夫婦別姓の行方をさぐる
ここ1カ月ほど、自分が怒りっぽくなっているのを感じる。何故かと考えて、あることに気づいた。自分の寿命を考えて、イラついているのだ。このブログで意見を表明しても、自分が生きている間には、決して実現することはないだろう―という気持ちが芽生えてきたということだ。私が生きている間に、大嫌いな立憲民主党や共産党がなくなることはないだろうし、保守に現代的かつ革新的な芽が出てくるとも考えられない。今まで、自分の寿命を考えるようなことはなかった。
菅首相にしたってどうだ? 野党から攻められて、オリンピックを開くのに四苦八苦している有様。開催に反対している野党には、野党の大好きな憲法前文から「われらは…国際社会において名誉ある地位を占めたいと思ふ」を引用して反論するくらいの気概もないのか? やっぱり若い頃から総理を目指してきた中曽根康弘や安倍晋三などとは器が違う、参謀としてはあれだけ優秀でも、大将は務まらないのだなあ―などと菅首相に八つ当たりするのも、気が短くなったせいであろう。
気をつけなければならないことがひとつ。年をとってから気が短くなるのは、認知症への道だと聞いたことがある。くたばってしまう(かも知れない)近々のことを考えるのではなく、たとえば百年先を予想したらどうだろう? 少しは気が長くなって、心身にいいかもしれない。…というわけで、世論が二つに割れている「夫婦別姓問題」について、少し長いレンジで考えてみることにする。
最高裁判所は最近「夫婦同姓は憲法に違反しない」という判決を出したが、18人の判事のうち「憲法違反である」という少数意見を出した裁判官も4人いた。立法府(国会)で議論すべき、という趣旨もあった。
全体の流れでみると、「夫婦別姓」はいずれ実現するだろう、と思う。日本の家族は9割以上が核家族になっているからである。「夫婦同姓」は家族制度(正確にいうと直系家族)を守るための知恵なのであって、すでに民法で兄弟姉妹が平等に相続できる仕組みになっている以上、直系家族はもう死滅しかかっているのである。夫婦別姓になれば夫も妻も子供も別々の姓を名乗るわけで、戸籍は無用の長物となる。だって、一つの戸籍の中にいくつもの姓が並存すれば、そもそも戸籍を作って家族をまとめる必要がない。煩雑でもある。
夫婦別姓反対派が「家族がバラバラになる」と主張するのは当たっている。当たってはいるが、夫婦別姓を主張する一派は「バラバラになった」後のことはあまり考えていない。夫婦別姓なら、民法の改正と同時に戸籍を廃止しなくては辻褄が合わない。戸籍を廃止したらどうするのか?
アメリカに戸籍はない。代わりに社会保険番号で国民を把握する仕組みになっている。すなわち、家族というくくりは国民を把握する単位ではなくて、その前に「個人」がある、という仕組みなのである(日本のような直系家族とは違い、アメリカは絶対核家族という制度に支えられている)。ところが、夫婦別姓派は社会保険ナンバーのような制度を導入するのは絶対反対なのである。「国民総背番号制度」と彼らは名づけ、個人の秘密がすべて国家に筒抜けになると反対した。戸籍は廃止、それに代わるナンバー制度には反対。それでは、国の基本である国民のデータが宙に浮く。ここにいたって、夫婦別姓は国家の存亡にかかわる問題だ、と分かるのである。
しかも、日本の夫婦別姓論の特徴は、夫婦別姓でも夫婦同姓でも構わない、という点である。欧米諸国やチャイナのように、夫婦別姓を制度として固定しようというわけではない。別姓と同姓、どっちでもいい―という上に、夫の姓でもよい、妻の姓でもよい、という恣意的な選択が可能なのである。こんなにルーズな制度のもとで、日本の姓はどう変わるのであろうか? 新しい貴族が生まれる―これが私の決論である。
順を追って説明しよう。同姓でも別姓でもいいとなれば、有力な家族(たとえば金持ちであるとか、由緒ある家柄であるとか)の女性は、結婚しても実家の姓を名乗るだろう。それどころか、夫までもが妻の姓を名乗りたがるかもしれない。子供はもちろん妻の姓。名の知れた名家なら、それだけで社会的には有利だからである。夫の姓が有力な場合も同じ。私の予測は、そうして日本の姓はどんどん収斂していくというものである。古くから続く、由緒ある姓が人気を得る。公家や武家がどんどん復活するだろう。人気投票になってしまって、元々の来歴なんぞは二の次になってしまうだろう。
既に例がある。お隣の韓国だ。この国は20世紀になっても強固な身分制度があった。李氏朝鮮における両班(リャンパン)・中人(チュンイン)・常民(サンミン)・賎民(チョンミン)の4つ。貴族階級の両班は人口の8%弱だったが、現在の韓国国民は9割以上が両班の出身だと自称している。要するに、貴族の大衆化である。日本でも同じ現象がおきるのは必然であろう。新しい貴族が生まれる―というよりは、本物の貴族の周りに、ニセ貴族が参集する現象といった方がいいかもしれない。
姓名は単なる記号―という意見もあるが、歴史上はそうではない。中世でも近世でも、武士は名前のために生命をかけた。夫婦別姓問題を軽く扱うと国を誤る。選択制の夫婦別称は最悪の制度である。別姓を推進するなら、夫は夫の姓を、妻は妻の姓を必ず守る―というシステムにすること。そうでなければ、恣意的な姓が幅を利かせ、歴史を否定することになるから。
戦後の日本国民は、吉田茂以来、安易に流れる傾向がある。はっきり言えば、浅はかである。私の予想では、夫婦別姓で間違える可能性は50%以上。長期予想なら少しは気が晴れるかと思ったが、逆に憂鬱な結論になりそうだ。なんだかなあ。まだ明けない昨今の梅雨空のようだ。