パロディ『石泥集』(短歌・エッセイ・対談集)

百人一首や近現代の名歌を本歌どりしながら、パロディ短歌を披露するのが本来のブログ。最近はエッセイと対談が主になっている。

2021年事件簿⑨ 日本の危機③ 夫婦別姓

2021-07-15 10:07:37 | パロディ短歌(2011年事件簿)
          夫婦別姓の行方をさぐる

 ここ1カ月ほど、自分が怒りっぽくなっているのを感じる。何故かと考えて、あることに気づいた。自分の寿命を考えて、イラついているのだ。このブログで意見を表明しても、自分が生きている間には、決して実現することはないだろう―という気持ちが芽生えてきたということだ。私が生きている間に、大嫌いな立憲民主党や共産党がなくなることはないだろうし、保守に現代的かつ革新的な芽が出てくるとも考えられない。今まで、自分の寿命を考えるようなことはなかった。

 菅首相にしたってどうだ? 野党から攻められて、オリンピックを開くのに四苦八苦している有様。開催に反対している野党には、野党の大好きな憲法前文から「われらは…国際社会において名誉ある地位を占めたいと思ふ」を引用して反論するくらいの気概もないのか? やっぱり若い頃から総理を目指してきた中曽根康弘や安倍晋三などとは器が違う、参謀としてはあれだけ優秀でも、大将は務まらないのだなあ―などと菅首相に八つ当たりするのも、気が短くなったせいであろう。

 気をつけなければならないことがひとつ。年をとってから気が短くなるのは、認知症への道だと聞いたことがある。くたばってしまう(かも知れない)近々のことを考えるのではなく、たとえば百年先を予想したらどうだろう? 少しは気が長くなって、心身にいいかもしれない。…というわけで、世論が二つに割れている「夫婦別姓問題」について、少し長いレンジで考えてみることにする。

 最高裁判所は最近「夫婦同姓は憲法に違反しない」という判決を出したが、18人の判事のうち「憲法違反である」という少数意見を出した裁判官も4人いた。立法府(国会)で議論すべき、という趣旨もあった。

 全体の流れでみると、「夫婦別姓」はいずれ実現するだろう、と思う。日本の家族は9割以上が核家族になっているからである。「夫婦同姓」は家族制度(正確にいうと直系家族)を守るための知恵なのであって、すでに民法で兄弟姉妹が平等に相続できる仕組みになっている以上、直系家族はもう死滅しかかっているのである。夫婦別姓になれば夫も妻も子供も別々の姓を名乗るわけで、戸籍は無用の長物となる。だって、一つの戸籍の中にいくつもの姓が並存すれば、そもそも戸籍を作って家族をまとめる必要がない。煩雑でもある。

 夫婦別姓反対派が「家族がバラバラになる」と主張するのは当たっている。当たってはいるが、夫婦別姓を主張する一派は「バラバラになった」後のことはあまり考えていない。夫婦別姓なら、民法の改正と同時に戸籍を廃止しなくては辻褄が合わない。戸籍を廃止したらどうするのか? 

 アメリカに戸籍はない。代わりに社会保険番号で国民を把握する仕組みになっている。すなわち、家族というくくりは国民を把握する単位ではなくて、その前に「個人」がある、という仕組みなのである(日本のような直系家族とは違い、アメリカは絶対核家族という制度に支えられている)。ところが、夫婦別姓派は社会保険ナンバーのような制度を導入するのは絶対反対なのである。「国民総背番号制度」と彼らは名づけ、個人の秘密がすべて国家に筒抜けになると反対した。戸籍は廃止、それに代わるナンバー制度には反対。それでは、国の基本である国民のデータが宙に浮く。ここにいたって、夫婦別姓は国家の存亡にかかわる問題だ、と分かるのである。

 しかも、日本の夫婦別姓論の特徴は、夫婦別姓でも夫婦同姓でも構わない、という点である。欧米諸国やチャイナのように、夫婦別姓を制度として固定しようというわけではない。別姓と同姓、どっちでもいい―という上に、夫の姓でもよい、妻の姓でもよい、という恣意的な選択が可能なのである。こんなにルーズな制度のもとで、日本の姓はどう変わるのであろうか? 新しい貴族が生まれる―これが私の決論である。

 順を追って説明しよう。同姓でも別姓でもいいとなれば、有力な家族(たとえば金持ちであるとか、由緒ある家柄であるとか)の女性は、結婚しても実家の姓を名乗るだろう。それどころか、夫までもが妻の姓を名乗りたがるかもしれない。子供はもちろん妻の姓。名の知れた名家なら、それだけで社会的には有利だからである。夫の姓が有力な場合も同じ。私の予測は、そうして日本の姓はどんどん収斂していくというものである。古くから続く、由緒ある姓が人気を得る。公家や武家がどんどん復活するだろう。人気投票になってしまって、元々の来歴なんぞは二の次になってしまうだろう。

 既に例がある。お隣の韓国だ。この国は20世紀になっても強固な身分制度があった。李氏朝鮮における両班(リャンパン)・中人(チュンイン)・常民(サンミン)・賎民(チョンミン)の4つ。貴族階級の両班は人口の8%弱だったが、現在の韓国国民は9割以上が両班の出身だと自称している。要するに、貴族の大衆化である。日本でも同じ現象がおきるのは必然であろう。新しい貴族が生まれる―というよりは、本物の貴族の周りに、ニセ貴族が参集する現象といった方がいいかもしれない。

 姓名は単なる記号―という意見もあるが、歴史上はそうではない。中世でも近世でも、武士は名前のために生命をかけた。夫婦別姓問題を軽く扱うと国を誤る。選択制の夫婦別称は最悪の制度である。別姓を推進するなら、夫は夫の姓を、妻は妻の姓を必ず守る―というシステムにすること。そうでなければ、恣意的な姓が幅を利かせ、歴史を否定することになるから。

 戦後の日本国民は、吉田茂以来、安易に流れる傾向がある。はっきり言えば、浅はかである。私の予想では、夫婦別姓で間違える可能性は50%以上。長期予想なら少しは気が晴れるかと思ったが、逆に憂鬱な結論になりそうだ。なんだかなあ。まだ明けない昨今の梅雨空のようだ。
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2021年事件簿⑧ 日本の危機②

2021-07-04 10:22:41 | パロディ短歌(2011年事件簿)
          デジタル化は何故遅れたか?

 前回のブログで最後にこう締めくくった。
 厚労省は開業医と勤務医との二極分化を解消する必要がある。勤務医の報酬を高く、一方では開業医の既得権益を削る必要もある。しかし、これは極めて難しい政治マターでもある。天才的な政治家が生命をかけて試み、それでも成功率は50%に満たないだろう。行く手は厳しいのである。

 この結論では医療界の改革は望み薄だと誤解されるかもしれない。それでも、似たような課題を解消しつつある政治状況もある。それは労働界における、正社員と派遣社員との格差是正である。正社員の地位は完璧に保証され、その結果として余剰人員が多く、人件費が圧迫材料になっているのは日本企業の常態である。
 そこで人件費の圧縮と実質的な首切りを実現するために派遣社員が採用されたのは周知の通り。しかし、正社員と同じ仕事をしていながら給与は半分、諸手当はなし、いつでも解雇ができるという、「農奴」ならぬ「社奴」が派遣社員とすれば、正社員は労働「貴族」。さすがにこの二極分化は21世紀の恥―と思ったのであろう、政府が音頭をとって格差是正に乗り出した。
 とはいっても、がんじがらめに身分保障された貴族=正社員に直接手を触れるわけにはいかない。それで派遣社員の身分を保障するところから是正は始まった。給与をもっと上げなさい、正社員と釣り合いがとれるように、諸手当も保証しなさい、というわけ。
 一方で硬直した正社員の身分保障にもメスを入れ始めた。すなわち、働き方改革である。職種によって残業代は計算しない。労働時間に幅を持たせ、その代わりに副業を認める、などなど。労働界は労働条件の改悪である、と反発しているが、これまでの保障に安住し、G7中、最低の労働生産率を実現してきた労使の慣行はそのままにしておけない、ということ。はっきり言えば、戦後の労使関係を潰さなければ日本の未来はない、そう考えての措置である。
 ここまではっきり書けば、労働界における正社員と派遣社員の格差是正と、医療界における開業医と勤務医の格差是正がかぶって見えてくるのではなかろうか? 心ある政治家が生命をかけて実行すれば、やれないことはないのである。以上は、前回の続き。

 今回予定していたのは、日本の危機のうち、デジタル化の遅れである。

 今回の問題は、各省庁、自治体でプラットホームが全く違って互換性がなかった、という点。だからコロナ患者の名前も「転送」ができず、あらためて人の手で入力し直したとか、給付金の名簿も紙に出力してチェックしたとか、昭和のシステムのままであることがバレてしまった。私に言わせれば、昭和どころではなく、江戸時代の藩さながらに、外部との接触を拒んでいた有様とダブるのである。

 評論家の池上彰氏はTV番組の中で、省益が優先する霞が関の体質をあげていたが、国民こそいい迷惑である。明治維新の志士が藩をまたいで、「日本」を強烈に意識していたのに、これでは先祖に顔向けできないではないか?

 思えば、1995年にWindows95が発売されたときから、WindowsとMacintoshの互換性は常に問題であった。この時は、ソフトメーカーが両者をまたいだプログラムを次々に作り上げて、この問題を解消した。

 GIS(Geographic Information System)が登場したときも、さまざまなソフトが名乗りを上げた。その内にいずれかのソフトが優勢になって、実質的な標準になるかも知れない―と期待されたが、そうはならなかった。戦国時代のまま推移したのである。

 システムを組む場合も同じことが言える。ハードもソフトも、さまざまな規格が併存した。しかし、この事態こそ「危機」である。心ある人は常に共通のプラットホームを意識していたはずであった。でも、現実はご覧のとおりである。

 デジタル技術を駆使して、水際立ったコロナ対策を当初に示した台湾。韓国でも、日本よりはるかに行政のIT化は進んでいる。チャイナは共産党政府の動機に不純な点はあるが、それでもデジタル化の進展はめざましい。日本だけが遅れているのである。

 最大の理由として、反デジタルの潮流をあげることができる。古くはデジタル化を労働者のクビ切りと短絡させて反対してきた労働組合。マイナンバーを国民総背番号制と短絡させて反対してきた新聞やテレビ。それに悪乗りをしたサヨク陣営。国の統一基準を設けることは、すなわち悪である―との「信仰」がこの国を覆った。そのあげくがバラバラのシステムを抱えた省庁、国と地方自治体、地方自治体同士で通じなくなったデジタル網―という現実なのである。私の目には、幕藩体制のまま鎖国をした江戸時代とさほど変わらないようにみえる。

 デジタル化への抵抗勢力はまだあった。人口の4割を占めようかという高齢者層である。現在の高齢者は、若かりし頃、昭和30年代から40年代へかけての高度成長の立役者であった。が、一方では戦後最大の既得権益者でもあった。高齢者に優しい社会―が喧伝されて、いわば日本全体が高齢者の歩みに合わせ、その結果デジタル化が遅れたという側面もある。

 医者の世界で電子カルテの重要性が説かれた時も、現場の開業医が抵抗して実施が遅れた。抵抗した開業医は「負担が増える」とのたまったそうだ。デジタル化を進めた経験があれば、一時的に負担が増えても、そのあとは永遠に軽くて便利なデータが扱えるようになることは自明の理。そこを説得できなかったのは、本格的にデジタル化の恩恵を感じている国民が少なかったことに起因するだろう。堂々巡りの議論になってしまうが、要するに国民が(IT化に関しては)阿呆なのである。

 いま、デジタル庁の発足を目指して菅内閣は力を入れているが、入れ物だけをつくっても成功するとは限らない。結局はデジタル化を推進する国民の意識にかかっているからである。私の見立てでは、失敗する公算も50%はありそうだ。

 リモートワークが今更のように騒がれているが、私はもう16年も前から、事務所と地方自治体・民間会社との間で、家業の地図制作に関して受注・制作・校正・発送をリモートワークで実行してきた。幅1メートル以上の地図の校正だって、メールに添付したpdfファイルで済ますことができたからである。メールと電話ですべてを終えることができたから、地方自治体の担当者や民間会社の営業マンと一度も顔を合わせないで仕事を終えたことも再々である。社員7名の個人企業でも、こんな真似が出来たのだから、現在のリモートワークは十数年遅れているわけである。

 私の勘であるが、高齢者と現役世代のデジタル化は分けて考える方がいいように思う。現役、特に若い人たちは最先端のITでもこなす力を持っている。高齢者に同じ能力を求めるのは酷である。しかし、高齢者といえども、カードにはなじみがある。マイナンバーを便利にして、年金を割り増しで振り込むようにすれば高齢者も乗ってくるだろう。カードを通じてデジタル化に慣らすのである。
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