パロディ『石泥集』(短歌・エッセイ・対談集)

百人一首や近現代の名歌を本歌どりしながら、パロディ短歌を披露するのが本来のブログ。最近はエッセイと対談が主になっている。

2021年事件簿③ 正念場②

2021-04-12 14:22:02 | 雲エッセイ
     改印届・その後

 改印届のその後についてご報告する。C行とA行の別の支店での改印届は、いずれも10分足らずで終わった。通帳のハンコを失ったこと、新しい印鑑を登録したい旨を告げると、即座に書類が出てきて当方が書き込むのに5分足らず、支店内の決済に要した時間も5分足らず。10分以内に、両行とも届け出は終了した。私が最初に予想していた時間は正しかったのである。
 4月9日にかかったA行の1時間40分とB行の1時間。12日のC行の10分とA行他支店の10分。この差は大きい。分かったことは、受けつけた行員によって大きな差があるということ。改印届なんて初歩中の初歩だから、行員たるもの皆が心得ていてほしいものである。
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2021年エッセイ・雲 ブログを続けたわけ

2021-03-11 10:24:42 | 雲エッセイ
        面白半分から半覚醒まで

 ブログを始めて23年になる。この間、ブログの記事を抜粋して、『パロディ百人一首・石泥集』(2005年)『イミテーション・エッセイ』(2013年)『パロディ短歌・新石泥集』(2016年)『エッセイ対談集・虎を描いて猫』(2020年)と4冊の本も作り続けてきた。その動機を記そう。

『パロディ百人一首・石泥集』について
 当初は森図房(地図制作)のホームページの一部「おまけ」で、百人一首の替え歌をつくることから始めている。単に面白いから、という理由である。もっとも、本業の地図制作のかたわらなので、パロディの創作にはムラがあった。2,3日で10首作れることもあり、半年間、何も作らなかった時期もあった。しかし4年後、替え歌が50首を越えはじめたころから欲が出てきた。100首すべての替え歌がつくれるのじゃないか、という思いである。さらに3年くらいかけて残りを整備。
 替え歌だけでは意をつくせないものもあったので、詞書に情景描写を加え、すべての替え歌に「蛇足」という寸評を加えた。こうしてできたのが、92ページの小冊子にまとめた初代『石泥集』である。知人に1,000部近くを配ったところ、110通にのぼる反響の手紙を頂戴した。型通りのお礼はわずかで、お気に入りの歌を選んで感想を述べて下さったり、読んでいて電車を乗り過ごしたとか、退屈な教授会が(本を盗み読みして)充実したとか、著者冥利に尽きる文言もあった。

『イミテーション・エッセイ』について
 「蛇足」の批評部分を拡大して1冊の本にしたのが、次の『イミテーション・エッセイ』である。『石泥集』が百人一首の本家どりであるのと同様に、名だたる小説家・評論家の文体模写(つまり本家どり)を行なったことで、形式としては一貫しているつもりである。単に事象を茶化すのではなく、もう一歩先へ進んで事象の本質を探りたいという気持ちもあった。文体模写は思ったより楽しい出来事であった。
 ある種の自伝を試みていたことは、本が出来上がってから気づいた。幼年時代、少年時代、青年時代のエピソードに加え、大学時代に思想の骨格を作ってもらったフロイトやサルトルについて書き、大好きな映画やクラシック音楽の記述を続けたのは、自分が人生にどのような意味づけをしたのか、を確認する回顧的要素が強い。この本にも100通あまり、心のこもった返事をいただいた。

『パロディ短歌・新石泥集』について
 もう一度、パロディ短歌に戻ったのが、次の『新石泥集』であった。替え歌の対象に近現代の短歌を加えたのと、題材の多くを時事問題に求めたのが特徴である。時事問題と言っても、パロディの対象であるから、とりあげるのはゴシップやスキャンダルが多くなる。ただ、マスメディアのように一過性の騒ぎにするのは避けようと思った。
 たまたま、この時期にチャイナの反日デモがあり、毒入りギョーザ事件があった。私は父の仕事の関係で、1歳から8歳まで北京で育っている。北京が故郷の感じで、毛沢東や周恩来にも身びいきのような感情を抱いていたが、江沢民が近代国家の自由・平等・人権などをパスし「現代化」に邁進する姿をみて、チャイナへの幻想を断った。
 たまたま、民主党政権が成立したものの、幼稚な運営をしたことで、野党(左翼)への幻影もなくなった。どんどん貧相になっていったピエロ鳩山とイラ菅の、反面教師としての存在が大きい。私は革新色の強い京都で育っていて、チャイナも左翼も身近な存在だった。ただし、自分自身もあまり信じないような懐疑派であったから、チャイナと左翼の結果にも驚いたりはしなかった。

『虎を描いて猫』について
 この本では「大東亜~太平洋戦争」について、かなりのページを割いている。本の中にも記したが、戦後、マッカーサーと毛沢東が「日本国民は軍部に騙されていた」と懐柔を図った。大多数の国民は悪くないよ、と言ったのである。私に言わせれば、騙される方が屈辱だと思うが、この言に乗っかり「自分は無実」と言い張って始まったのが戦後体制である。ここから堕落が始まって、独立心なき国民が闊歩するようになった、と私は見ている。
 二度と騙される立場に立ちたくない、と思ったのは20歳のころ。誰にもごまかされたくはない。そう思って少しづつ勉強した。まだ、成果といえるほどのものは上がっていないが、現在の段階で中間報告したいと考えた。これが『虎を描いて猫』を発刊した理由である。サヨクと復古右翼、そして一部のフェミニズムに厳しい評価をしたこの本は、私の本音である。彼らの言動は、昔の狂信的な陸軍参謀を彷彿とさせるからである。
 難しい問題を語るとき、わが国では渋面を作りながら行うのが伝統になっている。戦後の論壇をリードした知識人が、勿体ぶった伝統をつくってきた。いまでも国会審議では、硬直した議論に切り口上と金切り声が飛び交う。つくづく生産性が低いなあ、と思う。酒でも飲んでいるような調子で、愉快に議論したいのが私の性(さが)である。昔からの願望を実現し、関西弁を交え、喋っているような文体を心がけた。
 サヨクと復古右翼、双方から何か抗議があるかなと思ったが、サヨクと思われる知人から、否定の根拠を訊ねてきただけだった。それなら自信がある。共産党の強い京都で私は育っているし、父は投票の度に共産党を支持していた。妹は共産党の傘下にある民主主義青年同盟(民青)に参加していた(あまりの非民主的運営に愛想を尽かしたが)。左翼の生態については詳しいのだ。復古右翼が抗議してきたら、「強きを挫き、弱きを助ける」―人の道として、これを実践するよう勧めるだけである。

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2021年 エッセイ・雲② コロナ後の世界

2021-02-02 10:16:23 | 雲エッセイ
コロナ禍を商人はどう見るか?

 筆者の一番苦手なのが商人の感覚。それを思い知らされたのが、明治4年に出された断髪令(正式には散髪抜刀令)に対する商人の反応である。大阪・船場の商人がそれを聞きつけ、深夜の船便を予約して10人ほどが長崎に向かったという。更に明け方の船で10人。

(写真は、断髪令をうけて床屋で丁髷を切る)
 何をしに行ったのか? 私には全く読めなかった。答えを聞けば、誰でも「ああ、なるほど」と思う。答えは帽子。断髪令とは、ちょんまげを切りなさいという命令だから、頭が寂しくなる。舶来の帽子が流行るだろうと考えたわけである。商人の頭脳とは、即座に周囲の状況を思い浮かべる能力のことらしい。けっきょく、深夜の便で向かった10人が帽子を買い占めて元卸となり、明け方の船便で向かった第二陣の10人は、二次卸に甘んじた。この話だけを考えると、商才とは「機を見るに敏」みたいになってしまうが、それだけではない。商売を持続させ、あるいは新事業を創造する才能のことでもある。事実、当初の10人の中には、後日、銀行を設立し、鉄道や紡績で成功を収めた人物もいる。

(写真は、金を求めて殺到した人々。金を掘り当てた人は稀だった)
 1848年に始まったアメリカ・カリフォルニアのゴールドラッシュの際にも、似たような話があった。当時の大統領、ジェームズ・ポークが「金の埋蔵量は信じがたいほどの膨大さ」と発表して、一攫千金を狙う人々がカリフォルニアに殺到した。まだ、大陸横断鉄道の開通から20年前であり、もちろんパナマ運河はない。アメリカ大陸の東海岸に住んでいた人々は、凍てつくような南米の南端、ホーン岬を通って西海岸のカリフォルニアに辿りついた、という。
(写真は、チャップリンの映画『黄金狂時代』。食べ物に困ってドタ靴を食べるシーンが有名)
 ここまでして、誰もが砂金の採掘に血道をあげたのだが、結果はチャップリンの『黄金狂時代』に見るように、大半の人は金にお目にかかることさえできなかった。それどころか、飢えと寒さに命を落とす人さえ出る始末。結局、金をもうけたのは、金を求めて殺到した人たちに、つるはしやシャベルを売った商人だった。採掘のための道具類は品不足になり、一説には75倍もの値をつけたという。

 丈夫なズボンを―という声に応えて、ジーンズを提供したのがLEVIS。他にも送金業務に目を付けた銀行や、テントや食料品を提供した商人たちが繁栄した。「成功者は金を掘らなかった」と言われる所以である。要するに、一般大衆(私のような)は「金が出る」と聞けば「金を掘り出す」ことしか思い浮かばないが、商人には金の流れ=全体の状況が見えているということ。誰もが恵まれている能力ではない。絵を描く才能に恵まれ、野球をする才能に恵まれている人たちがいるのと同じく、商才は天賦の才能であり、天賦の勘なのである。羨ましくかつ尊重すべき才能である。

 さて、ここで本題のコロナ禍である。商人たちはコロナをどう見ているのであろうか? 田舎の片隅から世の中を覗いている私には見当もつかない。思いつくのは、新型コロナの特徴が、あたかもグローバル化に敵対しているようにみえる動きだということ。人の往来を止めなくてはならないのがその証左である。あちこちに閉鎖空間が生まれる。その最大のものが国家で、最小のものが家庭、ということになるのではないか。おそらく2年後にコロナ騒ぎは収まっているだろうが、その時に世界はどうなるのだろうか?

 ①コロナ以前と同じ状態に戻る ②反グローバルの傾向が続く ③コロナ禍の反動でグローバルな動きが加速する――のうち、①は考えにくい。新型コロナの流行を受けて、人々の意識は変わっているはずだからである。ワクチンなどが普及しても、コロナの影響が(心理的に)まだ残っている場合は②になるだろう。新型コロナウィルスが全面的に抑え込まれた場合(集団免疫獲得時)、これまでの反動で③が見られるかもしれない。

 金の流れに鋭い意識をもつ商売人たちは、どう見ているのであろうか? 金融だけに絞れば、莫大なコロナ補償で各国の財政は大赤字である。委縮した経済を戻そうとすれば、低金利時代は続く。しかも借金を返済せねばならない。返済の負担を軽くするため、コロナ後の経済をインフレ基調に運営するのは必然といえる。アメリカのFRBはそうすると宣言している。これが実体経済の低調にもかかわらず、株高を招いている一要因だ。

 しかし、生活はどう変わるのか? リモートワークが主流になるかどうかは国によって違うだろう。日本では残念ながら、主流にまではならない、というのが私の見立てだ。リモートワークのいいところは、ごますりとか忖度とか、事業に関係のない部分で動く日本の欠点を正してくれる。リモートワークは多くのムダを洗い出したはずなのである。そこを削ぎ落せば日本の低い生産性から回復できるのに、中途半端に終わるとすれば、世界の大勢からはますます取り残されることになる。そうならないことを願うが、私の勘でいえば、簡単には乗り越えられないだろう。嫌な予想だが長期低落は避けられそうもない。商才の持ち主は、コロナ後をどう描いているのか、それを知りたい。
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2021年 エッセイ・雲① 日本凋落②

2021-01-08 17:16:51 | 雲エッセイ
              改革待ったなし・日本

 明けましておめでとうございます・
 新年早々、日本の凋落②なんて縁起でもない!と思う人はいるかもしれない。しかし、乗りかかった船…という諺もあるし、新規まき直しには反省がつきものだ。
 前回のブログで、上級国民と下級国民の分裂を報告した際、日本の生産性の低さも取り上げた。時間の無駄が多いということになるが、実際、どんな働き方をしているのかを知る機会があった。

 谷本真由美『世界でバカにされる日本人』(ワニブックス新書、2018)という刺激的なタイトルの本である。「ホワイトカラーの残念すぎる生産性」という項目で、次のような話がある。

 定期的な監査をするのに、日本の企業は膨大なチェック項目をEXCELにまとめて、全世界の支社におくる。この本によると、そのあとの作業はこうだ。

 「引き出しに鍵がかかっているかどうか」「パソコンの中のファイルを削除したかどうか」などということを、いちいち目で確認し、それを印刷したエクセルのシートにボールペンでチェックを入れ、関係者全員のハンコを押して、それをスキャンしてPDFにしてから関係部署にメールで送信する――という意味不明なことをやっていた…
 さらにご丁寧に、作成されたシートは基本的にA3の紙に印刷するようになっている…

 外国の企業は基本的にアウトソーシングしていて、世界標準の監査システムを導入し、自動的にチェックする方式をとっている。したがって、実質的な監査の時間は5分か10分ですむ。ところが

 同じことをやるために、日本人はA3の紙に印刷することで大騒ぎし、出張から何日も帰ってこない関係者や、うつ病で休みがちな上司のハンコをもらうのに東奔西走する… 
 さらには分厚い手順書を読み、意味不明の部分を解明するために担当者を探し出す。メールや電話で連絡をとり、プリンターの設定を直し、監査を待たされた外国人同僚の機嫌をとる…

 著者はことさらマンガチックに描いたのではないと思う。というのは、情景がありありと浮かぶからである。日本の携帯電話は、どうでもいいような機能をあちこちに張り付けて自己満足の塊と化し、「ガラパゴス」といわれた。日本列島という孤島で特殊な進化を遂げたのである。同じことが事務の世界でも起きているわけだ。名付けて「ガラパゴス事務」か。

 本書の別のページには、こんな光景も描かれている。まとめてみると―
 社内の会議に使う資料をつくるのに毎晩残業し、コストのかかるカラー印刷で人数分を用意する。しかも、それが大量で、関係のないイラストまで配置されているのに、外国人はクレージーと思う。議事進行もダラダラとして、時間を浪費しているという感覚がない。資料はすべてデジタルで処理すればいいし、会議も目的をはっきりさせればいいだけなのに。

 生産性が低いということだけではない。老年人口が急激に増え、経済も伸び悩んでいる。チャイナは別としても、アメリカやヨーロッパの先進国が毎年3%以上の成長率を上げているのに、日本の成長率は平均1%前後。長期低落は隠しようもなく、世界の目は「日本は大丈夫か?」というものだ、と著者はいう。要するに、日本は全く注目されていないし、そのモタつきぶりは「反面教師」としてとらえられている、というのだ。

 この指摘をみて、私はかつての「英国病」を思い出した。「揺りかごから墓場まで」と称された理想の福祉政策。しかし、一方で産業を国有化し保護した結果、生産力は低下し、国際競争力は失われ、経済成長も停滞した。労働組合の力が強くなった結果、賃上げに次ぐ賃上げでかえってインフレを招き、勤労意欲喪失が社会問題になった。これが「英国病」といわれるものである。
 「日本病」という言葉を日本人はまだ知らないが、バブル崩壊後の日本はかつての英国みたいに同情される存在なのだ、と著者はいう。生産性の低さも一緒だし、正規雇用の労働者にばかり手厚い規制があるのもよく似ている。


(写真は、マーガレット・サッチャー元首相 1925-2013年)
 1979年に登場したサッチャー首相が、新自由主義を掲げて国営企業を民営化し、歳出削減や教育改革に乗り出し、労働組合の力を削いでストライキを激減させた。一時的には、失業率があがるなどの副作用を伴ったが、外国資本を積極的に誘致して雇用を生み出し、ロンドンの金融センター化も果たし、結果としてイギリスを再生させたのは記憶に新しいところである。

 今の日本にサッチャーほどの自覚をもった政治家がいるかどうか? (まだ、表には見えないが)居るのかもしれないし、不幸にして居ないのかもしれない。しかし、新型コロナ禍が吉と出る可能性もある。大きな変革に抵抗がなくなっている可能性もあるからだ。第二次世界大戦の敗北から75年。戦後体制はもうガタがきている。国家体制の基本からデザインし直さなければならない時期に来ているのだろう。中でも私は霞が関の改革が最大のポイントであるように思えて仕方がない。

              国連幻想を断ち切る


(写真は、国連本部ビル)
 同じ著者に『世界のニュースを日本人は何も知らない』(ワニブックス新書、2019)という本もある。この中で「国連はドブ掃除でもめる町内会」という一項がある。町内会と国連の共通点を上げていて、その視点は見事だ。本書に従って、町内会の特徴(国連の特徴)を箇条書きにすると―

・構成員は常識も文化も忍耐もバラバラ(同)
・回避の支払いにいつも遅れる人がいる(同)
・いつもお金が足りない(同)
・仕切りたがる老人がいる(お金をもっている「ジャイアン」の国が仕切りたがる)
・役割当番がある(平和維持軍、会議場の雨漏り修理など「なんとなく」役割が決まる)
・役職は一応決まっているが、命令系統が曖昧なので大げんかになる(決めたことや役割に強制力がないので大げんかになる)
・メンバーがなかなか入れ替わらない(同)
・家の大きさやお金の有無にかかわらず投票権は一人一票(国の大きさや豊かさにかかわらず一国一票)
・ドブ掃除のような行事がある(総会や各種会議のほかにスポーツ大会などの行事がある)
・会報は誰も読んでいない(報告書は読まれない)
・参加しないとゴミ集積所を使わせてもらえない(参加しないと取り決めから弾かれる)
・よそ者につめたい(同)
・みんな本当は辞めたい(同)


 お笑いみたいな比較である。しかし、昔は「国連は田舎の信用組合」と言って、クビになった大臣がいた。当時は国連をまるで世界連邦政府みたいにとらえていた人が多かった。大臣はそのせいでクビになったのである。さすがに今ではこんな錯覚は亡くなったであろうが、それでも実態を知る人は少ない。この本は国連幻想を見事に砕いている。

 ちなみにこの本のタイトル―『世界のニュースを日本人は何も知らない』には同感である。しかし、その元凶は世界のニュースを取り上げない新聞やテレビ―いわゆるマスメディアであって、普通の日本人に罪はないといえる。本書はマスメディア批判の本として描かれるべきで、その点はやや物足りない。しかしながら、国連批評はさすがで、この一章だけで出版の意義は十分であるといえる。いずれにせよ、第二次大戦後の世界は制度疲労を起こしている証左の一つとなろう。
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2020年 エッセイ・雲16 日本凋落①

2020-12-24 10:50:55 | 雲エッセイ
              橘玲『上級国民/下級国民』を読む

 市立図書館から橘玲『上級国民/下級国民』(小学館新書、2019年)を借りてきて読んだ。著者の「まえがき」から一部を抜粋する。
 
 2019年4月、東京・池袋の横断歩道で87歳の男性(筆者注、元通産省工業技術院長)が運転する車が暴走、31歳の母親と3歳の娘がはねられて死亡しました。この事件をめぐってネットに飛び交ったのが「上級国民/下級国民」という奇妙な言葉です。(中略)
 「上級国民/下級国民」は、個人の努力がなんの役にも立たない冷酷な自然法則のようなものとしてとらえられているというのです。いったん「下級国民」に落ちてしまえば、「下級国民」として老い、死んでいくしかない。幸福な人生を手に入れられるのは「上級国民」だけだ――。これが、現代日本社会を生きる多くのひとたちの本音だというのです。(後略)

 アメリカ大統領選挙を通じて露わになった、リベラルとコンサバによるアメリカ社会の分断。日本のマスメディアは、他人事のように報じ続けるが、足元の日本社会では別の分断が進行している。著者はこう警告したいのだ。

 「上級/下級」の分裂を引きおこしたのは、日本経済の衰弱。1人当たりGDPの日本の順位は下落に次ぐ下落である。本書から図を引用すると―。



 バブル崩壊後はなすすべもない印象である。世界では26位。アジアでも、マカオ(3位)、シンガポール(8位)、香港(17位)に追い越され、韓国(31位)にも抜かれそうな位置にある。正直いって、この順位はショックだった。

 「日本が何故失敗したか?」を知ると戦慄すべき事実が浮かび上がってくる。1990年代のバブルは不動産バブルであって、食料品や日用品の物価が上がったわけではないのに、総量規制を大きくかけ過ぎた。これがバブル後の低迷を長引かせたのは、今では常識のようになっているが、その不況下で何が起きたか? 非正規雇用が広まって正社員が減ったかのように言われるのは真実なのか?

 著者の橘氏の見解はNOである。さまざまなデータを駆使して、バブル崩壊後の労働市場をみると、「全体としては」正社員のパーセンテージは変わっていない(1982~2007年)。ただし、22~29歳の労働市場をみると、正社員のパーセンテージは75%から62%にまで急落している。

 日本では正社員の地位は頑強に守られている。首切りは容易なことではない。その結果、中年の正社員(実は団塊の世代)は雇用を守られ、その代わりに若い世代の雇用が見送られた、という事実が浮かび上がる。上記のデータは、これを指し示しているわけ。しかも、衝撃的なのは、就職氷河期を送った若い世代とは、すなわち雇用を守られた団塊の世代の息子や娘(団塊ジュニア)であるということ。親を守るために子が犠牲になったわけである。

 親の世代を守った労働組合は、非正規労働者を守ろうとはしない。マルクスの昔から、組織された労働者しか労働者とは認めないからである。未組織労働者とは何か? そう、彼らは昔から「ルンペン・プロレタリアート」と呼んで蔑んできた。要するに「乞食」だと言っているのである。「人権」だの「平等」だの、口当たりのいいセリフを吐きながら、実際にやることは正反対。あくまで正社員の擁護に徹した。そして、それは成功した。著者の橘氏は簡潔にこう表現している。「守られた“おっさん”の既得権」と。日本の低迷はここから始まる。

 労働組合とは、コンピューターを「労働者の敵」と呼んだ低能である。生産性の向上に関心がないばかりか、ITで代替できるものを人力のまま残した。日本のIT投資は少なくないのに、無視されて効果がなかったのだ。一方で、団塊ジュニアの世代は、今に至るまで痛手から抜け出せていない。就職難民の彼等は、ある時は「パラサイトシングル(親のスネをかじる大人)」と揶揄され、ある時は「ニート(働こうとしない大人)」と呼ばれて否定的な扱いを受けた。代わりに“おっさん”たちが残したものは、「生産性の低い日本の組織」という実態と汚名である。

 今なら分かる。小泉純一郎内閣はさまざまな規制撤廃を叫び、民間会社の意識改革を目指したが、会社は人件費削減だけをターゲットにし、経費削減と雇用の安全弁として非正規雇用を増やしただけだった。正規雇用には手がつけられなかった。いま、政治に必要なのは、社会をかき回すような政策であろう。

 琵琶湖は湖底の水が循環しないと「呼吸」が不十分で、酸素が十分に生き物にいきわたらないという。ここ2年間、湖底の水が動かないので、生物学者は危機感をもっている。日本の社会も一緒だ。何重にも守られた正社員、株式の売買が極端に制限されていて旧態依然の世界を守る既存の新聞社、公共の電波を独占するテレビ局などまで巻き込む改革が今こそ必要だ。

 著者は結論に行き詰って困惑している。筆者の考えも交えながら記していこう。
 現在はテクノロジーが爆発的に進化する時代だ。テクノロジーだから、それは必然的に「グローバル化」する。テクノロジーを操れるのは、新しい知識階級である。彼らは古い共同体から離れ「リベラル化」する。一方では、デジタル社会についていけない「デジタル難民」が発生する。

 アメリカなどで亀裂が生じているのは、デジタル難民・グローバル化難民(プアホワイト)が自らのアイデンティティを回復しようとして、「白人」を拠り所にし、一方では「左派ポピュリズム」が、少数派の人権を守る“Political Correct”さえ推し進めたら、理想の社会が実現すると錯覚しているからだ。“Political Correct”の行き過ぎと弊害は、最近、日本でも認識されるようになった。

 我が国では、落ちこぼれのネトウヨが「日本人」を最大のキーにして、「日本人でない者」を排除しようとし、資本主義を理解しない左派政党は「何でも反対」の不毛な議論を展開している。デジタル難民国家…といってもいい我が国の現状は危機的である。内閣がデジタル化の看板を掲げるだけでは、「仏像作って魂入れず」という結果になる危険が大だ。展望は開けるのだろうか?
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