パロディ『石泥集』(短歌・エッセイ・対談集)

百人一首や近現代の名歌を本歌どりしながら、パロディ短歌を披露するのが本来のブログ。最近はエッセイと対談が主になっている。

230112 読後感

2023-01-12 15:28:13 | パロディ短歌(2011年事件簿)
      「リベラル」の出自


 今回は橘玲さんの『無理ゲー社会』(小学館新書、2021年)を読んで感じたことを述べさせてもらいます。

 「リベラル」という言葉が格好いい、と思っているのは60歳以上の人でしょう。それで民主党→民進党→立憲民主党の連中が、自分たちを「リベラル、リベラル」と連呼しよるわけや。しかし、私にはなんか胡散臭いにおいがします。それはアメリカの民主党についてもそう。何故かというと、リベラルは性的マイノリティーばかりを問題にするというイメージがあるからです。

 現に『リベラルという病』(新潮新書、2017年)の著者、山口真由さんは、著書の中で“LGBT”の語を紹介し、Lはレズビアン、Gはゲイ、Bはバイセクシャル、Tはトランスジェンダーとトランスセクシャルを指しているが、それでは性的マイノリティーを網羅するには足りず、現在では“LGBTQQIA”とか“LGBTQQIAPPO2S”という表現まである、と紹介しています。それぞれのローマ字があらわす性的な意味合いは、ややこしすぎて私にはわからん。興味のある人は、原著をあたってみて下さい。欧米のリベラルは、こんな区別を間違えないで言わないとあかんらしい。例の「ポリティカル・コレクト」というやつです。「言葉狩り」と言うても良いんやないかと私は思いますが。

 なんで欧米では性的マイノリティーがこんなに問題視されるのか? 私の答えはこうです。キリスト教が欧米の土台にあることは、誰でも知っています。そのキリスト教が世の中には男と女しかいない、と断言している。関西弁でいう男女(おとこおんな)というような存在はない、同性愛は堕落の極み、ということになっている。だから、例えばチャイコフスキーは自分の性的な嗜好がばれるのを異常に恐れた。そのせいで彼は自殺したという説が流れたほどです(現在では自殺説は否定されている)。キリスト教ではタブーだった、というて間違いありません。

 ところが、一方でキリスト教の神様は、自分の姿に似せて人間をつくった、という話もある。一時期「アイデンティティ」という言葉が流行って、流行りの言葉にもかかわらず、意味がよう分からんという時期がありました。日本語に訳すと「自己同一性」となるのやが、よけいに分からん、と日本人はみんな悩んでいた。けれど、神様が人間をつくった、というキリスト教の教えを考えると、この言葉は実にしっくりとくる。

 キリスト教では、神様に似せて人間をつくったのやから、人間はその能力を十分に発揮せんといかん。けれども、人間の能力には限りがある。いきおい、ある方面にだけ力を発揮するということになる。人によっては、それはサッカーの能力だろう。別の人は科学者に向いているかもしれん。神様はそれぞれの人間に別々の能力を与えたんですな。それが個人個人の「アイデンティティ」や。そう考えると、この言葉が特別に大事な役割を担っていることが分かるでしょう?

 さあ、そこで困った問題が起きた。いかに聖書が否定しようと、現にバイセクシャルの人たちはいる。戦争なんかで妊婦が極限のストレスを受けると、ゲイの子供が増える。そういう研究もありました。さあ、そうすると困った問題が起きる。ゲイの人のアイデンティティはどうなるのや? これがリベラルの出発点やった、と語っていたのが、最初に紹介した『無理ゲー社会』です。

 著者の橘さんが紹介したのは、チャールズ・ライクというイェール大学の教授です。医者の家に生まれ、頭脳明晰。若干32歳で有名大学ロースクールの教授に就任した彼は「成功者」であり「特権層」の人間(のはず)だった。しかし、彼はこの生活になじめなかった。何故なら彼は「女性を性愛の対象としてみることができなかった」からである。彼の生まれたのは1928年。教授に迎えられたのが1940年。この時代のアメリカは、まだガチガチのキリスト教が世間をおおっていた。みんなが日曜日には教会に通っていた、そんな時代です。

 ライクは申し分のない人生を送っている筈やった。しかし、彼は敗残者だった。自分が少年に引きつけられるのを自覚してはいたが、踏み出す勇気はない。そりゃ、そうや。そんなことをすれば、社会的に抹殺されるのは確実やったから。それに、聖書に反抗するなんて、お人好しのライクには、思いもつかなかったはずです。こうして30年がたった。

 1970年代はヒッピーの時代です。カリフォルニアやニューヨークに限られていたけれど。若者はベトナム戦争への兵役を拒否し、同性愛に耽った。環境問題が論じられるきっかけを作ったのも彼らだった。彼らはキリスト教をはじめ、すべてに反乱を起こしていた。そんな中で、ライクはおそるおそる運動に近づくんですな。そして、43歳で同性とのセックスを初めて体験した。震えるような体験やった、とライクは言うてる。しかし、長続きはしなかった。

 その後、彼は46歳ではじめて異性とのセックス体験をします。「私は喜びに充たされた」と彼は書いたが、体験はこの一回きりやった。書くことと実際とは、ちょっと違う。その後、何人かの男性とつきあい、91歳で亡くなった。彼はいわゆる「運動」とは距離を置き、個人の意識の変容によって社会を変える道を選んだ。現在では、彼の主張が顧みられることはないし、存在さえも忘れられている。

 そんなライクを、なんで著者の橘さんがライクを取りあげたかというと、「自分探し」という運動が何故起きたか、その源流を明らかにしたかったのではないか、と思われる。ライクの性遍歴を見ていると「いたいたしい」という言葉が浮かんでくる。彼が「自分らしく生きる」という時、そこにはクリスチャン独特の苦しさがあった筈である。身体は男、心は女―という生き物はキリスト教で予想されていないからだ。「自分探し」は混迷の中で行われただろう。

 ただし、日本に輸入されて、若者が「自分探し」のために世界を旅行する―というのは、ライクの追い求めた姿勢とは違うのではないか? ライクには深刻な自己の分裂があった。日本の若者にあるのは、自己分裂以前の「何者でもない」という状態でしょう? 何者でもないイコール白紙なんです。あとは自分の意志に従って、自由に描きこめばいいだけ。私はそう思います。何か「自分」というものが予め埋め込まれていて、それを探しに行くという人間観・世界観は違うんではないか?

 性的マイノリティーから「リベラル」の運動が始まっていて、それは確かに(アメリカやヨーロッパにおいて)大問題だということが、この本からはよく分かる。ここから出発して、黒人や人種の差別に切り込む、という彼らの方法も理解できる。ただ、解せないのは彼らの不寛容さだ。アメリカ社会の分断ということがよく話題になる。しかし、注意して眺めると、ケンカを売っているのは「リベラル」の方だ。それに保守派が過剰に反発して過激に走る。

 未だに進化論を認めない福音派がいる、というアメリカだもの、受容する(保守派)にせよ、反発する(リベラル)にせよ、論争はキリスト教の枠組みの中で起きる。フィールドをキリスト教から移さないと、問題は解決しない。が、そんなことは不可能でしょう。

 仏教と神道の混合物の中で生きている日本人にとって、「自分らしく生きる」のは全く別の課題である。日本では性的マイノリティーの問題はアメリカほど深刻ではない。美輪明宏は「神様」になったし、ファッションや音楽の業界で彼らをはじいたら、そもそも業界が成り立たなくなるくらい、誰でも知っている。日本では「共存」さえ守るなら、誰がいても誰が何になってもいい。

 そう考えると、日本には「リベラル」という勢力は余計なのではないか? そういう疑問がわいてくるのである。アメリカの民主党の主張だって、キリスト教が土台にあるせいだろう、ガラスを隔てた隣の声のようにひびく。切実感に乏しいのである。日本で「リベラル」を標榜する人たちは、「リベラル」というファッションがほしいのではないか。これが今回の結論である。

 こう書いてくると、過去にフェミニズムを論じた時のことを思い出す。フェミニズムも欧米発の思想で、キリスト教的偏見にみちたものだった。すなわち、西洋人は男性をculture、女性をnatureになぞらえて、男性優位の社会を告発するのである。何故なら、キリスト教世界ではnatureには価値がなく、cultureになって初めて価値を生ずるからだ。nature を開墾前の荒れ土、cultureを耕作地と訳したら、その関係がよくわかるだろう。cultureには「文化」という訳語も当てはまる。価値の体系からいえば、最高の価値である。(後学のためにいえば、日本でnatureとcultureの関係性は、欧米と180度異なる。日本でフェミニズムを論じるなら、この差異を考慮に入れなければならないはずである―というのが、私の出した結論だった)

 中学生のころ、何故、cultureが「耕作」と「文化」という二つの訳語をもつのか理解できなかった。古代ヨーロッパの大陸、さらにアメリカ独立当時の大陸の様子を考え合わせると、彼らにとって「開墾・耕作」と「文化」とは一体のものだった事情がのみこめる。ただし、この「文化」とはキリスト教文化のことであり、(キリスト教化される前の)ヨーロッパのゲルマン民族にも、アメリカ大陸のインディアンにも、それぞれの「文化」はあったという事実には目をふさいでいる。欧米の思想には、フェミニズムにせよ、リベラリズムにせよ、このようにキリスト教的な偏向が見られる場合が多い。要注意だ。

 なお、『無理ゲー社会』からとりあげた今回のチャールズ・ライクの挿話は、この本の中での比重はとても軽い。本全体の5%を占めるかどうか。全体の主張は、知能格差から経済格差と性愛格差が生じているという著者の分析に費やされている。橘さんは「大多数の人が強制的に無理なゲームに参加させられているような」現状の社会を告発している。本のタイトルには、このような意味が込められている。ブログでの取り上げ方から、ライクの話が『無理ゲー社会』のテーマだと誤解しないように願いたい。この本の中で、著者の橘さんは現状の社会を告発しているわけだが、サヨクの思考法にあるような、短絡的な資本主義の否定に走らない態度が好ましい。

 ダイナミックに変化する資本主義は、臆病者にとって悪魔のように見えるらしい。カール・マルクスの見た資本主義と現代の資本主義では、ずいぶん中味が違うと思うが、斉藤幸平のように、いまだにマルクスという19世紀の亡霊を呼び出そうとする黒魔術師がいる。マルクスを奉じた共産主義は、善悪二元論や選良主義、さらに異端審問など、要するに「神」と「党」を入れ替えただけの「キリスト教最悪のカリカチュア(戯画)」といわれた。日本の「リベラル」もマンガチックに見えるのは、この連想からだろうか。

 マンガチックに見える理由を明かそう。キリスト教につきものの善悪二元論。これは神と悪魔に代表される。そこでは対立と闘争が永遠に続く。日本人の感覚は違う。基本的に対立の構造を嫌う。日本では、すべてを許す神様、最後は救って下さる神様がなじみ深い。仏教の仏様はそういう存在であるし、神道の神様だって、祟りをなすこともあるが、禊をすれば許し、熱心に拝めば悪霊などを払ってくれる存在でもある。

 戦後、アメリカ流の二大政党制を築こうとしてきた我が国で、野党が振るわないのは当り前。民主主義は与党と野党の対立を軸に考え、政権交替で進歩を図るという構図であるが、こういう二元論は日本人になじまない。ある政党(自民党)に、政治を丸抱えさせたうえで、とんでもない失敗をしたときに、お灸をすえる役割を果たす政党(野党)があれば、それで事足りると考えているのが日本人だ。大政翼賛会の失敗は学んでいるから、挙国一致は危ないという智恵はついている。といって、欧米のように二元論が根付いているわけではない。

 考えてみれば、日本と欧米の思想は水と油である。欧米の思想を直輸入しても、日本人の心には響かない。リベラルもその轍を踏んでいるだけ、という見方もできる。思えば秀吉と家康がキリシタン禁止を打ち出したのは、先見の明があったというべきだろう。21世紀の現代では、特定の宗教を禁止するわけにはいかないが、それぞれの偏向の度合いは知っておくべきだろう、と思う。

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(蛇足)
賢明な読者は、このブログが関西弁風にはじまっているのに、最後まで一貫していないことに気づいたことでしょう。前回、取り上げた内田樹さんの「コロキアル(口語体)が日本語の基本」に触発され、若き日に大学で聞いた「大阪弁では革命(思想)は語れない」という教授の言葉が「ほんまにその通りやろか?」という興味もあって、関西弁で語ろうと思ったのですが、思いのほか関西弁を書き言葉で操るのが難しくて失敗に終わったということです。過去に出版した『イミテーション・エッセイ』では、松下幸之助さんに扮して(末下幸之助と名のった)、関西弁を縦横に交えながら「映画問答」を綴ったものですが、趣味の話と政治や文化の話では事情が違うのかもしれない。

 言葉をひるがえすようですが、関西弁で思想を語ることはできる、と私は見込んでいます。特に啓蒙主義にはぴったりや。噛んで含めるようにいう、これが啓蒙主義ですからな。関西弁ではないけれど、福沢諭吉の『福翁自伝』は口語体です。コロキアル文学の傑作でしょう。すでにサンプルはあるということです。前々回のブログでご紹介した、養老先生の「日本の思想は無思想や」というお話も「関西弁でいうと、どないなるのや?」と考えてしまうのです。また、挑戦しますので長い目で見てやって下さい。
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