80歳に向けて・「新風来記」・・・今これから

風来居士、そのうち80歳、再出発です。

ふと思う事

2019年11月18日 16時50分02秒 | 考える
対話に惰性は禁物だ。
常に、目の前の相手の事を頭に置いて語らねばならない。

自分にとっては至極当たり前の事でも、他人には初めての情報かも知れない。
いや、逆に相手にとっては当然で、今さら語るまでもないことかも知れないのだ。

影響を与えるとか、否かとか、それ以前の問題だ・・・。

こちらから相手を拒絶しておいて、誰も近づいてこないと嘆く。
これは、端から、どこか違っているのではないか?

他人 (たとえば弟) の心が読めない。
自身の存在感の無さ、 ・・・これは、私にとって、致命的なことだ。

人は常に変わっていく。
その考え方も、そして行動も・・・。
大体、人間同士と一言で言うが、もともと生まれも育ちも別個の二人の人間。
もともと、それは当然至極の事なのだ。

何かを、あるいは誰かを信じる事、それは言ってみれば、「自己放棄」だと言えないだろうか?

私と他人との関係、・・・私には私の考え方があり、それをもとに他人に対応する。
だが、よくよく考えてみれば、他人もまた、彼自身の確固な考えを基に行動しているはずだ。
同時代、同じ国で暮らしているといえども、
二つの別個の個性が向き合えば、それぞれ異なった思考法、思想を持っているのは当然だろう。

そもそも人間にとって、絶対に間違った考えなどというものがあるはずがない。

私は、次第次第に人間嫌いになっていく。
他人の考えが読めない。
つまるところ、他人の心、考え方が分からないということが原因だろう。

一人、家に籠もっていると時間の感覚が、徐々に無くなっていく。
で、目的も無く、バスに乗って街に出掛ける。 (惰性だ!!)
ただ、ぶらつくだけの為に。


憂鬱な話
目を閉じると、はっきりと見える。
まぶたの裏に黒い点。
以前は1点だったのが、今は2点に増えた。
医師の話では、脳内の視覚中枢(?)に異常があり、見たものにうまく反応できないらしい。
それも徐々に進行しているとか・・・。

まぁ、年齢だから仕方のない話かも知れない。
それ相応に対処していくしかないようだ。
いずれにしても、何と言うか、憂鬱なことだ。


私が、今後、性懲りも無く70代を生き続けていく目的を考えてみる。
意味のある生活を送ってくためには、それなりの目的が必要だろう。

が、実際には、いくら考えても、何も思い浮かばない。

今日この頃、朝昼晩、タバコとウィスキーの毎日。
本当は、医者から、タバコだけでも止めるようにしなさいと指示されている。
どうにも仕方のない70男だ。

それはそれとして、雑文ではなく、「ちゃんとした小説・・・と言うか文章」が、どうしたら書けるのか
未だに手探り(模索中)状態だ。


私は、まだまだ学び続ける必要がある。

立冬

2019年11月16日 19時29分46秒 | 考える
11月8日(金) 暦の上では「立冬」だそうだ。
気分のせいか、一段と寒くなったような気がする。

それはそれとして、弟と私、兄弟だとは言え、二人は別人格だ。
私個人の考えで、弟を縛り付けることなど、すべきではなかろう。
そう、年寄りには、最早やるべき事、語る事べきなど、何もありはしない。

交番前の広場のベンチに、所在なさげに、一人腰掛けている老人が私だ。

警官がこちらをしきりに気にしている・・・と感じている。
無論、これは、私の思い込みなんだろうが。

私とは無関係の人々が目の前を通りすぎていく。
時折、目に付くのが、やたらに奇をてらったようなコスチュームの若者。
それほど人目につきたい、目立ちたいのだろうか?
しかし、よくよく考えてみると、ベンチに一人、さも所在なさそうに腰掛けて時を過ごしているこの私自身。
こちらも、逆の意味で、大いに目立っているのかも知れない。


思えば、今の私には、後に残すべきものが何もない。
迷いは、私を、そして他人を拒む。
私にはどうやら「縁」というものが少ないようだ。
いずれにせよ、まだこれからも生き続けていかねばならない。

一方、私の耳元で「あの世からの呼び声」がささやき続けている。
もうお前の居場所は、この世のどこにもないぞ!!
そう、誰もお前に何か任せる事など望んではいない。


他人の考えはともかく、今後、なお生き続けるならば、私に何か出来そうなことがないだろうか?
私の生きていく価値は、どこかにあるのだろうか?

現在、私は70代。
他人のことは知らず、今の私はまだまだ若造でしかない。
だがまた、10代の声も聴かずに亡くなっている人も多いのがこの世だ。

今を精一杯生きていく。
・・・いつ死んでも後悔せぬように・・・。
もっとも、死んでからでは後悔のしようもない、と言うのが実際の話なのだが。


突然だが、気になった言葉・・・、
鼻炎壺(びえんこ)とは? ・・・嗅ぎ煙草を入れておく容器の事だそうな。
ふ~ん・・・!!

それはともかく、よく晴れた火曜日 (11月12日) だというのに、今日は、何とも落ち着かない気分だ。
私にはコミュニケーションを交わす相手がいない。

何と言えばいいのだろう? 
「自分の存在が社会的に否定されている」・・・そんな感じと言ったらいいのだろうか?

公園のベンチに腰を掛け、腕を組み、ちょっぴり空を見上げたまま、時がじわじわ過ぎていくのを、ひたすら待っている。
(ちょっと見には、何やら考え込んでいるように見えるが、実際には何も考えていない。 
考えられないというのが本当のところだ。)


やるべき事が無く、金も無い時は、これが一番だと、今、私は思っている。

飢え

2019年11月16日 18時44分00秒 | 詩とか歌とか
2019年(令和元年)11月16日(土) 晴れ

飢えている。
たまらなく飢えている・・・。

贈られた蟹さんを食べてみても、
入れたばかりの熱い紅茶を飲んでみても、
好きな葉巻を吸ってみても、
はたまた、ストレートでウィスキーを飲んでみても、
街に出てブラブラしていても、一向に飢えは収まらない。

どこまでも、どこまでも、底なしの空腹感・・・、
そんなにも飢えた私がここにいる。

どうして飢えているのか?

私は、ひとり・・・。
今の私はひとりぽっち・・・。
そう、私はただひとり、飢えている。

一体、いつまで飢えていろというのだろうか?

放埒 (ほうらつ) の日々 (その5)

2019年11月11日 09時54分23秒 | 考える
放埒 (ほうらつ) の日々
放埒・・・気ままに振る舞う。 気ままで締まりがない。


私が、私自身であり続けるために、どうすれば良いのか?
他人と交流する。
しかし、相手の名前がすぐに記憶できない。
これは、人付き合いには、致命的な欠陥だ。

私の生きている、そして生き続ける目的とは、一体何なのだろうか?
答えの出ない問い・・・堂々めぐりの毎日。

今、私が欲しいのは、自分の頭の中身を映し出すレントゲンのようなもの。

目的・・・?
今さら、この歳になって、目的などと考えても遅すぎるかも知れない。
今頃になってジタバタして、どうにかなるはずもない。
が、それでも生きている間は、その目的を考えつつ、ジタバタ行動せざるを得ない。

頼れる指導者が欲しい。
本来であれば、自らが誰かの指導者でなければならない立場、年齢なのだろうが、今さらそれを言っても、どうにかなるはずもないだろうが。
何も考えずに、人と人との間に埋没してみたいと思う。

ウィスキーとタバコ、そして葉巻・・・。
さらに取り立てて目的もないブラブラ歩き。
いや、「目的を探すべく」ひたすら歩いているのだと言えば格好がつくか。

いずれにせよ、振り返れば、この所、堂々めぐり、空回りの日々だ。
今は、やることもなく、ただ生き続けている毎日。

令和元年11月15日(金) 晴れ
風が心地よい。
バス待ちの時間に、知り合いに声をかけられた。
「何をしに出掛けるんだ・・・?」
すぐに答えが出てこない。

今日もまた、行く当てもなく、バスに乗る。

ふと思う。
常に答えが出るような生き方をしていくべきだ。

仕事・・・、結局は、自分にやれるか、やれないかではなく、やる気が、あるか、ないかという事なのだろう。
そんなことを思った。

図書館で、白洲正子さんの「道」
そして「高村光太郎・宮沢賢治集」とを借りる。

「高村光太郎・宮沢賢治集」は、真鹿子さんのブログ「真鹿不思議歩記」(https://blog.goo.ne.jp/1shunmugendai8)に触発されてのことだ。

だが、いつまでに読み終わるのか?
不精者の私のことだから、なかなか大変だなと、今から首をひねっている。

放埒 (ほうらつ) の日々 (その4)

2019年11月10日 10時38分23秒 | 考える
放埒・・・気ままに振る舞う。 気ままで締まりがない。

文章(ブログ)とは、私の場合、自己証明、あるいは 存在証明なんだろう。

ふと思う。
考えること、思うことは、人それぞれだ。

誰だって、他人からああしろ、こうやれと、指図され、強要されるのはおもしろくない。
ごめんこうむりたいだろう。
まぁ、私の場合、言ってみれば、ただの「ものぐさの言い訳」でしかないのだが。

私、1946年生まれ、今年、多分 (計算が違っていなければ) 73歳になる。

今後は・・・?

今後の事は、無理にどうこう考えても仕方がない。
なるようにしかならない。 

このまま、気分次第で生きていく。
結局、嫌も応もなく、人は死ぬ時がきたなら、どうしようと死んでいく以外に選択肢はないのだ。

と、言うことで・・・、
なんくるないさ。 (←沖縄方言で、何とかなるさ。 ・・・だとか。)

ほんのちょっとした好奇心が、その後の人生を大きく支配することになる。

11月の朝、目覚めた時に、ふと気がついた。

私が70年間をかけて、ずっと追い求めてきたものは、マルクスでも、釈迦でも、日蓮聖人でも、夏目漱石でもなかった。

この私、自分自身が本来あるべき姿、本当の姿だったのだ。

思えば、・・・今さら思ってもどうしようもないのだが、何と無駄な時間を費やしてきてしまったものか。

憧れ、心酔、思い込み、・・・等々。

時が過ぎ、体が自分の思うとおりに動かなくなって、人は初めて気がつく。
このままでは、どうにもならない。

人は・・・、いや、万物総てが、いずれは消滅していく運命を背負って存在している。

と、まぁ、これは正直な話、この歳になるまで、何の縁もなく、従って跡継ぎもない、ただの独りぼっちの男の愚痴でしかないのだが。

そんな事に、今になってやっと気がついた。

で、これからどう生きていこうか?