宣セーショナル

宣承をひらく

話を聴くよりも心を聞くのだ

2009-08-30 13:14:09 | 日記
 昨日、つい最近知り合った悩める22歳の友が泊まりに来た。実は、先月も相談を受けていたのだが、またこうして来てくれることは嬉しい。遇うのはこれで3回目である。
 ただ、前回も彼に言ったのだが、

『貴方を助けてあげようとは思ってないからね。助けてあげたいけれど、助かる要素は、貴方自身の中にあるのだから…』

と念を押した。だから、いつも、アドバイス的なことはあまり言わない。むしろ、相手の話すことのもっと奥にあるものに耳を傾けていく。とにかく大事なのは、その人の話す内容よりももっと奥の『心』が何を語っているのか?である。
 とことん聞いてゆく。そうすると、心が和らいでいく人たちは大きく3パターンある。

 ①とにかく話を聞いてもらってスッキリするタイプの人
 ②話し続けるうちに、自分のモヤモヤや課題点が整理されていくタイプの人
 ③自分の言葉により、新たな物事の見方を発見していくタイプの人

 注目すべきは、③タイプの人だ。
 その人本人は、しゃべっている途中でも気づいていないことが多いが、悩み話をしていくと、その方の人間性や哲学みたいなものが出てくることがよくある。出てくる回数は個人差があるが、悩んで悩んで悩みぬいている人は、普段から自身の哲学を自然に磨いているのである。だから、ふとした瞬間に言葉の中にそれが出てくるのだ。

 要するに、それが出てくるまで、ジッと聴くのだ。そして、『聞』の字のように、心の門を開いてくれた瞬間に、きちんと耳を傾けていくのだ。そうして出てきた人間性や哲学を前に、その方の心の豊かさと深さをさり気なくお伝えするのである。
 すると、『えっ!?何で分かるの?』という表情をされたり言葉にされたりする。
 分かるも何も、その人自身の言葉として出てきたものを、少し表現や見方を変えて伝わるように言葉にしているに過ぎないのである。

 すべては、その人の中に元気になる要素で満ち溢れている。


 『傾聴から聞くということへのリレー』をする時間と余裕をいつも持っていたいものである。そう、彼との時間の中で教えられたのだった。

自然なものと人工的なもの~古きものと新しきもの

2009-08-29 09:25:22 | 日記
 職員旅行で宮城県に行ってきた。自然や動物達に触れ合う最高の癒しの時間を満喫してきたのだ。

 初日は、伊達政宗が若い頃過ごしたと言われる有備館という庭を観た。その後、五感で楽しむ感覚ミュージアムにいった。続いて、フェリーに乗っているかにエサをやりながら松島ヘ…。五大堂と瑞巌寺を拝観した。翌日は、岩手藤沢町にあるアーク牧場で昼食をとり、メインとなった岩手サファリパークで思いっきり動物達とたわむれてきた。

 どこも良かったのだが、旅行に行ったみんなが感じたこととしては、

『近代的なものよりも歴史のあるものの訴えてくるエネルギーが違う。』
そして、
『人工的なものよりも自然のものの方が、五感で感じることができて、ずっと癒される。』
ということだった。

 
 五感で感じるもの。それは、自然の力や歴史あるものに囲まれていることで、実は育てられている。普段は気づかないまま過ごしているけれど、こうやって短時間で相対的なものに触れられてハッと気づく。

 僕は、本当にすてきな土地で生かさせてもらっているんだなぁ。。。

『いのちの作法』がくれた宝物

2009-08-26 13:02:50 | 日記
 『いのちの作法』を観て、感動して光寿苑を訪れる方が毎月いらっしゃるのだが、その中で先月いらした方の話。

 その方、仮にAさんとしたい。Aさんは、子供さんと二人ではるばるいらした。実は、先方の法人内で、昨年、『いのちの作法』の鑑賞会が実施され、それから、その方の勤務先の法人から視察研修として30名もの方々が訪れていた。しかし、諸事情によりAさんは来られなかった。
『どうしても行きたい。』
という強い気持ちを持ち続けてくださり、先月実現したのである。

 来ることに、そこまでこだわった理由の中に、こんな話があった。

「『いのちの作法』を観た一人の入居者Sさんが、光寿苑さんをみて、『あそこの施設で死にたい。』と強く願っていたとのこと。『行かせて欲しい。』とよく言っていたが、その後、状態が悪くなり、行けなくなった。そこで、Aさんに、そのSさんが、『ぜひ行ってきて、伝えて欲しい。』といわれ、その後、ご逝去されてしまった。彼との約束を果たすべく、Aさんはいらしたのである。
 そして、Aさんは、Sさんの写真を取り出し、『光寿苑さんに来れたからね。』とやさしく写真のSさんに語りかけていた。」

 今、書き綴っているだけでもジーンとしてくる。
 こころを繋ぎ、同じ空の下、いのちが響きあっている感触を与えて頂けたのである。本当にありがたかった。一つの映画が、こんなすばらしいメッセージを運んできてくれる。計り知れないはたらきを感じているのだ。

 おかげさま。


 

もう一つ花巻東準決勝後の話

2009-08-25 12:10:18 | 日記
 試合後、中京大中京の監督さんがこわばった表情でお立ち台に立っていた。前の日、
『選抜で菊池くんを見たとき、こんな高校生がおるんだなと驚いて。また、きびきびしたよいチームで、前からぜひ対戦したかったチーム。』
とニコヤカに語っていた監督さんからは考えられないような雰囲気だった。
 すると開口一番、

『あちらはケガ人もいて、うちは五体満足でやらさせてもらってありがたかったです。何だか複雑な気持ちです。菊池くんが万全なら分からなかった。』

とおっしゃった言葉に涙が出た。すばらしい監督さんだと思った。続いて、相手ピッチャーの堂林くんも、

『菊池くんが、あんな身体なのに、マウンドに立ってくれて嬉しかったです。』

と温かい言葉。とてもうれしかったし、負けても良かったと言うくらい、精神的にも高いチームだったと。

 今年の甲子園。花巻東のおかげで、全国のすばらしい高校球児や監督さんたちの心に触れられた。今まで見過ごしていたんだよな。

 花巻東の皆さん、佐々木監督、本当におかげさま。


ありがとう花巻東

2009-08-24 18:28:53 | 日記
 やっぱり、柱がいないということは大きいことである。菊池くんだけのチームではないとは言え、大エースが不在のような状況では、どんな人たちだって尋常なわけないのである。『マウンドに最後までいられず、みんなに申し訳ない』と語った菊池くんの言葉が語ったとおりである。

 しかし、大きな魚は逃したものの、本当に最高の野球を見させてくれた。日本一のザ・高校野球で甲子園を賑わせてくれた。ありがとう。

 佐藤涼平くんや何人かの選手が、

『野球の取組む姿勢としては日本一になれた。』

と胸を張って語っていた姿に熱いものがこみ上げてきた。佐々木監督が常々言っていた志しが、見事に達成された証である。
 佐々木監督はいう。

『立派な野球選手を育てるのではなく、野球のできる立派な人間を育てる』

この野球哲学が、あきらめない花東野球を築き、『苦しい時こそ笑いあうチームメイト』を育て上げたのだと思う。

 心ある人としてグラウンドに立ち、春夏と勝ち続けてくれたおかげで、そんな志し高き花巻東高の人たちを多くの日本人が目撃できたことは、多大なる功績である。
 ただ勝つだけではなく、グラウンドの中でも外でもあらゆる場面での身の処し方にこだわり磨き続けた彼らに感謝したい。


 心と感動を取り戻させてくれて、ありがとう。おかげさま。

自分の話をすると…

2009-08-23 06:59:28 | 日記
 どんな人でも『自分の話をする』時がある。その中で、自分の話をして煙たがれるタイプの人と自分の話をしたらもっと聞きたくなるような人っている。何が違うのだろうか?

 一週間前、自分の話ばかりしてすっごい違和感を感じた人がいた。そしたら、僕だけじゃなくて傍にいた他の人も後から、
『あの人は、いっつも自分の話しかしないから…』
と口々に話していた。

 昨晩、サエのおばちゃんが信州から遊びに来てくれて、バーベキューしながらご自身の人生を語ってくれた。結構長い時間だったし、しかも死の話も含めた重たい内容だったのだが、『もっと聞きたい。』という気分だった。

 この両者の違いは一体何なのか?

 今のところ思うのは、深くていい話や失敗談だの笑える話、あるいは、触発されるような内容であればきっと聞きたくなるし、逆に本当に自分の自慢話的な話っちゅうのは、『うっとうしい!』となるのだろうと思う。

 それに併せて、しゃべり口調も勿論あるだろう。そしてそれ以前に、『この人の人生経験の話はおもしろい』『この人は自分の話しかしない』というそれぞれのイメージがついていれば、聞く方の気持ちのバリアも上がったり下がったりするだろうからね。

逆転の花巻東

2009-08-22 06:20:10 | 日記
 優勝後までは書くまいと思っていたけれど、大分明豊とのあの歴史的熱戦を後に書かないわけにはいかない胸中となった。…ので書きたい。

 あの試合、モンスター菊池投手がベンチに下がった時間帯の監督や選手のこわばった表情には、かなりやばいと感じながら見ていた。あの時点で4-1で勝っていたのだが、まるで負けているかのようなムード。甲子園にきて初めて、いつもの明るさや元気が、あの時間帯は全くなくなっていた。

 予想通りの展開。そして、痛恨の8回裏の逆転。『花東、これで終わってしまうんだな。菊池、もう見れないのか。。。』ガクッときた瞬間だった。あの時点でテレビをみるのをやめたという人がかなり居たと後で聞いた。
 あのような展開では、並みのチームならそのまま負けてしまうだろう。まして、相手ピッチャーに五回以降はほぼ打線は沈黙していたのだから。。。

 ところがところが、キャプテンから始まった怒涛の三連打で何と一挙に同点にしたではないか!そして、延長10回、激突して担架で運ばれた佐藤くんの魂を受けるように、今度はキャプテンで締める格好で勝ち越しタイムリー。涙が出そうになった。

 10回裏の守りでは、その佐藤くんが中々グラウンドに姿を見せずに心配したが、監督が状況を見に行こうとした瞬間に、満面の笑みで佐藤くんが出てきたではないか。しかも、全力疾走でセンターの守備位置に掛けていく姿に泣いてしまった。今、これを書いているだけで涙がまたでてしまった。。。
 あの瞬間、『勝った』と僕は感じた。

 菊池くんの身体の具合が心配だが、こんなムードと気持ちを持ったチームは、よく優勝するものだ。春よりもずっと一つになって逞しくなった花巻東。


 『あきらめない姿勢』は、多くの人に感動を与え続けている。しかも、逆転されたあの8回裏、ベンチの彼らは何と笑っていた。9回始まった時も、みんな笑っていた。実は、花巻東は、苦しい時、劣勢の時ほど彼らは敢えて声を出し笑いながらムードを高めるのだという。

 『苦しい時こそ笑って楽しむ』……僕が社会人になって忘れかけていた心、花巻東のみんなに教わった。すごいチームだ。興奮してまとまらない内容になってしまったが、優勝までには気持ちを整理しておこうと思う。

 さぁ、優勝だ!

要望と願いの違い

2009-08-21 10:25:13 | 日記
 現在の福祉サービスは、いかに利用者のニーズをつかみ提供できるか?その質と速度などが重要視されている。
 ニーズ、要望というものは、自分の今の生活に必要な身近なことを表すだろう。
 具体的に言えば、『○○が食べたい。』『△△に行きたい。』『□□に行きたい。』等々、動物的欲求というか欲望と捉えられるものである。これは、叶えられることで確かに満足は得られる。しかし、一時的な満足に過ぎない。
 お腹が減ってお腹いっぱい食べても、時間が過ぎればまたお腹は空いてくる。つまり、この種の欲求は、満たしても満たしてもすぐに空っぽになる。潤しても潤してもすぐに乾いてくる。求めれば求めるほどきりがないのである。
『わがまま、気ままを叶える』と公然と語っている事業所が全国にあるが、どこまでも人間の動物的欲求という表面にしか目がいってないのではないかと思う。

 では、願いとは何か?願いは、内的欲求と言えるものであり、そこには叶えたい大切なエピソードと絡んでいるものと言ってもいいかも知れない。
 要するに、表現的には要望と似たような前述した『△△に行きたい。』という言動だったとしても、そこには、例えば、『亡き妻との思い出の場所だから…』というエピソードや深い思いが存在するのである。これは、『生きている間にひと目でも…』という心境であり、要望のような渇きはほぼ生まれない。寧ろ、一度叶っただけで、その思い出と安心感と共に生きていける、さらには、死んでいけるのではないだろうか。

 僕は多くの人との別れの中でそう感じてきた。
 要望はある程度満たされておく必要がある。けれど、本当の心の願いが満たされることこそ、『本当に生きた。ありがたかった。。。』という人生になっていくのだと思う。


 要望と願い、きっちり見極める深層心理への観察力が大切である。

復活の宣セーショナル

2009-08-20 06:14:22 | 日記
 いやいや、随分書かないでしまっていました。書きたいことは山ほどあったのに、身体と気持ちのゆとりのない日々に書きそびれていました。忘れたネタも随分あるなぁ~。。。

 復活の今日のブログは、やはり身近な昨日のことからね。

 日総研セミナーをきっかけに青森のJ園という特養ホームから『看取りに関する視察』がきた。8名のスペシャリストは、志し高く、うちの職員もためになったと言うほどだった。ただ、ひとつ癌を抱えていて、理事長兼嘱託医との意識のギャップが相当大きいらしかった。最期まで医療を強引に進める方だそうで、本人や家族が望まないケースでは、
『私が説得してくるから。。。』
と強引に胃ろうに結びつけてしまっているのだとか。
あんなに意識レベルの高い職員さんが揃っているのに勿体ないと思えた。
けれど、すばらしい交流ができた。これから触発し合う施設になりたいと思う。


 そんなこともあって昨日の夕方、まだ『ご自身の最期』について聞き取りをしていない三人の方の元へ向かった。
 三人とも、『自宅での最期』をのぞみ、『家族に囲まれて昔話をしながら』と話されていた。そして、『(胃ろう)そんなことまでしなくていい。お願いします。』とお願いをされた。そう。ほとんどの人は、口から食べられなくなったらそれ以上は望まないことを今日も実感した。

 印象的だったのが、
『自分の家の仏壇の前で親と遇いたい。』
と言う言葉だった。もし、ご自宅で看取れなくても、看取り間近になったら、ちょっとでも外出させてあげたいと強く思った。
 これは、J園さんの取り組み事例を伺ってのことだ。「もしも」のことや「承諾」「医療面のサポート」など、いろいろ問題はあるものの、J園さんをみならってやるべきだと思う。

 それは、お年寄りご本人の切なる願いなのだから。