昨日まであったことがあたり前じゃなくなる。
昨日までいた人が忽然といなくなる。
失うということは、執拗なまでに私の胸を締めつけてくる。
つらく悲しく、耐え忍ぶ時間と、今でも信じられない気持ちが交錯する。
出逢ってきた時間は短くとも、〝この人は!〟と互いに感じる感覚には時間は差ほど必要としないもの。
だから、それほどそこまで感動できる出逢いがいつもある訳じゃないから、失ったときの衝撃は強い。
やがて私もいなくなる。
そのとき、こんな気持ちで泣いてくれる人がどれほどいてくれるのだろう。
今まで出逢ってきた多くの人や場面を思い出す。
その一つひとつが私を支え、育ててくださった。良いことも悪いことも、好きな人も苦手な人も……すべて、今の私となるために大切なもの。
この今の辛さも悲しみも、未来の私のやさしさとなると言い聞かせる。必ずそうなる。。。
だから、失ったそのことだけじゃなく、それほど辛く思うほど、その人たちが与えてくれた喜びの時間・ケンカした時間・充実の時間、悩んできた時間・笑いあった時間を思い出そう。
その時間は紛れもなく、このタイミングで惹かれあい、心を共有しあえた者同士の宝だから。
ずっと、私の感性の中で生きていく。
そして、私がやがていなくなっても、誰かの感性の中に生かさせて欲しいと願い、今を生きたい。
昨日までいた人が忽然といなくなる。
失うということは、執拗なまでに私の胸を締めつけてくる。
つらく悲しく、耐え忍ぶ時間と、今でも信じられない気持ちが交錯する。
出逢ってきた時間は短くとも、〝この人は!〟と互いに感じる感覚には時間は差ほど必要としないもの。
だから、それほどそこまで感動できる出逢いがいつもある訳じゃないから、失ったときの衝撃は強い。
やがて私もいなくなる。
そのとき、こんな気持ちで泣いてくれる人がどれほどいてくれるのだろう。
今まで出逢ってきた多くの人や場面を思い出す。
その一つひとつが私を支え、育ててくださった。良いことも悪いことも、好きな人も苦手な人も……すべて、今の私となるために大切なもの。
この今の辛さも悲しみも、未来の私のやさしさとなると言い聞かせる。必ずそうなる。。。
だから、失ったそのことだけじゃなく、それほど辛く思うほど、その人たちが与えてくれた喜びの時間・ケンカした時間・充実の時間、悩んできた時間・笑いあった時間を思い出そう。
その時間は紛れもなく、このタイミングで惹かれあい、心を共有しあえた者同士の宝だから。
ずっと、私の感性の中で生きていく。
そして、私がやがていなくなっても、誰かの感性の中に生かさせて欲しいと願い、今を生きたい。
Don't hesitate to seek help me if you need anything at all.
お疲れさま。仮設住宅の生活も一年が経過した。2011.3.11我々は『諸行無常』について思い知らされた。そして、先週もかけがえのない仲間を失い、とどまる事がない。『生・老・病・死』が人の常ならば、『愛別離苦』も生きる上では必ずやってくる。大人達は精神をコントロールするが、遺された三人の息子達が不憫でならない。これ以上彼等に試練を与えるなと願うのだった。
神仏を尊び、神仏に頼らず。
宮本武蔵と無頼派好きの俺は、今までこの考え方が基で変わらんだろう。昨年、住職・副住職と出逢い、西和賀の地に刺激を受けた。最近は偶然なのだが、仏教の本を手にして『仏陀の教え』を読んでいる。前述の言葉(生老病死、愛別離苦)がそうである。釈迦苦行像の写真はまるで痩せこけた今の俺のようだ。被災後は特に住む所や、持ち物にこだわらなくなった。投稿する行為は自分の考えを整理したり、瞑想していると言える。振り返るなら、今までの内容は全てそうではないか。コレも縁起か。因果なのか。修行する為に生を受けたのか。読み込むたびに考え込んでしまう。昔、京都に滞在した際には偶然『比叡山延暦寺根本中堂』を訪れている。その時は其処がどういう所か知らなかったがね。今と成っては不思議なものだ。
お疲れさま。
いいですね、私も同じくそう思っています。
私たちが今、深い悲しみと共に生きていられるのはまさに、私たちの業縁なのですね。
よろしくお願いいたします。