最低賃金の引き上げ(D・アトキンソン氏の提言)
前回、戦後の体制を一新しなければならないだろう―と書いた。実は話が大きすぎて、どこから手をつけていいのか分からないまま記した文言である。ただし、日本の国が急速に実力を下げているのは間違いのない事実である。実質賃金の推移を見ても、日本は独り負けだし、世界の競争力ランキング凋落ぶりは目を覆うばかり。このまま推移すれば、日本人はアジアへ出稼ぎにいくのが常態となり、チャイナには好きなように蹂躙され、立派な(?)後進国になり下がるだろう。
思えば1868年に明治維新があって、世界の五大国になり上がって間もなく1945年の第二次大戦敗北まで77年間。1945年の再出発から、奇跡の経済復興を遂げながら2022年の諸統計では独り負けの経済状況まで77年。別に数字の語呂合わせにこだわるわけではないが、そろそろ、戦後体制にもガタがきて、大掃除の時期に来ているのではないか、という思いが消えない。
霞が関に代表される中央集権制は国民の生活にとって有効なのか、それとも邪魔をしている面が多いのか? たとえば、税の取りはぐれをなくす唯一の策として、税や年金、健康保険税などを一体として徴収する「歳入庁設置」のアイデアが披露されてから久しい。税務署をかかえもつ財務省が反対しているというが、国益よりも省益を重んずる態度は、実はすべての日本人が隠れもっている性癖で、組織が惰性に流れると露わになる。したがって、財務省を解体したところで、また同じような組織が芽吹いてくるだけになりやすい。根本から考え直さなければ、改革を志すといっても、一筋縄ではいかないのである。
日本経済の低迷―それはもう30年も続いているといわれるが、根本の原因は何か、についてのコンセンサスはない。この30年間続いている現象はデフレである、デフレを対峙すれば日本経済は元の軌道に乗るのではないか―識者の認識はこのあたりで一致して、たとえば小渕内閣では財政出動を極限までひろげ、安倍内閣ではアベノミクスで、金利をマイナスにしてまで金融緩和を続けたが、民間のマインドは冷えたままである。
デフレを経済不振の原因と取り違えてはならない。それは結果なのだ、という言い分は正しいだろう。実はこれ、デービッド・アトキンソン『国運の分岐点』(講談社α文庫、2019年)に出てくる言葉なのである。著者は1965年生まれのイギリス人。世界第二位の証券会社ゴールドマンサックスでアナリストをつとめ、バブル崩壊後の日本経済を分析し、銀行の不良債権を見積もり、債権放棄への道筋をつけて、不動産業界の再生を手掛けたり、観光資源を活用する方策を政府に提言したりした人物である。データ分析には定評があり、レポートを発表する度に、当の業界から激しいバッシングを受けながら、最終的には彼の分析が正しいと皆が認める…こういう経緯を辿ってきたのが、来日30年の歴史である。2009年に国宝や重文の修復を手掛ける小西美術工藝社に入社、2011年から代表取締役に就任。鮮やかな転身をみせた。
『国運の分岐点』の中で、著者が吐露しているのは次のような疑問だ。技術力の高さに定評があり、国民の教育水準も高く、しかも労働者は勤勉である。にもかかわらず、日本の経済が低迷し、賃金も20年間あがらないという惨状を招いたのは何故なのか? 日本の生産性が低い、ということは最近知られてきた。会議が長いだとか、ハンコ文化が悪いだとか、もっぱら日本の企業文化をあげつらう向きもあったが、そんな小手先の問題ではなさそうだ。生産性を上げるのが課題、という目標は正しいが。
アトキンソン氏が指摘するのは、あらゆる経済理論が人口増加を前提としている点。急激な形で人口減少と少子高齢化を迎えている日本は、過去の理論が通じない。度重なる財政出動をかけても、マイナス金利にしてまで、資金の流動性を高めても、実効に乏しかったのはそのせい。それじゃあ、どこに手をつけたらいいのか?
彼はヨーロッパの国で、日本と同じように生産性が低いとされる国を調べてみた。イタリアとスペインである。日本との共通項を探すうち、三国とも中小企業・零細企業の多いことに気づいた。「これは奇跡的な発見だ」と著者自身が自負する探索であった。
零細企業ほど生産性が低いのは、つとに知られた法則である。資金的な余裕がないので、女性活躍の場も設けづらいし、社員教育の時間も割けない。デジタル化の資金も用意できないし、そもそも十数人の規模なら表計算ソフトでデジタル化には間に合ってしまう。何よりも賃金が安くなってしまう。生産性の低さとは、賃金の低さとイコールなのだ。大雑把に言って、企業の規模と生産性は正比例すると考えてよいし実証もされている。
しかも、歴史をひも解いていくと、前の東京オリンピックが開催された前年、1963年に中小企業基本法が施行されている。この法律で政府は中小企業・零細企業への手厚い保護を打ち出し、集団保護行政を駆使して大事に育てた。折しも、高度経済成長の時期で、経済規模は年々拡大し、増加する労働人口を吸収する手段として、中小企業の存在はプラスに働いたという。
ただ、イタリアやスペインをのぞく欧米諸国では、中小企業が年々規模を拡大していったのに対し、日本では中小企業のまま止まる企業が多かった。ソニーやホンダなど町工場から世界的な企業に発展した例もあるが、これは例外で大半の中小企業は中小企業にとどまったのである。経営コンサルタントや税理士の世界では、企業から相談を受けた時「これ以上規模を大きくすると、税法上の特典を受けられなくなるから」といって成長を止めるようにアドバイスをすることがある。中小企業の世界では「あるある神話」。結果として日本には約360万社の中小企業・零細企業があふれている。1963年の中小企業基本法の施行から、ざっと200万社が増えた勘定になる。
「経済成長できない」「デフレから脱却できない」という問題は、「人口減少」と「生産性の低さ」が大きな影響を与えている。「人口減少」は消費の減退を招く。少ないパイを巡って企業は値下げに走るから、デフレを招き、デフレ下では賃金を上げることができないから、さらに消費減退を招く。賃金が低いということが即生産性の低さでもある。これが日本の現状。ただし、人口減少を解決するには、今すぐ実行性の高い政策を打っても、20年かかる。まず「生産性向上」に注力すべきなのではないか。
中小企業が多すぎる…と発言すれば、中小企業を淘汰せよというのか、との反発を招く。でもアトキンソン氏が提言しているのは、多すぎる中小企業を中堅企業にレベルアップ(統合)せよ、そうすることが日本企業の生産性アップに直結するというお話。前提になっているのは、企業は大規模になるほど生産性が向上し、結果として労働者の賃金も上がるという法則である。しかも、労働者の賃金を上げるため、最低賃金を年々5%ずつ上げていこうという提言である。
そんな政策は「中小企業に死ね」と言ってることと同じ。そう言って反発したのが、中小企業の団体、経済同友会と日商である。中小企業の倒産が相次ぎ、労働者は失業する…と反対のキャンペーンをはった。これに対し「賃金を上げるだけで倒産するのは、経営者としての努力が足りないのではないか。人口減少の時代、人手は不足しており、労働者は失業することなく優良企業に吸収されていく」と再反論を受けた。いまは「最低賃金を先に上げるのは無理がある。生産性が上がってから賃金を上げるのが自然である」と見解を改めた。しかし、もう何十年も経営者に任せてきた結果が、経済の低迷を招いている、今更信用してくれというのは虫が良すぎないか。
アトキンソン氏が強硬なのは、ここ20年間、海外では最低賃金を経済政策として考えるようになり、イギリスでは1999年から最低賃金を年々4.2%ずつ上げてきている例があるから。政府が大学に依頼して分析したところでは、企業の倒産も失業者も、大して出さずに企業の規模は年々向上し、生産性も上がっているからである。特筆すべきは、リーマンショックがあった2008年にも4.2%の引き上げを行っていること。不退転の決意こそが大事と示唆しているのではないか。
現在、日本では最低賃金を1000円に上げるかどうかの審議中である。そのためには一挙に39円もの大幅引き上げが必要で、答申がどうなるか予断を許さない…とニュースで報じていた。日本の生産性を上げるという問題に対して、審議会がどう結論を出すか、によって将来像が変わってくる。
当のアトキンソン氏は皮肉な見解を述べている。バブル崩壊時、銀行は債権放棄して担保に取った土地を供出すべきと提言したのに、当の銀行は「そのうち地下は回復する」だとか屁理屈を言って10年間実行しなかった。その間に負債は20兆円から100兆円にまで無駄に膨らんだ―と。最低賃金引き上げで生産性向上を図ることの本質は、労働者でなく社長の失業率が上がることである、と喝破している。
『国運の分岐点』が出版されたのが2019年9月だから、もうすでに4年近くたっている。この本の中には、日商や経済同友会との軋轢も描かれているから、アトキンソン氏の提案は、更にさかのぼるわけである。この国では、論理的に事が運ばず、何かとサボタージュの種を見つけて、先送りする弊害が常態なので、今回もその轍を踏んでいるかのようだ。
GDPの生産性と労働生産性の話など、この本の中では、小学生でもわかる算数を使って、丁寧に解説されている。話はいつでも論理的で、さすがに元ゴールドマン・サックスのトップアナリストだと感心する。興味をもたれた方は、ぜひ一読を。もっとも、私の気づくのが遅くて、読者諸氏からは「なんだ。いまさら!」とお𠮟りを受けるかもしれない。