いもおさまった。
守るもの、隠すものが、なくなったからだ。

父は、まっとうな認知症症状ではなかったが、高齢の認知障害は、起きてた。
新しいことが覚えられず、記憶もながつづきしなかった。
わたしのことは、見分けられた。

ながくなるので、はしょるが、父なくなって、この本、図書館の新刊コーナーで、見つけて、借りてきて読んだ。

人間の体の仕組みが、よくわかった。
老いた親を、理解せず優しくしてやれなかった自分を深く悔やむ。

この本によるとこういうことだ。表現は、自分なりにしている。本の引用ではない。

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ひとは(ひとでなくても生き物すべてだが)、細胞の死と再生を繰り返して、生き延びているのだが、シトの再生回数は、最初から50回と決まっている。

この回数は、生物により異なる。(前にデスカバリーチャンネルでもやってたので、それの知識と混ぜてある。)

細胞は、ずっと同じ状態で、再生されるのでなく、コピーは、元のオリジナルとは、次第にかけ離れていく。それがすなわち老化で、細胞が、再生途中で、あちこちいたんだりこわれたりボロボロになっていくわけだ。

再生されず一生使いつづけていく細胞(器官か?)もあり、神経、脳の血管、心臓などがそれ。(今、本を参照してないので、てきとー。違っているとこもあるかも。)

歯も再生されないよね。
再生してほしいものの一つだが。

で、長生きしていけば、ゆきつくとこは、脳の老化による認知症。
だれにもさけられない。

ただ老化を早めるか遅くさせるかの違いはある。

ひとが生きる能力は、140歳までと、デスカバリーチャンネルでは、言ってたと思うが、たとえ生きる能力ぎりぎりまで行ったとしてもほんとに生きてるとは言えない状態になること間違いなし。

だから、もうしょーがないのだな、限界なんだなと、最近ではやっと思えるようになった。
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認知症予防学 (学びやぶっく)
山口 登
明治書院

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父は、生きたがり屋だった。
健康の本、沢山読み、サプリをいろいろのみ、つい数年前まで運動機具もいろいろ揃えてやってた。
狭心症、軽い糖尿などになってからは、薬は、きっちり飲んでいた。

高齢になってから早く死にたいと、口癖していた母が薬をさぼってたのとは、大違いだった。

わたしには、マネできないし、するきもないから、父の年齢までは、きっと生きれない。

酸素マスクをハメ、いつ危篤になるかの瀬戸際なのに
「いつ帰れるって?」と息たえだえにきき

ナースが、父が酸素マスクはずすので腕をベットにつないでると言ってたので
「酸素マスクはずすと死んじゃうんだからね。死んでもいいの?」と聞くと
「死にたくない。」と言うのだった。

「うわ。死ぬなんて、家族じゃないと言えない言葉ねえ。」と近くにいた看護士さんが笑った。

わたしは、少し驚いた。
父さん、どんな姿になっても、生きてたいんだーと思った。
それに、こんな状態になっても、「もうおわりだな。」と思ったりしてないんだと思った。

1カ月近くねたきりの入院だったので
「退院しても、もうねたきりだね。」と言ったのだが、それでも死ぬよりは生きていたと思ってたのだろう。

入院中、文藝春秋を買ってきてというので、届けたが、読める筈ないと思った。

父の荷物をひきあげるとき、その雑誌があり、すこしページをおったとこもあり、いくらかは読めたのかと思った。

キャラメルと酒悦の福神漬けも買ってきてと言ったので、おもゆをやっとすすってて、何かんがえてんだ?と思ったが、買って用意はしていた。
「ごはんがおいしくない。福神漬けでもあれば゛おいしく食べれると思う。」と言った。

それは、届けなかったのだが、あとに残ったそれをみると、悲しくなる。

もう食べる日は、こないし、食べたいというひともいなくなった。

明け方危篤と電話があったとき、電車なくタクシーでかけつけながら、足腰たたず、オムツをしてても、まだ生きていたかった父が、死んでしまうなんて、と胸がいたんだ。

嘘のようなきがした。

父は、きれいな静かな顔で眠っていた。
最後に「おかあさーん」と呼んだと看護士が言った。

彼女は、父が自分の母親を呼んだと思ったようだったが、妻を呼んだのだというのは、わたしには、わかった。
父は、幼い頃に、母をなくし、自分の妻が大好きだった。

それから、今まで、父と母の夢を沢山みた。




母は、死にたいと常々言っていたので、ホントに死んだ時には、希望がかなってそれでよかったのだと、ずいぶん後になってからは思うことができたが、「死にたくない。死んだらつまんないよ。」と言ってた父が、死んでしまうと、なんだか納得できない。

物を捨てたがらない父は、遺品整理したとき、わたしが小学校1年のときの、ぼろぼろの国語の教科書と、高校の薄汚れてきたない教科書(生物だったきがしたが、なぜか覚えてない。)を保存してた。小学生の書き方も。わたしが描いた絵も沢山保管してた。
とっておこうかと少し迷ったが、結局捨てた。

あとから、せめて写真でもとっておけばよかったなと悔やんだ。

父が書いたいろいろなものも、すでに捨てていた。
読みもしないで。
父はなんでも記録していた。

一時、仏像彫刻を習いにいって、試作品を沢山ほっていたのだが、それも少し迷ったのだが、捨てた。

これもひとつくらいは、保管しておけばよかったと今は思うし、写真にだけでもと思う。

でもまあ、わたしが死ねば、廃棄だ。結局のところ。