パロディ『石泥集』(短歌・エッセイ・対談集)

百人一首や近現代の名歌を本歌どりしながら、パロディ短歌を披露するのが本来のブログ。最近はエッセイと対談が主になっている。

231227 世界名作シリーズ⑧

2023-12-27 14:44:40 | パロディ短歌(2011年事件簿)
      バルザック『従妹ベット』を読む


 前回に引き続きバルザック作品の鑑賞である。『従妹ベット』上下(平岡篤頼訳、新潮文庫、1968年)。ベットという従妹が、ある一家を破滅に追い込もうとする物語。この小説の中でベットは主人公であるとともに狂言回しの役割をふられている。「従妹」ベットというからには、別の主人公がいて、その従妹ということになる。

 アドリーヌ・フィシェルは「ラファエロの絵を見て魅せられるみたいに、男という男を魅了して立ちどまらせる」ような「女神の一族のなかでもいちばん美しい一人」だった。彼女はユロ男爵に見染められて玉の輿にのる。従妹のベット「やせぎすで、肌は褐色、髪はぎらぎら光る黒髪、眉毛は濃く、密生して束をつくっていて、腕は長く頑丈で、足は分厚く、細長い猿そっくりの顔にはいぼがいくつかある」とバルザックは誠に容赦がない。ベットは当然こどもの頃からアドリーヌに激しい嫉妬心をもやしていた。

 男爵夫人となったアドリーヌがベットのことを思い出してパリに呼び寄せ、ベットも努力のかいあって、金銀の飾り紐を扱うポンス商会で、いちばんの腕利き女工になる。しかし、人と折り合うことのできないベットは、ナポレオン没落後の社会変動に翻弄され、ただのひら女工に逆戻り。ユロ男爵とフィシェル叔父に生計の半分をみてもらう境遇である。

 彼女が満足していたかといえば、そんなことはない。「どうせ自分はたいしたものにはなれないのだという確信などがベットを屈服させ」「従妹(アドリーヌ)がいろいろの点で自分よりまさっていることも痛感していたので、彼女と争おうとか、彼女と自分を比較しようとかいう、あらゆる考えを捨てた。それでも羨望の気持だけは、ちょうどペスト菌のように、心の奥底に隠れたまま残っていた」。

 ベットの人となり、心の動きについて、バルザックは何ページにもわたって、縷々描写している。バルザックの執筆速度は異常に早い。普通は筆が早いと、それに比例して描写が粗くなる傾向を免れないが、バルザックに関しては筆が早くて緻密という奇跡を苦も無く実現している。研究者によっては、一挙に曲想が下りてきて、あとは楽譜に記すだけだったという、神童モーツアルトに比肩する向きもあるくらい。それほどの筆力である。大学生の私がバルザックの天才ぶりに気づかなかったのは、読書力がそれだけ小さかったという証しであろう。

 アドリーヌの夫、ユロ男爵は参事院議員でもあり、陸軍省の局長である。ただ、彼には重大な欠陥があった。「女たらしの手の早い男」だったのである。ある意味では、彼こそこの小説の主人公といってもいい。例によって、男爵の女好きは度を越しているからである。小説の始まる頃は、オペラ座のプリマドンナを愛人にして、受け継いできた先祖代々の財産を使い果たしたあげくに愛想尽かしをされ、今では将来受け取る俸給を担保に借金している有様。適齢期を迎えた一人娘、オルタンスの結婚費用も賄えない状態にある。

 そんなユロ男爵の前に現れたのがヴァレリー・マルネフ。ベットの住んでいるアパルトマンで、一瞬、目を交わしたにすぎなかったが、彼女は「横目で正門の方を眺め、男爵が欲望と好奇心とにかりたてられて、感嘆のあまりその場に釘づけになっている姿を見た」。夫のマルネフは陸軍省に勤める下級官吏で、妻に引きつけられたのが局長だと知り、なんとか係長の地位にありつきたいと、積極的に女衒の役目を引き受けようとする。1930年代、王政復古期のパリの風俗である。

 マルネフ夫人は新しいタイプの愛人である。革命期をへてナポレオン時代に台頭したのは商人や軍人だけではない。高級娼婦という一群が女優や歌姫となって、貴族や将軍から富を吸い取っていた。贅沢は美徳であり、夜会のドンチャン騒ぎや世間的なものに対する蔑視が幅をきかせていた。ユロ男爵がマルネフ夫人に見たものは、小市民的な全く別の美徳であった。ユロは「マルネフ夫人のつつましさ、教養、物腰に感嘆して、たった一日で彼女に惚れ込み、老人ならではの情熱、分別があるように見えながらその実無分別きわまりない情熱のとりこになった」。

 マルネフ夫人はナポレオン騎下の将軍、モンコルネ伯爵の私生児である。こどもの頃に贅沢三昧の生活を送ったにもかかわらず、結婚の際の持参金を使い果たし、伯爵の死後も遺産を相続できなかったため、生活に困っていた。しかも、彼女の住まいはベットの住むアパルトマンである。ユロ男爵はマルネフ夫人の情報を得るためベットに頼り、一方のマルネフ人は亭主の上司、陸軍省の局長である男爵をつなぎとめるためベットと同盟を組む。

 ベットは漁夫の利を占めた、と言っていい。彼女は徐々に復讐の構想を練る。ユロをマルネフ夫人の虜にして金を絞り上げればいい。双方から頼りにされる立場を利用して、彼女はユロを破産させる。ユロは家族の前から姿を消し、アドリーヌは悲嘆にくれる。げに恐ろしいのは、嫉妬という感情である。しかも、ベットはユロ男爵の実兄、ユロ元帥(弟の男爵と違って世間の評価が高い)との婚姻まで画策し、成功の寸前にまで至る。最後にどんでん返しがあるのだが、ユロの競争相手のクルヴェルという商人がアドリーヌにいいよる話、アドリーヌの娘、オルタンスがベットから彫刻家の恋人を奪う話、めでたく夫となった彫刻家がマルネフ夫人に夢中になる話、行方不明になったユロがパリの場末で少女を囲う話など、脇筋も充実して(多分)バルザックの最高傑作である。

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 バルザックの生涯を知りたければ、シュテファン・ツヴァイク『バルザック』(水野亮訳、早川書房、1980年)がおすすめ。子供のころから青年期に至るまで、母親から関心を全くそそがれなかった養育期。親から自立したいがため、剽窃も含めて書きに書いた三文文士時代。売れ始めてからも、ことごとく失敗する印刷所や活字鋳造所の経営。計画段階で実現したように錯覚する想像力の氾濫。家具や書画骨董、そして美食への乱費癖。作品の題名を担保に、出版社から繰り返す借入金…などが、臨場感豊かに描かれる。伝記の名作である。
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