宣セーショナル

宣承をひらく

マニュアルには決して描けない大切なもの

2017-03-31 21:40:41 | 日記
怒涛の今年度もいよいよ今日で終わった。
精神的に、今までで一番苦しかった年。。。一時は強烈な後ろ向きというか下向きな時間を送っていたけれど、それがあったから、今は前を、上を向けるのだと自覚している。

今月も終盤に来て、お看取りがあった。
ご家族付き添って最後をお見送り下さった。

職員のことをとてもとても褒められた。
夜間帯、傍に一人でついていらした息子さんに、タイミングよく声を掛けに訪室してくれた夜勤職員たちのこと。また、夜勤の休憩時間を使って、


『お疲れでしょう?一人で傍にいたら不安ですよね。少しお休みなりますか?僕、休憩時間なので僕が傍に居ますから。』


こんなことをサラッと言える職員がいてくれて。これは光寿苑のマニュアルにはない。もちろん、休憩時間は休んでいいのだ。けれど、こういった心が、姿勢が、ご本人にもご家族にも届き、ずっと残っていくのだ。

息子さんの奥様がおっしゃった。


『ここの看取りはすごい。みんな、職員さん大したもんだね。
私の職場の看取りとはあまりにも差があって驚いた。恥ずかしいけど、叶わないくらい、気持ちが支えられてだもの。ありがどねぇ…。』


なんてありがたい言葉だろう。身も心も震えた。最悪にも感じた事あった一年が、嘘のように晴れ渡った感覚だった。

うちの職員はすごい。

同じように、この冬、看取らせていただいたおばあちゃんの時もそうだった。
その時の看取りは、告知から3日、あっという間の最後であり、家で看取りたいという希望も叶えて差し上げられなかったにも関わらず、その孫娘さんがおばあちゃんご逝去から一ヵ月経った頃、こうおっしゃった。


『結果的に光寿苑さんでの看取りになったけど、私は本当に満足しました。家で看取っているようにおばあちゃん安らかに安心した表情だった。みんなで傍に寄り添えて。
光寿苑の職員さんたち、何てステキなんだろうって。一人ひとりが程よく丁寧に関わって下さって。妹も同じように感じたみたいで。理想の看取りでした。
だから私、もし光寿苑さんが宜しければですけど、その一員に入れて頂きたいって思ったんです。おばあちゃんが、光寿苑さんと私を引き寄せてくれたんじゃないかなぁって。お邪魔にならなければ、一員にさせていただけないでしょうか。』


その孫娘さんが、看護師として今週から勤め始めてくれている。

あたり前にやってきたこと。積み重ねてきたこと。マニュアルや指針には描かれていない人間力がここに存在していて、人の心に伝わっていることに、改めて、大切にすべきものを明確に見た感覚でいる。

光寿苑はすごい。お年寄りに導かれて、光寿苑の職員は輝ける。

自分たちの足元から踏み固めて、また歩き始めよう。

おかげさまです。


【追伸】どうでしょうか。一緒に光寿苑で働いてみませんか。3年でいいんです。特別な空間での3年の人生経験と思って、この町に来ませんか?一緒に生きてみませんか?
重いですか…(笑)

ご縁というつぼみ

2017-03-24 08:19:47 | 日記
人は出会うことでご縁を感じたり、何度も偶然が重なり会うことがあると、運命とまで言う人も世の中多い。

けれど、会わないご縁、すれ違うというのもまたご縁。

何度も偶然が重なり、自分の気の合う人にタイミングよく会うことがあれば、『これも何かのご縁だねぇ。』と素直に喜んでいい。

逆に、すれ違ったり、まったくタイミングが合わずしばらく会わなかったとしても、それもそれぞれのご縁。

ご縁は、自分の都合や考えで充てつけるものではなく、自分を取り巻くすべてのものがご縁。良い時も悪い時も、必ず自分に何かのヒントを与え続けてくれるもの。



花が咲かない時は、根を下へ下へおろしてください。そうすると、今度咲く花はもっとキレイな花を咲かせる。

渡辺和子さんの講演でのこの言葉の奥深くにあるものを味わいつつ、今日をスタート。

私をとりまく無数のご縁は、私のつぼみなんだと思う。

おかげさまです。。。

それぞれの卒業

2017-03-22 22:10:36 | 日記
ちょっと時間が経ちましたが、長女が志望の高校に合格し、晴れての卒業となりました。ホッとしましたし、卒業式は泣いたなぁ。。。
担任の先生の演出とは言え、父と母それぞれに宛てた手紙を控室で開けて読んでからの卒業式。。。泣かない訳がない。。。

そして、小学校の方のPTA会長の任も、卒業式で基本的には無事終えられて。先代からの課題となっていた部分の改革も無事間に合い、後は総会と送別会を残すのみとなりました。会長の任も卒業です。

いよいよ卒業。

長女は私の母校へ…。うれしい気持ちと寂しい気持ちと半々ですが、時間は前に進んでいく。

愛しみつつ、次の扉を開けましょう。

おかげさま。。。

2017.3.11

2017-03-12 18:38:02 | 日記
おかげさま。





昨日は3.11の7回忌。

有志と共に、沿岸へ走る。

女川町の沿岸で14時46分、黙とうに併せて勤行。晴れた空、穏やかな海を前に大事な時間をむかえる。その周りにも、きっと地元の子たちだろう、花を手向けながら合掌なさっていた姿にグッと迫るものを感じた。

そして福島へ。

震災の翌年から深くつながってきた佐藤家に出迎えられ、いや、大歓迎受けながら3.11を過ごす。

3.11

あの大震災に対して、「もういいんじゃない?」という人は多くなってきている。それはそれで仕方ないけれど、私はそうはならない。

自分のこととして、今一度、向き合った時間。

ここからスタートするんだ。

おかげさまです。

「希望の一服」伝説。

2017-03-10 23:05:24 | 日記
先日逝ってしまったもう一人の大先輩Iさんは、これまた不屈の精神力でいくつも抱えた癌と一緒に生きていらした人だ。

Iさんは、光寿苑の家族会が発足して初代の会長だった。亡き私の父であり初代苑長だった受宣さんと喧嘩もしたりワイワイ力を併せたりしながら、どこにもないような家族会の礎を築きあげて下さったお一人だった。

私は京都から1999年に岩手に帰り光寿苑に勤め始めたのだが、まぁ、超歓迎と言うか期待度の高過ぎると言うか、受宣の子というだけで過剰な負荷を掛けられたのも事実だった。家族会の皆さんも当にそれだった。まぁ、私のほうは置いておとくして、Iさんも受宣時代からの家族会精神を死守しようと必死でいらした。それだけに、そうは応えられないジレンマと、これから目指すべき方向性のくい違いで、よく酒が入っては口論になったものだった。
(若かりし頃の私は、意見をぶつけあってなんぼ…みたいな荒々しさがあって、本当に先輩たちも怒らせてしまっていましたね、失礼ばかりすみません。)

Iさんとの思い出の一つに、当会で毎月発行している広報紙『まんさく』がある。

昭和の時代には、初代まんさくが不定期ながら70号くらいまで発行されていたらしいのだが、いつの頃から途絶えて久しく、私が光寿苑に就職した1999年4月の家族会総会でIさんがそのことについてマイクをとったのだった。


『以前、光寿苑では施設の広報紙まんさくが発行されていましたが、久しく出されておりません。家族会としても、地域に根差した光寿苑をもっと町の人たちに知って頂きたい思いもあり、何とか広報紙の復刊をお願いしたい。これは切なる願いであります!』


ちから強く思いの詰まった声が場内に響き渡った。その当時、まだまだ何をして良いのやら何も身につけていなかったプレッシャーだけを身にまとった私には、願ってもない役目が巡ってきたのだと感じた瞬間だった。
すぐに取り掛からせて頂いた広報紙まんさくのリニューアル第1号は、1999年5月号から復活した。そこから毎月休むことなく、現在215号が来週刊行予定である。

Iさんとの思い出は、本当にがいっぱいある。
光寿苑の配食サービスの配達員や宿直も含め、随分と支えていただいた。家族会の活動では、なんやかんやで初代会長として最後までご尽力いただいた。
よく宴会の席では、初代会長から乾杯のご挨拶を…という流れが多かったわけで、その度に、


『えぇ~、初代というだけで、毎回この高いところからご挨拶させていただくのも恐縮でありますが、ご指名でございますので……』


というお馴染みのくだりから始まる、少しハニカミながらお話しになるIさんのあの空気感がとっても好きだった。

数年前に体調を崩され、殊に1年8ヵ月ほど前の癌告知と、余命2ヵ月の宣告は、私もショックだったのだから、ご本人もよっぽどショックだったことだろう。でも、余命2ヵ月をはるから超えて、あの告知よりも1年半以上も長く生きてくださった。

その秘訣を聴いた時、Iさんは光寿苑のショートステイを利用されていたけれど、『タバコだべなぁ~』とおっしゃったあのニンマリと微笑まれたお顔が忘れられない。


『オレ、後余命間もない、末期の癌だって言われでよ、オレもいよいよここまでが…と゛思ったべった。ショックはショックだったな、やっぱり。でもその時よ、最後に一服だげさせて欲しいど思って、主治医さ聞いだべった。
〝先生、最後に一本だげタバゴ吸わせでもらえねべが!?〟
って聞いだのよ。そしたばよ、オレの主治医だば、〝良い〟ども〝悪い〟ども言わねのな!大した良い医者だど思ってよ(笑)。だがら、吸うごどにしたのよ♪ハハハッ。

んで、火っこ着けで恐る恐るだども吸ってみだべった。したばよ、吸えだったのな♪〝おぉ、吸える♪〟って思ったった。吸い終わったらよ、待で待で、後1本だげ吸って終わりにするべど思って、もう一本火着けで吸ったべった。…やっぱり吸えだったおんや!オレそれでよ、
〝おっ、吸える〟〝生ぎられる!〟ど思った訳よ。あれで、一本も吸ってダメだなんて言われだらよ、生きる意味もねぇもんな。あれは、〝希望の一服〟だったな♪ハハハハっ。』


そう言い放ち、笑いあったあの日。

最後の方は、もうそのタバコも禁止になっていたそうなのだが、最後となった日、会いに来てくれた孫娘さんに、〝何とか一本吸わせでけろ〟と頼み、最後の一服が叶ったのだと言う。それから数時間後の命終だったという話を、ご家族が嬉しそうにお話ししてくださったのだった。


最後までIさんらしく生き抜いたご生涯。ありがとうございました。おかげさまでした。

旅のお土産

2017-03-09 12:44:23 | 日記
そんな石巻への一人旅…丁度お昼時だったので食べられる場所を探した。しかし、火葬場の付近にはコンビニが一つあるだけ…。結局、ここで購入して車中でいただくことにした。

弁当とカップ麺などを購入。すると、
『お弁当温めますか?』
のコンビニならではの店員さんからの声掛け。お願いをすると、今度は、
『カップ麺、お湯入れますか?』
おっ!?ここはお湯まで入れて下さるのか?大抵は自分で入れる店ばかりだけれど…。しかしながら、時間も迫っていたのでそれはお断りしたが、とても気分が良かった。

車中で美味しく弁当をいただき、そのままゴミを捨てにもう一度、店前のごみ箱へ向かうと、先ほどレジで対応くださったおばちゃんがゴミの整理をしている最中だった。申し訳なくしつつゴミを『お願いします。』と渡すと、おばちゃん、こう話し掛けて下さった。

『あっ、先ほどはありがとうございましたぁ♪はい、いただきますねぇ。どうぞお気をつけてぇ…。』

笑顔でそう応えて下さった対応のすばらしさに、気持ちが軽くなる感じがした。

言えますかね?こんな言葉…
できますかね?こんな対応…

滞在時間は、この食事の時間も含めて小1時間。移動は5時間半。

けれど、健やかな時間にご縁いただきながら、『僕もやっぱりこういう人でありたい…』と思う。そしてこれは、大先輩が導いて下さったご縁。


ありがたい、旅のお土産。

おかげさまです。。。

約束

2017-03-08 12:55:22 | 日記
昨日、大事な先輩の火葬が2件重なった日だった。お二人は、全く別々の地域の方であるけれど、似ていたのは、飲みながらかなりの頻度で口論をした記憶。お二人とも大先輩なので、若僧の私が大変に生意気な話なのだが、毎回口論になるものの、次にお会いした時にはお互い、『この前は大変失礼しました。すんません。』等とスッキリしていたことが、本当にありがたかったし、嬉しい関係性だった。

お一人は地元・西和賀町、お一人は宮城県石巻市の方。西和賀町の大先輩についてはもう少し後でゆっくり書かせて頂くこととして、今回は石巻の大先輩について述べたい。

出逢いは、報恩講という浄土真宗のお寺が最も大切にしている親鸞聖人のご命日のお勤めの集いに、ご法話の講師として足を運ばせて頂いた2009年11月から始まった。3年契約といった感じで出向かせていただいていた。3年目の年には東日本大震災が発生し、こちらの檀家様も何十人と犠牲になられていた。あの日のことを思い出すと、涙がにじんでくる。

3年目の震災の年の講師が一応最終だったので、何か2011年11月の報恩講から帰るときには後ろ髪を引かれる感覚だった。それから2年が過ぎ、再びお声が掛かる。これまた3年契約的なやつだった。
大先輩も元々跡継ぎではなかったが、跡継ぎのご住職夫婦に先立たれたことにより、還暦過ぎてから坊さんになられた苦労人だった。酒を呑んでは、跡継ぎの問題や考え方の相違で、よく口論していた私たち。それでも毎年呼んで下さって。。。ありがたいことである。

震災後には、思うところあって、大先輩の娘さんがやはり坊さんになるために京都で勉強なさった。娘さんもお寺の生まれではないので、本当に一大決心だったことなのだ。
やれやれ跡継ぎもできて…という時に、去年、癌が発症し、激やせされた先輩がいた。体力的にも厳しくて、所々参詣されるような状態だったが、それでも気丈にご立派なお姿だった。

帰る直前、ガッチリ握手をした。

『来年の報恩講、また参ります。絶対お会いしましょう。』

と手を差し伸べると、

『おぉぉ、そうですね。必ず報恩講で会いましょう。』

と、目の奥は輝いていた先輩。
それだけに、今回の早かった別れはショックだった。息を引きとる2日前まで会話もしていたのだと。

石巻での火葬。私の家とでは往復5時間半かかる。夕方にも地元で予定が組まれていたため、火葬参列の小一時間だけの滞在だったが、移動時間も惜しいなんて微塵もなかった。

本葬は今月末。ここにも参詣したいし、11月の報恩講には必ず参りたい。
去年、必ず会いましょうと約束した私たちだから、きっと心の中で、あの場所で会えると感じている。

本当にお疲れさまでした。